釣れた? 釣具店の釣人 (16) 長崎市平山町
長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA
この寒いのに、ほんとに釣り好きです。
釣れた? 釣具店の釣人 (16) 長崎市平山町
長崎半島平山町の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1322 三条大橋 など28作品
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1322 三条大橋 など28作品
■ 確認結果
データベースにおいて、次の28作品を見てもらいたい。京都・奈良・大阪・滋賀・大津の観光名所絵葉書。撮影場所のタイトルがローマ字で記されている。外国人向けに発売された貴重な組写真と思われる。撮影年代は未詳。
1 目録番号:1322 三条大橋 京 都 90×57 30- 1
2 目録番号:1323 東大寺の鐘楼 奈 良 89×56 30- 2
3 目録番号:1324 豊国神社 京 都 91×57 30- 3
4 目録番号:1325 唐招提寺 奈 良 90×56 30- 4
5 目録番号:1326 般若寺 奈 良 91×57 30- 5
6 目録番号:1327 北野天満宮 京 都 91×56 30- 6
7 目録番号:1328 堅田の浮見堂 滋 賀 91×57 30- 7
8 目録番号:1329 知恩院 京 都 91×56 30- 8
9 目録番号:1330 三井寺(1) 大 津 91×56 30- 9
10 目録番号:1331 長谷寺 奈 良 91×56 30- 10 超高精細画像あり。
11 目録番号:1332 泉湧寺 京 都 92×56 30- 11
12 目録番号:1333 清涼寺 京 都 92×56 30- 12
13 目録番号:1334 八坂塔 京 都 90×56 30- 13
14 目録番号:1335 御室仁和寺 京 都 91×56 30- 14
15 目録番号:1336 東大寺 奈 良 91×56 30- 15
16 目録番号:1337 妙心寺 京 都 92×56 30- 16
17 目録番号:1338 比良遠望 滋 賀 91×56 30- 17
18 目録番号:1339 大仏釣鐘 未 詳 92×56 30- 18 京都方広寺である。
19 目録番号:1340 保津川鉱泉 京 都 91×57 30- 19
20 目録番号:1341 円山および鉱泉 京 都 91×56 30- 20
21 目録番号:1342 栂尾山 京 都 91×56 30- 21
22 目録番号:1343 下鴨神社(2) 京 都 92×57 30- 22
23 目録番号:3446 矢橋船場 滋 賀 91×54 71- 5
24 目録番号:3450 北御堂 大 阪 86×54 71- 9
25 目録番号:3454 三井寺(2) 大 津 89×53 71- 13
26 目録番号:3471 大阪四天王寺(1) 大 阪 87×54 71- 30
27 目録番号:3483 石山寺(5) 滋 賀 90×53 71- 42
28 目録番号:3484 栗津ケ原 滋 賀 89×53 71- 43
長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1339 大仏釣鐘 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:1339 大仏釣鐘
目録番号:1787 大仏殿の大釣鐘
〔画像解説〕
写真左下に、 “”LARGE BELL DAIBUTSU”” とあるが、未詳。
目録番号:5498 京都方広寺の梵鐘
■ 確認結果
目録番号:1339「大仏釣鐘」と、目録番号:1787「大仏殿の大釣鐘」は、次の目録番号:5498「京都方広寺の梵鐘」のとおり、京都方広寺の梵鐘であろう。鐘楼は大正時代にも再建されたようだ。
HP「京都きらめき紀行」による方広寺の説明は次のとおり。現在の写真は、HP「日本隅々の旅全国観光名所巡り&グルメ日記」から。
豊臣家の滅亡を招いた「国家安康」の鐘が残る
方 広 寺 京都市東山区大和大路通七条上る茶屋町527-2
豊臣秀吉の発願により東大寺の大仏殿を模して創建された寺で、高さ約20mもある大仏を有していたが、度重なる地震や落雷で破壊され、大仏殿も昭和48年の火災により焼失した。
「国家安康・君臣豊楽」の銘が刻まれ、大坂の陣のきっかけとなった梵鐘は、今も境内に残り、国の重要文化財に指定されている。
「長崎」と「佐賀関」に陸軍省要塞地帯標「F.Z」が?
次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から、平成21年8月送られていた資料と写真。記事にするのを失念していたので、今、掲げる。話は1年半前で、少し古くなる。
「F.Z」は、Fortified=要塞化された Zoneの略。要塞地帯図は、海軍大臣官房「海軍制度沿革」巻十五から。(其二)佐世保区域図は略。
この項は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2433
高橋輝吉氏稿 「長崎」と「佐賀関」に陸軍省要塞地帯標「F.Z」が?
長崎港入口左方向。福田地区一帯。小江の野島に「F.Z」第二地帯の第一号が。其れより後、飽の浦に「F.Z」第二地帯の第十六?号が。何とも解しがたい標石だ。
此の度、福田崎に「F.Z」第二地帯の第二号が。少し方向が? 道人氏の数年の努力によるもので、ありがたい事です。何んで此の不便な地、小島、岩場に、飽の浦福田越の手前に「F.Z」が?
一方、大分の佐賀関要塞に昭和十五年十二月「F.Z」第三区地帯標が620mの山の上に。何んで思って見た時に、昭和十五年十月、四国「宿毛」沖を通ったと有り。アーツーそうか。「大和」だなーと。豊豫水道を山より睨み、見守っていたのかなーと。
此の度、長崎の道人氏より福田崎に「F.Z」有りと。エーッと思って、佐賀関の事を思い出してみた。ヤット合点した次第です。
長崎の福田崎へ行って見ました。一回目はだめでした。何分、大きな岩場と石浜です。此れが解かれば。「武蔵」に必要な「F.Z」の標石です。道人氏に感謝です。佐賀関は私が「ヤッター」と。
戦艦「大和」「武蔵」の裏面史になりますかなー? 海面も「F.Z」地帯と思って見たが? 「武
蔵」のマストが見えるかなー。飽の浦のは「第十六?号」。日付は謎が。
「大和」=呉、「武蔵」=長崎。付けていたのは縄のれんだ。
別 記
福 田 崎 「F.Z」2nd2 第二区地帯標 第二号
小江の野島 「F.Z」2nd2 第二区地帯標 第一号
飽 の 浦 「F.Z」1st2 第一地帯標 第十六九?号
小江の野島にも「F.Z」2nd2=第二区地帯標。第一号が有ります。飽の浦にもその昔、山越へ飽の浦より福田へ行く村道の分れ道に有った。「第十六九?号」。「F.Z」1st2=第一地帯標。標石が少し気にかゝる所有り。何となく謎が残る?
写を見て下さい。乱数表かなー? 「F.Z」1st2=後で加刻したのかなー。改刻なのか、年月日と刻彫りが。「S.M」=を改刻したのか。「S.M」=「F.Z」。後にもう1本発見されると解かるかな?
野島にはフェンスと施錠有り。飽の浦は謎だ? 戦前の野島は、福田崎の北にある小島で、現在は埋め立て陸続きです。福田崎は釣り人用の道のみ。縄のれんを付け、「武蔵」は佐世保にも来た。5回位は福田崎を通ったのかなー。
佐賀関と長崎。「F.Z」の標石は無理を通したのかなー。
轟の滝奥地原生林のヒメシャラ・イロハモミジなど 諫早市高来町
長崎新聞2010年12月27日のながさきニュースは、上記のとおり。きょう1月8日雪が残る中、訪ねてみた。
轟の滝駐車広場から上流の川沿いに林道を、大渡橋の先まで車で5分ほど行く。林道終点となり金泉寺多良岳の登山道入口。ここに最近設置された原生林と遊歩道の案内板がある。
登山道はすぐ左、小松尾公園の方へと分かれ、丸木の「ヒメシャラ橋」で川を渡ると、原生林内の遊歩道となる。ヤマガキ・イロハモミジ・ブナノキなど見ながら5分ほど歩くと、大岩を傍らにヒメシャラの大木がある。原生林の案内板は次を紹介している。①山犬谷は訪ねなかった。
① 200年保存林 スギ 幹周279cm
② ヒメシャラ橋 湯江山林会が平成22年10月架ける。
③ ヒメシャラ 幹周175cm (推定樹齢150年)
ツバキ科。神奈川県以西の山地に分布する。熱帯上部から温帯域に生育する。パイオニア的な性質を持ち、やや荒れた森林によく出現する。花期は7−8月、小さな白い花を咲かせる。秋には紅葉となり、10−11月に濃褐色が実ができて種子ができる。
④ ウラジロカシ 幹周146cm
⑤ ヤマガキ 幹周210cm
⑥ イロハモミジ 幹周250cm
⑦ モミノキ 幹周338cm
佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」
次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料と写真。佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」第二区第七号から第九号を見つけた経過。
伊万里湾の「陸軍輸送港域標」は、「陸軍輸送港域軍事取締法」により、昭和15年6月10日に第一区38本、第二区61本、合計99本が指定区域に設置された。
「陸軍軍事基地輸送港域伊万里臨時派出所」の概要は、宮地滋氏稿が伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号平成15年11月1日発行に詳しく掲載されている。
この項は、次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2478
高橋輝吉氏稿 佐賀県肥前町にある伊万里湾「陸軍輸送港域標」
第二区第七号 向島。第七号は「島誌」古川さんが存じだった。案内を乞い、発見に至りました。石の横2mは、20〜30mの断崖でした。
第二区第九号 第九号は、本土内肥前町の通り道で尋ねたところ、其れは「山」に有りと。個人所有。理由有りで「写真」が思うように…(撮れず)。地名、場所は駄目と。「第九号」と標石確認にて写真のとおり。話しなし。
第二区第八号 さて第八号は、本土の大崎半島は解かりましたが、海側か、山の方か。海の方はなし。山の方は向島送電のため一部入っただけで、何10年と行かず、地元の方は、話しは聴いた事ないと話しに成りません。
2回目だめ。3回目七号…と九号と線を引く。どうも端の方かなあと思い探す。(2回目の時は、石より10m近くを通った)。第八号発見。岩場の横、石より1m先は10mの断崖だった。石の所より「向島」はと思い、カメラは向島を見る。
佐世保市菰田ダム近くにある陸軍省「長崎要塞第二地帯標」
次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料と写真。柚木村に明治三十二年七月十四日設置された長崎要塞区域標(もとは佐世保要塞区域標とあったもの)の所在地と標石保護一例の具体的な記録。関係する六及び七の部分だけ抜粋する。
資料の稿者三間十郎氏(故人)は、柚木村長十二ヶ年、三間文五郎氏の碑があり、子孫と思われる。戦後処理に合わず、村に良く記録が残ったのであろう。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」平成18年4月発行163〜167頁に資料全文を掲載)
この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違った。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は、会誌の誤字と思われる)。石盛岳は「第七号」移設して個人所有。
菰田ダム近くにある「第一号」は個人の畠の中(以前は原野だったか)。特に「第二号」はダム道脇にあることを、高橋氏は数年前、独自に発見されている。石盛岳とは番号が飛び、近辺を踏査するとまだ標石が見つかりそうだ。
(資 料) 三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月 21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
六、
記録上判明している地帯標石所在地は次の如くである。これはモト柚木村内の分で、第三地帯標石と思はれる。
番 号 所 在
九 号 冬越県道交叉路ヨリ大野村二至ル県道二沿イ四五〇米ノ道側
一〇号 冬越県道交叉路ヨリ十郎井手二沿ヒ九〇米ノ地点ノ里道ヨリ更二東方一〇〇米ノ里道附近
一一号 石森ヨリ里道分岐点ヨリ西方向里道ニ沿ヒ九〇米ノ里道附近
一二号 石森ヨリ西南方里道ニ添ヒ一八〇米里道附近
一三号 標石一四号ヨリ北西方二〇〇米標高三五〇米高地
一四号 標石一五号ヨリ北西方五五〇米里道三叉路附近
一五号 標石一六号ヨリ北東三五〇米県道ト里道トノ交叉附近
一六号 標石一七号ヨリ北西方四五〇米里道三叉路附近
一七号 標石一八号ヨリ北西方四〇〇米里道側
一八号 三本木部落ヨリ東南方里道三叉路
一九号 標石一八号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二〇号 標石一九号ヨリ県道二沿イ約一五〇米県道側
二一号 標石二〇号ヨリ県道二沿イ約三〇〇米道路側
二二号 標石二一号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二三号 標石二二号ヨリ県道二沿イ一〇〇〇米道路、河ノ中間地点
二四号 標石二三号ヨリ県道二沿ヒ約四〇〇米小川附近
二五号 日宇村界五七一米独立高地
二六号 標石二五号ヨリ村界二沿ヒ約三〇〇米 大字木切木場ノ辻 原野五五一七第一
これから察すると第一標石は多分石盛岳に所在するように考へられる。
七、
最後にこの標石保護について一例を掲げてみよう。
云渡書
長崎県北松浦郡柚木村大字柚木
元触区七十九番地戸 平 民 水車業
○○○○ 安政五年八月十五日生
右ノ者大正二年五月四日午後八時荷馬車二松材ヲ積載シ柚木村字三本木ヲ通過スル際不注意ノ結果、同所土橋附近二建テアリシ佐世保要塞第三区地帯標石第十八号ヲ毀壊シタル所為ハ要塞地帯法第二十六条二違反シタルモノ二付仝条ノ規定二依リ科料弐拾銭二処ス、若シ完納シ能ハサル時ハ一日間労役二留置スヘシ、但シ此云渡二対シテハ正式裁判ヲ請求スル事ヲ得其期限ハ此云渡書ノ送達アリタル日ヨリ五日内トス
大正二年五月一三日
山口警察分署二於テ分署長 警部 吉 富 寛 吉
轟の滝奥地のヒメシャラ 諫早市高来町
長崎新聞2010年12月27日のながさきニュースは、上記のとおり。ヒメシャラの大木らしい案内板は、長崎市民の森の森林体験館入口道路の所にも巨大杉とともにあった。
諫早・長崎とも私はまだ現地へ行ってなく未確認。天気の良い日に出かけて、ヒメシャラの実際の木の写真をそのうち載せたい。
長崎学さるく“新春「みさき道」を歩く(岬木場経由)” 平成23年1月
平成23年1月2日(日)快晴。長崎学さるく“新春「みさき道」を歩く(岬木場経由)”。参加14人。
長崎医学伝習所生、関寛斎「長崎在学日記」の紀行をもとに、文久元年(1861)彼ら一行がたどった道を推定し、実際に歩いて体感する。今回はいつの時期でも歩けるルート、岬木場から遠見山(標高259m)を経て脇岬観音寺へ詣った。
三和行政センター前広場9時40分発ー蚊焼峠−徳道—岬木場サイクリングロード終点12時
35分着(昼食)—殿隠山—遠見山—脇岬小学校尾根—脇岬観音寺15時30分着(徒歩距離
約15km)
毎年恒例のみさき道歩会新春「みさき道」歩き。長崎学さるく行事を兼ねて本年も実施した。長崎は大晦日に12月としては記録的な11cmの積雪があったが、寒気は弱まり今日は快晴。山道の雪は解けていて絶好の山歩き日和となった。「みさき道」の蚊焼峠−徳道間は坦々とした長い尾根歩きコース。中間の休憩ベンチの所から伊王島大橋が見えた。
里程道塚先の畠で落ちた「ゆうこう」の実をゲット。徳道からはサイクリングロードと県道により岬木場先の風力発電風車のある所まで行き、殿隠山・遠見山へ縦走した。遠見山14時30分着。山頂から脇岬や樺島の展望が素晴らしい。堂山峠の予定は変更、脇岬小学校尾根を下って脇岬観音寺へ着いた。正月は4日まで十一面千手観音立像(国重文)と天井絵が見られる。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26926127.html
2010年 ”長崎風来紀行”ベスト10
新年にあたり”長崎風来紀行”により、私の2010年を振り返る。石橋・標石・古写真・史跡・巨樹など、昨年中に新しく探したもののベスト10。詳しくは各記事を。
1 式見でアーチ式石橋が見つかる 長崎市向町
長崎市の式見地区、向町に小さなアーチ式石橋が残っていた。長崎バス式見バス停から下向集落の中へ入る。バスが通る県道112号線の式見トンネルへ登る里道があり、登り口の川に石橋が架かっているのを、11月17日夕方、通りかかって見かけた。式見郷土史にもまったく記していない。橋長:1.8m、橋幅:1.8m、拱矢:1.5mほど。
https://misakimichi.com/archives/2448
2 大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標 西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか
大瀬戸から大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停がある。当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。大瀬戸町郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。放置されているのはもったいない。
https://misakimichi.com/archives/2395
3 西彼杵半島旧明治県道の一里標 西海市西彼町・西海町・大瀬戸町
大瀬戸町多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。正面「一里標」 右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」18cm角 高さ1m
https://misakimichi.com/archives/2383
4 大野原の猪見岳直下にある「陸軍」境界石 東彼杵郡東彼杵町
「陸軍」境界石は、9月12日猪見岳(標高589.8m)に登った時、山頂直下で3本見かけた。10月野焼きのため、現在、境界の防火帯が草刈りされており、そこに「陸軍」と刻んだ珍しい境界石があった。矢印、番号も刻まれ、帝国陸軍時代の古い標石と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2425
5 長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景
ライデン大学写真コレクション。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2348
6 長崎の幕末・明治期古写真考 「海上の伝馬船」など7点を長崎の古写真と確認
データベース整理番号46番台は、個人アルバムからの興味深い古写真。「撮影地域:神戸」とされている一連の作品の中に、今回、はっきり「長崎」とわかった作品が、次のとおり7点あった。目録番号:1966「漁村の風景」は、現茂木郵便局前から撮影した茂木の風景。
7点のほかデータベース全体で、その後、数点が見つかっている。
https://misakimichi.com/archives/2218
7 長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋
F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
https://misakimichi.com/archives/2353
8 式見蝶ヶ崎から舞岳の尾根道整備 平成22年12月
国道蝶ヶ崎トンネル上の蝶ヶ崎展望岩は標高120mほど。尾根道のピークで海の展望が良い。ここが式見郷土史238頁に記す「賀衆ヶ峯」だろうか。狼煙場跡はわからなかった。式見郷土史の説明は次のとおり。34 賀衆ヶ峯 手熊峠の西方の高い山をいう。文化6年(1809年)狼煙場の事として、当村鶚岳賀衆ヶ峯に在り長崎異変の時、こゝでのろしをあげて異変を村の中に知らせる。
https://misakimichi.com/archives/2457
9 河通のアベマキ 西海市大瀬戸町河通郷
西海市大瀬戸町河通郷のつがねの滝近くに、コルクノキの大木がある。地元では「コルクノキ」と呼んでいるが、樹皮が一時、コルクの代用品となったコルククヌギのようであり、和名「アベマキ」として知られる。幹囲3m、樹高15mほどある。長崎県下で2番目に大きい木らしい。
https://misakimichi.com/archives/2392
10 恋?金? 吉運シシ 雲仙市国見町土黒庚
裏雲仙田代原から国見百花台公園へ国道389号線により下る。舞岳の裏側あたり写真のパーキングエリア奥中央に、自然石の「吉(恋か金)運シシ」が祭られている。賽銭をあげたいね。
https://misakimichi.com/archives/2413