佐世保市菰田ダム近くにある陸軍省「長崎要塞第二地帯標」

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佐世保市菰田ダム近くにある陸軍省「長崎要塞第二地帯標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料と写真。柚木村に明治三十二年七月十四日設置された長崎要塞区域標(もとは佐世保要塞区域標とあったもの)の所在地と標石保護一例の具体的な記録。関係する六及び七の部分だけ抜粋する。
資料の稿者三間十郎氏(故人)は、柚木村長十二ヶ年、三間文五郎氏の碑があり、子孫と思われる。戦後処理に合わず、村に良く記録が残ったのであろう。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」平成18年4月発行163〜167頁に資料全文を掲載)

この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違った。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は、会誌の誤字と思われる)。石盛岳は「第七号」移設して個人所有。
菰田ダム近くにある「第一号」は個人の畠の中(以前は原野だったか)。特に「第二号」はダム道脇にあることを、高橋氏は数年前、独自に発見されている。石盛岳とは番号が飛び、近辺を踏査するとまだ標石が見つかりそうだ。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
六、
記録上判明している地帯標石所在地は次の如くである。これはモト柚木村内の分で、第三地帯標石と思はれる。
番 号         所   在
九 号 冬越県道交叉路ヨリ大野村二至ル県道二沿イ四五〇米ノ道側
一〇号 冬越県道交叉路ヨリ十郎井手二沿ヒ九〇米ノ地点ノ里道ヨリ更二東方一〇〇米ノ里道附近
一一号 石森ヨリ里道分岐点ヨリ西方向里道ニ沿ヒ九〇米ノ里道附近
一二号 石森ヨリ西南方里道ニ添ヒ一八〇米里道附近
一三号 標石一四号ヨリ北西方二〇〇米標高三五〇米高地
一四号 標石一五号ヨリ北西方五五〇米里道三叉路附近
一五号 標石一六号ヨリ北東三五〇米県道ト里道トノ交叉附近
一六号 標石一七号ヨリ北西方四五〇米里道三叉路附近
一七号 標石一八号ヨリ北西方四〇〇米里道側
一八号 三本木部落ヨリ東南方里道三叉路
一九号 標石一八号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二〇号 標石一九号ヨリ県道二沿イ約一五〇米県道側
二一号 標石二〇号ヨリ県道二沿イ約三〇〇米道路側
二二号 標石二一号ヨリ県道二沿イ約四〇〇米道路側
二三号 標石二二号ヨリ県道二沿イ一〇〇〇米道路、河ノ中間地点
二四号 標石二三号ヨリ県道二沿ヒ約四〇〇米小川附近
二五号 日宇村界五七一米独立高地
二六号 標石二五号ヨリ村界二沿ヒ約三〇〇米 大字木切木場ノ辻 原野五五一七第一
これから察すると第一標石は多分石盛岳に所在するように考へられる。
七、
最後にこの標石保護について一例を掲げてみよう。
云渡書
長崎県北松浦郡柚木村大字柚木
元触区七十九番地戸 平 民 水車業
○○○○  安政五年八月十五日生
右ノ者大正二年五月四日午後八時荷馬車二松材ヲ積載シ柚木村字三本木ヲ通過スル際不注意ノ結果、同所土橋附近二建テアリシ佐世保要塞第三区地帯標石第十八号ヲ毀壊シタル所為ハ要塞地帯法第二十六条二違反シタルモノ二付仝条ノ規定二依リ科料弐拾銭二処ス、若シ完納シ能ハサル時ハ一日間労役二留置スヘシ、但シ此云渡二対シテハ正式裁判ヲ請求スル事ヲ得其期限ハ此云渡書ノ送達アリタル日ヨリ五日内トス
大正二年五月一三日
山口警察分署二於テ分署長 警部 吉 富 寛 吉