月別アーカイブ: 2011年1月

長崎外の古写真考 目録番号:1554 名古屋城(5) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1554 名古屋城(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1554 名古屋城(5)
〔画像解説〕
金の鯱をいただく名護屋城。天守閣造営を担当したのは加藤清正であるとされているが、実際には天守閣石垣工事のみを担当。江戸時代、藩の財政難から金鯱が粗悪に改鋳されたこともあった。

目録番号:1555 名古屋城(6)
〔画像解説〕
徳川家康が築城させた名護屋城天守閣。屋根の上には名高い金鯱が見える。土台をなす堅固な石垣のために、石崎山、篠島、幡豆(はず)を初め、紀伊や讃岐の各所から多くの巨石が集められた。

■ 確認結果

目録番号:1554「名古屋城(5)」、目録番号:1555「名古屋城(6)」とも、画像解説中の「名護屋城」は、「名古屋城」が正しい。

長崎外の古写真考 目録番号:1508 箱根温泉

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1508 箱根温泉

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1508 箱根温泉
〔画像解説〕
早川に掛かった玉緒橋の左が元湯(現在の環水楼)、右が一の湯で、どちらも箱根の旅館の老舗である。玉緒橋は、今では国道一号線が走る立派な橋だが、明治10年(1878)頃は木造の細い橋で、形態上種々の変遷があった。

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。

■ 確認結果

目録番号:1508「箱根温泉」は、次の目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」のとおり、タイトルを「塔ノ沢温泉」として整理した方が良いと思われる。「塔ノ沢温泉」は、箱根七湯の1つ。

「玉緒橋」は正しくは「玉ノ緒橋」。「千歳橋」と解説している作品は、「玉ノ緒橋」の下流となるので、間違いと思われる。早川に「掛かった」は「架かった」、現在の「環水楼」は「環翆楼」である。、
現在の「玉ノ緒橋」写真は、HP「水の旅」相模湾に注ぐ川 早川から。
次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/2363

長崎の古写真考 目録番号:6143 船名不明画像

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6143 船名不明画像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6143 船名不明画像

■ 確認結果

目録番号:6143「船名不明画像」は、書き付けに「1899」年、「Nagasaki」とある。長崎港口の天門峰が写ってから、対岸の戸町・女神方面から撮影されたものであろう。
女神からではないようである。戸町と女神の間にひとつの岬がある。女神手前から長崎倉庫の奥へ入ると、岬の先端が残る。島原ドック戸町工場入口となっている。

古写真のポイントは、現在の写真に青囲線した所。稜線に少し出っ張りがある。見えるのは、女神からではなく、この岬の先端あたりである。天門峰の急斜面も似てくる。
戸町側は現在、井筒造船所となっているが、当時は船が入った戸町浦入口に当る。戸町から海岸沿いにすぐ行かれたと思われる。女神へ行くより近い。
最後の写真が、女神から見た場合。天門峰左下の山の重なりも合わない。

長崎の古写真考 目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 991 諏訪公園月見茶屋(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)園内の月見茶屋である。茶屋の有名な「ぼた餅」の包み紙によれば、創業は明治18年(1885)である。この写真は、開業直後の写真と思われ、左側のコウモリ傘を持った男性が当主であろうか。茶店で働く若い娘たちが揃いの前掛け姿で写されている。月見茶屋は現在も営業を続けている。茶屋の前の池横にはこれより古く開業していたピエル・ロチゆかりの呑港(どんこ)茶屋の建物も残っている。
また、茶屋の前には、現在ピエル・ロチの記念碑が建っている。ここから眺める彦山と豊前坊の間に出る月、特に中秋の名月は天下一品と言われる。江戸の狂歌師で幕臣である蜀山人こと「太田直次郎」は長崎奉行所勤務時代、一年近くの長崎暮らしで聞き覚えた長崎弁をたくみに使って、中秋の名月を「長崎の山から出づる月はよかこんげん月はえっとなかばい」と詠んでいる。諏訪神社境内にある月見茶屋の昔の建物。現在の建物にも写真の茶屋の趣が残っている。

目録番号:4908 諏訪公園月見茶屋(2)

目録番号:5527 諏訪公園月見茶屋(3)
〔画像解説〕
明治25年から30年(1892〜1897)頃の諏訪公園。南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している。東屋の緋毛氈(ひもうせん)に女性が二人座り、傍らに三人目の女性がポーズをとって立っている。手彩色の写真であり、座った女性やポーズをとった女性の着物の配色が美しい。冬枯れした諏訪公園の昼下がり。

目録番号:5289 諏訪神社境内の茶屋
〔画像解説〕 超高精細画像
長崎公園(通称:諏訪公園)は、明治8年(1874)内務省公布により「市民遊楽の地として、また外客の情を慰するため」旧諏訪神社宮司青木氏宅跡や安禅寺の境内を整備して長崎公園とした。公園内には、出島オランダ商館の医師ケンペル・ツンベリーの記念碑、シーボルト記念碑、写真の開祖上野彦馬の胸像など、内外の多くの先賢の記念碑が建てられている。明治大正年間には与謝野鉄幹・晶子夫妻、斉藤茂吉、若山牧水など日本を代表する文人墨客等多くの人々が訪れている。与謝野鉄幹は「長崎の円き港の青き水ナポリを見たる眼にも美し」の歌を残している。また、外国船が入港すると、車夫達は外国人を諏訪神社へ案内するのに「アイゴーユーゴースワテンプルテンセンゴー」のインスタント英語を使用したと言う。長崎市民には、諏訪神社と共に「お諏訪さん」といって親しまれている。写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?。

■ 確認結果

長崎公園(通称:諏訪公園)園内の「月見茶屋」とされる4作品。
まず、1枚目の目録番号: 991「諏訪公園月見茶屋(1)」。明治18年、開業直後の「月見茶屋」の写真と思われるのは、名物「ぼた餅」の暖簾や、建物の現在もこじんまりした造りなどから、間違いないようだ。

2枚目の目録番号:4908「諏訪公園月見茶屋(2)」。中央右側に写る大木を、現在も残るマキの木と見ると、現在の「月見茶屋」の位置とは少し合わないようである。
奥にもう少しクスノキの大木も写ると思われる。ただし、庭園テーブル・椅子には注視。

3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」。明治25年から30年頃の諏訪公園。「南側の山の形から推測すると、公園の噴水付近から市街地側を見て撮影している」としている。
「月見茶屋」とされる建物は、明らかに2階建に写っている。「南側の山の形」とは、彦山ではなく、豊前坊左方の稜線と思われる。

4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」。超高精細画像の画像解説では、「写真の茶屋の場所は月見茶屋の下、現動物園の所か?」としている。4枚目は、実は3枚目と同じ場所の拡大写真。東屋・人物は同じである。庭園テーブル・椅子は、2枚目と同じようである。

以上、「月見茶屋」とされる4作品を、並べて比較すると疑問点がある。現地で確認した限り、3枚目の目録番号:5527「諏訪公園月見茶屋(3)」と、4枚目の目録番号:5289「諏訪神社境内の茶屋」は、現在の月見茶屋の場所でなく、一段下の動物園にあった別の建物と東屋を写しているように感じた。現在の月見茶屋主人に聞いたが、昔の茶屋のことはわからなかった。
長崎大学において、詳しい検証をお願いしたい。

長崎市民の森 森林体験館  長崎市茂木町

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長崎市民の森 森林体験館  長崎市茂木町

長崎市民の森 森林体験館の概要。同館HPは、http://taikenkan.kohbou.net/
HPの「市民の森紹介」は、次のとおり。最後の写真は、茂木と遠く島原半島。

長崎市民の森は、長崎開港400年を記念して作られた森林公園です。唐八景から八郎岳に至る長崎半島の稜線を中心に、長崎港や市街地、茂木の海岸線、遠くは橘湾を隔てて雲仙、天草が眺められる景勝地です。
広大な森林公園内には森林体験館や運動広場、ケビン、キャンプ場も整備されており、野鳥の森、昆虫の森のエリアも含め市民のレクレーションや自然観察に利用できます。
市民の森にはスギやヒノキが植林されていて、幹周り3m以上もある巨大スギも見られます。森ではツグミ、カシラダカ、カケス、キクイタダキ、ジョウビタキ等が多数の野鳥が観察できます。初夏にはヒメシャラが清楚な花も咲かせ、初秋にはツリガネニンジンの花も見られます。

長崎市民の森 森林体験館
〒851-0241 長崎県長崎市茂木町1010-1
TEL 095-825-6705 FAX 095-825-6707
開館時間 9:00〜17:00 休館日 1月2日〜1月7日

市民の森入口の大スギ  長崎市星取2丁目

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市民の森入口の大スギ  長崎市星取2丁目

小ヶ倉水源池上流部にある巨木スギは、次の記事を参照。長崎市民の森「森林体験館」から
20分、道標により遊歩道を下る。1922年(大正11年)に植林された幹囲2〜3m内外の巨木スギが10本ほど谷間に見られる。
https://misakimichi.com/archives/219

きょうの記事は、別の大スギ。唐八景から市民の森へ入る「八郎岳縦走登山口」案内板のある車道4叉路の所。写真のバラス林道があと1本、唐八景側から交わっている。
先は行き止まりだが、少し登ると、下の谷間と道脇に大スギが4本ほどある。道脇右の最も大きいのは、幹囲2.7mほどあった。森林体験館から聞いて訪ねた。 

市民の森のヒメシャラ群落  長崎市上戸町4丁目

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市民の森のヒメシャラ群落  長崎市上戸町4丁目

長崎市民の森「森林体験館」の道路入口から右に入る遊歩道に、「巨木スギ20分 ヒメシャラ5分」の案内板がある。バラスの林道をしばらく行き、右手の谷間へ山道を下ると、ヒメシャラの中木が、左右一面に広がり林を成している。

ヒメシャラはツバキ科。荒れた森林に最初に出現することが多い。ここは植林地の伐採跡。日当たり良く、適度に水分がある谷間であったのだろう。森林体験館の話では、これだけの広さの群落は珍しいそうである。初夏に小さな白い花を咲かせ、秋には紅葉する。
市民の森の巨木スギは、 https://misakimichi.com/archives/219

長崎外の古写真考 目録番号: 918 瀬戸内海大島

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 918 瀬戸内海大島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 918 瀬戸内海大島
〔画像解説〕
英語で「瀬戸内海の入り口近くの大島」と解説されている。愛媛県の大島と思われる。潮の干満に合わせて船が着岸できる、船着き場が材木で組まれている。民家は山の斜面まで見られるが、瓦葺きの屋根が多い。

■ 確認結果

目録番号: 918「瀬戸内海大島」は、横浜の英字新聞 THE FAR EAST Vol.2 No.8
1871/9/16 に掲載された写真。英語で「瀬戸内海の入り口近くの大島」と解説されているとおり、愛媛県今治市の「大島」だろう。

大島には現在、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)が通る。吉海町臥間の下田水港対岸から亀老山(標高301.3m)を望んだ光景と思われる。地元で検証をお願いしたい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による大島の説明は次のとおり。現在の写真も同
HPから。来島海峡から望む亀老山。

大 島  (愛媛県今治市)

大島(おおしま)は、愛媛県に属する面積41.89km²(2004年現在、国土地理院)の島。芸予諸島に属する。行政区分は越智郡吉海町と宮窪町の2町に分かれていたが、2005年1月16日に今治市などとの合併により同市の一部となった。旧町時代には伯方島、大三島とともに三島五町と総称されていた。

島の北東部の宮窪地域は、中世に瀬戸内海を舞台として縦横に活躍した村上水軍(能島村上水軍)が本拠をおき、水軍遺跡や言い伝えも多数ある。これにちなみ、宮窪港を会場に村上水軍にちなんだ水軍レースなどのイベントが毎年7月に開催され、多くの人でにぎわう。特産品には大島石等がある。

長崎外の古写真考 目録番号:902 桜 堤

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:902 桜 堤

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 902 桜 堤

目録番号:4517 小金井堤の花見
〔画像解説〕
小金井橋から桜花を楽しんでいる。小金井橋の上下2km程が最も美観だった。玉川上水に何時桜が植えられたかについては文献により異なるが、文化7年(1810)建立の「小金井桜樹碑」(小金井橋附近に現存)によれば、元文2年(1737)とのこと。武蔵野新田世話役の川崎平右衛門定孝(かわさきへいえもんさだたか)などが小金井橋を基点に上水の両岸に桜を植えたと書かれている。明治30年(1897)頃の撮影。

■ 確認結果

目録番号:902「桜 堤」は、撮影地域:未詳 となっているが、次の目録番号:4517「小金井堤の花見」のとおり、東京都小金井市の玉川上水に架かる小金井橋と思われる。
HP「玉川上水今昔 庄司徳治コレクションより」による小金井橋の説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。

昭和5年(1930)に建造され2007年1月現在の小金井橋。橋脚部分はレンガ積みのアーチになっている。小金井街道の拡幅に伴い2006年暮れから小金井橋の架け替え工事が行われている。77年ぶりの架け替え工事で3月完成予定。
そして、小金井橋左岸北詰に建っている『名勝小金井桜』碑と、2007年1月現在の小金井橋下流。
玉川上水今昔  「小金井橋」

玉川上水を渡る地点に架かる小金井橋は上水記にも記されている古橋で、この近くに武蔵七井の一つである名水黄金井があったことに因むという。
元文2年(1737)武蔵野新田開発を推進した川崎平右衛門が幕命により、大和吉野山や常陸桜川から山桜の苗木を取り寄せ、この小金井橋を中心に東西6キロにわたって約1000本が玉川上水両岸に植えられた。植樹から50年ほど後、満開の小金井堤の桜の見事さは五日市街道を往来する薪炭の馬子たちらによって江戸市中にも広まる。

江戸の文化が爛熟した文化文政年間(1804〜1830)には俳人露安遊佐の地図つき花見案内書『玉花勝覧』によって名声が高まり、葛飾北斎も『金井橋勝覧』を手がけ、歌川広重の『小金井堤桜花之図』によって一躍江戸はおろか関東一の桜の名所として名声も開花。
人馬の往来が増えるにつれ木橋では損傷が激しく架け替えも頻繁になり、その費用調達に苦心した地元では安政3年(1856)約200余戸が分に応じて拠金する一方、近在にも呼びかけて念願の石橋が建造された。

江戸から明治の世になっても桜の名所を誇っていた小金井堤の桜も、明治半ば過ぎから樹勢の衰えが目立ち、サクラ博士として高名な三好学理学博士が調査した結果、36品種3亜種による山桜の大集植地として貴重な存在だと評価され、大正13年(1924)国の名勝指定を。
しかし第二次世界大戦後、米軍の立川・横田基地駐留による五日市街道の拡張で堤が削られ、昭和40年淀橋浄水場の閉鎖で上水の通水停後、水路の荒廃が著しい今日である。

長崎外の古写真考 東都浅草本願寺

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長崎外の幕末・明治期古写真考 東都浅草本願寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

東都浅草本願寺 (長崎大学のデータベースには収録がない)

■ 確認結果

撮影場所のタイトルがローマ字で記されている観光名所絵葉書。長崎大学のデータベースに収録されている京都・奈良・大阪・滋賀・大津の28作品を前記事で見てもらった。
https://misakimichi.com/archives/2489

同じような絵葉書は、東京の作品もあることがわかった。
ブログ「写真が紐とく幕末・明治」2010年12月5日の、掲載写真と記事は上記のとおり。
東京浅草 東本願寺「東都浅草本願寺」。写真の出所は書いていない。
http://morishige.omlog.net/archives/975