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長崎外の古写真考 目録番号: 2937 山間の村落風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2937 山間の村落風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2937 山間の村落風景(1)
〔画像解説〕
甲府盆地から南の静岡へ繋がる鎌倉街道(御坂路)は古代官道にまで遡る古道として知られる。写真はこの鎌倉街道の御坂峠に至る甲府盆地側の伝馬宿である藤野木集落付近(山梨県笛吹市御坂町)を写したものである。写真左手奥が御坂峠であり、甲府盆地側から南を向いて撮影されている。写真左手前に石造物が写るが、詳細は不明である。

■ 確認結果

目録番号: 2937「山間の村落風景(1)」は、御坂峠に至る甲府盆地側の伝馬宿、藤野木集落付近(現 山梨県笛吹市御坂町藤野木)を写している。さて、左手前に写る石造物。「詳細は不明」らしいが、不思議な写真である。馬頭観音や狛犬のようにも見える。

新しい石仏で、これかどうかわからないが、似たような石造物は、御坂峠の登りに残っていた。場所ははっきり書いていない。山梨観光わいわいねっとブログ「山梨の山」で、写真を見つけた。
同記事は次のとおり。「御坂峠」の解説は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。富士山の眺望写真も同事典から。

旧道の御坂峠   2008.08.07 13:20

鎌倉街道と言われる旧御坂峠は古の時代から昭和5年に天下茶屋の所に国道137号のトンネル(新御坂峠と称する)が掘られ開通するまでは人馬のみ通行可能な旧御坂峠を越えて往来しました。この峠が河口湖、富士吉田、山中湖への幹線ルートでしたし、甲斐の国から出て駿府や横浜や江戸へ出る一級の街道でした。
7月28日、御坂の藤野木から昔ながらの街道を歩いて峠まで行って来ました。御坂の最終の村落、藤野木からはもう人家はありません。峠に掛かる最終の人工物、神社に御参りして旅の安全を祈願しました。昔もここで祈願した事でしょう。
この道は幕末に上萩原から夜中、手に手を取って駆け落ちした樋口一葉の父の母の逃避行路でもありました。追っ手を巻く為にこの街道を選択しました。篭坂峠を越えて御殿場に出て横浜経由で江戸に落ち着きました。

旧御坂峠には1582年(天正10年)武田勝頼滅亡後、空白となった甲斐の国の争奪戦、北条と家康軍が戦った黒駒の戦いの北条方の砦が御坂城址として今日まで保存状態が極めて残っています。御坂峠道は森林の中を歩きます。途中1時間で行者平で休憩し、暫くして石畳の残る地点を通過して、やがて峠に到着。
峠は樹木が伐採してあって明るい草地の広場です。ここで大休止。そして御坂城址を尾根に沿って峠の両側に600㍍に渡って曲輪、土塁、帯曲輪、尾根切り(横堀)、腰曲輪等などを見学して来ました。ここも中世の城郭の綱張りの城です。即ち堀はありますが石垣がありません。
つい昭和5年以前はこの旧御坂峠を通り、大昔からの古道です。その歴史の道を歩くことは素晴らしいと思います。皆様も機会を掴まえて是非、峠越えをしてみては如何でしょうか。

御坂峠
御坂峠(みさかとうげ)は山梨県南都留郡富士河口湖町(旧・河口湖町)と笛吹市(旧・東八代郡御坂町)にまたがる峠。鎌倉往還御坂路のルート上にある。御坂の名は日本武尊が東国遠征の際に越えたことに由来するとされる。
旧峠
富士吉田側と甲府盆地側にまたがる御坂山地の御坂山(1596m)と黒岳(1793m)との中間付近に存在する(1520m)。御坂隧道(後述)開通まで、富士吉田側と甲府盆地側の行き来は徒歩により御坂峠を越えなければならなかった。

長崎外の古写真考 目録番号: 2903 竹林(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 2903 竹林(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 2903 竹林(2)

目録番号: 2910 皇居吹上御苑(1)     関連作品 目録番号: 3937 同(3)
〔画像解説〕
吹上御苑の西側、半蔵門を入って直ぐの所に広がっていた竹林である。写真3937と同じ時(おそらく明治10年代)に撮られた写真であろう。竹の形が同じである。植木職人らしき人物2人は、3937に写る3人の中の2人であろう。この写真が販売されたのは明治中期と思われる。

■ 確認結果

目録番号: 2903「竹林(2)」は、次の目録番号: 2910「皇居吹上御苑(1)」と同じような光景であり、竹柵の組み方が同じである。皇居吹上御苑の竹林と思われる。
掲載を略したが、関連作品 目録番号: 3937「皇居吹上御苑(3)」の画像解説は次のとおり。

享保10年(1725)頃、八代将軍徳川吉宗が半蔵門北側の吹上御苑一帯に竹を植えたとされる。幕府財政逼迫の際で、実用になる竹が選ばれたという。現在も半蔵門を入ると孟宗竹の林が残されている。昭和天皇は春にここで竹の子狩りを楽しんでおられたそうである。明治10年代の撮影か。

長崎外の古写真考 目録番号: 1038 神戸の街路

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1038 神戸の街路

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 1038 神戸の街路
〔画像解説〕
神戸居留地の街路である。場所未詳。

目録番号: 2793 神戸居留地(1)
〔画像解説〕
居留地内の中央に位置する13番館(現神戸市立博物館の場所)の屋上から、山側と海側をパノラマ風に撮影した8枚組の写真の内の、山側の1枚。明治13年(1880)頃の撮影。居留地内を左手から斜めに走る道路は浪花町筋(なにわまちすじ)。明治7年(1874)に設置されたガス灯や街路樹の位置もよくわかる。なかほどのベランダのある建物は56番のホテル・デ・コロニー(The Hotel des Colonies)で、後に3階建に建て変わったようだ。
居留地内の北側にあたるこの場所には、海岸通のような瀟洒な建物よりも倉庫(Godowns)が多いことがわかる。左手の松林は、居留地北隣の三宮神社。その左(西)側を北へ伸びる道路は、三宮筋道、三宮通などと呼ばれた現在のトア・ロード。中央を東西に走る白い線は明治7年(1874)神戸大阪間に開通した鉄道の線路。その向こうの森は生田神社。山手の北野町・山本通あたりにも洋風建築が少しずつ建っていくようすがわかる。

■ 確認結果

目録番号: 1038「神戸の街路」は、場所未詳となっているが、背後は六甲連山の山並みであろう。次の目録番号: 2793「神戸居留地(1)」は、浪花町筋から写している。青囲線の部分の山並みが似ている。

目録番号: 1038「神戸の街路」は、街路が広いので浪花町筋の東側、居留地メインストリート「京町筋」と思われる。現在の写真は、HP「車イスでも楽しめる神戸の観光」その1−神戸市街地中心部観光モデルコースから。

長崎外の古写真考 目録番号:393 千明仁泉亭

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:393 千明仁泉亭

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:393 千明仁泉亭
〔画像解説〕
「千明仁泉亭」と読める木札が柱に掛かっている。料亭の名であろうが詳細は不明。鍵型二階屋の中庭、屋内外の人物たちは一斉にカメラを見詰めている。右端にのぞくガス燈が、文明開化期の雰囲気を伝えている。

■ 確認結果

目録番号:393「千明仁泉亭」は、群馬県渋川市伊香保町の「伊香保温泉 千明仁泉亭」であろう。同旅館HP「伊香保温泉 千明仁泉亭」による説明は、次のとおり。

創業500年 伊香保温泉伝統の宿
伊香保温泉 千明仁泉亭 は、伊香保を愛した明治の文豪「徳冨蘆花」が常宿として贔屓にした旅館。海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の物語小説『不如帰』の冒頭を飾る千明仁泉亭は、当時の風情を残す石階段の中に位置し、現在の木造三階建の建物は、建築された大正から昭和の面影と共に静かに佇んでおります。
変わりなく湧き出る豊かな源泉「黄金の湯」と、果てしなく澄んだ空に広がる上州連山や谷川岳などの山並み。古き佳き伝統を守る心はそのままに、昔も今も一期一会の気持ちで、旅人を迎えてまいります。

伊香保温泉「黄金の湯」 
伊香保温泉茶褐色の湯で知られる伊香保温泉の「黄金の湯」は、室町時代から湯治場として発展していた伊香保特有の刺激の少ない硫酸塩泉。
1502年に連歌師 宗祇(そうぎ)が中風の治療の為に千明仁泉亭を訪れ、その効能を「めぐみの湯」と呼んで以来、500年の永きにわたり多くの旅人を癒してまいりました。

長崎外の古写真考 目録番号: 520 夕涼みの女性たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 520 夕涼みの女性たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 520 夕涼みの女性たち(1)   関連作品 目録番号: 846 同(2)
〔画像解説〕
川床に張り出した縁台で日本髪に着物姿の女性たち6が夕涼みしている。傍らに行灯、たばこ盆等がある。背後に川と州、樹木、家並みが見える。整理番号18-28と同じ写真。

目録番号:2610 鴨川の床の夕涼み(3)   関連作品 目録番号:4312 同(4)
〔画像解説〕
鴨川四条大橋西詰南側の床の上で夕涼みに興じる舞妓・芸妓を撮影する。舞妓・芸妓のうち、左側の2人は盃で酒を酌み交わし、右の2人は拳遊に興じている。床の上には行灯や煙草盆が置かれる。背後には鴨川東岸の町並みが続き、五条大橋が見える。写真は京都の観光絵葉書のために撮影されたものであろうか。玉村康三郎撮影。

■ 確認結果

目録番号: 520「夕涼みの女性たち(1)」と、掲載を略したが関連作品 目録番号: 846「同(2)」は、次の目録番号:2610「鴨川の床の夕涼み(3)」と同じ写真である。
京都の鴨川四条大橋西詰南側の床の上での夕涼み風景と思われる。
京都の観光絵葉書のために撮影されたものであろうか。撮影者は、いずれも「玉村康三郎」のようである。

長崎外の古写真考 目録番号:2576 三枚橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2576 三枚橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2576 三枚橋

目録番号:1319 湯本温泉の三枚橋
〔画像解説〕
早川の上に掛かる三枚橋の写真で、今でもほぼ同じ位置に近代的な橋が掛かり、岸に見える民家の位置も今と変わらない。三枚橋は時代で形を変えるが、小林清親が描いた明治13年(1880)の絵に近いので、その頃のものか。

目録番号: 934 湯本温泉の土橋  (掲載略)
〔画像解説〕
箱根湯本にある三枚橋の明治4年に於ける写真である。当時、橋の左側には人家がなかった。下を流れる川は早川。The Far Eastの2巻14号に同じ写真が掲載されている。

■ 確認結果

目録番号:2576「三枚橋」は、次の目録番号:1319「湯本温泉の三枚橋」のとおり、箱根湯本温泉の三枚橋である。
関連作品で掲載を略したが、目録番号:934「湯本温泉の土橋」の作品もある。

悠々人の日本写真紀行HP「旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(18)」小田原〜箱根湯本に次のとおり、現在の橋の写真と記事がある。

三枚橋
橋が一つなのに3枚橋とはこれ如何に。気になり調べてみた。かつては川幅が広く、2つの中洲があり、それこそ3つの橋が架かっていたので三枚橋というようになったとのこと。さらに、小田原から順番に、地獄橋、極楽橋、そして三昧橋と呼ばれていたという。
橋を渡ると早雲寺があり、この寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れると言われ、追手も地獄橋までは追うが、その後は追わなかったという。まさに地獄橋と極楽橋であった様だ。三昧橋はその先は仏三昧に生きよという意味らしい。

早 川
三枚橋より上流を見た写真である。早川は箱根の芦ノ湖を源流とする川で、湯本で巣雲川と合流し、小田原市早川で相模湾に注いでいる。外輪山を横切るため、深く鋭い谷を刻んで流れている。そのため早川と呼ばれるようになった。
早川に架かる三枚橋を渡ると、旧東海道は急な坂道となり、その両側にあるのが箱根湯本温泉街である。江戸時代より、この湯本を始め、芦ノ湯、木賀(きが)湯、底倉(そこくら)湯、宮ノ下湯、堂ヶ島湯、塔ノ沢湯が箱根七湯と言われていた。

長崎外の古写真考 目録番号:2930 堂ヶ島洞窟の住居

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2930 堂ヶ島洞窟の住居

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2930 堂ヶ島洞窟の住居
〔画像解説〕
堂ヶ島から早川を越えて、薬師堂の裏手の山道を登り白糸の滝へ至る直前にある洞窟で、室町時代の名僧夢窓国師が修行した伝承を持つ。洞窟の入り口には幼い姉妹と老翁が、中にも人影が見える。岩の上には草履や下駄が干してあり、箒や手桶なども見える。水は白糸の滝の清流を利用していたのだろう。

■ 確認結果

目録番号:2930「堂ヶ島洞窟の住居」の現況は、天地人氏HP「画廊アモン Sideway 古写真」にあるので参照。同HPの説明は次のとおり。
http://yass.m78.com/sideway/hakone/koshyashin1.html
このほか、箱根・軽井沢・妙義など古写真との、現在の対比写真があり参考となる。

上の写真の撮影場所で、180度回転すると洞窟が有ります。明治の頃には人が住んでいた様ですね。現在は入口の所が半分以上埋まっています。玉簾の滝などは、関東大震災で崩壊して埋まってしまったそうなので、こちらも同様なのかも知れません。もう少し下がれば全体が写せたのですが、小竹が密集して生えているため無理でした。下段は内部の様子です。

長崎外の古写真考 目録番号:1131 庭園内の茶屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1131 庭園内の茶屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1131 庭園内の茶屋
〔画像解説〕
茶屋の縁側、日だまりに休む数人の人物。庭には鉢植えや盆栽が並べてある。陽光のもと、右手の樹木が地面に影を落としている。整理番号5-36と同一。

目録番号: 212 茶屋の庭園(1)
〔画像解説〕
茶屋の縁側で休む6人の人物。あるものは腰掛け、あるものは座しながらこちらを見ている。右手前、庭には鉢植え盆栽の類が、地面あるいは棚上に数多く並べてある。陽光の下、右端の樹木が庭に影を落としている。場所不明。

目録番号:2638 茶屋の庭園(3)
〔画像解説〕
タイトルは「TEA HOUSE」だが茶を喫している人物はいない。茶屋のプライベートな庭であろうか。縁先には数多くの盆栽などが並び、軒先には棚が設えてあるようだ。植木職人の家の様でもある。縁側中央に座る人物の半纏には「染?小」の文字が染め抜かれている。

■ 確認結果

目録番号:1131「庭園内の茶屋」は、目録番号: 212「茶屋の庭園(1)」及び目録番号:2638「茶屋の庭園(3)」と、同じ作品である。タイトルを同じようにしないと、関連作品で出てこない。
なお、3枚目の目録番号:2638「茶屋の庭園(3)」は、「撮影者:未詳」となっているが、「小川一真」だろう。

長崎外の古写真考 目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2506 舟遊びする芸妓たち(1)
〔画像解説〕
覆い屋がついた日除船(ひよけぶね)で、一般には屋形船(やかたぶね)あるいは屋根船と呼ばれる。涼を求めて京都の渓流を流れ下る船で、乗客の中にはかんざし類で飾り立てた髪に、だらりの帯を締めた振り袖姿の京都祇園の舞妓がいる。

目録番号:4881 舟遊びする芸妓たち(2)

■ 確認結果

目録番号:2506「舟遊びする芸妓たち(1)」と、目録番号:4881「舟遊びする芸妓たち(2)」の屋形船は、同じ船と思われる。
保津川か、京都の渓流を流れ下る船で、京都祇園の舞妓が乗っているなら、「撮影地域:京都」として良いと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:2129 高鉾島(9)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2129 高鉾島(9)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2129 高鉾島(9)
〔画像解説〕
日下部金兵衛、小川一真などの混合写真を収載した、蒔絵大型アルバムの中の一枚。キャプションには201TAKABOKOと記されている。これは小川の整理番号で撮影時期は明治20年代後半。戸町の入り江の小高い丘から長崎港口の高鉾島を望んでいる。向こう側の岬は神崎で先端は神崎鼻、後ろに神ノ島が重なって見える。手前の岬は女神である。ここが長崎湾で一番狭い瀬戸である。江戸時代、この港口を挟んで戸町と対岸の西泊に番所が置かれ、肥前藩と福岡藩が隔年で港の警備にあたった。同じアングルの写真は多いが、この写真の場合は、集落、墓地、入り江の帆船などが鮮明である。対岸には石炭が積まれ、ストックヤードになっている。停泊している船はイサバ船であるが、港外の高鉾島の背後に写っている高島の炭鉱から、石炭を運搬する専用船のように思われる。ここに貯炭された石炭は長崎港に停泊する船舶に提供されていたのではなかろうか。

■ 確認結果

目録番号:2129「高鉾島(9)」の画像解説中、「手前の岬は女神である」は、正しくは「女神」ではない。女神1つ手前の現在、井筒造船所のある岬である。
「港外の高鉾島の背後に写っている高島の炭鉱から」も、「高島」は遠くてこの写真に写っていない。高鉾島の背後に写っているのは、右が「伊王島」、左が「香焼島」であろう。

数多い「高鉾島」関連関作品において、上記の間違った解説は多く見られる。
この項は次の記事など参照。 https://misakimichi.com/archives/1621