長崎外の古写真考 目録番号:2576 三枚橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2576 三枚橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2576 三枚橋

目録番号:1319 湯本温泉の三枚橋
〔画像解説〕
早川の上に掛かる三枚橋の写真で、今でもほぼ同じ位置に近代的な橋が掛かり、岸に見える民家の位置も今と変わらない。三枚橋は時代で形を変えるが、小林清親が描いた明治13年(1880)の絵に近いので、その頃のものか。

目録番号: 934 湯本温泉の土橋  (掲載略)
〔画像解説〕
箱根湯本にある三枚橋の明治4年に於ける写真である。当時、橋の左側には人家がなかった。下を流れる川は早川。The Far Eastの2巻14号に同じ写真が掲載されている。

■ 確認結果

目録番号:2576「三枚橋」は、次の目録番号:1319「湯本温泉の三枚橋」のとおり、箱根湯本温泉の三枚橋である。
関連作品で掲載を略したが、目録番号:934「湯本温泉の土橋」の作品もある。

悠々人の日本写真紀行HP「旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅(18)」小田原〜箱根湯本に次のとおり、現在の橋の写真と記事がある。

三枚橋
橋が一つなのに3枚橋とはこれ如何に。気になり調べてみた。かつては川幅が広く、2つの中洲があり、それこそ3つの橋が架かっていたので三枚橋というようになったとのこと。さらに、小田原から順番に、地獄橋、極楽橋、そして三昧橋と呼ばれていたという。
橋を渡ると早雲寺があり、この寺に逃げ込むと、どんな罪人でも罪を免れると言われ、追手も地獄橋までは追うが、その後は追わなかったという。まさに地獄橋と極楽橋であった様だ。三昧橋はその先は仏三昧に生きよという意味らしい。

早 川
三枚橋より上流を見た写真である。早川は箱根の芦ノ湖を源流とする川で、湯本で巣雲川と合流し、小田原市早川で相模湾に注いでいる。外輪山を横切るため、深く鋭い谷を刻んで流れている。そのため早川と呼ばれるようになった。
早川に架かる三枚橋を渡ると、旧東海道は急な坂道となり、その両側にあるのが箱根湯本温泉街である。江戸時代より、この湯本を始め、芦ノ湯、木賀(きが)湯、底倉(そこくら)湯、宮ノ下湯、堂ヶ島湯、塔ノ沢湯が箱根七湯と言われていた。