被爆校舎お別れ 活水中学・高校1号館建て替えへ
長崎は8月9日、64年目の原爆の日を迎える。消えつつある被爆校舎。宝栄町の私立活水中学・高校1号館も老朽化のため、建て替えられることになった。
爆心地から約500m。同館は諫早へ移転した旧制鎮西学院中学校の被爆校舎を修復して建てられたものだった。
2009年8月8日付朝日新聞長崎地域版の記事は上のとおり。写真は立岩町権現岩から。中央から右方に爆心地と赤屋根がある学校が写る。
被爆校舎お別れ 活水中学・高校1号館建て替えへ
長崎は8月9日、64年目の原爆の日を迎える。消えつつある被爆校舎。宝栄町の私立活水中学・高校1号館も老朽化のため、建て替えられることになった。
爆心地から約500m。同館は諫早へ移転した旧制鎮西学院中学校の被爆校舎を修復して建てられたものだった。
2009年8月8日付朝日新聞長崎地域版の記事は上のとおり。写真は立岩町権現岩から。中央から右方に爆心地と赤屋根がある学校が写る。
カットバス? みらい長崎ココウォーク 長崎市茂里町
みらい長崎ココウォーク4Fにあるカット実物バス。車内「想いでの長崎バス」の古写真が楽しい。もちろん、おもちゃのミニバスもある。
みらい長崎ココウォーク(みらいながさきココウォーク)は、長崎自動車が長崎市茂里町に建設したバスターミナル併設の複合商業施設。2008年10月オープン。地下1階地上8階建。長崎自動車の子会社みらい長崎が運営。
いろいろ? 大浦天主堂前通りの珍しいもの 長崎市南山手町
南山手町、国宝大浦天主堂前近くの通りで見かける珍しいもの。
ビルにある妙行寺の入口、仮面を売る店、下山酒店たばこ売り場下に残る居留地地番標石、グラバー園登り口植え込みにある同地番標石と昔の門柱跡、カトリック大浦教会のステンドグラスと中の礼拝堂、教会横にある50円缶コーヒー自動販売機、その前の西洋旅籠。
ゴリラ岩? 小江と福田崎の海岸 長崎市小江町・福田本町
小江と福田崎の海岸。断崖が屹立する。良く見ると、ゴリラ・人面・ねずみ男のような岩がある。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:2877 長崎福田海岸の洞窟(1)
〔画像解説〕
明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたようで、観光客らしい人物が洞窟を遠望し、洞窟には洞内の見学船と思われる小船が接近している。
目録番号:5629 長崎福田海岸の洞窟(2)
■ 確認結果
解説に「明治中期。長崎市の福田海岸にあった洞窟。当時は観光にも使われていたよう」とある。2枚は同じ写真。(2)も鮮明なため掲げた。何も問題はない古写真であるが、福田崎の海岸洞窟を確認しておきたかった。3回訪ねてやっと辿り着いた。
前回、途中の海岸岩場で見つけた「長崎要塞第二地帯標」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1905
福田「ゴルフ場入口」バス停から100mほど戻り、右下へ行く釣り道の山道に入り、10分谷間を下ると海岸へ出る。これからが大変である。丸石の浜や危険な岩場をロープなどで3回越し、海岸伝いにさらに50分歩いてやっと着く。往復3時間は要する。大潮の時しか出かけられず、危険極まりない。釣り場には式見から瀬渡し船が出る。
古写真で言うと、洞窟の左側海岸を歩いて行ったので、洞窟の横からしか眺められず、中まで全体を見ることができなかった。人が座っている岩は離れ瀬。古写真は手前に岩が写るとおり、船上から撮影されたものではない。沖の島は伊王島や式見の神楽島。崖上は昔、採石場だった。
なお、洞窟とは関係ないが、この辺りの海を舞台に、高橋治氏の小説「秘伝」(直木賞受賞)講談社昭和59年2月刊がある。式見と茂木に住む2人の名人釣り師が怪魚に挑む!物語。24〜25頁は次のとおり。
…岸浪が再びエンジンをしぼったのは、出て来た式見の港を左に見て、更に三十分ほど南に下った地点だった。入江の様が複雑になり、切り立った崖が海に落ちこんでいる。その崖が近々と見える。
永淵はこの辺の海を知らない。だが、長年の経験で、陸の形と海水の色を見れば、大体、海底の見当はつく。恐らく断崖の底は二段か三段に落ちこんで、その先がガクンと深くなっている。永淵はそう思った。
”鯛の根ではないな”
一体、なにを釣らす気でいるのか。永淵には見当もつかなかった。
”崖の張り出しを狙うのか”
それにしても、そうした場所に群れる魚は余り大きくない。大きくない上に群を作る。数を狙う道楽の釣ならそれでも良いが、永淵が岸浪を訪ねて、二人でやる釣にしては、似つかわしいものではない。
岸浪はしぼったままのエンジンで大きく弧を描くと、慎重に山を合わせた。左を見て、前景の崖の線なり、これと自分がきめている木の線なりを、遠景の山の凹凸に重ねる。そうしながら右側を確かめる。更に念を入れて前方の山を合わせた。
潮の流れは原則的には永淵が普段釣る長崎半島の先端野母崎の辺と変らない。対馬海流が南から押している。五月ともなれば、それはかなり陸に近づいている。当然、陸に近いほど反流を呼ぶ。
岸浪はその反流に船を乗せようとしている。船を北に向けた。
永淵は初めてのことなので、岸浪のすることを見ているばかりである。ただ、油断なく眼は配っていた。…
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5385 大浦川と居留地(2)
〔画像解説〕
ベアト大型アルバムの1枚でShelter Creek Nagasaki Harbour(長崎港の避難運河)とペン書き。上野彦馬が明治6年(1873)頃撮影した目録番号5318(整理番号102-24)と同じアングルで、大浦川下から上流を望むが、時期は10年ほど遡る。1864−6年(元治元-慶応2)頃 F・ベアトがこれを撮影した。比較で建物の変遷が判る。右左岸手前の2階建は当時空家であった蘭人J.ブロイニール所有の洋館。順に38番はスミス船具商で、37番の洋館にはExpressの看板が出ている。36番はLondon HotelおよびBoard of Trade Hotel、突き当たり正面の看板はNew Amsterdam Hotelと読めるが、これは奥34番の看板である。35番はニュー・クラブ・ハウス(ボーリング・玉突き場)。左側手前から大浦14(オルトの貸地)、15番(グラバーの借地)、白壁は29番で、ともに清号の華僑が入居。その奥は30番(グラバーの貸地)と続く。山の中腹の川上町外国人墓地にはまだ墓石が少ない。
■ 確認結果
大浦川を弁天橋の橋上から上流を撮影した古写真。撮影年代や撮影者の違いがある写真は数枚ある。目録番号:5385「大浦川と居留地(2)」と同じ写真が、2009年8月6日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。
同じ写真なのに、上記の画像解説と新聞記事の説明内容が、特に右側左岸の建物について違う。それぞれ解説者の見解や、新しく判明したことで、内容が異なってくる事情はわかるが、読む人は困惑する。せめて、旗ざおが立つ38番の建物が、「スミス船具商」か「プロイセンの領事館」か。正しい方の説明をしてほしい。
後ろの写真は、大浦天主堂下電停そばの現在の「弁天橋」と、松が枝橋脇にある大浦川の説明板。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4) ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。
目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4)
〔画像解説〕
ファサリ商会と思われる蒔絵大型アルバム長崎特集の1枚でB218 VIEW,NAGASAKIと印字。南山手26番から大浦および東山手を展望している。中央の大浦32番Aには明治26年(1893)10月新築の孔子廟が見える。アルバムに収載されたほかの写真から明治32年(1899)頃の撮影である。手前の寄棟造りの和風洋館は右から下り松36−40番の外国人バー街。孔子廟の右後ろ3棟は現在復元された「東山手洋館7棟」。右手上ピンクの洋館は東山学院(旧イギリス領事館)、その上の煉瓦造り二階建て一部地階の白い建物は明治31年(1898)フランス人修道士セネンツの設計で完成した海星学校。正面奥にはラッセル館の屋根が見える。その左横の大屋根は東山手12番のアメリカ領事館。その前の高台の家は大浦33番Cのローレイ製茶所。手前大浦川を挟んだ対岸は大浦角から右に29番(H・ホー商会)と30番(外国人バー)、角から左に15,14番(外国人のバー)にあたる。
目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む
目録番号:6148 東山手の画像
■確認結果
大浦川の方から大浦居留地や東山手を展望した3枚の古写真。撮影年代、撮影者は違うようだが、大浦川から東山手へ向いた広い通りは同じ道路である。1枚目には孔子廟が中央右にあり、後ろには現在復元された3棟が並ぶ。通りの右奥にはラッセル館が写っている。
現在の孔子廟やNTT西日本病院前の通りのようだ。背景の山は左から金比羅山、三ツ山、健山、烽火山、海星学園の右に覗くのは英彦山となる。
撮影場所は、1枚目の画像解説は「南山手26番」。3枚のこの通りの向き、高度感を比較すると、1枚目は必ずしもそうとは感じらないところがある。
撮影場所は、妙行寺山門前から相生町へ至る道。妙行寺の次に大浦諏訪神社がある。次が間に現南山手レストハウスに登る坂道を挟んで、その先の居留地が「南山手26番」。道向かい下側に同枝番もある。
データベース上の長崎大学附属図書館作成「長崎居留地の敷分割図」を掲げ、3枚の古写真の撮影場所推測地点を示した。「敷分割図」は現況と少しズレがある。
1枚目の目録番号:4806「南山手からの大浦居留地(4)」は、通りが右下がりとなり、大浦諏訪神社の境内上部社殿あたりから撮影されていると思われる。高度があり、写真下部に写っているのは、神社の縁石ではないだろうか。
2枚目の目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」は、通りがまっすぐに写り、これが通りの右線延長線上の「南山手26番」前の道から撮影されていると思われる。通りが近くに広く写っている。
3枚目の目録番号:6148「東山手の画像」は、通りが左下がりとなり、現南山手レストハウスへ登る坂道の途中から撮影されていると思われる。高度があり「南山手26番」の背後のまだ左側山手であろう。
一帯は高いビルや宅地化が進み、孔子廟前の通り、背景の山並み、長崎港湾奥が見えなくなっている。3枚の撮影場所はあくまで推測である。大学関係者によって現地確認をお願いしたい。
現在の写真は、かろうじて景色が見え、景色が写せる大浦諏訪神社、及び妙行寺の場合を参考写真として載せた。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6667 長崎阿弥陀橋
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。
目録番号:6667 長崎阿弥陀橋
■ 確認結果
ボードインコレクション。本年6月、HPのデータベースに追加された目録番号:6667の作品。
タイトルがどうして「長崎阿弥陀橋」となったのだろう。長崎港の海岸近く神社に見える。西琴平町の「金刀比羅神社」、西小島の「梅香崎神社」、飽の浦の「恵比寿神社」など考えられるが違う。
対岸の背景の山を良く見てもらいたい。稲佐山である。左から張り出した尾根は旭町の稲佐崎や志賀の波止となる。そうすると筑後町の「福済寺」境内となる。当時の海岸線はこのあたりまで来ていた。
古写真には欄干・常夜灯・旗竿立てが写っている。福済寺は原爆によって当時の建物は焼失したが、当時を再現した模型が長崎総合科学大学村田明久先生の監修によって作られ、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。
この模型にまったく同じ欄干・常夜灯・旗竿立てがある。青蓮堂大観門の前。常夜灯は「慈航燈」と示されている。古写真はこの場所から稲佐山を望んで撮影されたものに間違いない。
現在の写真は、高いビルのため境内から写せない。稲佐山が望める高台の福済寺墓地一角から写した。「慈航燈」に似たような石燈籠は、現在の福済寺「萬国霊廟長崎観音」横の庭園に、新しい旗竿立てとともにあった。
福済寺は次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1576
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6665 長崎稲佐
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。
目録番号:6665 長崎稲佐
(参考写真)
目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
〔画像解説〕
写真左側が下西山町、右側が片淵である。大手橋の袂から川沿いに、片淵方面へ少し下った所から撮影した写真である。大手橋の袂には、その昔、長崎氏の大手門があったことから川の名も堂門川と呼ばれた。現在は、一般に中島川と呼ばれている。昭和57年(1982)長崎大水害後の災害復旧河川改修工事に伴い、写真中央の川の関は取り壊されてしまった。写真上部、樹木の繁った所の石垣上の建物は、現在の富貴楼である。富貴楼の前身は、千秋亭と言い、寛政の昔から「松森の千秋亭」と言われ、大変有名であった。今も長崎の一流の料亭である。明治20年(1887)頃、長崎を訪れた伊藤博文がここに宿泊した際、女将内田トミの求めに応じて、その名に因んで「富貴楼」と命名したものという。富貴楼の裏口は、松森神社の境内である。樹木の間から松森神社の本殿屋根がみえている。松森神社には、県指定有形文化財「職人尽」の彫刻が本殿を囲む瑞籬の欄間に飾ってある。
目録番号:3249 長崎西山松の森(1)
目録番号:5357 長崎西山松の森(2)
■ 確認結果
ボードインコレクション。本年6月、HPのデータベースに追加された目録番号:6665の作品。
タイトルがどうして「長崎稲佐」となったのだろう。参考作品の目録番号: 650と同じ作品であるので、「中島川風景下西山町辺り」となる。
中央上は松の森で、料亭「富貴楼」となった先代の建物が写っている。
次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1562
堂門川の左側は水車用の水路で、大きなタイヤのように見えるのが水車の跡といわれる。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6158 長崎鳥瞰 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6158 長崎鳥瞰 (参考写真) 目録番号: 977 ほか
[画像解説] 超高細精密画像
文久2(1862)年頃撮影された長崎市街の鳥瞰写真です。中央には新地蔵、左手には出島の建物がよくみえます。出島の後の茂みには長崎奉行所西役所の建物も見えます。全体的に江戸時代の長崎の姿が鮮明です。浦上の湾奥には干潟が確認できます。 -6158-
目録番号:6152 星取山からの長崎港鳥瞰 (参考写真) 目録番号:4878 ほか
目録番号:6165 稲佐山から見た長崎鳥瞰
■ 確認結果
ボードインコレクション。本年6月、HPのデータベースに追加された「長崎鳥瞰」の3作品。
最初の目録番号:6158「長崎鳥瞰」は、撮影場所の説明がない。これは(参考写真)目録番号: 977「ドンの山から見た出島と長崎港(1)」と同じような写真で、「ドンの山」から撮影されたものである。
次の目録番号:6152「星取山からの長崎港鳥瞰」と、目録番号:6165「稲佐山から見た長崎鳥瞰」は、タイトルとおりそれぞれの山から撮影されたのは間違いない。
なお、星取山の(参考写真)目録番号:4878は、タイトルが「ドンの山(から)見た大浦居留地・出島」となっているが、これは「星取山から」の誤りである。
次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1598
稲佐山についても、実際は山頂からではない。稲佐山中腹の長崎清風ホテル先、水の浦トンネル上の「天狗岩」あたりから撮影されたのではないだろうか。調査続行中。
次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1608