長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 652 中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)
〔画像解説〕
手前に阿弥陀橋、奥に高麗橋が写っている。上流から下流に向かって撮影されている。近くには上野彦馬邸があった。

目録番号: 693 中島川阿弥陀橋と高麗橋(2)  (掲載略)
目録番号:5589 中島川阿弥陀橋と高麗橋(3)  (掲載略)

■ 確認結果

目録番号: 652「中島川阿弥陀橋と高麗橋(1)」など3作品は、同じ写真である。〔撮影者:ベアト〕であろう。
小沢健志氏編「新版 写真で見る 幕末・明治」世界文化社2000年刊14頁に、「長崎の石橋 1860年代 ベアト」として掲載されている。

長崎の古写真考 目録番号: 654 高鉾島(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 654 高鉾島(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 654 高鉾島(2)
〔画像解説〕
戸町から長崎港口の高鉾島を望む。右からの張り出しは神崎、左からの張り出しは女神である。多くの写真家がこのアングルの高鉾島の写真を残している。この写真は整理番号26-23と同一と思われる。写真下には「長崎港への入口」と英語で書かれている。

目録番号: 692 高鉾島(4)     (掲載略)
目録番号:1204 高鉾島(7)     (掲載略)
目録番号:3244 高鉾島(15)    (掲載略)
目録番号:4484 高鉾島(40)    (掲載略)
目録番号:5239 高鉾島(42)    (掲載略)
目録番号:5560 高鉾島(30)    (掲載略)
目録番号:5621 高鉾島(31)    (掲載略)
目録番号:6119 高鉾島(44)    (掲載略)

■ 確認結果

長崎港口の「高鉾島」関連作品。目録番号: 654「高鉾島(2)」など9作品は同じ写真である。〔撮影者:F.ベアト〕であろうか。現在の写真は、戸町墓地の上部から。
小沢健志氏編「新版 写真で見る幕末・明治」世界文化社2000年刊14頁に、「長崎 高鉾島 1860年代 ベアト」として掲載されている。

ベアトの「高鉾島」作品は、次の目録番号:5366「高鉾島(27)」が、その写真であるが、上記の写真もそうだろうか?
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2712 

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

目録番号:4878 ドン山(から)見た大浦居留地・出島  (掲載略)

■ 確認結果

山川出版社が最近、2011年4月25日発行したばかりの古写真集「レンズが撮らえた 幕末の日本」。202頁に掲載された「鍋冠山からの長崎港」。同解説は次のとおり。
鍋冠山からの長崎港 (長崎大学附属図書館蔵)
1865年頃/F.ベアト撮影。右手に見える出島の右側に明治元年(1868)に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応元年と思われる。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

長崎大学データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」などの作品。以前から再三指摘しているが、撮影場所は「鍋冠山」や「ドンの山」からではない。「星取山」が正しいだろう。
データベースが、このようなタイトルや画像解説のまま修正されないのは、利用する側にとって非常に困る。本ブログの次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1877
https://misakimichi.com/archives/1598

大浦川が左上に斜めに上り、弁天橋が河口に架かり、その左が南山手居留地である。「鍋冠山」や「ドンの山」からは、大浦川や長崎港はこのような景色とならない。「星取山」の山頂から撮影された。現地確認した現在の写真は上のとおり。山頂は現在、木立があり、景色が見える中腹の「港ヶ丘パーク墓苑」から写した。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成15年刊第3版の42頁に同じ古写真が掲載されている。同138頁による「図版説明」は次のとおり。

25 星取山から長崎港を見下ろす         長崎大学附属図書館所蔵
星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には、旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。

長崎の古写真考 目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)

目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
〔画像解説〕
東山手居留地の背後の山から、十人町、新地蔵、出島、長崎湾口を鳥瞰したもの。出島から築町に出島新橋が架設されているので、明治初期の写真。新地蔵、出島、その背後の築町、江戸町さらに大波止周辺の沿岸部が見える。

■ 確認結果

目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と、次の目録番号:4863「ドンの山から見た出島と長崎港(3)」は同じ写真である。〔撮影者:スチルフリード(?)〕となっている。

HP「放送大学附属図書館所蔵古写真展 日本残像 —写真で見る幕末、明治—」にも掲載されており、同解説は次のとおり。撮影者は、スチルフリード? 内田九一? どちらだろうか。
前の記事で見た上野彦馬作品と出島の形が違い、ドンの山の山頂あたりから撮影されているのは間違いないようだ。ドンの山は、次を記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1512

長崎 東山手より出島を望む
画面中央が出島で、橋で築地町と結ばれている。ベアトが1865年6月と記載したほぼ同じ写真を一枚残しているが、建物が違っている。この写真はベアトより少し後になってから内田九一が撮影したものと思われる。明治初年の撮影。

長崎の古写真考 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6662 眼鏡橋(3)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6662 眼鏡橋(3)

■ 確認結果

目録番号:6662「眼鏡橋(3)」は、〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
同じ写真が、上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしい。

扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」を参照。過去と現在をムービーで対比できる。同説明は次のとおり。  http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
眼鏡橋
昔:眼鏡橋、撮影時期不明
今:平成10年12月(1998)眼鏡橋より下流の袋橋の上から撮影

ベアト作品は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2140

長崎の古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1767 風頭からの港町 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1767 風頭からの港町
〔画像解説〕
上野彦馬の撮影による風頭山から望む長崎市街と長崎港。出島の横には中島川口に架けられていた大橋を見ることができる。当時、新地浦にはまだ海水が流入していた。出島側には西役所の遺構が見られ、旧県庁舎はまだ建てられていない。明治初年の写真。

目録番号:5897 長崎市街と長崎港(5)
〔画像解説〕
風頭山から長崎市中と港を展望したもの。左隅の新地蔵の付近は埋め立てが進み、新しい建物が建築中であるが、内側はまだ石垣がそのまま残っている。出島と出島橋、明治2年(1869)に架けられた新大橋の架かる築町には白い洋館が見える。明治4年から5年(1871〜2)頃の撮影。港の内には軍艦や船が停泊し、対岸には飽の浦の造船所、稲佐方面が展望される。

■ 確認結果

目録番号:1767「風頭からの港町」と、次の目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」は、同じ写真である。〔撮影者:上野彦馬〕ではないだろうか。
上野一朗氏編「写真の開祖 上野彦馬 ー写真に見る幕末・明治ー」産業能率短期大学出版部発行に掲載されているらしい。

扇精光株式会社作成のHP「上野彦馬ギャラリー」を参照。過去と現在をムービーで対比できる。同説明は次のとおり。  http://www.ougis.co.jp/virtual/hikoma/ueno.html
長崎市街
昔:長崎市街、明治21年(1888)撮影
今:平成11年3月(1999)伊良林3丁目風頭公園展望台から撮影

(2011.6.16 追記)
企画展「長崎・冩眞傳來」が、長崎歴史文化博物館で7月8日まで開催中。企画展HPに展示作品の一部が掲載されている。
これによると、目録番号:1767「風頭からの港町」と、次の目録番号:5897「長崎市街と長崎港(5)」は、〔撮影者:内田九一〕となっている。詳細は不明。同博物館所蔵写真。

長崎の古写真考 目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1)  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち (1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 787 お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1)
〔画像解説〕
ベアト撮影。「お茶と煙草後の日本人女性のグループ」と題されている。これは上野彦馬の写場で撮影されたものである。人物は彦馬ゆかりのものであろう。

目録番号: 788 お高祖頭巾の女性(4)
〔画像解説〕
ベアト撮影。「夜の衣装」と題されている。これは女性の夜の外出着を撮影した者である。お高祖頭巾、和傘、提灯が特徴的である。提灯の紋所は「桔梗の二引き」とよばれる上野家の家紋である。

目録番号: 789 中国人女性アーヒン
〔画像解説〕
ベアト撮影。「中国人女性アーヒン」と記されている。ベアトが長崎で撮影した写真のなかに含まれているが、朝日新聞社『甦る幕末』は「おもちさん、ルドルフ・リンドウスイス領事の妻」と解説している。

目録番号: 790 長崎奉行
〔画像解説〕
ベアト撮影。「長崎の奉行」と記されている。この奉行は文久3(1863)年5月、目付・小納戸頭取から長崎奉行に着任し、慶応2(1866)年1月に離任した服部長門守(常純、左衛門左)である。

目録番号: 791 日本の商人と子供
〔画像解説〕
ベアト撮影。「日本人の商人と子供」と記されている。場所は椅子の形状、敷物の柄、床の様子から明らかに上野彦馬の写場である。これらの人物は彦馬ゆかりのものであろう。

目録番号: 778 椅子と女性(1)
〔画像解説〕
ベアト撮影。「Kかささん」と記されている。ここは上野彦馬の写場である。そのことは椅子の形状と床の様子からわかる。若い女性は左手を椅子に軽くかけ、右手に扇を持っている。

目録番号: 782 女性と長火鉢
〔画像解説〕
ベアト撮影。「お茶と火鉢の側の日本女性」と記されている。女性は整理番号7-18の「かささん」と同一である。床の様子から、これも上野彦馬写真館の写場で撮影されたものであろう。

■ 確認結果

目録番号: 787「お茶と煙草でくつろぐ女性たち(1)」など5作品は、いずれもベアト撮影。目録番号: 791 のタイトルは、正しくは「日本人の商人と子供」か?
長崎大学附属図書館HP「古写真仮想展示会」には、次のとおり解説している。撮影場所は「上野彦馬の写場」などである。目録番号: 790「長崎奉行」と同じく、〔撮影地域:長崎〕となろう。

ベアトによる長崎写真  1864-66年

ベアトは1枚目に「お茶と喫煙をすませた日本の女性たちの集団」と記している。場所は上野彦馬の写場である。2枚目は「夜の装束」と題しているが、紋所は「桔梗の二引」(上野家の家紋)である。女性は上野彦馬の姉妹の一人であると思われる。3枚目は「中国の女性ア−ヒン」、4枚目は「長崎の奉行」と記されている。5枚目は上野撮影局の写場で撮影された「日本の商人と子供」である。この一連の写真からベアトと彦馬の直接の交流が明白である。

このリストにないが、後の目録番号: 778「椅子と女性(1)」と、目録番号: 782「女性と長火鉢」も、「上野彦馬の写場」で撮影されたものであろう。

長崎の古写真考 目録番号:5632 中島川の桜馬場堰 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5632 中島川の桜馬場堰 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5632 中島川の桜馬場堰
〔画像解説〕
中島川上流の桜馬場町および伊良林町、中島川と鳴滝川の合流地点付近(現・中之橋付近)の風景で「桜場晴嵐」として崎陽八景に数えられている。右手建物上流は明治中期から昭和前期まで桜の名所であった「中川カルルス」である。オーストリア(現・チェコ共和国)のカルルス温泉の成分表により温泉を提供した。

目録番号:3801 中島川の桜馬場      (掲載略)

■ 確認結果

目録番号:5632「中島川の桜馬場堰」と、目録番号:3801「中島川の桜馬場」(掲載略)は同じ写真。〔画像解説〕のとおり中島川の上流部で、鳴滝川との合流地点付近(現・国道34号「中之橋」付近)にあった「桜馬場堰」を写しているのは、間違いないようだ。

桜の名所だった「中川カルルス」は、中島川のまだ上流となる。右手建物は、現在の長崎市立伊良林小学校グランドの東端あたりと思われる。明治35年(1902年)に伊良林尋常小学校は創設された。右手建物は学校の可能性もある。

このあたりは伊良林から中島川を渡り、桜馬場へ続く路地が残っている。詳しい検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:3805 鯉幟の揚がる町並 (再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3805 鯉幟の揚がる町並 (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3805 鯉幟の揚がる町並
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
長崎を特集した、大型蒔絵アルバムの中の一枚。見開きにはTo Mr & Mrs Kawamura in kind remembrance of Nagasaki from Mr & Mrs Jordan(河村夫妻へ長崎の親切な思い出としてジョーダン夫妻から)とペンで記されジョーダンが帰国にあたり蒔絵の長崎アルバムを横浜に注文したものと思われる。この写真にはD38.THE CARP.と印字されているが、これは小川一真のアルバムで、この写真から明治20年代後半頃の長崎の通りと端午の節句における町屋の鯉幟の風習がよくわかる。西浜町あたりかと思われるが、店の暖簾には、手前から酒屋の「いせや」、1軒おいて「近江屋」の文字が、奥の方の壁には「まつだしち店」の文字が読める。明治22年(1889)に長崎で設置された始めた電信柱も見える。4軒続いて鯉幟が飾られているが、ここから明治の長崎における町屋の子沢山も推測される。事実中央の近江屋の前には多くの子供たちが佇んでいる。

目録番号:1093 鯉のぼり(1)  (掲載略)
〔画像解説〕
町中の鯉のぼり。4本の高い棒に取り付けられた4組の鯉のぼりは、風があまりないのか少し垂れ下がっている。町並みは二階建ての家が続き、手前の家の前には大八車や積み上げられた商品らしい荷物が見える。

■ 確認結果

目録番号:3805「鯉幟の揚がる町並」は、次のとおり朝日新聞長崎地域版2011年5月14日「長崎今昔」に掲載された。
目録番号:1093「鯉のぼり(1)」(掲載略)も同一写真で、〔撮影地域:長崎〕となる。
この前の記事は、 https://misakimichi.com/archives/2644
超高精細画像データベースでは、場所は西浜町あたり。〔撮影者:上野彦馬〕だが、新聞記事では、「撮影者は不明」と変わっている。

【長崎 今昔】 2011年05月14日  asahi.com> マイタウン> 長崎 から
子だくさんを物語る  《鯉のぼり泳ぐ明治の街角》  
鯉のぼりが泳ぐ明治の街角=長崎大学付属図書館提供

長崎を特集した30枚の写真を貼り付けた蒔絵の大型アルバムの一枚です。写真の隅には英語で「コイ」とキャプションがついています。収載された他の写真から1890年ごろの撮影とわかります。

4軒続いてこいのぼりが揚げられ、明治期の町屋の子だくさんが推測されます。店ののれんには、手前から酒屋の「いせや」、1軒おいて「近江屋」と書かれ、奥の壁には「まつだしち店」の文字が読めます。近江屋の前には子供たちがたたずんでいます。車が走らない路上は格好の遊び場でした。

長崎では1889年から街中に電灯がともり、電線をつなぐ電信柱が立ちました。人力でひく車力やこもの酒だるなど、昔懐かしい風景です。手前の家の軒先には電球付きのランプ型の門灯がともされています。街路を歩く人にぶれがないので、シャッタースピードの速いことがわかります。

アルバムの見開きには「ジョーダン夫妻から河村夫妻へ、長崎の親切な思い出として」と英語でペン書きされています。長崎総合科学大のブライアン・バークガフニ教授が作った居留地人名リストに照らすと、ジョーダン夫妻はスタンダード・オイル長崎支店のアメリカ人支配人J.F.ジョーダン夫妻と思われます。

撮影者は不明ですが、原板の鶏卵紙が和絵の具で着色されていることと、隅に記されたキャプションの特徴から横浜系写真師のようです。西浜町あたりかと思われますが、場所がお分かりの方がおられましたらご一報ください。 (長崎大大学院教授 姫野順一)

長崎の古写真考 目録番号:6160 高鉾島(46)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6160 高鉾島(46)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6160 高鉾島(46)
〔画像解説〕
戸町の背後の山から長崎湾口を撮影したものです。写真中央の島が高鉾島、右の半島の先が神崎鼻、左の突き出た先が女神です。高鉾島は、キリスト教の殉教の島として、また、船が長崎港に入る際の目印の島として、外国人に知られていました。

目録番号:5366 高鉾島(27)
〔画像解説〕  同じ

■ 確認結果

目録番号:6160「高鉾島(46)」は、次の目録番号:5366「高鉾島(27)」と同じ写真である。〔撮影者:F.ベアト〕であろう。厚木市HPのフェリックス・ベアト写真集に掲載されている。
撮影場所は現在の戸町墓地の上部からである。次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1621
https://misakimichi.com/archives/2501