長崎市の石橋」カテゴリーアーカイブ

煉瓦造アーチ式石橋の橋名と架橋年代が判明  坂下橋は現存せず

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

煉瓦造アーチ式石橋の橋名と架橋年代が判明  坂下橋は現存せず

長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋は、本ブログ次の記事を参照。石張りの川「地獄川」と「シシトキ川」の溝梁に3橋が現存する。
https://misakimichi.com/archives/787
https://misakimichi.com/archives/810
銀屋町公民館角シシトキ川の「稲荷橋」のみ橋名がわかっていたが、ほかの橋とも正しい橋名と架橋年代が確認できなかった。

長崎歴史文化博物館の郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」があることがわかり、同台帳の記録は次のとおり。
写 真  2〜  4  桜 町のは、「真 中 橋  明治28年4月起工」
写 真  5〜  7  栄 町のは、「引 地 橋  明治28年4月起工」
写 真  8〜 10  銀屋町のは、「稲 荷 橋  明治28年4月起工」

なお、同台帳には、今魚町・材木町間(現在の賑町)にも、煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋  明治28年4月起工」の記録がある。
写 真 11〜 16  賑 町の、 「坂 下 橋  明治28年4月起工」 現状と遺構
現在の中央公園南側となる。坂とは長崎地方法務局横の「天満坂」のことだろう。坂下の通りであるから、居酒屋鍋幸前あたり。中央公園の開口部から暗渠を調査したが、水路が直角に2方向へ変更され、オーバーフローを中島川に別に流すようなマンホールがあった。
煉瓦造アーチ式石橋「坂 下 橋」が、いつ撤去されたか不明。すでに現存せず、橋桁部分のような煉瓦造石積み跡だけ確認した。

最後の図は、布袋厚氏著「長崎石物語」(2005年刊長崎文献社)24〜25頁の”石張りの川 シシトキ川”から。長崎市に残る煉瓦造アーチ式石橋について、橋の位置を表示した。
栄町長崎女子商高角の「引地橋」は、海野酒店側から暗渠を潜った内部にあるので、通常はその姿を見ることができない。

自然石アーチ式石橋「乙女橋」(右側部分)の架橋工事

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

自然石アーチ式石橋「乙女橋」(右側部分)の架橋工事

2012年8月4日(土)と5日(日)の2日間、自然石アーチ式石橋「乙女橋」(右側部分)の架橋工事。参加2人。みさき道歩会の例会。
長崎市平山町の市民農園奥、千々峠(乙女峠)登山口からすぐ入った八郎岳から流れる沢を横切る登山道脇に、自然石アーチ式石橋「乙女橋」を架橋実験中。小さい方は、昨年10月完成。まだ健在である。

今年は、これを右側へ伸ばす工事。アーチ式石橋が2つ並び、眼鏡橋の形となるよう考えている。4日は石集めに終った。5日から土台を組み、石を乗せているが、径間が2mくらいとなり、難しい工事である。
適当な石さえあれば、何とかなるだろうが、なかなか揃わない。肝心な要石にふさわしい石もない。きのう12日、アーチ部分の土台の一部をはずしてみた。アーチが宙に浮いたが、さて、この石橋は完成しただろうか。後日、続報の予定。

古写真に残る石橋風景  (9)東長崎の樫ノ木渡瀬橋・木場橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

古写真に残る石橋風景  (9)東長崎の樫ノ木渡瀬橋・木場橋

最近、東長崎地区にあった2つのアーチ式石橋の珍しい写真を見かけた。いずれも昭和57年の長崎大水害で流失した以前の石橋の姿を写している。貴重な古写真と思われる。地元は写真の存在は知らないようで、写真では橋名は特定されていなかった。
私が現地を調査し、確認した結果は次のとおり。

写真 1〜 4  (1)「樫ノ木渡瀬橋」(または「屋敷橋」)  長崎市現川町

古写真考の再掲となるが、石橋の項でも記録しておく。本ブログ次の記事をまず参照。
https://misakimichi.com/archives/3193
「現川(うつつがわ)の石橋」として、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版92頁に掲載されていた。
「元禄時代、現川では、有名な刷毛目文様を主にした現川焼がつくられていた。この石橋は当時のものではないが、長崎の石工より伝えられたアーチ型石橋の工法を取り入れ架設した小石橋として市の文化財に指定されている」と解説にあるが、肝心な橋名がなかった。

JR現川駅右の「現川物産館 じげもん市」に、長崎大水害により流失した現川地区の4つの石橋の写真が展示されている。石橋の格調と大きさから、「樫ノ木渡瀬橋」が一番可能性があった。現在の「屋敷橋」(以前は石橋)のところに架かっていた橋である。
展示写真と材石の組み方を比較したが、同定できなかった。現地へ行って周囲の状況や背景の山の稜線など確認した。

現在の写真とおり、この場所に架かっていた石橋に間違いないであろう。いつの時代に撮影された石橋「樫ノ木渡瀬橋」か、また同じ場所に架け替えられて呼ばれた石橋「屋敷橋」だったかは、不明である。

写真 5〜10  (2)「木場橋」  長崎市船石町

次は、東長崎商工会「ひがなが今昔写真物語|東長崎の地域情報サイト|ひがながナビ」に掲載されているアーチ式石橋の古写真。橋名の説明はない。
http://www.shokokai-nagasaki.or.jp/h-nagasaki/konjakuph/index.html
古写真を見ると、かなり大きな石橋で親柱と欄干がある。思い浮んだのが、長崎大水害で流失した船石町の「木場橋」。現地を訪ね、これも周囲の状況を確認した。

現在の写真とおり、背景の山の稜線など合うことがわかるだろう。「木場橋」は、本ブログ次の記事を参照。船石地区の石橋や史跡の項で、「木場橋」にふれていた。
https://misakimichi.com/archives/604
https://misakimichi.com/archives/1788

現在の「木場橋」を渡り、上流側へ車道を進むと、石橋架橋者田嶋邸の「並松翠鯉苑」があり、移設されている木場橋の欄干だけ残る。田嶋邸には石橋の写真はないそうである。東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、東長崎の石造物42〜43頁にも、記録がない。
はからずも今回、東長崎にあった2つのアーチ式石橋の、貴重な古写真の存在がわかった。

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  試作3

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  試作3

前回の作は、雨で少しズレ落ちていた。試作3は写真のとおり。なかなか良い石がない。不揃いの石では失敗ばかり。橋の長さを短くしやっと完成した。いっときはこれで我慢しておこう。

きょうの四郎ケ島台場跡草刈りは、昨夜、佐賀からツアー中止の連絡があった。大雨の天気予報だったが、今はもう晴れだした。残念だったろう。

八郎岳沢に架けた、モニュメントのような自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、今も健在、こちらの最近の写真を載せる。

旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋  長崎市宮崎町に残る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

旧道「界橋」は長崎半島一?の桁石橋  長崎市宮崎町に残る

「みさき道」は、江戸時代盛んになった長崎市中より脇岬観音寺まで、みさき観音参りの道である。長崎半島を東回りするコースも考えられ、平成17年9月発行の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集38頁に、推定ルート図を概略で載せていた。
長崎半島の東回りコースで解明したいのは、川原小池上にあった明治32年建立の道塚である。「東 脇岬」「西 高浜」と刻む。道塚は現在、三和公民館中庭へ移設展示されている。

集落を結ぶ道は、当然、昔からあった。「東 脇岬」の道が江戸期にも観音参りに利用されたと思われる。三和町郷土誌には、近隣の集落で年中行事により観音参りが行われていたと記している。東回りコースがその主な道であろう。熊ノ岳を越す場合もある。
最近、伊能忠敬研究会の入江氏の協力により、詳細なルートを研究、踏査して確認している。

長崎市宮崎町の石橋について、すでに以前に次の記事としているので参照。
https://misakimichi.com/archives/3125
https://misakimichi.com/archives/2572
以上の2橋の外、街道に関わる橋を新たに2橋確認しているので、ここにまとめて明治道塚とともに、写真により紹介する。架橋年代はいずれも不明。流された橋もある。

写真  1〜  2   明治32年建立「東 脇岬」「西 高浜」の道塚
もともとあった場所は、川原小池上の字池田(池平)。「みさき道」の今魚町系道塚ではない。明治となって「西彼杵郡村誌」が記す河原村における「脇岬村路」と「高浜村路」の分岐を示す道標。現在は三和公民館中庭に移設展示されている。

写真  3〜  5   モータレ川(宮崎川)の渡り石跡
現在の「宮崎橋」近く。石橋と記している資料があるが、飛び石のようである。川岸の地蔵石祠横に置いている石が、当時の渡り石と地元の証言があった。「せんたく石」を削り取った跡も確認した。現在の1万分の1地形図には、宮崎橋の1つ上流の橋に「モタリ橋」の橋名が表示されている。潮が満ちている場合の上流迂回路と思われる。

写真  6〜  7   宮崎ダム奥を上がった谷間に残る桁石橋
徳道集落から川原へは、主にこの谷間の道を下った。ゴルフ場地蔵道塚に刻む「左 川原道」は、この道と思われる。川原小学校への通学路でもあった。宮崎ダムができて通れなくなったが、石柱を渡した貴重な桁石橋が1つは流され、1つは現存していた。

写真  8〜  9   川原木場途中の桁石橋跡
長崎バス川原終点から川原木場へ向かう。ちょうどその中間くらい。県道下の旧道に入る。そこから途中、川を1回渡る。石柱を渡した桁石橋があったが、水害で橋は流されている。川に石柱が散乱していた。

写真 10〜 18   旧道に現存する立派な桁石橋「界橋」
川原木場を過ぎた現在の県道34号線「界橋」上流の旧道に残る。橋名のとおりこの熊川が、河原村と脇津村の村境だった。旧三和町川原木場と旧野母崎町岬木場の町界。
旧道を今回、踏査して桁石橋を確認した。長崎半島に現在残る石橋では、最も立派な桁石橋で大きく高い。現県道「界橋」下付近には、見事な滝が流れていた。川原木場公民館グランド南西には、「熊川清四郎力士の碑」があり、一帯はおもしろい。

毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

毎日新聞「私家版・ながさき遺産」を考える 長崎市のレンガ造アーチ式石橋

教会群や産業遺産群で「世界遺産」登録を目指す長崎。けれど暮らしの周囲を見渡せば、未来に残したいものはそこここにいっぱい潜んでいる…と、毎日新聞長崎地方版の正月紙面から、シリーズ企画「私家版・ながさき遺産」がはじまった。
まだ記者の観点によるものが多いが、2012年1月13日付は次のとおり、「7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け”」であった、

銀屋町の「ししとき川」には、元眼鏡店シンボルとしか言えないこの通称「裏眼鏡橋」(写真1)から、20mも離れないすぐ上流の銀屋町公民館角にあるレンガ造アーチ式石橋「稲荷橋」?(写真2)の存在に気付かなかったのか、「えごばた」の説明もない。
https://misakimichi.com/archives/810
明治21年刊行の長崎年表によると、中島川石橋群に対応する「鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋があり」、昔は一目におさまったのではないかと、「長崎手帖」編集者故田栗杢作氏がNo.13で「茶のみ話」に記している。

一 目 七 橋
これは橋好きの私に、岩永さんがわざわざ明治二十一年刊行の長崎年表を見せて下さったものです。昔は編笠橋附近から川下の眼鏡橋の方を眺める石橋風景を「一目七橋」と言ったらしいので、見せて貰った年表の鍛冶屋町裏の屠鹿川に架った七つの小さな橋も、昔は一目におさまったのではないかと思って、表題を借りました。
屠鹿川に架った橋は、その名はおろか姿すら薄くなっていますが、七橋とも鍛冶屋町に架って、上流から言いますと、磨屋町のは屠鹿(とろく)橋、銀屋町のが稲荷橋、東古川町のは川添橋、本古川町のは鍛冶橋、榎津町の孕(はらみ)橋、萬屋町のは斜(ななめ)橋、アーケードの下の東浜町から架っているのは浜口橋です。(西古川町 金物店 岩永関夫氏)

桜町・栄町の「地獄川」にも、同じようなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真3,4)現存し、本ブログ記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/787
長崎大学病院の近辺にも、小さなレンガ造アーチ式石橋が2橋(写真5,6)残る。貴重な被爆遺構と思われる。 https://misakimichi.com/archives/613
特に前記の3橋は、毎日新聞長崎支局(魚の町)のすぐ近く。現地を訪ね地元の記憶を聞き、市橋梁台帳等で架橋いきさつ、年代などを、ぜひ解明してほしい。
「私家版・ながさき遺産」の企画は、読者があまり知らない、もう少し長崎の深い歴史を感じさせる内容の記事にお願いしたい。本ブログは外にも、長崎の珍しい遺産の情報を多く載せている。

私家版・ながさき遺産:/7 長崎市の「裏眼鏡橋」 商売繁盛の願“懸け” /長崎

日本最古のアーチ形石橋として、長崎を代表する観光スポットに数えられる国重要文化財「眼鏡橋」(長崎市)。橋が架かる中島川から約200メートルの距離に、もう一つの眼鏡橋がある。

通称「裏眼鏡橋」。同市鍛冶屋町から繁華街へ続く静かな路地を歩くと、大きな眼鏡が突然視界に入ってくる。“本家”はアーチ形の橋脚が川面に反射して円を描くが、“裏”は橋の欄干そのものが眼鏡の形。うっすら赤色を帯びていて、色あせたそのフレームは長い年月を感じさせる。それもそのはず。以前この場所で開業していた眼鏡店「コクラヤ2号店」の名残りで、同店の元代表・高浪藤夫さん(79)が約40年前、店の裏手を流れる「ししとき川」に架けたものだ。

「ただでさえ静かな路地。店の目印になるように、商売繁盛の願いを込めました」と懐かしそうに話す高浪さん。長さ約1・5メートル、幅約1メートルの眼鏡ができると裏口にもかかわらず、多くの人が橋を渡って来店したという。10年ほどでコクラヤが同市万屋町に移転すると、後には仏具店が入店。82(昭和57)年に起きた長崎大水害では、本家を一部崩壊させた水の威力にも耐え抜いて無事だった。

テレビやインターネットでも紹介され、カメラを手に訪れる観光客も少なくない。今、店の裏口として使われることはなくなったが、市内に5店舗を構えるコクラヤで働く人々の隠れたパワースポットにもなっている。
「400年以上の歴史がある本家・眼鏡橋に負けないように、これからも頑張らんば」。小川に「架けた」眼鏡に、商売繁盛を「懸けた」高浪さん。長崎を代表する地元企業の原点遺産は、御利益満点。あなたも願を「かけて」みる?【梅田啓祐】

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  2回目の挑戦

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

わが庭の自然石によるアーチ式石橋  2回目の挑戦

10月22日の1回目にできた石橋は、次を参照。いびつなため造り直すこととした。
https://misakimichi.com/archives/2914

アーチを支える土台は何でもよい。私はブロック・レンガ・孟宗竹を使い、ブルーシートをかぶせ、完成したとき抜きやすくした。両側の力の受け石が動かないよう、しっかり固定すること(支保工)が大事。バールやゴムハンマーで、石の隙間をきっちりと噛しめてから、土台を外す。

同じ石を使ったから、今回の出来ばえも、たいして変わらない。材石となる適当な大きさと形の石を、もう一度調達してから、造り直せば良かった。
庭に池がなくても、自然石によるアーチ式石橋は潤いができる。

わが庭に自然石によるアーチ式石橋を造る

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

わが庭に自然石によるアーチ式石橋を造る

殺風景なわが家の庭。大きな植木鉢とゴムシート敷きの「めだか池」が3つ。「ゆうこう」の苗木を植えているが、若葉は虫に食われた。
居間のソファーからいつも見えるブロック塀の角に、アーチ式ミニ石橋を造ってみた。

材石は三和地域特産の「蛇紋岩」を、石切り場跡から調達してきた。八郎岳山系の沢に造った「乙女橋」と同じ工法だが、杉の丸太の代わりに孟宗竹の残りやブロックなど使った。
できばえは写真のとおり。

橋の長さ1m、幅0.3m、高さ(拱矢)0.3mくらい。橋名は考えている。適当な石がなかなか揃わない。支えを外して気付いたが、左側が不安定だった。近いうちにまた造り直したい。
みなさんも挑戦してください。けっこう頭と力を使う。つつましい小さな庭でも、長崎らしい見栄えのする庭となるだろう。

最後の写真は、きょう夕方の空と軍艦島(端島)。

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成(続き)  八郎岳山系の沢

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成(続き)  八郎岳山系の沢

きょうも午前中、自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」の現地へ。曇り日で小雨となった。橋の上部を小石で埋め、歩きやすいように平らな敷石を一面に乗せた。
計測すると、橋の長さは1.5m、橋の幅は0.8m、橋の高さ(拱矢)は0.7mほど。

靴の写真のとおり、私が数回、乗って渡っても大丈夫だった。頑丈な造りにできているが、念のため「実験石橋 乙女橋 危険 通行不可」のプレートを中央に取り付けた。

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成  八郎岳山系の沢

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成  八郎岳山系の沢

長崎市平山町の長崎市民農園奥の谷間に、「千々峠」(乙女峠)登山道入口がある。200mほど登ると八郎岳(標高590m)から流れる1つの沢を渡る。小滝の渕尻を飛び石で渡っているが、増水した時に渡りきれないことがある。
本年7月30日、ここに自然石によるアーチ式石橋の架橋実験をし、一応、完成させた。
その様子は次に。  https://misakimichi.com/archives/2862

この石橋は、来年夏まで持てば良いと様子見していた。1か月も経たないうちに、台風の大雨による増水で流されていると聞いた。小滝の渕尻から少し下の本流に架橋していたが、右側山手斜面からの水流も相当あったのだろう。
普段はまったく水量のない小さな流れが変わり、石橋の根元を直撃、跡形もなくなっていた。余計に作った丸太のベンチが流れ、石橋を崩したことも原因だろう。

せっかく集めた材料の石は、下流にほとんど見当たらない。また石集めからしないとならないが、再挑戦することとした。丸太は残していた。川の水が冷たくならないうちだ。
架橋場所を今度は変えた。右手岸側の岩面と水流に関係のない中央に傾いた大石の間に架けることとした。
橋の長さは短くなり、最も大事な支保工が省ける。基礎はしっかりしている。ちょうど最適な岩・石の傾斜や高さがある。休憩の水場で、渡っても先がない「モニュメント」として、見てもらう石橋で良いだろう。橋の下は、水はまったく流れない。

きのう10月13日、「(第2)乙女橋」は、丸太を抜くとガチッとかんで完成した。中央の傾いた大石先の本流へ伸ばすと、2連の立派な眼鏡橋となる立地の良いところ。次の課題で考えてみよう。木橋でも良い。
今度の石橋は、小さな橋で両側が岩面や大石のため、前より強固になっている。私が乗って渡ってみたが、大丈夫だった。中央の大石は、簡単に動かないだろう。
しかし、あくまで実験石橋。適当な大きさの材石が揃わず、重心のかけ方によって、すぐ落下することもある。危険防止のため、最後のプレートを取り付ける。