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長崎の古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4812 諏訪神社境内から市街地中心部を望む
〔画像解説〕
諏訪神社境内付近から、長崎県庁越しに長崎湾口を撮影した写真である。長崎県庁の洋館風の木造2階建ての建物が写真の中央に見える。写真手前が諏訪神社の社杜であり、右下に街灯が見える。これらのことから撮影時期は明治10年(1877)後半から明治20年(1887)代中期と思われる。この写真の特徴は、長崎の市街地を、諏訪神社と県庁を結ぶ、長崎市街地の骨格から撮影したところである。左の山裾が寺町であり、右の海岸線が大波止から浦五島町である。林の下の規模の大きな建物は、勝山小学校である。明治6年(1873)3月、第1番小学向明学校が勝山町に創設された。明治7年(1874)、向明学校を勝山小学校とした。写真中央に、長崎街道の通りが、長崎県庁に向けて通り、その先に県庁舎が見えている。写真左の市街地は、長崎市の中心市街である。写真中央付近に、梅香崎居留地から大浦居留地が見える。長崎市街地内部を撮影した貴重な写真である。

■ 確認結果

撮影場所はタイトルからすると「諏訪神社境内」となっているが、正しくは諏訪の杜にある「長崎公園」内。噴水や月見茶屋のある高台広場の長崎港を向いた展望所から、丸馬場越しに市街地中心部を撮影しているものと思われる。タイトルも変えた方が良いのではないか。
長崎公園は明治7年(1874)開設され、日本でも古いといわれる噴水があった(現在のは復元されたもの)。月見茶屋も創業は明治18年(1885)で、124年の歴史を持つ。

古写真右下の木立の間に寺のような屋根が覗いているが、現在、復元されている長崎奉行所立山役所の入口門と位置が合う。解説では「林の下の規模の大きな建物は、勝山小学校である」と説明しているが、「勝山小学校」はかえって写真中央の大きな木造建物でないだろうか。
小学校の右側に「長崎市役所」の古い建物も一部写っているようなので、検証をお願いしたい。

写真左側の小高い山は「鍋冠山」である。超高精細画像を拡大して見てもらうとわかるが、麓に大浦天主堂が写っている。その手前の左横から張り出している尾根は、現在、海星学園や活水大学がある東山手の尾根で、ドンの山からの山裾となる。
それなのに「左の山裾が寺町であり」と説明している。大徳寺も写っていないのに、寺町はまだ左方になるので、「寺町」が写真に収まることはありえないと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5317 樺島湊
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル:樺島湊
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。

目録番号:5326 野母の観音寺
〔画像解説〕
目録番号5318(整理番号102-24)と同じく上野彦馬アルバムに収載されMisakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは野母崎の御崎円通山観音禅寺である。『長崎名勝図会』によれば、本堂の創営は和銅2年(709)と伝承されその後、仁和寺の荘園と関わる。天文6年(1537)御崎備後守重広が再建。本堂の天初院は元和2年(1616)で、この時深堀から曹洞宗の一翁純和和尚を招く。長崎をはじめ近郷在住の信仰の対象で、海に携わる商人、漁業従事者、中国人の霊場であった。観音堂には、弘化3年(1846)川原慶賀の描いた4枚の絵や石崎融思の作品を含む150枚の天井絵(県指定有形文化財)が、長崎町民などから寄進されている。写真に写されている半円アーチ型の第一石門は寛政10年(1798)長崎町民と御崎村の人々が寄進した。石工は彦兵衛。場所は長崎から20キロと離れているが、彦馬は長崎の代表的古刹としてこれを撮影したようである。

■ 確認結果

目録番号:5317「樺島湊」は、2年ほど前、 初めて東山手町の「長崎市古写真資料館」を見学に行ったら、「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていてびっくりした。
いきさつは次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550

古写真の撮影場所は、長崎バス「樺島」終点から樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。
〔画像解説〕によると、超高精細画像のタイトルは「樺島」。「樺島湊」に合わせた方がよい。また説明の最後に「前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である」としているが、「遠見山」(標高259.0m)は写真中央左のずんぐりした山。正面に写っている山は「殿隠山」(標高263m)なので、説明をわかりやすくしてほしい。

目録番号:5326「野母の観音寺」は、画像解説で「同じく上野彦馬アルバムに収載され、Misakiと鉛筆書きされている。従って撮影は明治6年(1873)頃。写されているのは「野母崎の御崎」円通山観音禅寺である」と説明しながら、なぜタイトルは「野母の観音寺」なのだろう。
「野母崎」は、「野母」と「脇岬」など含む前野母崎町の概念。「野母」と「脇岬」は別の集落である。「御崎(みさき)の観音」と呼ばれた寺だから、タイトルは「脇岬の観音寺」が良い。

長崎から脇岬の観音寺まで、みさき道は「七里」の道である。里程を示した道塚が徳道の三叉路に残る。したがって、距離は「約28km」とされるのが、一般的である。上野彦馬が撮影したとされる明治6年頃でも変わらない。現在の国道でも約30kmある。「20キロ」は直線距離だろうか。もちろん海路もあった。
徳道の里程道塚は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/355

長崎の古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5310 稲佐海岸

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5310 稲佐海岸
〔画像解説〕 超高精細画像タイトル: 長崎湾水の浦
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治初期の写真である。目録番号1206(整理番号26-25)と同じ場所のものである。この写真に長崎市街地が撮影されているために場所の特定ができた。入り江に浮かぶ船に、人物を3人配して、背後の純日本風な風景を背景にした演出写真である。目録番号1206(整理番号26-25)の写真にも岬の先にある風格ある屋敷が写されている。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。

■ 確認結果

撮影場所の正しくは、現在の丸尾町公園西隅にあった波止場の入江である。旭町商店街通り沿い横の川に架かっている「黄金橋」あたりの海岸で、当時は稲佐崎と丸尾山に囲まれ、入江はイサバ船などの格好の停泊地になっていた。
「長崎湾水の浦」としていたタイトルが指摘により「稲佐海岸」と訂正されたが、超高精細画像のタイトルがまだ「長崎湾水の浦」のままとなっている。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/142
https://misakimichi.com/archives/1557
https://misakimichi.com/archives/654

現在のこのあたりは埋め立てられ、旭町・丸尾町・大鳥町・平戸小屋町・江の浦町が昔の入江に沿ったように境を接している。水の浦はまだ飽の浦側の離れた海岸である。
訂正された解説で「平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したもの」と説明しているが、当時そう呼ばれたのか、具体的に現在の町名とともに場所を示し説明してほしい。

平戸小屋は町名となったとおり、江戸時代は平戸藩屋敷があった所で、この入江一帯の歴史は古い。さて「外国人墓地」だが、「稲佐悟真寺国際墓地」というとおり、公有地でなく、寺の歴代住職によって守られてきたという珍しい歴史を持つ。昔から外国人を受け入れ異文化を取り入れてきた長崎らしい特性の国際墓地である。
慶長7年(1602)唐人墓が最初に造られ中国人墓地となり、次に出島オランダ商館のオランダ人のためオランダ人墓地が造られた。それからしばらく時が過ぎた安政5年(1858)にロシアから艦隊が来航した際、病死した船員を葬るためのロシア人墓地が造られた。その後もポルトガル、アメリカ、イギリス、フランス人が葬られている。(「ナガジン」発見!長崎の歩き方から)

画像説明には「稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった」とあるが、「稲佐地区は、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。外国人墓地も早くから造られた」としないと、意味が逆に取られ違うのではないか。

ペーロン?  長崎県ペーロン選手権大会  長崎市松が枝国際観光ふ頭

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ペーロン?  長崎県ペーロン選手権大会  長崎市松が枝国際観光ふ頭

松が枝橋を通りかかったら、長崎港で平成21年度長崎県ペーロン選手権大会があっていた。
7月25日(土)は、中学校・職域・女性対抗レース。女神大橋の方へ向けて、往路630m、復路520m、往復1150m。
Alicoチームなど華やいでいた。熱戦を近くで写せないので人出を見てもらう。

7月26日(日)は、一般対抗レース。雨だが予定どおり実施中とのこと。夜はみなとまつり花火大会がある。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

(参考写真)
目録番号:5880 南山手の洋館群(4)

■ 確認結果

目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の画像解説は、「南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である」としている。南山手から撮影された写真に間違いないが、はたして「グラバー住宅」付近からだろうか。

右下側に尾根を回りこんだ道がある。その下の洋館にははっきり見えないが、支えをした旗竿が立つ。この道はグラバー園内の道でなく、あと一段下の大浦天主堂から現海洋気象台の前を通り、浪の平へ通じる当時から居留地内の重要な道と思われる。
現在も「須加五々道美術館」へ下る所に、同じカーブの地形があり木立が残る。
この項は次の記事を参照。その時は超高精細画像の解説を知らなかった。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

次に道下に立つ旗竿だが、2枚目の横長の古写真は、長崎市教育委員会「長崎古写真集
居留地編」平成15年刊第3版の28頁にある「11 長崎居留地のパノラマ(4枚続き)」横浜開港資料館所蔵。ベアトのパノラマ写真だろう。左端に写っているのが、同じ旗竿と思われる。
国旗がはっきりしないが、旗竿が立つ洋館は、現在、三菱重工長崎造船所南山手外国人住宅が建っている所と思われる。
パノラマの撮影場所は「南山手(グラバー邸内展望所の下付近)」からと図版解説をしている。(目録番号:6151「長崎港のパノラマ(9)」にも同じような写真がある)
後ろの3枚が、グラバー邸付近や展望所下付近からとした場合の光景。

撮影場所を確認するポイントは、写真左側に写る稲佐山から下った尾根と奥の岩屋山尾根の重なり具合である。これからするとグラバー邸付近や展望所下では高度が高すぎ、山の重なりが少々合わない。その上、写っている道の地形が考慮されていないようである。
したがって、どこから撮影されたかとなると、浪の平への道の少し高い右側道上となるので、現在の長崎海洋気象台あたりからが考えられる。

参考写真として目録番号:5880「南山手の洋館群(4)」を追加した。ロシア領事館を撮影したものだが、ここが現在の長崎海洋気象台となっている。旗竿の位置が良くわからないが、石垣の下に道があり、旗竿はこの道下に立っているようである。
湾奥の山の景色は、最初の古写真目録番号:5301「南山手より長崎港湾奥を望む」と同じと見てよい。

長崎の古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
〔画像解説〕
長崎市街地の対岸に造られた官営飽ノ浦製鉄所付近から、長崎港越しに、古河町、浪の平町、南山手を遠望した写真である。明治初期の撮影である。写真右の松の木は、目録番号3238(整理番号66-19)の写真において、ちょん髷の人物が座っている写真のものと同じものである。従って写真右下の街灯のある桟橋は、官営飽ノ浦製鉄所のものである。そのために、桟橋は端正な造りになっている。その向こうのに見えている建物が、製鉄所の建物である。対岸に目を移すと、写真左に外輪船が停泊している。その向こうの山腹が、南山手外国人居留地とその南限である。船の船首の向こうが、ロシア領事館とロシア教会があった場所で、上に登る坂道が直線で見えている。その左上に松の木の影が見えているが、そこがグラバー住宅である。海岸線は、左から浪の平町、古河町である。南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている。

■ 確認結果

上野彦馬撮影とされているが、近年「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える」と考えられる古写真の1枚。
この古写真の撮影場所は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

ここで取り上げるのは、画像解説の最後に説明している「南山手居留地の上の山は鍋冠山で、頂上近くまで耕し尽くされている」か。超高精細画像はそうなっているのだろうか。説明に少し飛躍が感じられるので、たいしたことではないが、あえてふれておきたい。
現在の写真は、撮影場所と思われる飽の浦恵美須神社近くの高台岩場からは、三菱造船所工場の高い屋根などのため、長崎港が見えないので、ほぼ同じ向きで標高が高い飽の浦変電所近くから写した。現在でも鍋冠山の頂上近くまで、耕し尽くされていない。

画像説明は、明治5年(1872)頃の話である。耕やされていると見えるのは、鍋冠山の中腹位までで、そこが南山手町と浪の平町の南山手居留地一帯の区域と思われる。まだ建物が建っていない空地が多かったのではないか。
外国人居留地の建設は、長崎の開港前の安政6年(1859)8月から始まった。最初の居留地建設は、大浦湾の埋立と東山手・南山手の造成であった。その後、下り松居留地、梅香崎居留地の埋立を行い、さらに新地蔵所、出島を組込み、明治3年(1870)に外国人居留地は完成した。

横向き? 矢の平地蔵堂の横向き地蔵  長崎市矢の平2丁目

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横向き? 矢の平地蔵堂の横向き地蔵  長崎市矢の平2丁目

伊良林小学校の裏通りから矢の平2丁目の車道大カーブに出ると、蛍茶屋側下手に長崎四国第25番霊場の「矢の平地蔵堂」がある。「横向き地蔵堂」と呼ばれ、堂の中に顔を横に向けた金色の地蔵が祀られている。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006春刊の43頁による説明は以下のとおり。現地説明板よりこちらの話の方が面白い。

地蔵堂奥の石の祠は古いのに、金色の地蔵が新しく過ぎる。気になるのは、古い地蔵が現存しているなら、並べて見せるなり新調のいきさつを説明をしてもらわないと、いかにも作りものように感じる。
堂に置かれている矢の平地蔵堂保存会資料によると、「地蔵堂は寛政3年(1791)に置かれたと伝えられている。…後年、矢の平の人たちは、この地蔵を各家庭に招いて供養することになった。供養日は、旧暦の9月24日、松茸が安く出回る季節であったそうである。それ故「季節迎えの地蔵さま」とも言われた。…」とある。

(9)長崎四国第25番霊場〔迎地蔵・横向き地蔵〕
本 尊:延命楫取地蔵菩薩 此の地蔵は寛永?年間(1848−54)に置かれたと言われます。15度顔をそむけた地蔵にはどんな気持ちが込められているのでしょう。
昔 話:昔、此の道筋は長崎街道の裏通りとして畑や山林をぬって寺町方面へ通じていた。ある日、追はぎが長崎から帰る商人を襲い、地蔵さんの前で盗品を検分しょうとしたが、気が引けて地蔵に「あっちを向いとれ」と言った所、大慈大悲の地蔵さんは言うとおりに横を向かれた。追はぎは検分後、其のまま去ってしまった。
時は過ぎ二人の商人が地蔵さんの前を通りかかった。一人は昔の追はぎで何故か今は一角の商人になっていた。そして今でも横を見ている地蔵を見てはたと昔の事を思いだし、連れの商人に昔の事を喋ってしまった。所が連れの商人は殺された商人の弟であったので堪らない。直ちに役所へ突き出されてしまった。
(此の話に似た言い伝えは県外長崎街道途中にあり、「言うなの地蔵」として西日本には諸所あるそうです)

数珠つなぎと人面岩? 福田崎の海岸  長崎市福田本町

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数珠つなぎと人面岩? 福田崎の海岸  長崎市福田本町

この写真、わかりますか。海岸のものすごい大石数個が真ん中に穴が開いて、太い鉄線によって数珠つなぎにされ、海岸の岩礁の間に打ち上げられている。15mほどに渡って、千切れた石が数多く散乱している。福田本町のサンセットマリーナ入口道路から海岸へ降りて、10分ほど歩いた断崖下。

この先の浜の崖面に昔、採石場があり、石を船で運搬するため波止場を築いたが、大波の力が強く、波止場が壊され一帯に流れ着いたとも思われるが、距離が遠すぎ、ほんとうにここまで流れ着くのか。この沖に防波堤を築く必要性も感じられない場所で、数珠つなぎの大石の真相不明。コンクリートの固まりのようでもある。

手前の断崖に大きな人面岩を見た。潜っている人もいた。福田崎に何しに行ったかは後日に。大潮だったのに行く手をはばまれ、海岸伝いには到達できなかった。

釣れた? 釣具店の釣人 (3)  長崎市平山町

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釣れた? 釣具店の釣人 (3)  長崎市平山町

平山の国道499号線沿い。釣具・えさ店。連日早朝4時オープン。背後は八郎岳。
Fishing shop OGAWA

きようまた国道を通りかかった。バージョンが変わっていた。
カップルの相手方が、魚突きを持ったスノーケリング姿に。この間は夏用に大きなビーチパラソルを差していたが、安定が悪いのか2〜3日で終わった。
店の入口横には「長崎半島釣りマップ」がある。釣り天国だ。

長崎の古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5146 カルルス中川の桜(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5146 カルルス中川の桜(4)
目録番号:5153 カルルス中川の桜(8)
目録番号:5159 中島川の堤
書籍本 :38190 長崎●中川カルルス桜(絵葉書)

■ 確認結果

「中川カルルス」は温泉と桜の名所だったが、実際の温泉場の建物があった場所がどこだったか、具体的に調べたものが見当たらない。当時の市内地図があれば一番良いが、史料と古写真によって考えてみたい。間違いがあったら指摘をお願いしたい。
昭和13年発行「長崎市史 地誌編 名勝旧蹟部」264〜266頁による「中川カルルス跡」の説明は次のとおり。この史料が詳しい。

三、カルルス温泉
春は嬉れしや花の盛りの中川の岸、夏は師範校の藤の花、秋には菊見の人を見る、冬娥眉山の雪景色
是の歌は明治卅年頃カルヽスの四期と題し又四期節と称して巷間に伝唱されたものである。
長崎市の東部なる武功山(一ノ瀬山)と大窪の中間一ノ瀬川の清流に沿ふ新中川町十番地壹千参百余坪の地は故安田伊太郎なるものの経営せる遊園地で今も其の後継者に依りて継承されて居る。明治二十年時の県令日下義雄の命によりて、中島屋敷附近より日見峠を経て日見村に至る道路の片側に植え付けたる数千本の吉野桜の一部今も尚ほ構内河岸に拾数株を存し、花時の眺は又特別であるが日没後樹間に電燈を点じて一段の美観を添ふるので観桜の市人市をなす。加ふるに樹亭を築き橋梁を架け芳艸嘉木を移植し園域を修め河身を浚ひ、境内の美観を整へて遊覧者を迎えるので夏の納涼、秋の観菊、冬の雪景等四時散策に湯浴に遊客絶うることがない。

抑このカルヽス温泉は明治三十三年安田伊太郎等上長崎村の有志者相計りて一ノ瀬渓谷に沿へる桜樹の側に一小浴場を設けたるに発端して居る。そのカルヽスと称するのは墺太利国境なるカルヽス温泉の分析表に拠りて浴水に調剤せるに因る。後伊太郎は単独に之を経営し川畔の桜樹を保護して今日あるを致したものである。(日下知事の時植うる所の桜数千本今は悉く枯れ僅にカルヽス境内に数株を残すのみとなった。)

大正初年の頃まではカルヽス附近一ノ瀬川及び国道の中間俗称八幡田原今の中川町十数町の地は一戸の人家無き一面の田圃で菊花の培養を以て知られ初秋より晩秋霜深き頃まで中川原頭は紅紫とりどりに織り成せる錦繍を以て掩はれ菊の名所として知られて居たが今は人家櫛比し昔の面影の偲ぶべきものはない。

上記を説明と、写しの長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」99頁の説明を比べてもらいたい。写しの本は高台から現在の料亭「橋本」を撮影した写真を添えている。背景の山は金比羅山である。大正初年の頃までは八幡田原は一面の田圃だった。中川カルルス跡は「橋本」ではないようだ。
肝心な所在地に抜けている「新中川町4番(街区)」に実はカルルスはあった。「長崎市史」には一ノ瀬川の清流に沿ふ「新中川町十番地壹千参百余坪の地」とはっきり記している。
そこは料亭「橋本」前を過ぎ、一ノ瀬川の「八幡橋」を渡ったすぐのところにある現在は広い「菱重パーキング 新中川」となった一帯である。戦後までカルルスの建物は残っていたようだ。赤煉瓦の塀に囲まれ、まだ古いたたずまいを残す住宅が近くにある。三菱中川寮を壊し駐車場となったそうだ。

「中川カルルス跡」の関連古写真は多くあるが、当時の位置関係がよくわかる4枚の古写真を掲げた。古写真によって検証してみよう。撮影している場所をわかりやすくするため、現在の地図に張り付けたので、詳しい説明は省きたい。
1枚目、2枚目とも上流から下流側を写している。1枚目の説明にはそのようにあり、そうすると「中川カルルス」は川の左側となり、4枚目の建物と合う。右側では背景の山が合わない。2枚目の堰はなだらかなコンクリートに変わり、現在も地形は残っている。
4枚目の絵葉書古写真は書籍本から借用している。貴重な石碑(川脇の公園に現存)と鳥居が写り、後ろがカルルス建物であろう。
3枚目の古写真「中島川の堤」は、堰と水路と橋を写している。この下流側の水路に水車小屋があったのを、明治34年(1901)測図国土地理院旧版地図で確認している。

大正14年11月発行の長崎市小学校職員会編「明治維新後の長崎」にも「中川カルルス温泉」が581〜582頁に記されており、「桜雲閣」と「龍吟橋」と名が出てくる。何れもカルルスの敷地内と思われ、温泉場の続きの建物と現在の「八幡橋」の先代の橋と思われる。
したがって、3枚目の古写真の橋が「龍吟橋」ではないか。堰と位置が合い、後ろの山は「英彦山」から下っている尾根であろう。「桜橋」は後年できた橋と思われる。

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「古写真にみる遠い昔の長崎名物」は、桜橋や料亭「橋本」あたりとしているのもどうだろうか。最後の地図、昭和31年「長崎地典」第2版矢の平地区地図も、「波志本」の場所に「元カルルス」と表示している。料亭「橋本」の創業は昭和27年と聞いた。「中川カルルス」はこの対岸の方が正しいのではないか。

戸町カルルス温泉跡は  https://misakimichi.com/archives/357
福田網場脇金水温泉跡は https://misakimichi.com/archives/5433
川平金山金湯鉱泉跡は  https://misakimichi.com/archives/262
長与町道の尾温泉は   https://misakimichi.com/archives/941