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長崎の(部分日食と)西の空の夕日  09−14

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長崎の(部分日食と)西の空の夕日  09−14

長崎市南部の団地、わが家から見た(部分日食と)夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真 1〜 2  平成21年 7月22日の10時56分頃から 雲間の部分日食
写真 3〜 5  平成21年 7月22日の19時16分頃から 同日の夕日

長崎の古写真考 目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5125 長崎本町中央公設市場

■ 確認結果

長崎市中央卸売市場HPによる市場歴史の説明は次のとおり。古写真に撮影されているのは、この記事にある「大正8年から大正11年にかけて、長崎市本下町(現在:築町)をはじめ数ヶ所に公設小売市場が開設された」という「本下町」の公設小売市場である。
したがって、絵葉書のタイトルからは町名を正しくし「長崎市営本下町中央公設市場」が正となる。

長崎市における市場のおいたち
第一次世界大戦(大正3年〜大正8年)以来、経済界の変動は、諸物価の騰貴により消費生活を脅かすに至ったので、需給機関の運用によって緩和を図るため、全国的に公設市場が開設された。長崎市においても、大正8年から大正11年にかけて、長崎市本下町(現在:築町)をはじめ数ヶ所に公設小売市場が開設された。
また、公設卸売市場の施策については、品位価格の安定機関を設ける必要性が生じたため、大正9年10月に公設卸売市場の建設工事を起こし、翌10年3月5日、総工費32,804円・面積733坪で問屋業者43店舗を収容し、長崎市築町(現在:銅座町)に開設した。…

現在、本下町(現在:築町)の建物は改築され、近代的な5階建ビル「ながさき市民生活便利館 メルカつきまち」となっているが、地下1階に長崎市の公設小売市場はまだ現存する。
公設卸売市場は、築町(現在:銅座町)から尾上町の旧魚市場跡、そして昭和50年には田中町へ移転し、長崎市をはじめ周辺市町にわたり、青果物の安定供給及び広域流通をめざした長崎市中央卸売市場に発展している。

なお、HP「絵葉書・古写真にみる長崎の町並み(市場・天主堂・旅館・ホテル等)」に同じ市場の絵葉書が掲載されている。他の1点は「HINA066■長崎本下町市営公設市場(大正9年)」とあるのに、これは「HINA067■長崎市営本町中央公設市場(大正末)」である。
絵葉書のタイトルが下にあり、「本町」と間違っている。撮影年代は「大正末」となるのか。
http://www.asocie.jp/archives/nagasaki/nagasaki2/index.html

長崎の古写真考 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
〔画像解説〕  超高精細画像のタイトル 「神ノ島からの鼠島(1)」
目録番号4806(整理番号95-5)と同じアルバムに収載され、B203 NEZUMIJIMA ENTER OF NAGASAKIと印字されている。これは神崎鼻付近から鼠島を撮影したもので、後方の島は神ノ島である。その左先端は目録番号4084(整理番号79-2)で写されているマリア観音前にあたる。撮影時期は外の収載写真から明治31年(1898)と判断される。海上にはイサバ船と小型汽帆船が見え、右側の小瀬戸の浜には石炭が貯炭されている。とすれば海上の船は高島炭鉱からの石炭運搬船のように思われる。戸町と同じくここからの石炭は長崎港の大型船舶に積み込まれたようである。鼠島の周囲は見られるようにきれいな海で、明治36年(1903)には水泳道場が開設され小堀流の泳法が教えられた。神崎鼻では5人が釣りをしている。船の船頭らしき人物は和服、手前の釣り人は脚半と菅笠、奥の外国人のような白い洋服を着た男性は山高帽で衣装は興味深い。奥の神ノ島および手前の鼠島の海峡は、現在埋め立てられ陸続きとなっている。

■ 確認結果

以前の画像解説は、鼠島(皇后島)の背後に神の島が写っているのに、タイトルが「神ノ島からの鼠島(1)」となっていた。指摘により「神崎鼻からの鼠島」となったが、超高精細画像のタイトルの方が、まだそのまま「神ノ島からの鼠島(1)」となって訂正されていない。
この関係は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1552

画像説明にある「右側の小瀬戸の浜には石炭が貯炭されている。とすれば海上の船は高島炭鉱からの石炭運搬船のように思われる。戸町と同じくここからの石炭は長崎港の大型船舶に積み込まれたようである」はあまり聞くような話ではない。当時の大型汽船への石炭積み込みの状況を詳しく説明してほしい。
神崎鼻では「5人が釣りをしている」も、「3人」しか確認できないし、1人は船頭ではないか。

長崎の古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4215 長崎港と中町教会
〔画像解説〕 
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。

目録番号:5106 長崎立山からの長崎港(2)
〔画像解説〕
立山から長崎市外越しに長崎港を望む絵葉書写真。このアングルは川原慶賀以来多くの絵画と写真が残されているが、これは明治後期から大正初期の写真である。中央下には明治29(1896)年に完成した中町カトリック教会(旧大村屋敷)がみえ、その右隣には大黒市場と思われる大屋根も見える。

■ 確認結果

2枚の古写真とも、赤い煉瓦の教会は旧大村藩屋敷跡に建設され、明治29(1896)年に完成した中町教会である。
目録番号:4215「長崎港と中町教会」は、福済寺の屋根が手前に写っている。以前は、寺の「大雄宝殿」と説明していたが、当時の建物は屋根の向きが違い、指摘により「本堂」と訂正されている。この関係は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1576

ここで新たに取り上げるのは、「中町教会」を同じように写した2枚のこの古写真の「撮影時期」と、写真の中町教会右上に写る煉瓦の建物は、「煙草専売公社」かという疑問。
目録番号:5106「長崎立山からの長崎港(2)」では、立山の高い位置から写されている。撮影時期は「明治後期から大正初期の写真である」としている。
1枚目の「明治32年(1899)…8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である」の説明からいうと矛盾する。
「要塞地帯法」も法律第105号として公布されたのは、明治32年7月14日。「長崎ニ於ケル陸海軍防禦営造物ノ地帯区域」が公示されたのが、同年8月11日と思われる。

中町教会右上に写る煉瓦の建物についても、「煙草専売公社の建物」から「大黒市場と思われる大屋根」と変って説明されている。
九州大学にはHPを見ると九州文化史資料部門所蔵「長崎県管内全図」 明治20(1887)年・「長崎港精図 」明治25(1892)年・「長崎港新図」明治27(1894)年編がある。
地図は拡大できないので字を判読できない。長崎大学附属図書館も同地図写真を所蔵しているので、建物名を確認してもらいたい。

たばこの文化と歴史によると「明治37年(1904)「煙草専売法」により、原料葉たばこの買い上げから製造販売まで国の管理(製造専売)で行われることになり、以来、大蔵省専売局から日本専売公社へと引き継がれながら、昭和60年3月まで専売の時代は続いた」ので、当時の名称は「煙草専売局」と思われる。

藤城氏作成HP「長崎年表・昭和時代(9)」には、昭和43年(1968)「10/24★日本専売公社長崎支局の庁舎が旧庁舎横にできる」しか表われない。恵美須町1−6の土地。現在は「日本たばこ産業(株)福岡支店長崎営業所」。長崎中央郵便局左横のビルで、中町教会下の電車通り対面にある。長崎中央郵便局は島原藩屋敷跡。
大黒市場は、戦後の動乱が治まった昭和30年初頭に、長崎中央郵便局後ろの川の暗渠上に造られた。

以上の位置からすると、中町教会右上に写る煉瓦の建物は、「煙草専売公社の建物」やまして「大黒市場と思われる大屋根」とは思えない。現在の長崎駅前近くは佐賀鍋島藩屋敷や深堀支藩屋敷があった場所なので、この跡の何かの建物群と思われる。
長崎大学側に画像解説をした根拠史料があったら、解説文の中で説明していただきたい。

長崎の古写真考 目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4543 小菅の造船所と長崎港
〔画像解説〕 
小川一真製作と思われる化粧紙表紙小型アルバムに収載された1枚でB204 HARBOUR,NAGASAKIと印字。これは長崎郊外の小菅にあった修船場を撮影している。慶応元年(1865)渡英中の、薩摩の五代才助(のち友厚)がベルギー商人コント・デ・モンブランと契約して帰国後この地に計画され、グラバーや小松帯刀が出資し岩瀬公圃らが監督にあたり明治元年(1868)に落成した。日本最初のドックであるこのスリップ・ドックはソロバン・ドックと呼ばれた。明治2年(1869)新政府はグラバーからこれを買取り長崎造船所の所管とした。明治5−8(1872−5)、木造蒸気船・向陽丸70トン、帆走船二本マスト・小菅丸103トン、内車蒸気・タグボート・たてがみ丸92トンを進水させた。写真には巻き上げ機を収容する赤い煉瓦の建物(日本最古)の横に修船中の大型鉄船の舳先が見える。対岸は立神その右の建物群は飽の浦になる。明治30年(1897)頃の撮影か。

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎市古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の94頁にも同じ古写真が掲載されていて、すでに前に紹介している。同146頁による「図版解説」は次のとおり。
古写真集による前の記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1621

84 小菅と長崎港〔彩色〕              日本カメラ博物館所蔵
戸町の丘上の墓地から長崎港を遠望したもの。眼下にみえるのが明治元年に完成した小菅修船場(通称ソロバンドック)で、艦船がドック入りしている。茶色に塗られた捲上げ小屋は、現存するわが国最古の煉瓦造建築である。対岸の中央が三菱造船所の立神ドックで、背後の山が稲佐山。電柱が立っていることからして、明治30年代の撮影とみられる。停泊している艦船も5000t以上の大型船がふえていたのがうかがえる。

小ヶ倉バイパスからアプローズマンションの方へ戸町墓地の上部駐車場まで行く。長崎港内と市街地を写した目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」は、駐車場から右手でなく、左手へ上がった墓地の高台から撮影されている。この辺りが撮影の名所だったのだろう。

目録番号:4543「小菅の造船所と長崎港」の〔画像解説〕は概ね間違いないが、小菅修船場でスリップ・ドックによる船舶修理を行った外、「明治5−8(1872−5)、建造・進水させたという木造蒸気船・向陽丸70トン、帆走船二本マスト・小菅丸103トン、内車蒸気・タグボート・たてがみ丸92トン」」の年代とトン数。
特に小菅の地名を船名とした「小菅丸」は、日本最後の大型木造汽船。交通博物館(東京都千代田区)の船舶展示(船の歴史)に、「小菅丸模型」が展示されている。同館の資料によると、(1496トン;1883年)とあるから、小菅丸は7年の年月をかけて明治16年に完成したのではないか。 ほとんどの資料は「1496トン」とあり、引用資料を調べてほしい。
この記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1858

古写真集とも説明に表われている「立神」も対岸中央でなく、小菅修船場ドックの長崎港入口が立神を向いているから、古写真の一番左端の入江となるようである。 

樺島の一周ウォーキング  平成21年7月

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樺島の一周ウォーキング  平成21年7月

平成21年7月19日(日)曇りのち晴れ。長崎半島の南端、野母崎樺島の一周ウォーキング。参加17人。車4台とバイク1台が現地集合。雨が降らずかえって晴れてきた。
樺島バス停9時半発ー無量寺ー大うなぎ井戸ーアンテナ塔ー地下タンクー樺島灯台公園(昼食)ー榎地蔵ー樺島小ー樺島バス停14時半着(約8km)

普段行く樺島の島めぐりの逆コースをとる。無量寺は大戦末期、樺島射堡基地の指揮本部に使われた。水道用地下タンクは、灯台公園下の海岸、溜め池の下にあり、現在はあまり使われず、長崎の方から送水されているらしい。灯台公園へ登る遊歩道は草が茂っていた。
展望台の下で昼食。曇り空で遠くの景色は見えない。灯台の古写真は大正時代。灯台資料館がある。桃瀬は桃に似た岩が見える。榎地蔵ではきようの祭りの後片付けをしており、冷やしたお茶・ジュースをいただいた。榎の古木はすでになく、ここにはヤブニッケイが生えている。
最後は熊野神社のアコウ。先頭が進みすぎ寄らなかったが、島の名木なので紹介する。

宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/19736174.html

自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開

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自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開

長崎港へ入港中の自衛隊護衛艦”いかづち”と”こんごう”の一般公開が、7月18日松が枝国際観光ふ頭であっていた。岸壁から見ただけ。艦内は見学していない。20日は出港。
自衛隊長崎地方協力本部のイベント情報による艦船の紹介は次のとおり。

護衛艦いかづち(DD107)

「むらさめ」型護衛艦の7番艦。平成13年3月14日日立造船舞鶴工場において就役
基準排水量:4,550ton
主要寸法:151 x 17.4 x 10.9 x 5.2m
(長さx幅x深さx喫水)
主機械:ガスタービン4基2軸
馬力:60,000PS
速力:30kt
主要兵装:62口径76ミリ単装速射砲×1、VLS装置一式、SSM装置、3連装短魚雷発射管x2、高性能20ミリ機関砲x2、哨戒ヘリコプター×1
定員:160名
護衛艦こんごう(DDG173)

「こんごう」型護衛艦の1番艦。平成5年3月25日三菱重工業長崎造船所において就役
基準排水量:7,250ton
主要寸法:161 x 21.0 x 12.0 x 6.2m
(長さx幅x深さx喫水)
船型:平甲板型
主機械:ガスタービン4基2軸
馬力:100,000PS
速力:30kt
主要兵装:イージス装置一式、VLS装置一式、SSM装置、127ミリ単装速射砲×1、3連装短魚雷発射管x2、電波探知妨害装置一式、対潜情報処理装置一式、高性能20ミリ機関砲x2
定員:300名

長崎の古写真考 目録番号:2863 大浦川沿い(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2863 大浦川沿い(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2863 大浦川沿い(2)
〔画像解説〕
大型アルバムから解かれた1枚である。キャプションにG61.OURA NAGASAKIとあるので、小川の写真の一枚である。大浦川の両岸沿いを川上の高台から撮ったものである。居留地最後の雰囲気を細かに観察できる。右手の大浦14番付近が建て変わり、松ヶ枝の波止(川口左)に明治31年(1898)建設の税関派出所(現長崎市立民俗資料館別館、国指定重要文化財)が見えるから、撮影は30年代の始め。川が狭まる左岸の川上4棟(下り松35甲乙、34甲乙)までが居留地で、人力車が止まっている、英語看板の見える和風家屋は日本人の商店であった。川口の下り松42番は角地で機械のテレシン商会と船具のアダムス商会など多くの商店が入居していた。各商店の構え、街灯、サンパン、屋根、材木置き場、洗濯干し、弁天橋(上流)と松ヶ枝橋(下流)、散見する人物など、拡大すると、細部が見えてくる。中央の松は下り松の地名の由来となった。その左にある妙行寺の建物が鮮明である。

目録番号:2879 大浦川沿い(3)
〔画像解説〕
一枚ものでA147 AT OURA NAGASAKIと小川一真のキャプションが印字されている。これは目録番号2863(整理番号58-4)と同じ時期に、大浦川沿いをより上流の現北大浦小学校下の斜面から撮影している。この方が少し後である。川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋。明治26年(1893)10月に大浦32番Aに新築される孔子廟はまだ見えないので撮影時期は明治20年代中頃。大浦地区の裏側が空洞化している。漆喰が鮮やかな日本家屋の屋根と入母屋造りの洋館の屋根と対照的である。左大屋根の妙行寺の後には、屋根が口の字に繋がったベルビューホテルが見える。さらに左手隅には大浦天主堂の尖塔の先も写っている。海上には石炭燃焼の蒸気エンジンと帆柱の両方を備えた気帆船が多い。対岸にも多数の船が停泊する船溜を確認できるが、その横には三菱長崎造船所の外国人宿舎と、飽の浦および立神の工場群が写し出されている。

目録番号:3794 大浦川沿い(4)

(関連作品)
目録番号:3849 大浦川沿い(5)   目録番号:3856 大浦川沿い(6)
目録番号:4725 大浦川沿い(7)

■確認結果

大浦川の下流に架かる橋について見る。「山口広助氏の丸山歴史散歩」によると、河口から、
「松ヶ枝橋」は、明治3年(1870)木造で完成。当初は「下り松橋」と呼ばれ、明治中期に鉄橋に架け替えられ、後に鉄筋コンクリート橋となった。
「弁天橋」は、道栄ヶ浜にあった弁財天に由来し命名された。以前から架けられていた。 

「大浦橋」は、江戸時代の御崎道沿いの橋で、もとは木橋だったものが、往来の増加で天保年間(1830−44)に石橋となり、さらに明治19年(1886)架け替えが行われた。明治24年(1891)出雲町に遊廓が移転すると往来が増し、その後、現在のような暗渠となり姿が見えなくなった。一般に「石橋」と呼ばれる橋は「大浦橋」のことで、現在、大浦橋の親柱が石橋交番前南側横断歩道横に残る。(寄進者名:大浦郷 林増五郎/村川勝太郎)
石橋本体も、現在、道路面が大きく盛り上がっている暗渠の中に存在している。

3枚目の古写真、目録番号:3794「大浦川沿い(4)」と、(関連作品)目録番号:3856「大浦川沿い(6)」は、「大浦川には明治22年に架設された松ヶ枝橋と弁天橋が見えている」と説明している。実際は、2枚目の目録番号:2879「大浦川沿い(3)」の〔画像解説〕のとおり、「川口の弁天橋と松ヶ枝橋は明治22年(1889)に架け替えられた木鉄混交のトラスト橋」が見えているので、誤解を生じる説明であろう。
2枚目の古写真でも、三菱長崎造船所の立神の工場群までは写し出されていないようだ。

「石橋」(大浦橋)の姿がわかるため、特に1枚目の目録番号:2863「大浦川沿い(2)」の古写真を取り上げ、青枠内を下に拡大した。
左下隅に3人の人物が立ち川面を眺めている場所が、明治19年(1886)地元の篤志者によって架け替えられたアーチ式「石橋」(大浦橋)である。HPのどの画像解説も、「石橋」のことを記していないのはどうしたことだろう。

長崎市教育委員会「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の80頁に同じ写真が掲載されている。143頁の図版解説では「左下に数人の人物が立っているところが明治19年9月に架設された石橋で、これの欄干は軽やかな鉄製であったことがかるのも貴重である」とあるのは参考となろう。
暗渠下に残る石橋画像は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/792
最後の写真が、ドンの山から見た大浦川の河口。

長崎の古写真考 目録番号:3237 大波止大黒町を望む  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3237 大波止大黒町を望む  ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3237 大波止大黒町を望む
〔画像解説〕
出島の前方付近から、長崎市街地の海岸線を大黒町砲台付近にかけて撮影した写真である。明治初期の写真で、撮影は上野彦馬である。長崎港には、出島から湾口にかけて大型の外国船が係留され、出島から湾奥にかけて長崎の近郊・沿岸用の和船が係留されている。明治初期の、さまざまな和船の種類を見ることができる。写真右下の荷物を満載した船には、6人ほどの船頭が乗っており、荷役待ちのために昼寝をしている。人間の表情が見える風景写真である。写真中央の山は立山であり、頂上付近まで畑に耕し尽くしている。山の下に木立が点在するが、その付近が筑後町の寺院群である。海岸線を見ると、右端に僅かに石垣が見えているが、これは出島の西端である。その先に、端正な石垣があり街灯が並んでいるが、そこが大波止である。さらに、大波止、浦五島町を経て大黒町に至るが、左端に砲台場が見えている。国内航路で繁栄している明治初期の長崎を撮影した写真である。

目録番号:5295 大波止沿岸
〔画像解説〕
出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期である。極めて鮮明な写真である。目録番号3237(整理番号66-18)の写真とほぼ同じ角度から撮影しているが、江戸町の海岸線により接近した写真になっている。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18年(1885)から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる所である。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。長崎市街地の背骨にあたる長崎県庁のある丘の西側の沿岸部は、江戸時代以来埋め立てにより、土地を拡大してきた場所である。従って、沿岸部は、写真のように石垣で護岸を形作っている。さらに、海に面した屋敷は、海から出入りできるよう、個人の波止場を持っている。沿岸の中央付近に端正な石積み護岸があり、街灯が並んでいるが、ここが大波止である。

■ 確認結果

最初の目録番号:3237「大波止大黒町を望む」の〔画像解説〕はわかりにくい。「撮影者未詳」なのに「撮影は上野彦馬である」。また、写真にたしかに写っているが「海岸線を見ると、右端に僅かに石垣が見えているが、これは出島の西端である。その先に、端正な石垣があり街灯が並んでいるが、そこが大波止である」。

次の目録番号:5295「大波止沿岸」を探し出して、やっと最初の写真の〔画像解説〕の意味がわかった。1枚目は2枚目とほぼ同じ角度で写しており、右端をカットしたような写真だったのである。「この写真に関連する作品」の項目なり、対比する目録番号を書いて解説してほしい。
現在の写真は、鍋冠山展望台からの遠望と松が枝国際観光ふ頭から写した。

長崎の古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1365 茂木街道(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264 茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

■ 確認結果

目録番号:1365「茂木街道(2)」の〔画像説明〕によると、茂木街道は「人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた」
古写真は、現在の田上1丁目の転石バス停から、旧県道の道へ行き、ホテル古都の先、これまでの茂木街道と、この明治20年(1887)開通した明治新道(旧県道)の折れ曲がって河平川の谷間沿いへ下る分岐地点を写している。

次の目録番号:2264「茂木街道(3)」と、目録番号:5868「茂木への道(Road to Mogi)(5)」も、道の向きと背景となった茂木町方面の山の連なりを見ると、3枚とも同じところの地点を撮影している。目録番号:1365「茂木街道(2)」と目録番号:2264「茂木街道(3)」は、人力車、人物から同じ写真だろう。

それなのに、なぜ2枚目の目録番号:2264「茂木街道(3)」の説明は、撮影地点が「柳山辺り」となるのだろう。「柳山」はここからまっすぐにこれまでの茂木街道の道を行って、若菜川本流となる別の谷間へ下ったところにある集落である。
昭和57年長崎大水害により、アーチ式石橋「柳山橋」は流失した。