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2010年 ”長崎風来紀行”ベスト10

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2010年 ”長崎風来紀行”ベスト10

新年にあたり”長崎風来紀行”により、私の2010年を振り返る。石橋・標石・古写真・史跡・巨樹など、昨年中に新しく探したもののベスト10。詳しくは各記事を。

1 式見でアーチ式石橋が見つかる  長崎市向町
長崎市の式見地区、向町に小さなアーチ式石橋が残っていた。長崎バス式見バス停から下向集落の中へ入る。バスが通る県道112号線の式見トンネルへ登る里道があり、登り口の川に石橋が架かっているのを、11月17日夕方、通りかかって見かけた。式見郷土史にもまったく記していない。橋長:1.8m、橋幅:1.8m、拱矢:1.5mほど。
https://misakimichi.com/archives/2448

2 大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか
大瀬戸から大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停がある。当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。大瀬戸町郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。放置されているのはもったいない。
https://misakimichi.com/archives/2395

3 西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町
大瀬戸町多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。正面「一里標」 右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」18cm角 高さ1m
https://misakimichi.com/archives/2383

4 大野原の猪見岳直下にある「陸軍」境界石  東彼杵郡東彼杵町
「陸軍」境界石は、9月12日猪見岳(標高589.8m)に登った時、山頂直下で3本見かけた。10月野焼きのため、現在、境界の防火帯が草刈りされており、そこに「陸軍」と刻んだ珍しい境界石があった。矢印、番号も刻まれ、帝国陸軍時代の古い標石と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2425

5 長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景
ライデン大学写真コレクション。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2348

6 長崎の幕末・明治期古写真考 「海上の伝馬船」など7点を長崎の古写真と確認
データベース整理番号46番台は、個人アルバムからの興味深い古写真。「撮影地域:神戸」とされている一連の作品の中に、今回、はっきり「長崎」とわかった作品が、次のとおり7点あった。目録番号:1966「漁村の風景」は、現茂木郵便局前から撮影した茂木の風景。
7点のほかデータベース全体で、その後、数点が見つかっている。
https://misakimichi.com/archives/2218

7 長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋
F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
https://misakimichi.com/archives/2353

8 式見蝶ヶ崎から舞岳の尾根道整備  平成22年12月
国道蝶ヶ崎トンネル上の蝶ヶ崎展望岩は標高120mほど。尾根道のピークで海の展望が良い。ここが式見郷土史238頁に記す「賀衆ヶ峯」だろうか。狼煙場跡はわからなかった。式見郷土史の説明は次のとおり。34 賀衆ヶ峯 手熊峠の西方の高い山をいう。文化6年(1809年)狼煙場の事として、当村鶚岳賀衆ヶ峯に在り長崎異変の時、こゝでのろしをあげて異変を村の中に知らせる。
https://misakimichi.com/archives/2457

9 河通のアベマキ  西海市大瀬戸町河通郷
西海市大瀬戸町河通郷のつがねの滝近くに、コルクノキの大木がある。地元では「コルクノキ」と呼んでいるが、樹皮が一時、コルクの代用品となったコルククヌギのようであり、和名「アベマキ」として知られる。幹囲3m、樹高15mほどある。長崎県下で2番目に大きい木らしい。
https://misakimichi.com/archives/2392

10 恋?金? 吉運シシ  雲仙市国見町土黒庚
裏雲仙田代原から国見百花台公園へ国道389号線により下る。舞岳の裏側あたり写真のパーキングエリア奥中央に、自然石の「吉(恋か金)運シシ」が祭られている。賽銭をあげたいね。
https://misakimichi.com/archives/2413

長崎外の古写真考 目録番号:6770 ホテルの玄関

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6770 ホテルの玄関

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6770 ホテルの玄関

■ 確認結果

目録番号:6770「ホテルの玄関」は、玄関に「大東館」の額が掲げられている。同名のホテル・旅館は、伊東温泉、熱川温泉などにもあるが、温泉の歴史から草津温泉の「大東館」が考えられる。
現在の群馬県吾妻郡草津町の「アムスホテルズ草津温泉 大東館」。2011年春、リニューアルオープンする。HP「草津温泉VS野沢温泉」による草津温泉の歴史は次のとおり。
データベース次の、目録番号: 6771「 妙義山中之岳の石段(3)」も、撮影地域:群馬 である。

草津温泉の歴史
草津温泉の場所
草津温泉(くさつおんせん)は、群馬県吾妻郡草津町にある温泉です。正確には温泉のあるところが町になったのでしょう。林羅山の日本三名泉に数えられます。江戸時代の温泉番付では東大関(当時の最高位)にランクされ、名実ともに日本を代表する名泉の一つである。

草津名前の由来
草津の地名はその由来に二通りの解釈があるようです。草津町温泉資料館によると、次のように説明されています。ひとつにはその独特の硫黄成分の強い温泉の臭いから「臭い水」を意味する「くさうず」が変化して草津になったという説。ふたつめは大般若経の中の一文、「南方有名是草津湯」より来ているという説。

草津温泉の歴史
18世紀初頭、「かこい湯」・「幕湯」という内湯が設けられる。日本武尊、行基、源頼朝などの神話の時代から古代の超有名人まで、この草津温泉を発見したという人の名は様々です。時代は古墳時代、奈良時代、鎌倉時代とこの温泉の開湯時期は説により色々ですが、1400年代以降草津温泉を訪れる人は著名人だけを抜粋してもすさまじい数に上ります。
現在でも「将軍おくみ上げの湯」としてその名残が湯畑に残る江戸幕府・庶民派将軍八代吉宗公、俳人・小林一茶、東海道中膝栗毛の十返舎一九、この十返舎一九が実は草津を題材に「上州草津温泉道中続膝栗毛十編」を書いたことはあまり知られていないようです。

江戸時代、交通は不便にもかかわらず、湯治客は年間1万人を超える数を記録している。幕末には、「草津千軒江戸構え」といわれたほどである。また、その強烈な泉質のため、草津温泉での湯治後に肌の手入れのために入る、「草津の上がり湯」なる温泉地が周辺に複数できた。
さらに時代が進むと攘夷はたまた開国・維新と日本が大きく変革を遂げようとした幕末そのまっただ中にいた佐久間象山も訪れている。時が移り国が変わった明治になると時間湯という入浴法が確立され、有名な湯もみが始まる。 
このころ(1878)草津とその温泉の効能を高く評価し、かつ世界に広く紹介したベルツ博士が初めて草津温泉に足を踏み入れた記念すべき年でもある。ドイツ人医師ベルツ博士によって、その良さを再発見されます。

草津温泉の湯もみをさらに有名にしたきっかけと言われる平井晩村が草津に来たのは1918年、大正7年と記録に残っている。また、このころ軽井沢から草軽電気鉄道という軽便鉄道が草津まで開通し、後には高崎・渋川などからバスも乗り入れるようになった。
平井晩村はその紀行を表した「湯けむり」を発表し、かつ草津節の原型とも言われている詩を書き残した。これが現在の草津節となり、湯もみをする際の添え歌として温泉地草津のイメージを全国に広く知らしめたと資料館のガイドでは説明している。また町外れには、湯治に来て亡くなった無縁仏が多数ある。明治年間の墓石もあり、効能が広く世間に伝えられていたことが伺い知れる。

長崎の古写真考 目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6202 A.J.ボードイン他4名

目録番号:6290 ボードイン兄弟と甥のロイトル

目録番号:6291 D.ファン・ポールスブルック公使

目録番号:6292 出島スタジオのコロエス

目録番号:6296 出島で撮影された英国軍人
〔画像解説〕
イギリスの海軍将校です。椅子の形状から撮影場所は出島です。ボードイン博士が撮影したようです。腰にサーベルをつけ、机上には双眼鏡が置かれています。

■ 確認結果

いずれも〔撮影地域:未詳〕となっているが、撮影場所は「出島スタジオ」や庭園。〔撮影地域:長崎〕になると思われる。
スタジオの造り、テーブル、椅子が同じ物のように見える。

なお、目録番号:6296「出島で撮影された英国軍人」は、慶應義塾大学 高橋信一教授HP「教育の原点を考える」2008年12月の記事 ”朝日新聞社刊「写真集 甦る幕末」の再評価”が、この作品を次のとおり取り上げている。

No.197 
197 ボクサー英国レイホーク艦長
この写真はキューパー提督の写真ではない。写真No.250の合成写真を参照すれば、レイホース艦長のボクサー提督であることが分かる。

掲載を略したが、目録番号:6679「戸塚文海(前列右)他2名」にも、同じテーブルが写っている。

「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

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「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。
「陸軍軍事基地輸送港域伊万里臨時派出所」の概要は、宮地滋氏稿が伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号平成15年11月1日発行に詳しく掲載されているが、高橋氏の標石調査に関係した部分のみ抜粋する。
写真は、伊万里市大川内町の青螺山頂(標高620m)にある「陸軍輸送港域第二区標」。

高橋輝吉氏稿  「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

伊万里湾が佐世保軍港より外れて何10年。昭和15年、開戦1年前、陸軍の波が起こった(前々から所望していたのか)。新兵科 陸軍輸送部隊「暁部隊」。川南造船04艇造りも伊万里にあった。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号参照。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は用地標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側=15本(内1本は「特」所)、長崎県側=10本。

此の内、第二区の第1号は海の中。第一区の第1号は、星鹿の山の中に有り。星鹿には陸軍兵舎有り。黒島にも兵舎有り。星鹿では古老の話しだと、4年生上の生徒は中位の石、煉瓦は高等科、近くの大人は多くの資材を運んだそうです。
城山には海軍の「聴音機」対潜水艦用。石を運んだ道にも「海」石が有り、第16〜133号。多くの石で城山を取り巻いているのかなー。

展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の7号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省か(第一区の2号)。青島の岩礁地帯に、島の話しでコンクリートの「柱」有り。若しやと思い行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。
陸軍省  第一号(第二区)  陸軍輸送港域第二区標  昭和十五年六月十日

(資 料) 宮地 滋氏稿 「陸軍軍事基地輸送港域 伊万里臨時派出所について」
伊万里市郷土研究会会誌 “烏ん枕(からすんまくら)” 第71号 平成15年11月 

◎標識と高橋氏                      26〜27頁
陸軍輸送港域には第一区と第二区の要塞地として標識(石)が設置されている事は前記しているが、現在この標識を探し求められている佐世保市の高橋輝吉氏である。
戦時中、軍事物資の積出港は全国で、宇品と伊万里の二ヶ所が陸軍輸送港に指定された。伊万里港域を示す標識が第一区四十九平方キロ・第二区は二百十平方キロの区域に約百本の区域標識が建てられている。
高橋氏は次兄が陸軍船舶工兵として戦死をされている経緯もあるが、文献を求める一方、供養の一環として戦後の記録のない状態で探し求められていた。高橋氏は八年前から伊万里方面に出向き腰岳や大川内の青螺山等の伊万里湾が見える尾根を探し平成十五年七月現在で一三本(高橋氏の最近の話では24、25本)と敷地標識も数本が確認されているし、自身も同行したが、簡単に探し出す事は非常に難しい骨の折れる探物である。
今後何本の標識が見付けられるかが期待として大きいのは、丁度此の時期に郷土の地区史を残す為資料を集めていた最中に高橋氏と巡り逢ったので参考になった事は事実で有難い事であった。輸送港基地は当地区であり、地元の年配の方に聞き取る以外に方法はないと思っていたからである。

隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

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隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の詳しい所在地図がある。
佐世保市の隠居岳(標高670m)ウォーカーズパークへ出かける際は、宇戸越・オサイ峠方面へも行き、標石を見てもらいたい。

高橋輝吉氏稿  隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

軍港は山から守るか。海から守るか。それとも標石で守るか。
明治三十五年 → 海と山に標石有り。  大崎町(9号) 隠居岳右下に(67号)
明治四十五年 → 海岸近くに標石有り。
昭和   五年 → 山に有り。
柚木村時代に、海軍省通達で別紙のとおり資料としてあります。特に昭和五年の標石は、八天岳から隠居岳に。第293号より → 第298号と有り。
第293、297号なし。第294、295、296、298号有り。
途中に「山」と書いた小さな石有り。海軍省の標石を見た事ない人は、軍の石とも言う。   

標石の資料は次のとおり。「佐世保軍港境域標」に関係する一及び四の部分だけ抜粋する。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」163〜167頁に資料全文を掲載)
なお、この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違う。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は誤字と思われる)。石盛岳(「八天岳」のこと)は「第七号」移設して個人所有。「第一号」は個人の畠の中、「第二号」は道端にあることを高橋氏は確認している。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
四、
要塞地帯標とは別に軍港境域標と云うものがある。参考までに一部資料にふれておく。
佐建財第二一四號
昭和五年十一月七日               佐世保海軍建築部長
軍港境域標柱及標札建設二関スル件照会
今回佐世保軍港境域改正ノ結果貴村内(註柚木村)二於テ別図指定ノ民有地内二境域標柱及標札ノ建設ヲ要スル事ト相成候就テハ地主ノ承諾ヲ要スル義二付乍御手数別紙書式二依リ地主ノ承諾書ヲ徴シ回付方御取計相煩度(終)
(附図上二図示)
栗木越〜八天岳。第六一号〜六五号
八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号
(註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した。
(参考)
昭和五年十月二十四日               海軍大尉 田中 健介
(軍港境域決定ノ件)
来ル廿七日(月曜日)ヨリ三日間貴村二関スル佐世保軍港境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)ノ決定ヲ致度就而貴村吏員一名御立会ヲ得度右通知ス(以下略)
(註)右に掲げた田中海軍大尉の書簡中に境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)と示してあるところの「西ノ岳」と云うのは所謂国見岳のことであろう。我々地元では「西ノ岳」と云へば通常隠居岳のことを指して謂うのであるが、而しながら国見岳のことを「西ノ岳」と云う例もある由。…

長崎外の古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6019 威海衛の浜辺

目録番号:6020 威海衛の海岸通り

目録番号:6021 威海衛の海軍射撃場

目録番号:6022 威海衛の海軍基地における弔砲

■ 確認結果

目録番号:6019「威海衛の浜辺」など4点の、撮影地域は「中国」。
威海市(いかい-し)は中華人民共和国山東省最東部に位置する港湾都市。かつては威海衛(いかいえい)といった。デジタル大辞泉の解説は次のとおり。

いかいえい 〔ヰカイヱイ〕 【威海衛】

中国、山東半島北東岸の港湾都市、威海の旧称。渤海湾の入り口に位置し、明代には倭寇(わこう)防衛の根拠地、清代末には北洋艦隊の基地。日清戦争で日本が占領。1898年、英国の租借地となるが、1930年中国へ返還。

長崎外の古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4236 紅葉(秋)

目録番号:4166 王子滝野川(8)
〔画像解説〕
享保5〜6年(1720〜21)頃、この地に遊んだ八代将軍徳川吉宗は、王子権現や音無川の由来が自らの故郷である紀州にあることを知り大層喜んだ。それで飛鳥山には吉野桜を、滝野川には紅葉を植えさせ花の名所とした。以後、王子一帯は江戸市民の行楽地となったのである。明治中期。

■ 確認結果

目録番号:4236「紅葉(秋)」は、次の目録番号:4166「王子滝野川(8)」のとおり、撮影地域は東京。王子滝野川であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1070 洞窟の仏像
〔画像解説〕
写真外に “”AMISH’KIーTHE GOD IN THE CAVE “”とある。洞窟内の神(仏像)であるが、 “”AMISH’KI “”については未詳。洞窟のある小さな丘の上にも石塔が見える。小丘全体が一つの霊域なのであろう。

■ 確認結果

目録番号:1070「洞窟の仏像」は、横浜で発行された英字新聞 “The Far East “ Vol.2 No.12  1871/11/16 に「鶴間村」(現小田原市)、「小田原城」とともに掲載された写真。次号の Vol.2
No.13 1871/12/1 も「小田原の町」である(資料は九州大学デジタルアーカイブ)。
小田原の一連の掲載作品から考えると、目録番号:1070「洞窟の仏像」の写真外に記された
“AMISH’KI “も、小田原近くにあった旧「網一色村」のことと思われる。

小田原市は、1940年(昭和15年)12月20日、足柄下郡小田原町・足柄町・大窪村・早川村・酒匂村の一部(網一色・山王原地区)が合併して発足した。
山王神社境内にある「旧山王原村の図(及び網一色村)」によると、「網一色村」は酒匂川の河口地区。前は相模湾となる。現在の小田原市寿町・東町あたりとなるようであるが、市街化が進んでいるだろう。

小田原市域における古墳時代の墳墓には、久野丘陵の円墳群と大磯丘陵の麓に点在する多数の横穴墓群などが知られ、一部は市指定史跡となっている(小田原市の史跡から)。
目録番号:1070「洞窟の仏像」は、どこか特定できないが、写真の状況から網一色地区にあったこれら墳墓を利用し、仏像を安置した所と考えてよいのではないだろうか。
地図の緑丸は円墳のようだ。地元での検証をお願いしたい。 

長崎外の古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3667 川辺の旅館

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
“塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。”

■ 確認結果

目録番号:3667「川辺の旅館」は、次の目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」のとおり、木橋の対岸から撮影された塔ノ沢温泉(左)の旅館「環翠樓」の改築前の写真であろう。
川岸の石組みと、旅館上部の源泉らしい小屋が同じである。
目録番号: 742「岸辺の旅館」も参照。 https://misakimichi.com/archives/2363

長崎の古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

目録番号:5295 大波止沿岸
〔画像解説〕 
出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期である。極めて鮮明な写真である。目録番号3237(整理番号66-18)の写真とほぼ同じ角度から撮影しているが、江戸町の海岸線により接近した写真になっている。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18年(1885)から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる所である。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。長崎市街地の背骨にあたる長崎県庁のある丘の西側の沿岸部は、江戸時代以来埋め立てにより、土地を拡大してきた場所である。従って、沿岸部は、写真のように石垣で護岸を形作っている。さらに、海に面した屋敷は、海から出入りできるよう、個人の波止場を持っている。沿岸の中央付近に端正な石積み護岸があり、街灯が並んでいるが、ここが大波止である。

■ 確認結果

目録番号:3424「雨の日の日本人の衣装」は、次の目録番号:5295「大波止沿岸」が同じような光景を写しており、背景の立山や金比羅山の山並みから、撮影地域は長崎となる。
目録番号:5295「大波止沿岸」の超高精細画像の解説どおり、出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真であろう。
現在の写真は、鍋冠山山頂からの同方面の展望。