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グランド将軍植樹?のアコウ  長崎市上西山町長崎公園内

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グランド将軍植樹?のアコウ  長崎市上西山町長崎公園内

グランド将軍(アメリカ合衆国第18代大統領)が植樹したというアコウ。長崎公園丸馬場のところにある。長崎市が設置した表示板があり、記念碑が残る。
HP「長崎遊楽 諏訪神社散策 玉園山」による説明は、次のとおり。「榕樹」はアコウのこと。

コメント参照。現在の木は戦後、占領軍があらためて植樹しなおした木のよう。長崎大学古写真データベース目録番号:5102を掲げていたが、HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきから、関係作品も確認のため載せる。
長崎市の表示板は、誤解をまねく説明のため、設置場所とも検討をお願いしたい。

19 米国グラント将軍記念樹

グランド将軍手植榕樹記念碑
縣令内海忠勝君の需に應し余室家と與に各自樹木一株を長崎公園内に裁植せり翼くは雙樹繁茂成長し永遠の壽を保ち以て日本の将來を表明せん事を
紀元一八七九年六月二十二日
日本長崎ニ於テ
ユーマス グランド誌

【ユリシーズ・シンプソン・グラント】 (Ulysses Simpson Grant)
(一八二二〜一八八五年) 
アメリカ合衆国第一八代大統領。
一八二二年四月二七日 オハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。
一八四三年(天保一四)、ウェストポイント陸軍士官学校を卒業。南北戦争に活躍。
一八六四年(元治元)、中将となり、合衆国軍司令官に就任し、翌年、南軍のリー将軍をリッチモソドに降し、大将に昇進した。
一八六八年(明治元)、共和党から大統領に当選し、アメリカ合衆国第一八代大統領となる。
一八七二年三月三日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見し、条約改正交渉に応じた。
一八八五年七月二三日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。またグラントの肖像は五〇ドル紙幣に採用された。

グランド将軍は(大統領職二期目の終了後に)米艦リッチモンド号に乗って二年間の世界一周旅行中、日本における最初の訪問地を長崎とし、インド、香港、上海を経て明治一二年(一八七九)六月二一日午前一〇時)長崎に入港、上陸した。
これを、勅使吉田清成全権公使、政府派遣の接待役蜂須賀茂明、伊達宗城、鍋島直大およびビンガム米国公使らが将軍を出迎えた。
長崎では迎賓の準備を整え新町の県立長崎師範学校を将軍の旅館にあてた。一行は上陸後、県立師範学校へ二人引きの人力車で迎えられ、長崎に五日間滞在した。
六月二二日には長崎公園丸馬場に榕樹(ガジュマル)二株を植樹した。翌二三日には長崎県の歓迎会、二四日は市民主宰の歓迎会に臨み二五日は飽の浦の三菱造船所を視察した。
二六日にリッチモンド号で東京に向かって長崎を出航した。
東京では八月一〇日明治天皇と、歓談し琉球問題等について話した。増上寺で松を植樹、上野公園では檜を植樹している。
現在長崎公園にあるのは、この時の手植えの樹及び自筆の記念碑である。

戸町岳の天明藩境塚めぐり  2013年12月

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戸町岳の天明藩境塚めぐり  2013年12月

2013年12月8日(日)快晴。戸町岳(標高427.2m)の天明藩境塚めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が、天明七年(1787)解決し築いた藩境石塚を訪ねる。
鹿尾ダム公園9:36—海星学園グランド尾根9:48—戸町岳登山道出合10:54—戸町岳
11:50(昼食)12:50—大山林道13:25—大山カトリック教会13:44—鹿尾ダム公園14:
41(徒歩距離 約9km)

2013年10月20日(日)の大久保山(標高233.7m)の藩境石塚めぐりは、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3790
大久保山の藩境石塚に続き、その延長で今回は、戸町岳の尾根道に残る藩境塚を訪ねる。

大山入口バス停から入った鹿尾ダム公園に集合。橋を渡って西海建設の道路工事現場からすぐ上の尾根に取り付く。右下が海星学園グランドとなるところである。
藩境塚が尾根にはすぐ目につき、2つのピークを越して行く。この区間の塚の存在は、ほとんど知られていない。

やがて、戸町中学校前から上がった竹林の戸町岳登山道と出合う。藩境塚は登山道になおも続く。はっきりしたものは、T型金具に「天明藩境塚」と表示し、ブロック区分と連番号を付していたが、もう6年近く経過した。金具が引き抜かれたり、所在不明となっていたものがあった。

戸町岳山頂まで行って昼食。12月としては、きょうはポカポカ陽気で風もなく、展望が効いた。藩境塚は熊ヶ岳分岐まで続いているが、その縦走は行わず、戸町岳から同じ道を少し戻り、大山林道の小ヶ倉水源池地下隧道がある取水口へ下った。付近で大正二年三月「長崎県模範林」の標柱を発見。

大山カトリック教会に寄ると、クリスマス飾り準備中。教会下の里道には、長崎市立小ヶ倉小学校大山分校跡地があった。
「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」は、本ブログ2007年7月記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/85

HP「キリシタンの里をたずねて—長崎の教会」による大山教会の紹介は、次のとおり。
大山教会の紹介<絶えざる御助けの聖母>
(1)現 勢(小教区内数)
世 帯 数 74世帯  信者総数 341人
(2)沿 革
この地の信徒は、嘉永年間、外海の黒崎地区からの迫害を避けて逃れてきたキリシタンの子孫で、明治4年(1871)配流のため佐賀送りとなり、明治6年(1873)太政官達により信仰の自由を勝ち取った信徒たちが、明治29年(1896)、建立した最初の大山教会も老朽化が激しく、昭和27年(1952)改築。5月25日山口大司教のてによって献堂・祝別された。その後、平成6年(1994)6月26日、42年ぶりに島本大司教司式により、教会堂の祝別・落成式が行われた。
当日は歴代のの主任司祭や大山出身のシスターをはじめ、各方面からも大勢の信徒が詰めかけ、新たな歴史の1ページをともに喜び合った。(記事の一部は1994年のカトリック教報を抜粋)
(3)特 色
町内に住む者総てがカトリック信者で、1つの家族のような雰囲気を持ち、住民の9割が大山姓を名乗っている。
(4)区域内修道院
*お告げのマリア修道会大山修道院

カメ大集合?  長崎市淵町の川

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カメ大集合?  長崎市淵町の川

長崎市淵町の長崎市立成人病センター右横の橋下。カメが大集合して甲羅干し。ミシシッピーアカミミガメ(別名 ミドリガメ)だろう。こんな野生化し、多くいるのは、恐ろしい。
ペット図鑑は次のとおり。

ミシシッピーアカミミガメ(別名 ミドリガメ)
○最多品種の1つ。
○幼体の時はミドリガメと呼ばれているが、アカミミガメの名前の由来は、頭の側面に赤い模様があるため。
○えさは人工飼料もよく食べる。
○成体は気の荒い個体が多いので、取り扱いに注意が必要。
○飼育者によって放置された個体が野生化し、生態系に問題を及ぼしている。

長崎要塞神の島砲台の概要  「日本築城史」から

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長崎要塞神の島砲台の概要 「日本築城史」から 

2013年12月4日付朝日新聞長崎地域版【西方見聞録】に、戦時中の長崎要塞神の島砲台の遺構を探ねた記事が載った。現在、神の島公園として整備されているところ。
被爆遺構の案内や平和学習の出前講座に取り組む市民グループ「ピースバトン・ナガサキ」の話をもとにしている。神の島砲台の遺構は、ピースバトンで今年5月、「学さるく平和編」を企画し、市民らと共に一帯を歩いたという。

新聞記事の内容は、少し疑問がある。ピースバトンがどの程度、研究しているかわからないが、堂の下部落の西にあった神の島低砲台の遺構(写真5〜6?)や、蔭の尾島砲台にはふれていない。私も正確に研究したわけではなく、はっきりしたことは言えないが、「長崎要塞地帯標」の所在調査から、長崎要塞について浄法寺朝美氏著「日本築城史」原書房 昭和46年発行を調べたことがある。

同著228〜234頁「13長崎要塞」の記録は、次のとおり。みさき道歩会研究レポート第2集
162〜163頁にも掲載済みなので、今後の研究の参考としてもらいたい。
後ろの写真は、みなと坂団地から見た神の島、神の島公園展望台から見た長崎港口の島々、神の島公園案内図。

(資料3)  浄法寺 朝美著 「日本築城史」 原書房 昭和46年発行
13 長 崎 要 塞               228〜234頁
長崎は安土桃山時代から、内外貿易の要港であった。安政2年(1855)ここに長崎海軍伝習所が創設されて、わが海軍草創の地となり、また同年長崎製鉄所が建設され、これが三菱長崎造船所に発展し、太平洋戦争までに、戦艦武蔵をふくむ99隻の軍艦を戦場に送った重要港湾である。長崎要塞は、長崎における造船所などの重要施設を防御し、また長崎港における、船団への軍隊・軍需品の積載・炭水の補給・艦艇および輸送船団の一時退避、艦船の安全な修理など、直接わが作戦行動を容易にするために、設置されたものである。要塞建設期に、長崎湾口に扼する神の島と蔭の尾島に、それぞれ神の島砲台と蔭の尾島砲台を構築した。長崎要塞司令部は明治33(1900)年4月に設置され、昭和11(1936)年8月、佐世保要塞を合併した。

1)神の島高砲台
神の島(今は小瀬戸と陸続きとなっているが)のほぼ中央、標高78メートルの地に、明治31(1898)年4月着工、同33年3月竣工した。28センチ榴弾砲8門編成の砲台で、首線はNW
78°で、松島方向である。これは長崎港に出入りする船舶の主航路にあたり、射界は360°である。34(1901)年3月、備砲に着手し、同年7月完了した。備砲費は16万100円であった。(略) 上記図を参照

2)神の島低砲台
神の島の西南部、堂の下部落の西約100メートル、海岸線より50メートル、標高18メートルの地に、明治31(1898)年8月着工、同32年7月竣工した、スカ式9センチ速射カノン4門の砲台である。備砲は34(1901)年3月着手し、35年2月に完了した。備砲費は3万8100円であった。首線方向はSE10°で、長崎湾口に向いている。射界は120°である。(略)

3)蔭の尾島砲台
長崎湾口を扼する蔭の尾島の北西端、標高31メートルの地に、明治31(1898)年10月築造に着工し、同32年10月竣工した。東方に標高65メートルの高地があり、この高地の東北端には、長刀鼻灯台がある。川南造船所は南方約500メートルにある。備砲は神の島低砲台と同じくスカ式9センチ速射カノン砲4門である。備砲費は3万8300円であった。首線はNE3°で神の島に向いている。射界は130°である。(略)

深堀陣屋跡の現況 (3)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (3)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869

長崎市文化財課による発掘調査は、(2)から半月ばかり経過し、新しい発見がないか、きのう(12月1日)、その状況を現地確認に行った。
発掘調査の範囲は全面に広げられ、50地点ばかりとなって、深く掘り下げられたところもある。

御屋敷跡の礎石や踏み石と思われるものは、最上段広場の南西奥側にしか見られない。幼稚園やカトリック教会から登った手前側には、ほとんど見られず、中央部は岩盤の地肌が多かった。手前側に新しい教会を建築するのだろうか。掘った土を盛ったところに、定礎式をした目印のようなものが立っていた。

広場下の長崎市指定天然記念物アコウの現地説明板は、はがれていたが、支柱にビニール紐でくくられていた。

わが家の新車 日産ノート

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わが家の新車 日産ノート

エコカーの時代、わが家で初めての新車となった日産ノート。車代は妻が即金払いしたので、車は前から妻のもの。車種や色は無難な選択だろう。私は50ccバイクしか持たない。

たまに車を借りて乗っても、へんな山道しか走らない。車は汚れる。角はこする。草をタイヤの軸に巻き込み、エンジンの調子がおかしくなったなどと、これまでさんざん言われているので、新車を借りて運転する機会は、当分ないだろう。

茂木から九電鉄塔作業道を歩き重篭まで  2013年11月

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茂木から九電鉄塔作業道を歩き重篭まで  2013年11月

2013年11月24日(日)快晴。茂木から九電鉄塔作業道を歩き重篭まで。参加6人。みさき道歩会の例会。17日が雨のため延期。本年6月のリベンジ調査。
茂木黒橋バス停10:00—大山祗神社10:38—北浦車道途中—12号鉄塔10:59—11号鉄塔11:24—(道迷いロスあり)—10号入口農道12:25(昼食)12:55—10号鉄塔13:05—9号鉄塔13:16—8号鉄塔13:53—7号鉄塔14:55—6号鉄塔15:19—重篭車道15:
49—長崎(早坂)IC16:10—タクシーで田上バス停へ16:40(徒歩距離 約9km)

2013年6月2日(日)の例会は、九電送電線の長崎江川線(長崎丸山線)3号鉄塔から茂木大山祗神社上の12号鉄塔まで、重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る予定だった。
5号鉄塔まで行って、6号鉄塔の矢印標識が轟の滝少し上流の市道右にあったものの、先の山道がわからず、途中で断念した経過がある。
6月の記事は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3691

今回は、逆に茂木側の12号鉄塔から6号鉄塔まで登って、5号鉄塔へ続く道を調査した。
大波止9:40発茂木行乗車。黒橋バス停から歩き出す。かつて石橋だった柳山橋や大山祗神社のヤマモモ古木を見ながら、北浦へ抜ける市道に入る。
途中に12号鉄塔と、その先に11号鉄塔の入口標識があり、以下はこれにより九電鉄塔作業道を登るが、行程は起伏が急で長く、難路が多いので、詳細は省く。

鉄塔写真は、登った順に12号から6号までを写して載せた。
6月の不明地点は、河川改修しているあの川をやはり渡らないと、山道は続いていなかった。

松林重宗氏「長崎を描いてさるく」原画展  長崎市栄町 昭和堂ギャラリー

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松林重宗氏「長崎を描いてさるく」原画展  長崎市栄町 昭和堂ギャラリー

「長崎を描いてさるく」原画展は、先輩の水彩画家・松林重宗氏の作品展。11月21日(木)から25日(月)まで。長崎市栄町袋橋の通り長崎昭和堂ギャラリーで。時間10:30〜18:00
作品の一部を写させてもらった。説明は同画文集から。長崎の馴染みの風景が描かれている。本ブログ次も参照。現在の写真は、私手持ちのを適当に載せた。
https://misakimichi.com/archives/3483

馬込天主堂(伊王島)  p8(2012)

冬の伊王島は風が吹いてとても寒い。しかし、この日はいいお天気で風も穏やかなので出かけることにした。伊王島大橋が完成したのでわが家から30分くらいで行けるようになった。
先日から課題となっている馬込天主堂を描くのが目的である。この天主堂は正面の塔が複雑でデッサンが難しい。そこで今回はもう少し離れて横から眺めることにして、東側の防波堤の上に座り込んだ。
描き始めてみると、この塔はほんとに複雑で立派である。あまりに高くてバランスを壊しているのではないかと思ったりする。出来るだけ細かいところに気を取られないようにデッサンを進めた。

柿泊海岸  p10(2010)

柿泊海岸は五島灘に面した海水浴場。駐車場やトイレが完備していて大勢で描きに来るのにいい場所である。遠くに形の良い神楽島が見え岩と断崖で男性的な絵が描ける。「傘岩」という変わった形の岩や山手の方の集落や畑も絵になり、春には山桜もきれい。

バーゲンセンター  p10(2010)

戸町の海岸通りにあるこの店は、古い木造三階建てを利用していて、欲しいものは何でもある便利な店である。
かって、戸町の深い入り江には小型造船所が立ち並んで漁船や機帆船がぎっしり停泊していて、この通りは遊郭が立ち並ぶ歓楽街になっていた。私も幼いころ、「異様な雰囲気の街だな」と感じた記憶がある。
戦時中、火災防止のため海岸よりの建物が取り壊されて現在にいたっているが、この建物はそのころの名残をとどめている。

あぐりの丘晩秋  p10(2008)

木枯らしの吹く寒い日が続いた後に陽射しのまぶしい朝を迎えた。こんな時にはどこかに描きに行きたくなるものである。先ごろから妻がニンジン作りにいっていた「あぐりの丘」で描きたいところを見つけていたので、そこへ出かけることにした。
しかし、わが家から約40分、車をとばして来たこの場所は、期待に反してもはや冬枯れに近い状態であった。すこし気勢をそがれた気分になったが、小春日和のなかで3時間あまり、訪れる客はほとんどなかった。

北海道の物産と観光展  長崎市浜町 長崎浜屋

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北海道の物産と観光展  長崎市浜町 長崎浜屋

平成25年11月8日(金)〜11月25日(月)18日間、長崎浜屋百貨店で「第33回 北海道の物産と観光展」を8階特別催事場で開催中。
らーめん茶屋で弟子屈ラーメン「北海道全部のせ味噌ラーメン」を食べた。餃子とセット1200円。少しゴテゴテしすぎだろう。

長崎市民美術展・長崎さるくポスター展  長崎市出島町 県美術館

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長崎市民美術展・長崎さるくポスター展  長崎市出島町 県美術館

長崎県美術館HPの県民ギャラリー・運河ギャラリー情報などは、次のとおり。
3,4枚目は、友人川上正徳氏の市展入選作。土井首のペーロンを描いた水彩画「力漕」と、女神大橋から撮影した写真(後期展示)「帆船まつりの花火」。

■ 展示区分 県民ギャラリー
■ 展覧会 第61回 長崎市美術展
■ 会期 2012年11月22日(木)〜12月9日(日)
■ 会場 県民ギャラリー全室
■ 主催 第61回長崎市民美術展実行委員会(長崎市・NPO法人長崎市美術振興会・長崎市書作家協会・長崎市教育委員会・NPO法人長崎国際文化協会)
■ 概要 本展は、長崎市を中心とする住民に対して、美術作品を公募する総合美術展です。本展の開催により長崎地域における美術活動の一層豊かな振興発展に寄与します。

前期:11月22日(木)〜30日(金)
【日本画・洋画・デザイン・クリエイティブ・ジュニア絵画】
後期:12月2日(日)〜9日(日)
【南画・水墨画・書・写真・工芸・ジュニア書写】

※入場料/一般 300円(前後期共通入場券)
70歳以上 100円(前後期共通入場券)
◎高校生以下・障害者手帳保持者及び介護者1名まで無料
※10:00〜18:00(最終日は17:00まで)
※11/26(月)、12/1(土)は休室

長崎県美術館 ‏@nagasaki_museum 11月18日
【今週の運河ギャラリー】11月19日(火)ー24日(日)最終日は18時まで/JAGDA長崎会員企画展「長崎さるくポスター展」「韓国デザイン貿易」「うつわ展(波佐見焼とのコラボレーション)」
◎入場無料