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2013年(冬) 糸山玲子作陶展  佐賀県多久市多久町東町

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2013年(冬) 糸山玲子作陶展  佐賀県多久市多久町東町

多久市観光協会公式サイト「多久市観光ガイド」による案内は、次のとおり。妻の休日。

2013年(冬) 糸山玲子作陶展

多久町にあります工房「陶玲」で活動されてます、糸山玲子さんの作品展「2013年(冬) 糸山玲子作陶展」が11月17日(日)〜24日(日)に開催されます。
糸山さんは陶あかりを中心に、大好きな山野草を生ける花入れや香炉、日常使いの器など唐津焼をベースにすべて登り窯焼成にて自由な作陶を楽しまれています。
暖かい灯りと揺れる影が織りなす、ゆったりとした時間を楽しまれに足を運ばれてみてはいかがでしょうか。
期  間 : 2013年11月17日(日)〜24日(日)  
時  間 : AМ10:00〜18:00
場  所 : 「陶玲」工房&ギャラリー
住  所 : 多久市多久町東町2188
電話番号 : 0952−75−6338

深堀町のそのほかの桁石橋  長崎市深堀町2〜5丁目

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深堀町のそのほかの桁石橋  長崎市深堀町2〜5丁目

石橋の項の前記事で、深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋10を載せた。
https://misakimichi.com/archives/3861
かつての城下町・深堀を歩くと、ほかに小さな桁石橋4つを見た。所在場所は地図のとおり。
戸泊公民館脇「岩の川橋」は、親柱だけ残る。最後の水場は深堀で有名らしいが、名は不明。

深堀陣屋跡の現況 (2)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (2)  長崎市深堀町5丁目

深堀5丁目の深堀陣屋は、御屋敷と呼ばれ、佐賀藩深堀領主の居城だった。春先頃から深堀陣屋跡の周囲立木のほとんどが伐採され、遠くから石垣が望まれ、居城跡の全容がわかる。
先日、現地の高台広場を訪ねたところ、整地工事中。現在の中段にある「深堀カトリック教会」をここに新築し、来年秋の今頃、完成予定と聞いた。長崎市文化財課による史跡調査は、行われたのだろうか。以上は、本ブログ前の記事(1)を参照。
https://misakimichi.com/archives/3862

この記事をブログで見た芦屋市平幸治氏から突然、電話を受けた。平氏は「みさき道」の関寛斎日記原本の解読などでたいへん協力いただいた。地元深堀出身で、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者である。
私はこれまでまったく知らなかったが、10月初めから「深堀陣屋遺構の適正かつ完全なる保存維持をはかり、まちづくりへの積極的活用を検討されるよう」関係先へおひとりで陳情活動をされていた。

「歴史的文化財の保存の時機を逸すれば破壊損失につながる事例は深堀町5丁目の武家屋敷跡石塀の状況に鑑みれば明白であります。今回の機会を逸することなく関係各位のご尽力を切望いたします」と、長崎市文化財の史跡に早く指定するよう嘆願している。
さて、長崎市や教会側の対応である。きのう再び現地を訪ね、少し調べてみた。

「深堀陣屋跡」については、平成3年5月、長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」がある。遺構の詳しい調査まで実施されていないが、図面など参考となる。
きのう、現地を訪ねると、長崎市文化財課の発掘調査が行われていた。陣屋跡の最上段南西側を掘っており、当主の居間と思われる御座?の礎石が連なって発見され、写真を写してきた。
陣屋下の門柱?も現存。慶応年間の深堀日記に記録がある堀底道は、有海の波止内から続いて登っていることが確認できた。

現在の中段にある深堀カトリック教会前の掲示板には、小教区広報紙「ひろがり」第120号があった。工事の日程、手順と報告があり、特に三、四、五は、遺構にふれているので拡大した。
整地工事中と書いたのは、発掘一部調査の見誤りだったようである。
私はこの件に何も関わることはできないが、過日、長崎市政への提案で「長崎市文化財課による史跡調査は、どの程度行われたのでしょうか」と、疑問は質している。

なお、隣地の市有地広場は、平氏調査によると「おそらく渡辺聞櫓の別荘豊睡園跡地であろうと思います。…江藤新平が佐賀の役の直前に逗留した場所であり、陣屋跡と一体的に歴史公園として整備してもしかるべき歴史的場所」である。
深堀町5丁目の武家屋敷跡石塀の解体石は、この広場に積まれ保管されていた。
最後は、有海にある「波止崎標識?記念碑」と、長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年発行24頁の資料。

淡路島の観光・史跡情報の整備に対する兵庫県の回答

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淡路島の観光・史跡情報の整備に対する兵庫県の回答

本年10月初め、淡路島を訪ねた。いろいろな所感を兵庫県へ提案のところ、兵庫県企画県民部広聴室長の回答は、次のとおり。
長崎市政への提案回答も、このように簡潔で要領を得た回答文を今後はお願いしたいので、その見本とされたい。

淡路島の観光・史跡情報の整備について  (10月30日付 兵庫県へメール送信)

本年10月初め、淡路島を訪ねました。観光だけではなく、史跡や巨樹・滝・石橋など巡りが目的でした。私ブログ「みさき道人 風来紀行」兵庫県の項に、結果を紹介していますから、リスト各記事を参考に見てください。
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi
次のとおり所感がありますから、関係先において必要な対応をよろしくお願いします。
1 県指定文化財現地説明板が、年数が経過し日射のため、説明文を読めないものが多かったです。早急に現地確認して、新しいものに設置替えしてください。(例 養宜館跡、地蔵立像板碑など)
2 国・県指定文化財について、兵庫県文化財課や淡路教育事務所HPは、一覧表のみで文化財概要がわからず、写真・所在地図がないので困りました。淡路島の分だけでもHP内容を改善できませんか。新規指定・廃止分(例 五斗長垣内遺跡など。旧北本家住宅は?)も修正がなされていません。
3 所在場所が観光地図に表示されていないものが多く、探すのに苦労しました。土日は市役所は休み、洲本バスセンター観光案内所に聞きましたが、場所をまったく知りません。観光面だけではなく史跡の周知と指導をお願いします。
4 国道や県道の史跡入口を示す案内標識を、もう少し適切となるよう点検し考えてください。また、要所にその付近の行き先がわかる観光・史跡全体案内図を増やしてください。途中の分かれ道でも、どちらへ進むかわからないことがありました。
5 国文化財データベースは、リストでは所在地が「兵庫県」としか出てこなく、市町村名がなく淡路島関係を抽出するのに不便でした。国は何とかならないものでしょうか。
6 市指定文化財について、淡路市HPはまったく一覧表もないようです。市への指導もよろしくお願いします。
7 「淡路島近代化遺産」「淡路島百景」などでは、久留麻疎水トンネル、淡路鉄道、旧鐘紡工場建築群などの選定がもれているのではありませんか。関係団体の指導もお願いします。
8 以上は、兵庫県全体では件数が多く、全部をお願いしているのではありません。せめて観光の島「淡路島」だけでも、内容を充実していただければ、観光客がさらに増え好印象を与えると思います。
9 私ブログの淡路島関係記事で、間違いがあったら教示していただければ幸いです。

ご意見への回答(兵庫県)  (11月13日付 兵庫県企画県民部広聴室長の回答)

このたびは、「さわやか提案箱」にメールをお送りいただきありがとうございます。
国生みの神話で知られる淡路島は、歴史遺産も豊富であり、指定文化財も多く存在しています。しかしながら、情報を十分にお伝えできず、折角のご来島にもかかわらず、ご不便をおかけしましたことをお詫びいたします。
1 県指定文化財の説明板について
ご指摘のありました説明板については、予算の制約がありますので、 現場を確認のうえ、劣化の激しいものから順次、改修を図る予定です。
2 ホームページの文化財一覧について
県文化財課及び淡路教育事務所のホームページに掲載している文化財一覧については、掲載データが古いものについてはすみやかに更新を行います。また、掲載内容につきましては、より分かりやすいものとなるよう、今後、方策を検討してまいります。
3 道路標示や観光案内について
史跡に関する道路標示や観光案内などについては、県の観光部局や道 路関係部局、市町関係者等に積極的な情報提供等に努め、来島された方に適切な案内ができるよう取り組みます。
4 国文化財データベース・淡路市ホームページについて
国文化財データベースについてのご意見は文化庁に、市指定文化財についてのご意見は淡路市教育委員会に、それぞれお伝えしました。
5 「淡路島近代化遺産」のホームページについて
「淡路島近代化遺産」のホームページについては、県、市、地域活動団体等が協議し、淡路島の風土資産のうち代表的な資産を紹介したものであり、島内に存在する全ての風土資産を網羅したものではありませんので、ご理解いただきますようお願いいたします。なお、今後、当該ページを見直す際には、いただいたご意見も参考にさせていただきます。
6 「淡路島百景」について
百景候補は、全国、県、市町レベルでの景観の選定実績のほか、淡路島景観フォトコンテストの募集結果やアンケート結果、さらには一般の方から百景にふさわしい景観として投票いただいた結果も考慮しながら、学識経験者や島内在住者等で構成する淡路島百景選定委員会において選定しました。
選定の結果、ご指摘の久留麻疎水トンネルや淡路鉄道は百景候補に選ばれませんでしたが、旧鐘紡工場建築群については百景61番「旧鐘紡工場のレンガ倉庫群」として選ばれています。ご理解いただきますようお願いいたします。

大正十一年頃のガラス写真 193 (旭町から長崎港)

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大正十一年頃のガラス写真 193 (旭町から長崎港)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 193  (旭町から長崎港)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号193は、旭町岸壁あたりから長崎港を望んだ景色と思われる。対岸背景の奥の山は「八郎岳」、手前の帆船後ろは「大久保山」であろう。右端奥には「深堀城山」が見える。
長崎港の対岸地区では、どこも同じような景色となる。帆船が停泊しているから、現在の旭町(市営交通船旭町桟橋があった所)あたりの岸壁が考えられる。岸壁向きが少し気になるが、背景の山の稜線の重なりからすると、このあたりだろう。

大正十一年頃のガラス写真 180 (ガスタンク)

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大正十一年頃のガラス写真 180 (ガスタンク)

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号180  (ガスタンク)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号180は、左側川岸にガスタンクのようなものが2基写っている。背景の山の稜線は、現日昇館のある浜平高台から坂本方面の山であろう。
これは、尾上町北に現在もある西部ガスの正門入口、馬込川の中の島橋(現在の橋は、昭和
44年8月架設)あたりから、対岸の幸町にあったガスタンク?を撮影していると思われる。

長崎税関のソテツ  長崎市出島町

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長崎税関のソテツ  長崎市出島町

長崎税関庁舎の国道側前庭にあるソテツ。数株あり、すべてか、どれかは不明。
「長崎税関のあゆみ 2003 長崎税関再開50周年記念」長崎税関/編による説明は、次のとおり。

⑦出島周辺の税関関連史跡  本関の蘇鉄    場所:長崎税関

昭和28年12月25日に奄美大島が日本に復帰し、名瀬税関支署が設置されました。同支署には当時監視艇「みちしお」が配備されていました。本関庁舎の庭に植えてある蘇鉄は、昭和34年か35年頃「みちしお」が定期ドックのため長崎へ回航されたときに職員が奄美大島の蘇鉄を本関に持ってきて植えたものです。
なお、庁舎周辺の庭の土は、当時守衛として勤務されていた岩石氏のお兄様が長崎市愛宕町にお住まいになっておられ、その方の家の土を運んだものとのことです。
当時、柔剣道部員がトラックを使用し数日がかりで運んだそうです。

2013年 サンサン さんわ フェスティバル

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2013年 サンサン さんわ フェスティバル

長崎市南部、三和地区のイベント。2013年11月10日(日)、長崎市三和公民館前広場で、「サンサン さんわ フェスティバル」が開催された。
ベリーダンスやよさこい踊りがあるので、昼から出かけた。そのスナップ。

浪漫電話?  長崎市深堀町5丁目 菩提寺

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浪漫電話?  長崎市深堀町5丁目 菩提寺

長崎市深堀町5丁目の菩提寺本堂手前に設置しているアンティーク風公衆電話機。KT4-FN「浪漫電話」日本通信機器製 69,800円か。
全国のホテル、旅館、道の駅などで、ときどき見かけるらしいが、寺では珍しい。
日本通信機器HPによる製品案内は、次のとおり。

◆ デザイン ◆
高級家具に好んで使われる選りすぐりの「栓」(せん)材を用いて、木目の美しさと堅牢さを両立した、ノスタルジーをかきたてる曲線多用の正統派デザインです。本格アンティークへのこだわりが息づくハンドメイドならではの温もりとフォルムは、まさに“芸術品”と呼びたいほどの仕上がりです。
◆ 機 能 ◆
家庭用電源不要で、壁掛け設置可能(オプション)なため置き場所を選ばないほか、フリーダイヤル、携帯電話への発信可能、「110」や「119」へ発信する際の硬貨不要など、電話としての機能や実用性にも細やかな心配りを忘れていません。

近くの境内に植えられた大ソテツ、菩提樹も珍しい。井戸ポンプは近代のものか。

深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町だった深堀(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

春先頃から深堀陣屋跡の周囲立木のほとんどが伐採され、遠くから石垣が望まれ、居城跡の全容がわかる。きのう、現地の高台広場を訪ねたところ、整地工事中。
現在の中段にある「深堀カトリック教会」をここに新築し、来年秋の今頃、完成予定と聞いた。

長崎市文化財課による史跡調査は、行われたのだろうか。市指定天然記念物アコウ説明板は、説明部分が風のためか支柱からはがれて飛ばされ、無残に地面に放置されていたので、根元に置いた。こんな管理も、市は必要ではないか。