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深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋  長崎市深堀町5丁目

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深堀菩提寺参道橋と周辺の桁石橋  長崎市深堀町5丁目

「菩提寺」(ぼだいじ)は、長崎市深堀町にある曹洞宗の仏教寺院。山号は金谷山(きんこくざん)。鎌倉時代以来、当地の地頭であった深堀氏(三浦氏)、深堀氏の名跡を継いだ佐賀藩家老深堀鍋島家(石井氏)の菩提寺である。
境内には深堀氏、深堀鍋島家歴代の墓所の他、長崎喧嘩騒動(町年寄高木氏の家人と深堀鍋島家の家臣の紛争、赤穂浪士討ち入りの際の参考にしたと伝わる)で切腹した深堀鍋島家の家臣(深堀義士)らの墓所がある。(ウィキペディア)

アーチ式石門をくぐった参道を横切る小川に、大きな1枚石の両脇を固めた「参道橋」(写真1〜3)がある。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。
№6,859  菩提寺参道橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:2.1m  橋幅:1.7m  桁3列  単径間桁橋

菩提寺の東側谷の車道を進むと、水路橋と桁石橋の2つ(同HPに掲載。写真4〜5)がある。
№6,860  深堀町5丁目の水路橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
菩提寺の東側。水路です。
№6,861  深堀町5丁目の石橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
菩提寺の東側。自然石が見えています。

菩提寺手前、川内公民館周辺のビオトープに、桁石橋3つ(同HPに掲載。写真6〜7)がある。
№6,862  川内の石橋  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
川内公民館の南側。
№6,863  川内の石橋2  長崎市深堀町5丁目
橋長:m  橋幅:m  単径間桁橋
川内公民館の西側、下へ降りるところ。
№6,864  川内の石橋3  長崎市深堀町5丁目
橋長:1.4m  橋幅:1.2m  単径間桁橋
川内公民館の西、下に降りたところ。

同HPでは調査がなかったが、菩提寺の西側谷(参道橋の上流)の同寺墓地道などにも、大小の桁石橋が5つ(写真8〜14)ある。所在場所は地図を参照。
明治19年架設の長崎市立深堀小学校旧校門橋は、平成13年コンクリート橋(写真15)となった。撤去された太鼓桁石は、現在の校庭西側に保存展示(写真16〜18)されている。
橋長:1.8m、橋幅:3.0mほど。桁4列、単径間桁橋。校庭フェンス外に長崎市教育委員会説明板がある。

ねじりまんぼ形式「戸町4丁目の石橋」を、にえもん氏が調査

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ねじりまんぼ形式「戸町4丁目の石橋」を、にえもん氏が調査

2013年10月20日、長崎市戸町4丁目で見つかったアーチ式石橋は、前の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3791

11月4日に「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」HPの、宮崎市贄田氏(にえもんさん)が、諫早に里帰りした「諫早眼鏡橋模型」とともに、現地確認調査に来られた。
同HPによるデータは、次のとおり。「石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。…設計者のこだわりでしょうか」との解説である。
http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/nagasakihasi.html  地図上で「長崎市」をクリック
三重県「六把野井水拱橋」のコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」は、
http://5.travel-way.net/~niemon/siga/mieken/inabesi/hasi/roppa.html

№6,856   4.戸町の石橋  
2013.11.04

長崎市戸町4丁目13
橋幅:6.7m  径間:2.1m  拱矢:0.8m  環厚:38㎝(輪石49㎝)  輪石:8.5列

みさき道人さんから10月21日に情報を頂いていました。
斜橋です。ねじりまんぽ、見事な加工です。
三重県の「六把野井水拱橋」はコンクリートブロックによる「ねじりまんぽ」ですので、石造アーチ橋では初めて見る珍しい形式です。おそらく現時点で日本で唯一の形式。

内部。石の加工がさぞかし難しかっただろうと思います。
鉄道煉瓦アーチの「ねじりまんぽ」の技術が使われたものと思われます。
耐荷重的にねじる必要のないのにねじるのは、設計者のこだわりでしょうか。

みさき道人さんのブログより引用
「 (2013年10月31日 追記)  石橋上部の「長崎税関戸町火薬庫の歴史と標石」
2013/10/31(木) [ JOKAMOTO ] 氏コメントがあった、大蔵省関税局編「税関百年史 上巻 」日本関税協会昭和47年発行197頁は、次のとおり。
火薬庫場所は、地元松林氏の記憶によると、現在ここにある郵政職員アパートや民間駐車場一帯で、2棟の煉瓦造り平屋建物が建っていたが、大戦中はもう使用されていなかったということである。
コメントどおり、近辺には欠損した標石2本(1本は「長崎…」と刻む)が現存しているのを確認したが、火薬庫境界石とは断定できない。
税関と火薬庫との関係は、輸入品だったなら火薬類一時保管庫をここに設置したのだろうと言う長崎税関の話である。
税関の火薬庫で、私が「軍道?の橋」と説明したのは、間違いがあるようなので訂正したい。

『…火薬類の保管については、旧幕時代のものが引きつづき使用されたが、明治五年正月、西泊郷に新しく一棟が新築され、これが利用されることになった。その後、二八年五月には、西彼杵郡戸町村の岩井浦に、新しく火薬庫が新築されたので、これに移転している。…』」

高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

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高橋輝吉氏稿 「長崎(佐世保)要塞地帯の区域標」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

5 長崎(佐世保)要塞地帯の区域標  高橋 輝吉

現佐世保市吉井町草ノ尾一帯は、元炭鉱地帯で人口も多く、山に詳しい方が多い。要塞区域標「第一一四号」「第一一八号」の2本は個人所有。「第一一九号」は、先月どうかなーと思い、行ってみましたが、ありませんでした。後でもう一度行ってみます。
「第一三〇号」は江迎の山頂に。「第一三一号」は道もないような所にあり。

「第一三五号」は岳ノ木場の個人所有。この地からは佐世保と軍港入口地帯が見えます。「第一三六号」は山ノ上の個人所有。軍港入口地帯が見えます。
「第一三七号」は北の方。「第一三八号」は西の方。「第一四〇号」は南の方で、西彼の「第一四七号」と連なる「第一五一号」「第一五二号」「第一五八号」。
(註 標石写真は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3152

「第一号」は区域標。外廻り区域標ですが、「第一号」が2本あります。佐世保では、第一地帯標が3本あります。何んで? 軍縮のためかなー。改刻の標石もあります。
「F.Z.」の標石はありません。長崎市には3本あり。

高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

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高橋輝吉氏稿 「脇野の標石石段の石を解明」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

4 脇野の標石石段の石を解明  高橋 輝吉

伊万里市東山城町脇野の標石石段の所へは、3回くらい行った。このとき港域標「第二一号」もあり。10年前のときに、「どうしてここに」と聞きますと、多くは語らず「佐賀のG.H.Qが…」と。
多分、終戦時に、旧陸・海軍が遺した多くの標石等を撤去し集めたようである。伊万里方面に砲台地はなかった。

6年くらい前、ここを通ったら、石段は新しいコンクリートに変っていた。以前の古い標石は、角の方に集めてあった。許しを得て、号数や陸軍名を上にして、いろいろな角度から写真を撮った。
ゆっくりと話す間がなく、私が標石を見たので、20年前の標石石段を、新しいコンクリート石段に変えたのかなー。
(註 本ブログ次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1825

松浦方面へ下る。右側山、中にも立札があったと教えてもらいましたが、現物なし。見本の書はありました。横辺田より「高法知岳」に松浦へ。草ノ尾高原に区域標「第一一六号」あり。見通しの良い所です。

高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

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高橋輝吉氏稿 「伊万里から県道で山を越え」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

3 伊万里から県道で山を越え  高橋 輝吉

佐賀や長崎の県北で「新聞に出てましたよ」。新聞を見た方から「うちの山にも、陸軍省の石があります」と。同行してみますと、伊万里市東山城町脇野の一角に、山の中に。昭和15年の第二区第二十二号。後で二十一号。明治の石は、七曲り山道を越した北松浦方面へ。

多分、山の中と思うが、山が深い。用心、用心と山を降り、七曲り下り道でどこかにと思っていた。伊万里市東山城町脇野で気付いて見たのは「みかげ」石の石段。
「オヤッ」と良く良く見ると、「陸軍省」などだ。
20年くらい前のことだった。写真を撮り、後で横辺田地方で。この近くより松浦方面へ。

6年くらい前、脇野の標石石段はどうなっているのかと思いきや、新しくコンクリート石段に成っていました。2回目の「石はどこに」?

高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

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高橋輝吉氏稿 「開戦1年前の伊万里湾」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

2 開戦1年前の伊万里湾  高橋 輝吉

伊万里湾が佐世保軍港から外れて何10年。開戦1年前の昭和15年、陸軍の波が起こった。前々より所望していたのか。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」参照。新兵科、陸軍輸送部隊の暁部隊。一〇四艇造りの川南造船も伊万里にあった。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側15本、長崎県側10本。この内、第二区の第一号は青島の海の中。第一区の第一号は、星鹿の山中。

星鹿には陸軍兵舎あり、黒島にも兵舎あり。星鹿では古老の話だと、4年生上の生徒は中くらいの石、煉瓦は高等科、近くの大人は大きな資材を運んだそうです。城山には海軍の潜水艦用聴音機が。石を運んだ道にも、「海」と刻む16〜133号の海軍境界石あり。多くの標石で城山を取り巻いている。展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の第七号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省第一区第二号か。

青島の岩礁地帯に、コンクリートの石柱ありと島の話。もしやと思い、行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。陸軍省陸軍省第二区第一号と、昭和15年6月10日の陸軍輸送港域第二区標だった。

小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査  2013年11月

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小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査  2013年11月

2013年11月4日(月 振替休日)快晴。小江・小江小浦・柿泊間の明治県道調査。参加6人。みさき道歩会の例会。3連休中、参加者が少なかったが、有意義な調査となった。
新小江橋9:38—旧道調査—2つ穴岩11:31—流水路11:49—小江小浦12:27(昼食)
13:10—老人ホーム小浦の里前13:29—旧道下り口13:43—柿泊14:05—手熊14:15(徒歩距離 約8km)

長崎市西南部の小江・小江小浦・柿泊間は、福田霊園からの1,2枚目写真どおり、海岸部は特に絶壁で交通不便だった。明治34年測図地形図には、山間部中腹を行く県道が表れている。
5年ほど前、私は旧道を途中まで登ったことがあるが、今回は例会とし柿泊まで歩き、現状を踏査する。

大波止9:04発福田経由相川行で小江バス停に降り、すぐ側の新小江橋の民家横から明治県道に入る。私はバイクで現地集合。ほどよく道は残っているが、分岐で間違うところがあるから注意する。私たちもすぐ237.7mピークへ登ってしまい、約1時間のロスをした。
尾根を急降下し、山腹の旧道に戻った。

坦々とした山間の旧道が続く。小江小浦の上部で沢の石垣道を過ぎると、猪よけフェンスが張りめぐらされたところに、大小2つの岩が立つ。上の方の大きな岩下に穴が2つ見えた。上がって確認すると、防空壕のようで穴中は続いていた。
これから先の道は、すぐかきどまり総合運動公園の流水路で分断される。先も原野やぶ道となり進めない。猪よけフェンス沿いに小江小浦の現市道大カーブ手前まで下り、昼食とした。

午後は以前のバス道で、九十九折しながら老人ホーム小浦の里まで登る。ここに柿泊へ下る旧バス道があるが、明治地図の県道は、もう少し小江原堤の方へ向かい、途中から下っている。前記の流水路先の旧道は、ここに続いていたはずである。
柿泊までは、コンクリート農道となっており、式見沖の神楽島が見える下り。途中に小さな桁石橋が2つあった。柿泊到着が早かったので手熊まで歩く。

手熊台場跡とキリシタン墓はパス。旧手熊橋の大きな親柱と、すぐ先の小川に残るアーチ式石橋を見学し、手熊バス停で解散した。
後ろの写真は、私が小江まで国道を歩いて戻ったときの、柿泊白浜海岸の傘岩、海食洞穴と海水浴場、小江小浦トンネル(小江小浦—柿泊間 延長580m)の風景。
きょうのコースは、少し手入れしたら、歩くのに快適なトレッキングコースとなろう。

高橋輝吉氏稿 「伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石」

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高橋輝吉氏稿 「伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石」

以下は、佐世保市高橋輝吉氏から最近、送られてきた資料。伊万里市周辺の佐世保(長崎)要塞地帯標、佐世保軍港境域標、伊万里軍港境域標などの標石について、これまでの調査結果を5編にまとめられている。
添付資料は数が多いが、私の判断で適当に掲載した。規則・軍港境域図は、「海軍制度沿革 巻15 海軍大臣官房」原書房発行からである。

1 伊万里市東山城(脇野)の旧陸軍省標石  高橋 輝吉

伊万里市東山城(脇野)で、標石等に詳しい方に会った。いろいろ話のある中に、白板のこと、標石地図等、畑地内にあった石(第74号)など。
第73号を撮っていますと、近くの目の悪い方が「字が変ってますか」と。「お宅は目が見えないのに、何んで…」「イヤ、兵隊さんが話していましたから」。
アッと思い、佐世保市立図書館へ。佐世保史談会の郷土誌の中に、柚木村の終戦後の資料があった。陸軍省標石について、「これだ」と思った。佐世保=長崎=。これから大変なことになるかなと思い、脇野方面に10回くらい行ったかなー。
この地方が、明治の石と昭和15年の石とが合わさなり、合点できました。明治の石は山間部に、昭和の石は海岸部に多い。次の「開戦1年前の伊万里湾」を見てください。

2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)

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2−特 竿浦町大山祇神社北上の尾根  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十二号)

長崎要塞第二地帯標「第十一号」を、2013年5月25日、地元の落矢八郎氏がジョギングの途中、竿浦町大山祇神社入口の100mほど手前、サイクリング道路山手側の赤道で発見し、私がきょう現地確認したことは、前の記事とした。

サイクリング道路から注意すると、石段登り口すぐ上に「第十一号」標石が見える。深堀城山の「第八号」と結ぶ落矢ダム尾根の要塞標が「第十三号」だから、ここに「第十一号」が現存するなら、次の「第十二号」もあるはずと思い調査した。

この赤道は、登って行くと、「第十三号」のある落矢ダム尾根と合する。見込みどおり、その途中の尾根道に「第十二号」標石が立っているのを見つけた。大山祇神社の北側上となるあたりの尾根道である。「第十一号」から約20分登る。「第十三号」とのちょうど中間くらいの地点。
「長崎要塞第二地帯標」「第十二号」である。16cm角、高さ70cmくらいの標石。

竿浦町大山祇神社奥の橋を渡り、落矢ダム尾根に出て八郎岳へ登ったことは数回あるが、この「第十二号」が立つ尾根道は、はじめて歩いた。八郎岳鹿の最たる生息域。けもの道に入り込まないよう。「第十一号」「第十二号」の現存が判明したから、深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査は、これからしたい。

2−特 竿浦町大山祇神社近く  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十一号)

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2−特 竿浦町大山祇神社近く  (確認 長崎要塞第二地帯標 第十一号)

長崎要塞地帯略図には、第二地帯標として深堀城山に「第八号」、落矢ダム尾根に「第十三号」が示され、現存を確認している。
これを結ぶ線上の竿浦町山中で、新たに「第十一号」と「第十二号」が見つかった。

「第十一号」については、八郎岳と落矢の地名から名をとった地元の落矢八郎氏HP「とはち通信」第17号を参照。2013年5月25日、同氏が「新たな発見(号外)」として、ジョギングの途中、発見したことを掲載していた。
http://www016.upp.so-net.ne.jp/tohachirou/newpage2.htm

発見場所の説明と地図が、はっきりしない。ジョギングとは、サイクリング道路を走っていて、竿浦町大山祇神社入口付近で、見つけたようである。
きょう、現地確認した。場所は大山祇神社入口の100mほど手前。サイクリング道路は左へ向かい山手側の赤道に、注意すると石段登り口すぐ上にこの標石が見える。

「長崎要塞第二地帯標」「第十一号」である。16cm角、高さ60cmくらいの標石。私はこれまで草住町一帯を探したことはあったが、竿浦町一帯は未済だった。
さて、「第十一号」が現存するなら、次は「第十二号」だろう。この赤道は、登って行くと、「第十三号」のある落矢ダム尾根と合する。見込みどおり、その途中の尾根道に「第十二号」が立っていた。これは次の記事へ。深堀城山側の「第九号」「第十号」の調査はこれからしたい。