長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

深堀陣屋跡の現況 (9)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (9)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957
現況(8)は、https://misakimichi.com/archives/3966

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

以上がこれまでのだいたいの経緯だが、私が情報公開条例による開示請求を言い、大分県杵築市の例や九州大学木島教授の史跡保存に対する見解(掲載略)などを示すと、長崎市側は大いに反省をし、文化観光部長らと少し話し合いがあった。次が今のところ、長崎市文化財課の対処方法の回答である。

深堀陣屋推定位置図(注:入江氏作成の鍋島藩作成絵図と教会設計図を重ね合わせた図。赤が階段、黒が塀、青が当時の建物のよう。図の大きさが合わず、石垣からはみ出しているが、参考のため最後に掲げる)につきまして、早速ご送付いただきありがとうございました。今後の調査や遺構の保護等に参考にさせていただきたいと思います。
ご要望のありました石垣石材の屋外展示場所につきましては、カトリック深堀教会様にもお伝えし、できるだけ見学しやすい場所への検討をお願いしたいと思います。また、説明板の内容につきましても、発掘時の写真を使用するなど、遺構の様子が理解しやすいような工夫ができるよう協議してまいりたいと思います。
こちらから送らせていただいた回答文の内容につきましては、まちづくり推進室の担当にも送付いたしました。今後とも、本市の文化財行政について、ご協力の程よろしくお願いいたします。

さて、いよいよ建設工事は最終段階となり、きのう現地へ確認に行った。教会や工事関係者が数人いて、思うような写真が撮影できなかったが、現況は写真のとおり。
納骨堂前にアスファルト舗装してない柵囲いがあり、遺構の石材はここに展示するつもりだろうか。 教会広報紙によると、工事完成引き渡しは8月中旬、献堂式・祝賀会は9月20日とあった。

高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

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高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

高島港ターミナルから権現山公園展望台方向を望むと、右手にこの岩場が見える。山手の金松寺まで登ると岩が近くに見える。地元では「ゴリラ岩」という。
6月1日みさき道歩会で高島ウオーキングをしたとき確認していたが、S氏が翌週、高島金松寺で開かれたあの桟橋トマトソングシンガーのライブに参加し、詳しく写してきた。

これまで樹木が茂り、岩の姿が良くわからなくなっていた。本年5月に中学生を含む地元の有志が、危険な岩場の伐採作業を行い、再び姿を表したというのが、実状のようである。
この様子は、「高島っ子集まれ!Facebook」の次を参照。  https://www.facebook.com/takashima.ko

深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (8)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

深堀陣屋跡は、文化財保護法に基づく「埋蔵文化財包蔵地」として周知されている。史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。市民や地元住民に対する説明がない。
長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構と出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えない。長崎県にも尽力するよう意見したが、回答は思わしくない。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

次は、大分県杵築市の例。きのう2014年6月26日付朝日新聞社会面に載った。長崎の場合とは、もちろんカトリック教会それも納骨堂部分(私有地)と市立中学校校舎(市有地)の違いがあるが、考古学関係者の指摘や市長の史跡保存に対する英断は大いに見習うべきだろう。

杵築藩主の御殿遺跡、一転保存へ  校舎の建設計画 市長が変更表明

大分県杵築市の市立杵築中学校の校舎建設予定地から、杵築藩主御殿長屋跡など近世の遺跡が見つかった問題で、永松悟市長は25日、遺跡を全て保存し、校舎は隣接地に建てるよう計画を改める、と発表した。
市は2012年3月、校舎の現在地建て替えを決定。その後の調査で藩主御殿の一角をなす長屋跡や豊臣期の石垣などが確認された。昨年末から九州考古学会や日本考古学協会が「御殿や庭園を城下町と一体となすものとして保存・整備する必要がある」と求めていた。
永松市長は「重要な遺跡が校舎に囲まれるのは適当でない。学術的な意見を尊重して保存を決めた。観光にも生かせると思う」と話している。校舎は当初計画の2016年2月完成が、2年半前後ずれ込む予定。校舎はすでに取り壊され、生徒はプレハブ校舎で学んでいる。

「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。
遺構の存在は、地元では以前からわかっており、本ブログでも現況(1)で最初から指摘していた。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

深堀陣屋御屋敷の当時の詳細図面は、長崎や佐賀の県立博物館史料でほとんど見当たらない。現在の国土地理院地形図に、鍋島藩作成の古地図(長崎歴史文化博物館所蔵 文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」深堀本村部分)を重ねたものを入江氏が作成してくれているので、参考としていただきたい。

(2014年7月4日 追 記)
後ろの2枚の資料は、長崎市文化財課が簡単に作成した発掘調査結果報告書。7月3日入手した。納骨堂基礎工事の状況は、現況(5)写真と教会広報紙を参照。

鷺の巣俊寛の伏所  長崎市伊王島町

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鷺の巣俊寛の伏所  長崎市伊王島町

伊王島の史跡地図にも表れず、あまり紹介されていない。場所は位置図のとおり。現地説明板は次のとおり。説明板は最近できた広い市道入口に立っている。ここから50m歩いて下る。分岐は右へ。岩窟ではなく、谷間の平地が伏所か、手前の水場に井戸跡の標柱もあった。
後ろの写真は、左へさらに下った西ノ浦海岸の様子。右手先端に千畳敷岩場のフェンスが見えた。

鷺の巣俊寛の伏所
平家謀叛の罪に捕らえられた俊寛僧都。藤原成経、平康頼は島に遠流に処せられた。やがて成経、康頼は許されて都に帰されたが、俊寛僧都は平清盛の怒りが解けず、一人だけ島に残された。
俊寛僧都は、西の浜辺(鷺の巣)の岩と岩の間に岩窟があるのを見つけ、近くに清い流水もあったので、そこを ねぐら(伏所) にしていたと言い伝えられている。
この付近は、一年中海草や魚介類などの海の幸が豊富で、松林がうっ蒼としており、鷺が巣を作っていたので「鷺の巣」という地名になっている。
俊寛僧都の伏所は、ここより約五十m先にある。また、その近くに俊寛僧都が使用していた井戸(前の川)がある。
長崎市教育委員会

深堀のペーロン練習と伊王島港のブラックダイヤモンド

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深堀のペーロン練習と伊王島港のブラックダイヤモンド

2014年6月1日(㈰)朝方撮影。深堀のペーロン練習、タッちゃんのMIE丸、深堀カトリック教会の建設状況、伊王島港での軍艦島クルーズ船ブラックダイヤモンドの風景

深堀陣屋跡の現況 (7)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (7)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年7月末完成(秋と聞いていたが、教会広報では変更されている)を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

以上、現況(6)のとおり要望していたが、長崎市政提案の5月2日付文化財課回答は、次のとおり。

深堀陣屋跡の調査結果は、平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布して公開する予定です。また、地元深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介する予定です。
調査の公表にあたっては、写真・図面・出土品の整理作業が必要であり、整理作業は事業者に調査費用を支出していただき、本年度に実施する予定です。遺跡の発掘調査の整理は、時間と費用を要しますので、ご理解いただきますようお願いします。
今回の発掘調査で発見された遺構等は教会の新築工事に伴い失われましたが、発掘調査を行うことで、遺構等の記録は保存されています。また、工事内容の変更により、教会の敷地には、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。これは開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題ないと判断しております。
残った遺構の取り扱いについては、未来に継承するため、地中に保存することを管理者であるカトリック深堀教会と協議済みです。屋外展示は遺構の保存管理に費用が掛かり、屋外にさらすことで遺構の劣化が懸念されるため、現在のところ、地中に保存することが、後世に継承するうえで最も適切な方法であると考えております。所有者・事業者であるカトリック長崎大司教区に工事内容を変更していただいたことで遺跡への影響は当初の計画よりも小さくなっています。発掘調査費用の支出や、工事前の発掘調査期間についても配慮をいただいており、今後は整理作業の費用も支出していただく予定となっています。文化財の保護について、これ以上の負担を求めることは、行政の指導として適切ではないと考えております。
深堀陣屋跡の保護につきましては、今後とも所有者のご理解ご協力を得ながら取り組んでまいりたいと考えておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。

この回答の問題点は、次のとおり。
(1)これまでまったく回答や住民説明をしなく、私が情報公開条例により開示請求すると言うと、やっと今回、市は回答に応じた。市政の提案制度が適切に運用されていない。
(2)私たちが知りたいのは、発掘調査の結果、どこにどのような遺構や出土品があり、どのような歴史的価値があるかである。それにはまったく答えていない。
(3)御屋敷跡と思われる礎石石組みが主に見られたのは、南西側箇所である。遺構を壊してまでなぜここに納骨堂を建てたのか。教会、市とも史跡保存に対する見識がない。
(4)かろうじて残ったと思われる納骨堂前の遺構を保存するため屋外展示を要望しているが、まったく両者その気はないようである。
(5)遺構を壊したのをやっと認めた。石造物史跡の屋外展示は多い。屋外にさらすことで遺構がそんなに劣化するのか。地中に保存することは、単なるくさいものに蓋であろう。
(6)柵囲いは石積みで良い。排水工事もそんな費用はかからない。大進建設の奉仕でできるのではないか。教会がしないなら、長崎市の工事でできないか。
(7)長崎市長は、この実情をほんとうに知っているのだろうか。市長の市政報告会が5月27日、市民会館文化ホールで開催される。残された遺構保存にぜひ市長自ら尽力するよう、要望事項に書き出した。
(8)ある方から「将来キリスト教関係の遺跡が破壊された時、同じ気持ちになるであろうことを考えてみてください」とキリスト教関係者、長崎市にお伝えくださいと聞いている。

伊王島灯台からの展望  長崎市伊王島町

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伊王島灯台からの展望  長崎市伊王島町

2014年4月14日(月)、長崎港口にある伊王島灯台の放置されていた次の標石を建て直しに行った。
区—7 伊王島 (確認 長崎要塞区域標? 第十五号)
https://misakimichi.com/archives/272
伊王島灯台から前面に広がる雄大な展望を、参考にパノラマ写真で写してきた。長崎市の課題・要望は、次のとおり。

1 伊王島灯台の近くまで車を入れさせないように、路上駐車を禁じる看板があるが、駐車場の案内がない。島内バスの終点に広い炭鉱住宅跡の空土地があり、駐車場を整備してもらいたい。島内道路狭隘というなら中心アクセスのみ拡幅工事で対応して、積極的に受け入れるべきではないか。
2 遊歩道の舗装が、灯台手前で切れている。国有地かも知れないが、灯台周囲を回る肝心な遊歩道を板石舗装などしてもらわないと、悪天候のとき歩きにくく観光客は困る。
3 伊王島灯台の説明板が、灯台の根元にない。こここそ新旧灯台の歴史や旧灯台の古写真など示す「さるく説明板」が必要ではないか。現在は簡単な「伊王島旧灯台基礎石組」説明板があるだけである。
4 灯台の石垣に立っても、展望案内の写真と説明板がない。せっかくの展望が説明不足となっている。さるくは何も街中だけではない。特に観光シーズンにはさるくガイドの配置も検討してもらいたい。
5 四郎ケ島台場が、長崎台場跡として国指定史跡に3月18日追加指定された。伊王島灯台下に最近建設された展望台は、四郎ケ島と同時に幕末、整備された出鼻台場の遺構を壊したのではないか。史跡保存に対する見識が疑われる。円通庵下台場・出鼻台場・真鼻台場跡は、史跡説明板が必要である。
6 新展望台には、展望説明板があるが、地名や山名の間違いが多い。福田遊園地や平戸島などと堂々と表示している。間違いは早急に是正してもらいたい。
7 灯台下の先端岩場へ下る遊歩道をせっかく下っても、危険ということで先は行き止まりとなっている。これくらいは危険防止の柵をしてどこの観光地でも開発する。ここは海と岩場が見えるようせめて伐採してほしい。 
8 映画やテレビのロケ地案内板も、詳しい説明をつけて積極的に設置してほしい。例えば、最近の吉田修一小説の映画「横道世之介」沖ノ島裏側ロケ地など。
9 伊王島の入り口となる香焼の安保花壇付近が殺風景である。季節の花の種類と面積を広げ、ソフトバンクメガソーラーともにフラワーパークとして整備してほしい。炭鉱跡の説明板も必要である。
10 伊王島は、最近、全国から訪れる人が多い人気スポットである。それにもかかわらずお粗末な観光対応となっている。史跡めぐりやウォーキングにも配慮した島内さるくなどマップを作成し、ターミナルややすらぎ伊王島に数を切らさないにしてもらいたい。

HOME「長崎県の灯台たち」による伊王島灯台は、次を参照。概要は次のとおり。
http://www.nogamidensetu.co.jp/toudai/nagasaki/ioushima.html

6330 伊王島灯台   初点:明治4年7月  国際番号M5194
読み:いおうじま   場所:長崎市伊王島
慶応二年、幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダ4カ国との間で締結した改税条約(江戸条約)で設置を約束した8カ所の灯台の一つです。「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により、明治3年6月に仮点灯、翌明治4年7月に日本最初の鉄造灯台として完成点灯しています。
その後長崎原爆により損傷を受け、昭和29年に四角形の鉄筋コンクリート造(ドームは建設当時のもの)で修復、平成15年に現在の六角形の姿で再建されています。
隣接する「伊王島灯台旧吏員退息所」は同じブラントンの設計で明治10年に完成しています。日本最古の無筋コンクリート構造で、近代化産業遺産に登録されています。
白亜の大きな灯台と洋館の姿は、西洋文明の入口であった長崎の景観に美しく溶け込んでいます。

深堀陣屋跡の現況 (6)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (6)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。
カトリック深堀教会、鉄川建築士事務所、施工業者大進建設は見識を疑う。遺構は埋め戻し、65cmかさ上げ施工したというが、基礎工事を見るかぎりあまり信じられない話である。

破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。

深堀の殿様気分では、納骨堂の霊も居心地が悪いだろう。佐賀藩でも諫早や神代と同じような深堀領だった。佐賀の人にも顔向けができない史跡破壊の実情である。
深堀地区では、長崎市は現在、武家屋敷通りの石塀保存など「景観まちづくり」を強く推進しながら、その核となる深堀陣屋跡史跡の破壊を自分たちの仕業で行っている。

香焼のチューリップ見ごろ  長崎市香焼町

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香焼のチューリップ見ごろ  長崎市香焼町

2014年3月30日夕方に妻が撮影。香焼・安保地区の花壇は、「伊王島大橋」へ向かい、香焼トンネルの手前となるので、出かけてください。
約2千平方メートルの花壇に、住民が育てた約5万本のチューリップを植えている。赤、黄、ピンクなど色鮮やかな花が咲き誇り、4月中旬まで楽しめる。

海岸側の炭鉱埋立地には、「ソフトバンク長崎香焼ソーラーパーク」ができたこともあり、辺りを一体化して花壇の名称は、「長崎香焼ソーラー・フラワーパーク」とか長崎市でネーミングできないだろうか。

史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

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史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治氏稿

平 幸治氏は芦屋市在住、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者。2014年(平成26年)2月9日(日)付長崎新聞文化欄カルチャーサロンの寄稿記事。深堀地区の景観まちづくりに貴重な資料となるので、筆者の了解を得て再掲する。
詳述は、「肥前国 深堀の歴史」(新装版)教育の項352〜357頁にある。扁額の写真も、同
353頁から。

後の写真は、現深堀小学校の校庭に展示されている旧校門石橋の遺構と、武家屋敷通り樋口家の石塀改修工事の様子(見学会は開催済み。タッちゃんブログが載せていた。)
この項は、本ブログ「深堀陣屋跡の現況(5)」も参照。長崎市の対応は、重大な禍根を残した。  https://misakimichi.com/archives/3922

史談・史論「深堀小学校の文化財」  平 幸治
豊かな教育史示す額

筆者の母校、長崎市立深堀小(同市深堀町)は長崎市内で最も古い歴史を有する小学校である。同市内ではふつう勝山小(現桜町小)が最古といわれる。たしかに近代的な学制により明治6(1873)年3月に設置された向明学校つまり勝山小が翌7年7月設置の深堀学校より古い。しかし深堀学校はそれ以前の佐賀藩深堀領の郷学校を継承したもので、こういう前史を有する小学校は長崎市内では深堀小のみである。
江戸時代、佐賀藩領であった深堀や諫早、神代にはいずれも藩校に準ずる郷学があった。深堀では既に寛永年間(1624〜1643)には学舎を創設し家臣子弟の教育を行っていたが、幕末ごろには領主邸内に学館を構え校名を羽白館(うはくかん)と称した。羽白は論語の「学而時習之」から習の字を分解したものである。安政7年(1860)に校名を謹申堂(きんしんどう)と改めた。領主鍋島茂精(しげきよ)の要請で佐賀藩儒学者草場佩川(くさばはいせん)が「孟子」の章句から名付けたものである。深堀小には佩川筆「羽白館」と「謹申堂」の扁額(へんがく)が現存する。
謹申堂では漢学・洋学・算法・筆道・習礼および槍剣(そうけん)を教授し文武両道を学ばせた。また維新後には英学教員一名がいて、いち早く英学も教授したことは特筆すべきである。生徒数は通学生約80人、寄宿生20人、生徒からの束脩(そくしゅう)謝礼は不要で生徒のうち15人は官費生であった。春秋2回試験を行い優秀者には賞を与えた。領主茂精も佐賀から帰領するたびに生徒にテストを試み督励したという。また上進者は佐賀の藩校弘道館に遊学させた。
明治維新後は佐賀藩深堀郷学校、長崎県官設移管、深堀義塾に改称と変遷した。さらに政府の学制発布をうけ明治7(1874)年、第五大学区第一中学区深堀学校として継承し現在に至っている。また同19(1886)年、高等小学校の制度発足により野母半島18カ村の共立として第三高等小学校が置かれたのも深堀で、当時の深堀は教育の要地でもあった。
深堀小には前述の扁額の外にも副島種臣筆「深堀学校」、時の文部少輔九鬼成海筆「天任徳」の扁額が遺る。これらは教育史上貴重な文化財と言ってよい。
しかし同校が160年以上の歴史を持つことや、同校に伝来するこの貴重な資料の存在はあまり周知されていないようである。
豊かな歴史を有する深堀は地区内に多数の史跡も残る。こういう生の教材を活用して子どもたちが郷土の歴史に学び、郷土に対する愛着と誇りを育むことは、地域の活性化のためにも極めて大切ではなかろうか。  (六史会会員)