長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (5)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884

深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、行われている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果が公表されていない。最初の写真が、現在の教会。
周辺の石組みの保存方法について、「現状のまま維持保全してほしい」という要望書を教会関係者と文化財課、まちづくり推進室に送りましたが、当然反応はないと、12月2日、地元出身の心ある要望者(「肥前国 深堀の歴史」著者・芦屋市在住平氏)から聞いている。

工事開始から3か月が過ぎた。現地広場へ行って見ると、南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊され、深く掘り下げた基礎工事があっていた。
下の広場に無造作に積まれている石は、この礎石などではないのだろうか。そのまま埋め戻した形跡はない。手前フェンス内のは武家屋敷通りの壊された石塀などである。
ここに建てる建物は何だろうか。納骨堂や便所と思われる。「深堀陣屋資料館」として、歴史史料、遺構写真など展示し、石組みも残して見学できるようにしてほしかった。遺構を壊してまで、わざわざここに建てる必要がある建物なのか。

史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。深堀陣屋跡を長崎市史跡として指定しないのだろうか。市民にはまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を提出しているのに、明確な回答をしない。
建設工事の概要を、私たちは知ることができない。現在の教会前の広報板に、建物バースがあった。説明がないが、これが新しい「カトリック深堀教会完成予想図」と思われる。

また、教会広報紙「ひろがり」3月1日付第124号を掲示していた(ズーム拡大)。紙面は「深堀教会の紹介」でもHP検索できるが、新しい号にはまだ更新されていない。
http://www9.ocn.ne.jp/~fukahori/kouhou.htm
記事には「教会建設少しづつ目に見える形に」とある。史跡保存をどうするのか、どうしたのかのは、まったくわからないニュースである。

教会主体で建設工事が行われるのは、やむを得ないが、史跡保存にもう少し配慮するよう、長崎市文化財課が見識を持って強力に、教会側を指導するべきではなかったろうか。
将来に最も重大な禍根を残した深堀陣屋跡史跡破壊の実情だろう。私も早く現地を訪ねておけば良かったと、今、悔やまれてたまらない。
市指定天然記念物「深堀陣屋跡のアコウ」説明板も、現状は無神経としか言いようがない。

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)が再刊

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平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)が再刊

地元深堀出身で現在芦屋市在住の、平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)が、長崎新聞社から再刊されている。長崎市深堀の異色の歴史について集大成。史料を駆使して克明に描いた本格的郷土史。
2002年(平成14年)に初版発売後、完売。待望の新装版。有名書店などで発売中。
A5版 673頁 定価2,800円+税。
巻頭の平成25年10月著者再刊のことばは、次のとおり。平氏は「みさき道」において、「関寛斎日記」原文解読など、たいへん尽力いただいた。

新装版印行にあたって

『肥前国 深堀の歴史』は限定小部数の自費出版であったためすぐ絶版となり、その後も読みたいという問い合わせがあったが、応えられなかった。
このほど内容はそのままに装を新たにして再刊することとした(ただし明らかな誤植は訂正し、巻末に補注若干を加えた)。
10年も前の、資料を切ったり張ったりの寄せ集めに過ぎないような作物であるにもかかわらず、改装版を印行するのは、わが郷土深堀の歴史に興味関心を寄せ深堀を愛する人が少しでも増えて欲しいと願うからに他ならない。とくに深堀の長い歴史を知って郷土に誇りを持つ子どもたちが増えることを切に希う。

深堀遺跡の発掘は引き続き都度行われ、中世の資料など「多くの重要な調査成果が蓄積されつつ」あり、「発掘資料と文献資料の比較・照合による当該期研究の進展が期待できる」(長崎市教育委員会 2005年『深堀遺跡』)という。さらに平成24年4月、深堀は長崎市の景観形成重点地区に指定され、「長い歴史を有する深堀の歴史と一体となった景観形成」が期待されている。
深堀の歴史を知ることは深堀の町づくりにも資するものと思われる。
この度も長崎新聞社出版室にお世話になった。…(以下、略)

深堀陣屋跡の現況 (4)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (4)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877

長崎市文化財課の2回による発掘調査は、11月29日に終了している。深堀カトリック教会新築の定礎式は、11月24日にあり、現在は広場に工事基礎打ちが行われていた。
なお、深堀陣屋跡などの市文化財指定について、長崎市政への提案による回答は、次のとおり。今回の発掘調査でどのようなものが見つかったか、文化財課は概略でも、回答の中で報告してもらいたかった。深堀陣屋跡の史跡保存に、ひとりでご苦労されている地元出身で現在芦屋市在住の平様(「肥前国 深堀の歴史」著者)の陳情内容にもふれるべきだろう。

平成25年12月10日付 長崎市広報広聴課長・文化財課長回答     

ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について、次のとおり回答いたします。
1 深堀陣屋跡の市文化財指定について
深堀陣屋跡は、埋蔵文化財包蔵地、すなわち遺跡として保護されています。所有者であるカトリック長崎大司教区からの委託を受けて、平成25年11月8日から平成25年11月29日まで長崎市が発掘調査を実施しました。ご覧になられたのは整地工事ではなく、重機械による発掘調査区の表土掘削と思われます。
平成25年7月22日から8月9日に長崎市が実施した遺跡の確認調査の結果を経て、教会の新築工事が遺跡に影響を及ぼす部分についてのみ発掘調査を実施しております。管理者である深堀カトリック教会も、当地の保護については、新築工事後は現状維持に努めると理解を示しておられます。
なお、史跡指定の必要性については、所有者の意向、発掘調査の結果による遺構の残存度合や価値などを踏まえた上での検討が必要と考えております。
市指定天然記念物「深堀陣屋跡のアコウ」説明板については、深堀カトリック教会から、当地の周辺の伐採の折に破損したため、深堀教会の新築工事と併せて説明板の補修を行いたいとの報告を受けております。

2、3 戸町の石橋およびみさき道の現存する標石の市文化財指定について
戸町4丁目の石橋については、現地を確認させていただきました。
長崎市では、現在、歴史・文化・産業・自然等について、文化財を中心に総合的に把握し、適切に保存活用し、まちづくりに活かしていくため、「長崎市歴史文化基本構想」の策定を進めております。この構想策定の中では、指定・未指定を問わず、市内にあります有形・無形の歴史・文化遺産について、まず、所在や内容に関して調査及び把握を行います。ご提案の石橋のように、これまであまり広く知られていなかった歴史文化遺産についても、その中で整理していきたいと考えております。
なお、文化財の指定を含む取扱いに関しましては、今後、文化財審議会委員など専門家の現地指導を含め、市内における近代の石橋の中での位置付けや文化財的価値を整理し、その可能性について探っていきたいと考えております。
貴重な情報の提供ありがとうございました。今後も本市の文化財保護へのご協力をよろしくお願いいたします。

深堀陣屋跡の現況 (3)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (3)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869

長崎市文化財課による発掘調査は、(2)から半月ばかり経過し、新しい発見がないか、きのう(12月1日)、その状況を現地確認に行った。
発掘調査の範囲は全面に広げられ、50地点ばかりとなって、深く掘り下げられたところもある。

御屋敷跡の礎石や踏み石と思われるものは、最上段広場の南西奥側にしか見られない。幼稚園やカトリック教会から登った手前側には、ほとんど見られず、中央部は岩盤の地肌が多かった。手前側に新しい教会を建築するのだろうか。掘った土を盛ったところに、定礎式をした目印のようなものが立っていた。

広場下の長崎市指定天然記念物アコウの現地説明板は、はがれていたが、支柱にビニール紐でくくられていた。

深堀陣屋跡の現況 (2)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (2)  長崎市深堀町5丁目

深堀5丁目の深堀陣屋は、御屋敷と呼ばれ、佐賀藩深堀領主の居城だった。春先頃から深堀陣屋跡の周囲立木のほとんどが伐採され、遠くから石垣が望まれ、居城跡の全容がわかる。
先日、現地の高台広場を訪ねたところ、整地工事中。現在の中段にある「深堀カトリック教会」をここに新築し、来年秋の今頃、完成予定と聞いた。長崎市文化財課による史跡調査は、行われたのだろうか。以上は、本ブログ前の記事(1)を参照。
https://misakimichi.com/archives/3862

この記事をブログで見た芦屋市平幸治氏から突然、電話を受けた。平氏は「みさき道」の関寛斎日記原本の解読などでたいへん協力いただいた。地元深堀出身で、長崎新聞社刊「肥前国 深堀の歴史」著者である。
私はこれまでまったく知らなかったが、10月初めから「深堀陣屋遺構の適正かつ完全なる保存維持をはかり、まちづくりへの積極的活用を検討されるよう」関係先へおひとりで陳情活動をされていた。

「歴史的文化財の保存の時機を逸すれば破壊損失につながる事例は深堀町5丁目の武家屋敷跡石塀の状況に鑑みれば明白であります。今回の機会を逸することなく関係各位のご尽力を切望いたします」と、長崎市文化財の史跡に早く指定するよう嘆願している。
さて、長崎市や教会側の対応である。きのう再び現地を訪ね、少し調べてみた。

「深堀陣屋跡」については、平成3年5月、長崎市南公民館どじょう会「城郭他遺構調査書」がある。遺構の詳しい調査まで実施されていないが、図面など参考となる。
きのう、現地を訪ねると、長崎市文化財課の発掘調査が行われていた。陣屋跡の最上段南西側を掘っており、当主の居間と思われる御座?の礎石が連なって発見され、写真を写してきた。
陣屋下の門柱?も現存。慶応年間の深堀日記に記録がある堀底道は、有海の波止内から続いて登っていることが確認できた。

現在の中段にある深堀カトリック教会前の掲示板には、小教区広報紙「ひろがり」第120号があった。工事の日程、手順と報告があり、特に三、四、五は、遺構にふれているので拡大した。
整地工事中と書いたのは、発掘一部調査の見誤りだったようである。
私はこの件に何も関わることはできないが、過日、長崎市政への提案で「長崎市文化財課による史跡調査は、どの程度行われたのでしょうか」と、疑問は質している。

なお、隣地の市有地広場は、平氏調査によると「おそらく渡辺聞櫓の別荘豊睡園跡地であろうと思います。…江藤新平が佐賀の役の直前に逗留した場所であり、陣屋跡と一体的に歴史公園として整備してもしかるべき歴史的場所」である。
深堀町5丁目の武家屋敷跡石塀の解体石は、この広場に積まれ保管されていた。
最後は、有海にある「波止崎標識?記念碑」と、長崎市立博物館編「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年発行24頁の資料。

深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

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深堀陣屋跡の現況 (1)  長崎市深堀町5丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町だった深堀(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
「深堀陣屋跡」の現地説明板、及び中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は、次のとおり。

深堀陣屋跡
この地に深堀能仲が地頭として下向したのは、建長7年(1255)のこと。深堀氏、本姓は三浦で、上総国深堀(千葉県大原町)の出身。
能仲が、承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、ここは領主の名をとって深堀と呼ばれた。深堀陣屋とは、深堀藩主の居城のことであり、通称は御屋敷と呼ばれていた。現在地(註 説明板設置の幼稚園の場所)は囲馬場(かこいばば)のあったところである。

(24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

春先頃から深堀陣屋跡の周囲立木のほとんどが伐採され、遠くから石垣が望まれ、居城跡の全容がわかる。きのう、現地の高台広場を訪ねたところ、整地工事中。
現在の中段にある「深堀カトリック教会」をここに新築し、来年秋の今頃、完成予定と聞いた。

長崎市文化財課による史跡調査は、行われたのだろうか。市指定天然記念物アコウ説明板は、説明部分が風のためか支柱からはがれて飛ばされ、無残に地面に放置されていたので、根元に置いた。こんな管理も、市は必要ではないか。

長崎ペンギン水族館  長崎市宿町

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長崎ペンギン水族館  長崎市宿町

10月15日、長崎ペンギン水族館へ。孫娘のつきあい。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による説明は、次のとおり。

長崎ペンギン水族館(ながさきぺんぎんすいぞくかん)は、長崎県長崎市宿町にある市立の水族館。
概要 
1959年に開館した「長崎水族館」を前身とする。長崎水族館は1998年3月31日に一旦閉館したが、規模を縮小した上で2001年4月22日に「長崎ペンギン水族館」として開館した。
2005年現在で8種類のペンギンを飼育し、名のとおりペンギン飼育をメインにおいた水族館である。他にも魚類、甲殻類など多数飼育している。
また、従来の水族館ゾーンに加え、水族館前の日見川河口域と海岸を活かした「自然体験ゾーン」があるのも特徴である。…

映画「横道世之介」の長崎ロケ地などを訪ねる

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映画「横道世之介」の長崎ロケ地などを訪ねる

東京から長男が帰省中。映画「横道世之介」の長崎ロケ地、伊王島・香焼・神の島・柿泊・蚊焼などを訪ねた。写した写真は必ずしも映画のロケ地どおりではない。
映画「横道世之介」資料は、長崎観光ポータルサイト「ながさき旅ネット」から。作品紹介は、次のとおり。2013年2月から全国でロードショーがあった。

原作は、「パレード」「悪人」などの著作をうみだした吉田修一氏の「横道世之介」。第23回柴田錬三郎賞、2010年本屋大賞3位を受賞した、“青春小説の金字塔”と呼ばれる長編小説です。監督は「南極料理人」「キツツキと雨」の沖田修一氏。二人の手により、不器用ながらも真っ直ぐに生きた世之介と周囲の人々が、温かくそしてユーモアたっぷりに描かれています。

景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

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景観まちづくりトーク&ウォーク 「俵石城の縄張り構造と深堀氏」

かつて深堀地区の城山に存在した俵石城(たわらいしじょう)と深堀氏の関係性についての講演を聞き、実際に俵石城跡まで歩きます。
<期日>  2月24日(日)
<時間>  午前10時〜午後5時 ※講演は午前10時〜正午
<場所>  深堀地区公民館(深堀合同庁舎)
<講師>  木島孝之氏 九州大学大学院 助教・城郭研究者

「俵石城の縄張り構造と深堀氏」
九州大学の木島孝之先生が長崎市深堀にある俵石城について講演。ここ30年ほどの城郭研究では「縄張り研究」が盛んです。この研究の特徴は,城郭の縄張り(曲輪・堀・土塁・石垣等の土木物や建築物で構成される城郭のかたち)の構造に着目し,史料として活用する点にあります。この「遺跡から読み解く」手法は当たり前!と思われるかもしれませんが,城郭研究ではほとんどされてきませんでした。
講師の木島先生はこの視点から研究を行っている研究者です。木島先生は学生時代から文献を読み解くというよりは,あちこちの山城に行って発掘をしている!というスタイルでした。

2013年2月24日(日)快晴。景観まちづくりトーク&ウォーク「俵石城の縄張り構造と深堀氏」に参加した。資料概要は次のとおり。
〔1〕はじめに
〔2〕俵石城の縄張り構造
現存遺構の成立時期
・俵石城の創始は鎌倉中期頃とされるが、当城に限らず、当期の城郭の実態は全国的にも全く不明。
・戦国後期に出現する畝状堅堀群が存在。西海地域の城郭では最も発達した部類の石塁技術を持つ。
・織豊系の縄張り技術(枡形、食違虎口、横矢掛り、4mを越す高石垣、割肌・矢穴石垣、畿内系瓦など)がみられないー豊臣政権期以降の土木的な改修は特に行われていないと考えられる。
⇒俵石城の現存遺構の成立時期は、戦国後期ー16世紀後半(永禄〜天正期中期)とみるのが妥当。
〔2−1〕俵石城の縄張りの形態
①高山上に立地…戦国期城郭では比高300mのものは高山の部類に入る。
②地形に沿った楕円形状・単郭構造の曲輪…長辺300m・短辺100m
③石塁に曲輪が囲郭する。
④戦国期の在地系石垣技術…片岩積み。または荒割石。
高さは2.5m程度まで。高所はセットバック技法。
⑤曲輪内部の削平が甘く、自然形態を多分に残す。
⑥虎口は、技巧的なプランが発達せず、規模も小さい…単純な平入り虎口
⑦西海地方では数例しかみられない畝状堅堀群を使用…しかも堅堀相互の間隔が広い
タイプは希少。全国的にも、かなり巨大な幅と長さを持つ堅堀
〔2−2〕俵石城の縄張り構造からみえる戦国末期深堀氏の権力構造
〔松浦型プラン〕
〔2−3〕俵石城と朝鮮南沿岸部巨済島の城郭との類似性
〔3〕深堀鍋島氏の成立事情の再検討
〔4〕大配配分格深堀氏「私領」における江戸期の「御屋敷集落」

「俵石城縄張り図」では、8本の畝状堅堀群が表示されている。善長カトリック墓地下の山中に長さ100mくらいの横堀?を、私は以前から見ている。水路のような感じもするが、念のため確認をお願いしたい。(最後の2枚の写真のとおり)