長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真である。撮影年代は、写真左端の梅香崎居留地の埋め立てがすでに完成しているので文久2年(1862)以降、さらに、大浦居留地の端の大浦川に、明治3年に架設される下り松橋(松ヶ枝橋)が見えないので、幕末から明治3年(1870)までの写真である。長崎大学所蔵の、この角度から撮影した写真の中で、最も古い写真である。写真左の松の木の向こうの一群の建物は出島で、変流前の北側から見た出島である。松の木の手前は、長崎奉行所の北役所の建物である。出島から写真右にかけての沿岸部は、大波止から浦五島町、大黒町にかけての沿岸部である。写真右隅が、現在のJR長崎駅付近である。明治10年(1877)起工明治26年(1893)完成の第1次長崎港改修事業による、沿岸部の時津新道がまだ完成していないので、写真の沿岸部は江戸時代の状態であり、それぞれの家の裏側が海に接している。大波止から大黒町にかけての沿岸部には、各藩の蔵屋敷や倉庫業等の規模の大きい屋敷が連なっている。

目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。船の配置から(1-35)と同じ写真である。撮影年代は、明治23年(1890)以降明治30年(1897)までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、その左に県庁舎があり、その右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、時津新道が建設されている。写真左側の緑の平地は、旧佐賀藩の砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の写真【目録番号2899(整理番号58-30)】と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫群が形成されている。写真下部中央に家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1889)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。

■ 確認結果

長崎税関では一般の方々に広く税関の役割を知っていただくため、長崎税関本関1階(長崎市出島町)に資料展示室を設けており、どなたでも無料で見学できます。(長崎税関HP)
【資料展示室の主な展示内容】
・長崎税関の歴史  ・税関業務の紹介 ・管内の輸出入品 ・けん銃、不正薬物の密輸の手口 ・コピー(偽ブランド)商品 ・ワシントン条約該当物品 ・引揚者からお預かりした証券類 などを実物や写真・パネルで紹介しています。

「長崎税関の歴史」パネルは、税関の前身である「運上所」下り松派出所の建物の位置などを説明するため、上段にデータベースの目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」、中段に目録番号:2249「長崎港のパノラマ(2)」、下段に「現在の長崎港(長崎市役所提供)」の写真を展示している。
撮影地は、いずれも立山山頂かその中腹となるが、古写真と比較した現在の撮影地は、正しく解明されていない。さまざまな疑問がある現在の写真が紹介されている。

長崎港の全体をなるべく写したかも知れないが、その面では「現在の長崎港(長崎市役所提供)」も、安易な市の提供写真と思われる。
現在の正しい写真が撮影できないならともかく、長崎港口の山の稜線や島々の姿が、古写真の2点と合っていない。長崎市広報広聴課にも、この際、撮影地の徹底した研究をお願いした。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2328

長崎の古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
福済寺裏山から長崎市街地北部と長崎港口を撮影した写真である。目録番号2900(整理番号58-31)と同じ場所から撮影したもの。明治29年(1896)に建設された中町教会が写されている。明治32年(1899)7月17日外国人居留地が撤廃され、同年8月要塞地帯法が公布され、長崎市内の写真撮影が禁止された。このために、撮影時期は明治29年(1896)から明治31年(1898)までの間である。安政5年(1858)から撮影され始めた市街地の写真は、明治32年(1899)に禁止になったので、最後の時期の1枚ものの写真である。写真下部は、戦前には国宝建造物(現国指定重要文化財)であった福済寺の本堂の屋根である。中央の赤い煉瓦の建物は、旧大村藩屋敷跡に建設された完成直後の中町教会である。いずれも昭和20年(1945)8月原子爆弾で全壊した。写真右の煉瓦の建物は、煙草専売公社の建物である。写真中央の沿岸部には、海側に向いた倉庫の建物が並んでおり、国内航路により流通する物資が保管されている。長崎大学所蔵の中の写真で、最後の時期になる写真である。

目録番号:5110 長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
〔画像解説〕  なし

■ 確認結果

目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」と、目録番号:5110「長崎福済寺上からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」を、3枚組のパノラマ写真とした画像を、HP”NAGASAKI GENEI”の「長崎手彩色古写真」で見た。
キャプションは、たしかに左側の写真から「B 205」(この写真はデータベースで見当たらない)、「B 206」、「B 207」とある。

撮影地は、「福済寺」の旧本堂「方丈」(原爆後、向きを変えて再建されている)の後ろ高台墓地からであろう。右側写真の大屋根が「福済寺」の本堂「大雄宝殿」で、現在、萬国霊廟長崎観音が建っている。

これがパノラマ写真に間違いないとすると、長崎大学は撮影年代とも研究を行い、データベースはそのように正しく解説してほしい。この項は、本ブログ次も参照。
中央の写真、目録番号:4215「長崎港と中町教会(2)」の寺の屋根が、「福済寺」の本堂「大雄宝殿」でないことは、すでに指摘していた。
https://misakimichi.com/archives/1885
https://misakimichi.com/archives/1577

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む
〔画像解説〕  超高精細画像
南山手の先端、グラバー住宅付近から長崎湾奥を見た写真である。船の形から、幕末から明治初期の写真である。上野彦馬アルバムに貼られているものである。長崎湾の中央におびただしい数の艦船が結集している。多くの船はまだ機帆船で、近代的な艦船になっていない。このことから、写真の撮影時期がわかる。写真の左手は、飽ノ浦・稲佐地区で、左隅の白い建物の一群は、官営飽ノ浦製鉄所の建物である。その先に、稲佐地区の岬が見えている。右岸側は長崎市街地の沿岸部であり、浦五島町から大黒町である。市街地の北の端が西坂の丘である。右上の山は立山で、山裾の建物は、筑後町の寺院群である。写真正面の岬の突端に聖徳寺が見えている。そこから下、写真中央の海岸線が浦上新田である。その後、明治・大正・昭和と長崎湾の埋め立てが進み、長崎湾のこのような広大な姿を見ることはできない。幕末から明治初期の開港後の雄大な長崎港の姿を撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月9日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
5301「南山手より長崎港湾奥を望む」の作品が、「明治初期の長崎港 まさに船の博物館」として掲載された。解説は、
「国内外の艦船でにぎわう長崎港です。1872年ごろ、上野彦馬が撮影しました。外国人居留地の地図で確かめてみると、撮影地はグラバー邸の建てられた3番付近のようです。…」

さて、撮影地は、「グラバー邸の建てられた3番付近」だろうか。長崎大学データベースの「長崎居留地マップ」を掲げるので、考えてもらいたい。
この作品のポイントは、左奥の稲佐山の北東尾根と岩屋山稜線の重なり具合である。撮影地が「グラバー邸の建てられた3番付近」では、高度が高く重なりがあわない。
あと一段下の7番と9番の間の通りを、6番か54番(現在の長崎海洋気象台)の坂段か敷地の高台から撮影しているのではないか。

あと1点は、写真右側の通りの下に、大きな旗竿が立つ。この建物の説明も必要だろう。それによって撮影年代がはっきりしてくる。
この項は、本ブログ次を参照。「長崎今昔」の解説は疑問が多い。少しは本ブログの以前からの指摘を参考として、現地確認などを必ず実施してほしい。
https://misakimichi.com/archives/1894
http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/archive/2009/1/6

長崎の古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 978 長崎製鉄所飽の浦工場
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、飽ノ浦製鉄所の整備された時期の工場を撮影したものである。長崎大学附属図書館には、これより古い写真目録番号5314(整理番号102-20)がある。その写真と比べると、工場内の建物が幾つか建て代わり、また新しい建物が整備されている。長崎が開港する前の安政4年(1857)には長崎港の東側、飽の浦地区(現在の三菱造船所)では、幕府はオランダ人ハルデスの指導のもとに、大型船の建造を目的とした長崎製鉄所の建設を始め、文久2年(1862)に完成させている。この長崎製鉄所は、主に機械施設が中心の工場であった。煙突のある鍛冶場は、ボイラー室で煉瓦造の建物である。右の建物は、日本で最初に鉄製のトラスの小屋組を採用した轆轤盤細工所で、多くの工作機械が据え付けられていた。この写真は、工場を高台から撮影しており、そのために遠景が湾の奥まで見えている。写真左の先にある岬は、稲佐地区の集落である。市街地は写真の左から右にかけて、西坂から、大黒町の砲台場、浦五島町が撮影されている。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年2月2日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
978「長崎製鉄所飽の浦工場」の作品が、「飽の浦の長崎工作分局 外国人招き技術移植」として掲載された。解説は、
「1879年ごろ、上野彦馬が撮影した飽の浦の長崎工作分局です。現在の三菱重工業長崎造船所の前身に当ります。…」

さて、撮影者が長崎大学データベースでは、「撮影者未詳」のまま、超高精細画像やこの新聞記事では、「上野彦馬」となっている。〔アルバム名: 上野彦馬〕のため、そう判断されたかも知れないが、 「上野彦馬」撮影とする根拠を具体的に説明してほしい。データベースがいつまでも「撮影者未詳」のままでは、利用者・読者は困惑する。
目録番号で一連の写真976〜984についても撮影者の考えを聞きたい。

次に撮影年代だが、「1879年(明治12年)ごろ」とは、初期の長崎製鉄所の姿からだけで判断されているようだが、作品の黄線部分に注視し、超高精細画像で拡大して見てもらいたい。
丸尾海岸の海軍埋め立て地の建物様子の観点からも、撮影年代の研究を慎重にする必要があろう。明治10年のイギリス海軍の長崎港の海図と明治13年の日本海軍の海図(元は同じ)には埋め立て地に細長い倉庫が1棟だけしかなく、明治17年測図の国土地理院旧版地図には3棟が並んで建っている。

同所を同じように写している「飽の浦恵美須神社写真の成立順序」囂庵氏考察HPにも表れ、このあたりは、古写真研究者の間でも研究課題である。撮影年代の研究も、対象を広げて深めてもらいたい。
この項は、本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2333

長崎の古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3863 立神ドック(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3863 立神ドック(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、長崎市街地の長崎港を挟んで西岸の立神にある、三菱会社の立神ドックである。写真右側の海の向こうに東山手居留地が遠望できるが、東山手の丘の上にすでに活水学院の明治15年創建のラッセル館が見えている。明治10年(1877)代後期の写真である。目録番号4729(整理番号93-21)の写真は、ほぼ同じ角度から撮影した写真であるが、施設の整備状況からみて、こちらの写真が5年程経たものである。ドックハウスが完成し、ドックの周りにさまざまな施設が整備されている。ドックには修理のために、戦艦が入っている。立神ドックは明治7年(1874)、フランス人技師ワンサン・フロランの指導によって構築され、明治12年(1879)に竣工した。長さ135.7m、幅33.4m、深さ、11.6mの本格的なドックである。明治17年(1884)7月長崎造船局は三菱に払い下げられ民営になった。写真は明治20年(1887)代の、三菱会社に払い下げられた後の立神ドックを撮影した写真である。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年1月26日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
3863「立神ドック(1)」の作品が、「三菱造船所の第1ドック 法規制前、自由に撮影」として掲載された。
新聞記事の解説で、今回も疑問を感じたのは、撮影者を推定する次のキャプションの部分。

「…写真の右隅に「B208 TATEGAMI DOCK NAGASAKI」と印字されています。数字の前にアルファベットがつくのは、イタリア人写真家ファルサーリか東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國の写真ですが、特定できません。…」

長崎大学データベースで長崎関係をザッと調べると、数字の前にアルファベット「B」がつくのは、次の作品がある。画像が小さいのは、判読不能。
B ?   目録番号:2878 南山手ベル・ビュー・ホテル入口  撮影者:未詳
B 208 目録番号:3863 立神ドック(1)  撮影者:未詳
B 206 目録番号:4215 長崎港と中町教会(2)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4216 諏訪神社の鳥居(3)  撮影者:A.ファサリ
B 219 目録番号:4802 中島川と万橋  撮影者:A.ファサリ
B 222 目録番号:4803 諏訪神社の鳥居(4)  撮影者:A.ファサリ
B 220 目録番号:4804 中島川に架かる桃渓橋(4)  撮影者:A.ファサリ
B 218 目録番号:4806 南山手からの大浦居留地(4)  撮影者:A.ファサリ
B 203 目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島  撮影者:A.ファサリ
B 212 目録番号:4808 長崎ホテル(2)  撮影者:A.ファサリ
B 211 目録番号:4809 長崎駅(現浦上駅)(1)  撮影者:A.ファサリ
B ?   目録番号:4810 諏訪神社旧中門(3)  撮影者:A.ファサリ
? 227 目録番号:4813 茂木街道(5)  撮影者:A.ファサリ

「アルバム名: ファサーリ写真集」からの写真が多いため、イタリア人写真家「撮影者:A.ファサリ」としたのが多いが、はたしてそうだろうか。「東京の鹿島清兵衛、または横浜の江南信國」撮影とは、あまり考えられない。
前の記事で、数字の前にアルファベット「A」がつくのを考えてみた。今回の「B」も、もちろん「特定できません」と断っているが、「撮影者:A.ファサリ」とするのは、数々の疑問がある。ここでは、詳しく述べない。

私が調べた上記「B」リストを参考にして、長崎大学附属図書館及び「長崎今昔」執筆者において、「A」の場合とともに、撮影者の正しい研究を進めてほしい。
「証拠は存在しない。新聞発表に仮説をむやみに使うのは如何かと。…古写真は少数の専門家のものに情報が集中されていると、間違いをディスカッションによって訂正していくプロセスが失われてしまいます」との感想を聞いている。
朝日新聞「長崎今昔」で、最近4回立て続けにこのような事例があった。あえて問題としておく。

長崎の古写真考 目録番号:2866 諏訪神社境内(1) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2866 諏訪神社境内(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2866 諏訪神社境内(1)
〔画像解説〕  超高精細画像
長坂を上がり総門をくぐった正面から、左側に肥前有田(現佐賀県有田町)から明治4年(1871)に献納された高さ約2.7mの陶器製常夜燈、街灯、右側に明治3年(1870)奉納の青銅の馬、明治2年(1869)に再建された諏訪神社中門の風景である。中門は別名四礎門とも言われた。木造檜皮葺、流破風造りの建物で、正面には菊花紋、屋根下には「正一位諏訪三所」の扁額が掲げられていたが、写真ではみえない。中門の左右は透塀で、左右の回廊に続いている。前の広場は能馬場と呼ばれ、能舞台があったところである。諏訪神社は現在の松森神社の地に、寛永2年(1625)再興され、慶安4年(1651)現在の場所に遷宮した。この中門は延寳7年(1679)に創建され、享保3年(1734)の改修後も度々修理が行われたが、安政4年(1857)の火災により焼失した。明治2年(1869)に再建され、さらに昭和58年(1983)御鎮座360年を迎えて大改修が行われた。

目録番号:3871 諏訪神社(3)
〔画像解説〕
明治中期(1887)頃の手彩色の写真。諏訪神社参道の入り口の大鳥居と諏訪神社を見た写真。鳥居の左側に、近代的な街灯が見え、近代化しつつある長崎が分かる。秋のくんちで有名な長崎の氏神である。

目録番号:2867 諏訪神社の長坂(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
下から順に秋の大祭の奉納踊りが舞われる踊馬場、その見物席となる73段の長坂、長坂の登り口に享保7年(1722)町年寄高木作右衛門献納の常夜灯、総門及び回廊を踊馬場入口から撮影した諏訪神社の風景である。諏訪神社は長崎の氏神さまとして市民に親しまれている。この社には、諏訪大明神、森崎大権現、住吉大明神の三社が祭られている。10月7-9日には、秋の大祭「おくんち」が行われ、京都の祇園祭、大阪の天満祭と共に日本三大祭と称される。江戸時代には、奉行所から自粛令が出されるほどの豪華さであった。天保13年(1842)には、祭礼に大金をかけ、また風俗をみだす舞踊りを禁じ、全て木綿を使用させる禁止令がだされている。長坂は、市民がおくんちを無料で見物できる特等席である。また、坂本竜馬が設立した「亀山社中」の制服、白袴を模倣した白いトッポ袖の上衣を着て祭りを盛り上げる「白トッポ組」が陣取る場所でもある。

■ 確認結果

朝日新聞長崎地域版2013年1月19日付”長崎今昔 長崎大学コレクション”に、目録番号:
2866「諏訪神社境内(1)」の作品が、「諏訪神社の中門 檜皮ぶき 優雅な建物」として掲載された。新聞記事の解説で、ひっかかったのは、撮影者を推定する次のキャプションの部分。

「…写真では切れていますが、左下に「218 SUWA TEMPLE NAGASAKI」と印字されています。この番号とタイトルをイギリスの写真研究家テリー・ベネットの『日本古写真 収集者のためのガイド』に収載された作家別作品リストに照らすと、横浜の写真家で小川一真の弟子の江南信國が撮影者であることがわかります。
撮影時期は1890年代。江南は「横浜写真」と呼ばれる着色の大型アルバムに対して、小ぶりの着色写真やガラス・ランタンスライドと呼ばれた幻灯機用のステレオ・ガラス写真を得意としていました。…」

撮影者は、はたして「江南信國」だろうか。目録番号:2866「諏訪神社境内(1)」の左下に
「218」は、超高精細画像で拡大すると番号間違い。目録番号:3871「諏訪神社(3)」が、同じ写真である。左端がカットなし「A 128」が正しい。
長坂を写した目録番号:2867「諏訪神社の長坂(2)」が、「A 127」だから、その続きの写真である。場所的にもそうなる。モデルの配置・人物も同じようであるから、対比してもらいたい。

OLD PHOTOS of JAPANから、「江南信國」の作品を掲げる。キャプションの印字に区分「A」はなく、英字の書体が違う。
古写真研究の東京在住、前慶応大学教授高橋先生から、中島川の木橋の作品の研究となるが、次のような見解を聞いている。この項は、本ブログ次を参照
https://misakimichi.com/archives/3543

「私は明治25年に長崎に開業した為政写真館の撮影と睨んでいます。アルバムに為政の印があるからです。大文字のAに写真番号とタイトルをアルファベットの大文字で入れた写真が特徴で、横浜の金丸写真館と提携して長崎の風景写真をシリーズで出していました。金丸写真館の写真と番号が連続的に繋がります」

「江南写真館の写真は、ベネットの「コレクターズ・データガイド」によると、200から268までが長崎シリーズになっています。238もその中に入るかもしれません。しかし、江南のアルバムの写真はNo.無しの大文字の番号とキャプション付きですので、江南から買ってアレンジしたのかもしれません。玉村康三郎の可能性はありません」

以上から撮影者は、超高精細画像の解説どおり「上野彦馬?」かその関係者、または明治23年に長崎に開業しシリーズを出した「為政写真館」の可能性もある。
データベースの写真が小さいうえ、アルバムなどの現物を、私は見ることができない。長崎大学附属図書館及び「長崎今昔」執筆者において、これら作品の正しい研究をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:3554 長崎の民家と温室 ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3554 長崎の民家と温室 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3554 長崎の民家と温室

目録番号:3555 温室と男性たち(1)
〔画像解説〕
農業試験所あるいは薬草園の温室か。ペンキで塗った木造でガラス張りの真新しい建物である。男たち二人はここの研究員もしくは管理者であろうか。休日らしい出で立ちに見うけられる。

目録番号:3565 温室と男性たち(2)
〔画像解説〕
農業試験所あるいは薬草園の温室か。ペンキで塗った木造でガラス張りの真新しい建物である。男たち二人はここの研究員もしくは管理者であろうか。休日らしい出で立ちに見うけられる。

目録番号:3566 長崎の民家と男性たち
〔画像解説〕
田圃のある郊外の大きな民家の前に二人の男性が映っている。長いレンガ塀、入母屋造りの大屋根、ガラス窓など新しい造りの家屋。すでに電信柱が縦横に見えており、大正時代の撮影か。

■ 確認結果

目録番号:3554「長崎の民家と温室」など4作品は、一連作品で、ほぼ同じところを同じ時期に撮影されたと思われる。
考えられるのは、現在の長崎市中川町(新中川町?)に、明治31年(1898)開設された最初の長崎県農事試験場の風景である。

長崎年表HPの記事は、次のとおり。
▼1893(明治26)【明治】 癸巳(みずのとみ)
04/01★長崎電灯株式会社が開業。長崎市内に初めて電燈がつく
68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
04/ ★長崎電灯会社の開設により長崎公園園内の照明が石油ランプから電燈に切り替えられる
▼1898(明治31)【明治】 戊戌(つちのえいぬ)
★長崎市中川町に農事試験場開設。長崎ハクサイの早生・晩生の2系統を選抜

長崎県総合農林試験場の沿革は、次のとおり。
明治31年 4月 長崎市中川町(現在)に農事試験場を創設. 大正 9年 8月 諌早市永昌町(現在)に移転。

長崎おもしろ草第5巻「越中哲也の長崎ひとりあるき」12頁は、次のとおり。
…明治になって、この敷地(注 桜馬場の旧長崎村庄屋職森田屋敷。現在の桜馬場中学校の地)は榎津町の質商赤瀬氏の所有となり更に長崎県の所有となった。
県は最初、ここに農事試験場を設けたが、のち、この試験場を現在の蛍茶屋の電車終点の右手に移し、明治22年、この地に県立師範学校を立山から移転し、その付属小学校も同24年より併せて開校した。…

これらの資料から推定できるのは、明治31年(1898)4月、最初に創設された「長崎県農事試験場」が、現在の長崎市中川町(新中川町?)にあった。電灯もすでについていたのである。

目録番号:3554「長崎の民家と温室」の背景となる景色を探すと、新中川町電停近く中島川に沿った「丸川公園」あたりから同じ地形が望まれる。
左側の小高い丘には、現在、長崎市立伊良林小学校グランド上に、瓊浦高等学校の校舎が建つ。中央右に遠く覗く山は、そこから続いた奥の風頭山頂の岩と思われる。
「伊良林尋常小学校」の開校は、明治35年(1902)8月17日である。

明治34年測図国土地理院旧版地図によると、広い土地で市中から里道が外周を通る。このあたり一帯が農事試験場の敷地だったと思われる。
現在の中之橋近くにあった建物と温室を、中島川対岸の少し高い位置から撮影したのではないだろうか。

長崎の古写真考 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3802 中島川と上野彦馬邸(5)
〔画像解説〕   超高精細画像
長崎を代表する山、彦山(右側)・豊前坊(左側)を画面中央後ろに、左岸人家の手前のところに江戸時代の上水道として使用された倉田水樋の水源、常夜灯下側には日本三大聖堂の一つといわれた長崎聖堂(中島聖堂)、写真には見えないが、常夜灯左下側には、日本三大聖堂の一ついわれた長崎聖堂(中島聖堂)、常夜灯左上が上野彦馬邸(上野撮影局)に当たる。明治中期の銭屋川(中島川)の風景である。残念なことに、常夜灯は昭和57年(1982)の長崎大水害で流失してしまった。近くにある若宮神社の秋の大祭に奉納される「竹ン芸」は、境内に高さ10mの2本の青竹を立て、これに穴を開け横木を通し、狐の面を被った雄狐と雌狐に扮した二人の青年が竹によじ登り「つり下がり、大の字、さか立ち、逆さ降り」等の曲芸を「ローレンヒューヒューライローレン」の竹ン芸囃子にのって演じるものである。現在、長崎市の無形民俗文化財に指定されている。また、若宮神社は「古いお宮を若宮」と唄われ、長崎七不思議数え唄の一つに数えられている。

■ 確認結果

目録番号:3802「中島川と上野彦馬邸(5)」は、現在「紅葉橋」となっている場所に架かっていた、当時、地元では「杉山橋」と呼ばれた木橋であろう。川上に向って右の岸側に明治の企業家杉山徳三郎氏の邸宅があり、同氏が私費で架設した。
長崎大学データベースの超高精細画像解説は、ポイントが外れ過ぎではないだろうか。

この作品は、古写真研究の東京在住、前慶応大学教授高橋先生が注目している。
「私は明治25年に長崎に開業した為政写真館の撮影と睨んでいます。アルバムに為政の印があるからです。大文字のAに写真番号とタイトルをアルファベットの大文字で入れた写真が特徴で、横浜の金丸写真館と提携して長崎の風景写真をシリーズで出していました。金丸写真館の写真と番号が連続的に繋がります」

「73のシリーズがいつ頃撮影されたものかを知る手掛かりとして、紅葉橋の架橋時期が非常に重要だと思います。よろしく」との依頼により、架橋年代など調査した。
明治27年「長崎港新図」にこの場所に橋が初めて表われる。長崎市の近代水道共用栓が敷設されたのは、明治24年6月であるが、為政写真館の長崎開業は、神戸とほぼ同時期の明治
25年だから、シリーズはそれ以降の年代の撮影と推定される。

「杉山橋」の正確な架橋年代は、田上2丁目「徳三寺」へ尋ね、長崎歴史文化博物館郷土資料として、古賀十二郎文庫「長崎橋梁台帳」に記録があることがわかった。
台帳の写しは写真のとおり。「明治24年2月落成 杉山徳三郎私設ニシテ木造」と判明した。橋名はなかった。

さらなる疑問は、橋名が「紅葉橋」となった事情。「ナガジン」越中先生の話では、「この上野彦馬宅跡の向いの橋、「紅葉橋(もみじばし)」は、彦馬と恋仲だった紅葉さんという人の名前がつけられているんですよ」とある。
高橋先生は上野彦馬研究のため、この点も注目している。現在の橋を管理する長崎市へ問い合せてもわからず、越中先生へ直接、文献を確かめてもらうほかはないだろう。

長崎歴史文化博物館企画展「長崎ゆかりの浮世絵・古写真—エキゾチックジャパンへの旅」

イメージ 1

イメージ 2

長崎歴史文化博物館企画展「長崎ゆかりの浮世絵・古写真—エキゾチックジャパンへの旅」

2013年1月1日(火)から3月17日(日)まで、長崎歴史文化博物館で企画展「長崎ゆかりの浮世絵・古写真—エキゾチックジャパンへの旅」が開催されている。
長崎大学附属図書館などが所蔵する古写真から、当時の長崎・横浜を撮影した貴重な古写真数10点も展示されている。

1月6日に観覧に行った。展示の古写真は、相変わらず解説の間違いが多い。5点以上、疑問を指摘した。出品資料リストも不備があり、学芸員へ改善を要望した。
長崎大学附属図書館及び長崎歴史文化博物館は、古写真研究をどう考えているのか。毎回の事態で、高い観覧料を払いながら、企画展の権威が疑われる。

1例を見てみよう。パンフレットやHPの主な展示品にある「上野彦馬(十人町よりの出島と長崎港)」は、撮影場所を「唐人屋敷上中腹より新地と出島を望む」と解説していた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1512
目録番号:977 は、撮影場所は「ドンの山から」が正しいのではないか。撮影者も「上野彦馬」なのか。データベースと超高精細画像では、解説が違う。

以上を2013年1月7日に長崎県へ意見。文化振興課の回答は、次のとおり。

本県行政の推進について、日頃からご理解とご協力をいただき、お礼申し上げます。
今回ご指摘いただいた内容につきましては、早急に事実確認を行い確認できたものから順次改善するよう長崎歴史文化博物館に伝えました。
観覧料をいただいて実施している展覧会であることを再認識し、正しい展示説明に務めるよう指導いたします。
今回は大変貴重なご意見ありがとうございました。
これからも、本県行政に対してご支援とご協力をよろしくお願いいたします。
平成25年1月16日   文化振興課長  宮崎  誠

長崎の古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3)   撮影者未詳 明治期手彩色小型写真帖

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)   撮影者未詳

目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)   内田九一
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)   撮影者未詳
〔画像解説〕
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。

目録番号:6664 長崎稲佐海岸(6)   撮影者未詳 ボードインコレクション(4)

目録番号:3233 長崎稲佐海岸(7)   内田九一
〔画像解説〕
長崎、稲佐の舟遊びを撮影したもの。着色されている。目録番号1196、3238と同じく、内田九一により明治天皇の長崎行幸時(1872年)に撮影されたと推測される。

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557

さてこの一帯の入江が、丸尾山を削り埋め立てられたのは、いつ頃だろうか。HP「舎人学校」の前慶応大学教授高橋先生から照会があり、長崎の伊能忠敬研究会入江氏と先月調査した。
「長崎市制65年史」や「明治維新前後の長崎」(復刻版)に史料があり、埋め立ては長崎港第二期港湾改良工事で、明治31年(1898)10月から始まり、完成は明治37年であろう。

この際、関係古写真を比較していて、入江氏が貴重なパノラマ写真となることに気付いた。上記はすべて同じ写真で、目録番号の上2枚が左部分、下4枚が右部分。
この記事では、松の枝の続きが良い目録番号:5576「稲佐のイサバ船と弁財船(3)」と、目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」を取り上げ、他は掲載を略した。

入江氏がモノクロ変換し、つないで作成した。パノラマ写真であることは、超高精細画像では特に端がカットされ、私も気付かなかったが、古写真研究関係者もほとんど知らないだろう。
撮影者は、内田九一、上野彦馬、ベアトが考えられ、撮影年代ともいろいろな解説がある。関係者は研究を深めて統一して解説してほしい。