長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕 超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した写真である。撮影年代は、写真左端の梅香崎居留地の埋め立てがすでに完成しているので文久2年(1862)以降、さらに、大浦居留地の端の大浦川に、明治3年に架設される下り松橋(松ヶ枝橋)が見えないので、幕末から明治3年(1870)までの写真である。長崎大学所蔵の、この角度から撮影した写真の中で、最も古い写真である。写真左の松の木の向こうの一群の建物は出島で、変流前の北側から見た出島である。松の木の手前は、長崎奉行所の北役所の建物である。出島から写真右にかけての沿岸部は、大波止から浦五島町、大黒町にかけての沿岸部である。写真右隅が、現在のJR長崎駅付近である。明治10年(1877)起工明治26年(1893)完成の第1次長崎港改修事業による、沿岸部の時津新道がまだ完成していないので、写真の沿岸部は江戸時代の状態であり、それぞれの家の裏側が海に接している。大波止から大黒町にかけての沿岸部には、各藩の蔵屋敷や倉庫業等の規模の大きい屋敷が連なっている。
目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
〔画像解説〕 超高精細画像
立山中腹から市街地北部と湾口を撮影した着色写真である。船の配置から(1-35)と同じ写真である。撮影年代は、明治23年(1890)以降明治30年(1897)までと考えられる。写真左中央付近に緑色の木立があるが、その左に県庁舎があり、その右が出島である。出島の端にトラス橋が見えるが、これは第1次長崎港改修事業の中島川変流工事で変流した中島川河口に、明治23年(1890)に架設された新川口橋である。また、出島から大波止・浦五島町・大黒町に至る海岸線に、時津新道が建設されている。写真左側の緑の平地は、旧佐賀藩の砲台であり、海岸線に並ぶ大砲を見ることができる。明治10年(1877)代の写真【目録番号2899(整理番号58-30)】と比べると、海岸線付近の建物が建て変わり、海岸線に向いて長い倉庫群が形成されている。写真下部中央に家並みの中に道路があり、この道路が海と接する付近が、岩原川河口で、河口に架かる岩原橋が見えている。明治22年(1889)の市制施行直後の、長崎市街地北部と、後に内陸化する砲台付近の海岸線が撮影されている。
■ 確認結果
長崎税関では一般の方々に広く税関の役割を知っていただくため、長崎税関本関1階(長崎市出島町)に資料展示室を設けており、どなたでも無料で見学できます。(長崎税関HP)
【資料展示室の主な展示内容】
・長崎税関の歴史 ・税関業務の紹介 ・管内の輸出入品 ・けん銃、不正薬物の密輸の手口 ・コピー(偽ブランド)商品 ・ワシントン条約該当物品 ・引揚者からお預かりした証券類 などを実物や写真・パネルで紹介しています。
「長崎税関の歴史」パネルは、税関の前身である「運上所」下り松派出所の建物の位置などを説明するため、上段にデータベースの目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」、中段に目録番号:2249「長崎港のパノラマ(2)」、下段に「現在の長崎港(長崎市役所提供)」の写真を展示している。
撮影地は、いずれも立山山頂かその中腹となるが、古写真と比較した現在の撮影地は、正しく解明されていない。さまざまな疑問がある現在の写真が紹介されている。
長崎港の全体をなるべく写したかも知れないが、その面では「現在の長崎港(長崎市役所提供)」も、安易な市の提供写真と思われる。
現在の正しい写真が撮影できないならともかく、長崎港口の山の稜線や島々の姿が、古写真の2点と合っていない。長崎市広報広聴課にも、この際、撮影地の徹底した研究をお願いした。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2328