長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。明治39(1906)年松ヶ枝長崎ホテルの茂木支店として景勝の地塩見岬で開業した。写真には茂木長崎ホテルの従業員が玄関で写されている。建物は和風寄席棟造り2階建て。2階の廊下には洋風のヴェランダがめぐらされている。外国人の客も多かった。

目録番号:5256 茂木長崎ホテル(2)   関連作品 目録番号:5257 同(3)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。ビーチホテルの雰囲気がわかる。この岬は茂木村本郷の南端に突出する岬で、天草、島原などを眼前に望み風景雄大である。長崎市民の遊興の地であり長崎名勝図会でも取り上げられている。祭日か歓迎会かMOGI HOTELの玄関看板に日の丸が掲揚されている。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)

■ 確認結果

タイトルがいずれも「茂木長崎ホテル」。実は茂木には、同じような名の2つのホテルがあった。古写真の説明をよく読めば、どうにかわかる。
若菜川河口の左方岬、天草方面の通船波止場があった。この岬(岬名不明、潮見崎と混同される)の入り江にあったのが「稲佐おえいの茂木ホテル」(後のビーチホテル)。古写真の(2)(3)である。外側の道路しかわからない。建物の古写真を大学は所蔵していないのだろうか。
現在は解体され、跡地はSマート茂木店などとなっている。

あと1つは、玉台寺から潮見崎の方へ向かう途中、新田にあった「茂木長崎ホテル」(後の松柏楼)。古写真の(1)(4)である。
ホテルとしての開業・閉業年代は不明。小料理店に変わり「松柏楼」は、大正12年頃から昭和
12年頃まであったらしい。跡地は現在の「高崎湯」裏ではなく、左側アパートとなったところである。
以上は、「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁に、貴重な記事と古写真がある。よく読んでいただきたい。

大学のHPは、この2つのホテルを混同して、分類しているようだ。建物の外観がたしかに違う。HPを見る人にとって、わかりにくくなっている。区別をはっきりして説明してほしい。
後ろの写真は、埋立地にできている現在の天草ラインフェリーターミナルと、新田の方の「高崎湯」。

長崎の古写真考 目録番号:5265 茂木立岩(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5265 茂木立岩(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5265 茂木立岩(1)
目録番号:5266 茂木立岩(2)

■ 確認結果

茂木より潮見崎の方へ向い、しばらく先の海岸通りに「立石」バス停がある。立岩までは干潮時に海岸を約10分歩いて行く。
この古写真を取り上げたのは、普段は見えない立岩の裏側と、古写真から100年くらい経たと思われる岩の風化具合。
詳しい写真は、岩の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/1523

長崎の古写真考 目録番号:5873 茂木(5)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5873 茂木(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5873 茂木(5)

■ 確認結果

茂木の潮見崎の方より漁村風景を写している。古写真の背後の山について、以前は左を「早坂の丘」、右を「英彦山」と説明していた。手前は「茂木の丘」であり、左奥は今、高いアンテナが見えるため「唐八景」なのである。

指摘によりこれらは訂正されたが、古写真の「右端の山は北浦方面」だろうか。長崎の三景台団地端から茂木町にかけて南へ下った尾根ではないか。そのように説明していたはず。
右端奥の高い山が「三景台団地」。その手前のピークが、古写真の立ち木の代わりに、これも今はテレビアンテナ塔が立つ「早坂IC入口」付近の山であろう。

撮影場所も「立岩寄りの海岸に立ち」とはならない。「潮見崎」へ行くまだ手前、現在の「長崎バス茂木車庫」近くからの撮影となる。
古写真の左端となる海岸線の奥に、ビーチホテルとは別の茂木長崎ホテル(後の松柏楼)があった。新田の旧道へ入ると、現在の「高崎湯」の裏手にホテルがあったそうである。
次項の資料参照。  https://misakimichi.com/archives/1535

同ホテルを出てこのバス車庫あたりの旧道から、古写真は撮影されたと思われる。
現在の写真は山が良く見えないため、わかな薬局から少し高台へ上がった見通しの良い場所から写した。

長崎の古写真考 目録番号:5381 長崎港口の集落ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5381 長崎港口の集落

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:5381 長崎港口の集落
目録番号:5262 茂木桟橋(3)

■ 確認結果
1枚目の古写真のタイトルは、「長崎港口の集落」。条件を「茂木」に指定して探しても出てこない。撮影場所はこれまで不明とされていた。大きな集落である。「イサバ船」か漁船のような船が多く碇泊している。かなりの港である。
長崎港口となると、戸町、西泊、遠く樺島湊など考えられるが、該当しなかった。似たような風景は、長崎港内の有名な碇泊地、旭町の稲佐崎(道永エイのホテル・ヴェスナーがあった)から大鳥町を望む方向にあったが、どうしても背景の山の格好が最後の写真のとおり合わなかった。

稲佐崎か、茂木若菜川河口でないかと、昨年春から指摘をして、調査中としていた。若菜川河口は、弁天橋から若菜橋の方向のみ、いつも目が向いて気づかなかった。
何のことはない。視線を右から左へ移すと同じ格好の山があった。撮影場所は道永エイが経営した茂木「ビーチホテル」があったところ。今の茂木郵便局後ろの少し高台から、対岸の元浜の船と本町の家並みを写している。背景の山は峠集落近くの山と思われる。

郵便局前の海岸通りの先に天草方面への通船波止場ができた。2枚目の古写真「茂木桟橋(3)」である。付近の海底を覗くと、きれいな石積みを確認できる。
1枚目の古写真は、2枚目と同じ高台の近くから、カメラの向きを変えて写されたのではないか。
茂木の本町通りに残る古い建物を訪ねてみた。国道脇に「さつまや」の名号の店が、まだある。

長崎の古写真考 目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 336 茂木(1)
目録番号:5260 茂木若菜川河口(1)   関連作品 5261 同(2)も同じ。
目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)

■ 確認結果

いずれも茂木若菜川河口の「若菜橋」を写したものである。今はSマート前に新橋「弁天橋」が架かるが、「若菜橋」はこの上流の旧道にある橋。
古写真の説明でわからないのは、「川の左奥の建物は茂木役場」。現地さるく説明板もそう説明している。古写真のどの建物なのだろうか。

明治12年7月、郡制施行に当り西彼杵郡茂木村となり、旧庄屋跡に戸長役所をおいたが、明治22年4月、町村制実施に当り、茂木村役場と改称し、役所を本郷片町165番地に移した(昭和33年「茂木町郷土誌」 最後の役場古写真も)。
ここは現在、「茂木商工会館」の白い建物が建っている所である。若菜橋の道脇左に大きく建った建物は、昔の「茂木郵便局」であろう。川奥の建物に見えない。今は解けて駐車場となっている。

戸長役所に郵便局が併設されていたことも考えられるが、「茂木村役場」は明治22年には、もう若菜橋から離れた場所に建てられた。古写真でよく確認できない建物を説明するなら、わかりやすく記していただきたい。

3枚目の古写真「目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)」の説明もわからない。古写真の若菜橋は橋脚下の造りを見ると、すでに全て「コンクリート橋」のようである。目録番号: 336 茂木(1)は「近代建築」のキーワードとしている。
「長崎ホテル茂木支店」も、茂木にはホテルが2つあった。ホテル名の記述を統一してほしい。北浦へ続く道は若菜橋を渡った古写真の「右先」でないだろうか。

長崎の古写真考 目録番号:5128 長崎片町道路並川(茂木)(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5128 長崎片町道路並川(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5128 長崎片町道路並川(茂木)(1) 関連作品 5129 同(2),5130 同(3)も同じ。

■ 確認結果

この古写真を取り上げたのは、タイトルがどうかと思ったからである。絵葉書の下部に「長崎片町道路並川」とあるから、そうしていると思われるが、「並川」とは片町の対岸で、今の字名は「南川」となると思われる。
若菜川が字境。ほとんど「並川」は写っていないのに、タイトルとなるのはどうか。「片町」も厳格に言うと、まだ下流域となろう。

古写真は川沿いの広い立派な道路を写している。明治18年(1885)に、人力車や荷馬車が通るように新道(旧県道)として整備された道である。
今の茂木小学校前まで来た状景と思われる。道路左側に小学校の校舎ができ、対岸の広場が学校のグランドとなって、学校専用橋で結ばれている。
ここで学校先の尾根稜線後ろに、背景の北浦の山がこの格好に覗いて見えるようである。

後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、今の茂木小学校ができた辺りを写している。
茂木小学校が現在の地(茂木村字辻)にできたのは、明治28年4月。
なお、裳着神社へ行くと、まったく同じ場所の雪景色写真が、「渕頭より眺める大正初期の茂木旧街道(現茂木小学校付近)」と説明し展示されていた。

長崎の古写真考 目録番号:5253 茂木道(4)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5253 茂木道(4)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5253 茂木道(4)    関連作品 5254 茂木道(5),5255 同(6)も同じ。

■ 確認結果

古写真の説明は「田上から下り終えた柳山付近と思われる」としている。川幅は広くなり、街道が川岸をまっすぐに長く通る。広い河原で荷馬車の馬か休んでいる。
旧茂木街道の石橋だった「柳山橋」付近は、まだ川が狭く、このような川沿いの道はない。
これは、明治18年(1885)に、人力車や荷馬車が通るように新道(旧県道)として整備された道である。若菜川本流を「大川橋」で渡り、今の茂木小学校の手前まで来た状景と思われる。

川が折れ曲がって河原ができ、今も飛び石がある。茂木の町の視界が開ける。海水がここまで来る。ちょうど古写真の左上あたりに小学校の校舎ができ、対岸の広場が学校のグランドとなって、学校専用橋で結ばれている。
後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、今の茂木小学校ができた辺りを写している。
次項「長崎片町道路並川(茂木)」の古写真の状景も参照。

長崎の古写真考 目録番号:5251 茂木道(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5251 茂木道(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5251 茂木道(2) 関連作品 5252 茂木道(3)も同じ。

■ 確認結果

古写真の説明は「田上から下り終えた転石付近と思われる」としている。川幅は広くなり大きな橋が架かり、立派な道路となっている。
街道の道が通る方向と対岸の家、後ろの段々畑に注視する。もう拓けた茂木集落の入口にさしかかっているのである。

明治18年(1885)に新道(旧県道)として整備された道の、若菜川本流を渡る「大川橋」と思われる。バス停は「黒橋」。ガソリンスタンドがある所である。
これから「大川橋」を渡り、茂木小学校の方へ旧県道の道は川沿いに進む。
後ろのモノクロ写真は、茂木商工会30周年記念誌の67頁から。「茂木街道の景(大正時代)」として、当時の「大川橋」を橋を渡る手前から写している。

長崎の古写真考 目録番号: 365 茂木街道(1)  ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:365 茂木街道(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 365 茂木街道(1)
〔画像解説〕
茂木街道は長崎から茂木への街道。写真はこの街道途中にある田上を撮影。田上はこの街道の峠になり、街道の要所であった。

目録番号:3842 茂木街道の水車

■ 確認結果

茂木街道沿いの大水車。昭和33年発行「茂木町郷土誌」は記してない。水車は水量がなければならない。集落や田がある川の中・下流域と思われる。
目録番号:365「茂木街道(1)」は、街道を下る途中、上部から水車と川を写し、「街道途中の田上を撮影」と説明している。田上とは「田上峠」のある一帯で、少し上流すぎる。
絵葉書の目録番号:3842「茂木街道の水車」は、前記と同じ水車小屋の近景である。小さな桁石橋もよくわかる。

明治18年(1885)に整備された旧県道の道を、転石から河平川の谷間へ下って行って、似た光景を見た。コンクリート小道を川まで下ると橋が渡り、対岸はひわ畑の平地があった。
畑の人に聞くと、ここが古写真の水車小屋の跡。長崎大水害により地形や川の流れが変わった。水車を回すため上流に堰があり、水路があった(古写真の左下から伸びているのが「水路」と思われる)が、跡はわからなくなった。
水車小屋はあと1軒あった。古写真に離れて写っている白い屋根の家である。ここもビニールハウスの畑に変わっていた。

場所は旧県道の、ちょうどアーチ式石橋「河平橋」の下あたりとなる。「戸町二至ル」の標石がある四叉路を、河平川の本流の方へ下るとここに出る。農道の橋から見ると、上流にコンクリートの小橋がある。小橋の右脇のひわ畑が大きな方の水車小屋の跡である。
白い屋根の家跡は、農道の橋を渡ったすぐ右下のハウス畑である。
旧県道沿いの水車は、茂木小学校まで行く間に別に4台あったことと場所を聞いている。

茂木街道旧県道の道下谷間にあった水車小屋の場所は、略図を載せる。明治34年測図国土地理院旧版地図でもこの場所に表示している。 

長崎の古写真考 目録番号: 5250 茂木道(1)

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            長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5250 茂木道(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 5250 茂木道(1)

■ 確認結果

茂木街道にある橋について、最初に次を記事と写真を参照。
「柳山橋」  https://misakimichi.com/archives/428
「河平橋」  https://misakimichi.com/archives/427
「目録番号: 5250 茂木道(1)」の橋を、「柳山付近と思われる」と説明しているが、旧茂木街道の道を柳山へ下って行くと、渡る橋はアーチ式石橋であった(長崎大水害で流失)「柳山橋」以外にない。今もアーチ式石橋として残る「河平橋」は、明治18年(1885)に新道(旧県道)として整備された道にある。

古写真の橋は、「柳山付近」でなく谷を隔てた、この新道(旧県道)として整備された道にある。河平川の谷間となり、橋名は「上橋」という。水害前は桁石橋だった。
絵葉書下部は「長崎茂木道」とだけあり、橋名や具体的な場所を記していない。道の曲がり具合と、背景の茂木方面の山の稜線から、「上橋」に間違いないだろう。

旧県道を「河平橋」を渡って下って行くと、人家が現われ、やがて「(有)中村米穀ライス・ファクトリー」の工場(茂木町1240番地)がある。
道は直角に曲がり、河平川の本流を渡る。この橋が字河平の「上橋」である。「下橋」は下流にあるが、旧県道の道から離れる。
旧県道をしばらく進むと、「黒橋」バス停の所で、昭和9年(1934)開通した新県道(現 国道324号線)へ出る。後ろの写真が、現在の「柳山橋」と「河平橋」。