長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号: 1365 茂木街道(2)

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      長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1365 茂木街道(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 1365 茂木街道(2)

■ 確認結果
国道324号線の田上を過ぎ、次の「転石」バス停から左の道へ入る。これがかつての茂木街道である。ホテル古都の先で、すぐ道は二手に分かれる。
まっすぐ左へ下るのが、江戸時代の街道。右へ曲がって谷間の川沿いに下るのが、明治大正時代の街道(旧県道)である。人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修するため、明治18年(1885)に街道の新ルートが造られた。

「目録番号: 1365 茂木街道(2)」は、撮影場所など何も説明がないが、この古写真はその分岐の少し先(現 田上1丁目)まで行き、左道脇の高台に上がり、街道を写したのではないか。
明治大正時代の街道が分岐から右へ曲がり、谷間へ降りている状況が古写真に写っている。現在は住宅地となり、谷方の見通しはきかない。
長崎自動車道の早坂入口高架橋が上をまたいでいるあたりである。

したがって、古写真の撮影場所は、前項で紹介した「目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)」とほぼ同じところ。分岐へ進み、カメラの向きを変えたから、谷間が開け背景に茂木の山の稜線が写っているようである。
撮影年代は、これも新ルートができた明治18年(1885)以降と思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 5868 茂木への道(5)

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 長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)

■ 確認結果
国道324号線の田上を過ぎ、次の「転石」バス停から左の道へ入る。これがかつての茂木街道である。ホテル古都の先で、すぐ道は二手に分かれる。
まっすぐ左へ下るのが、江戸時代の街道。右へ曲がって谷間の川沿いに下るのが、明治大正時代の街道である。人力車や荷馬車が通行できる近代的な道路に改修するため、明治18年(1885)に街道の新ルートが造られた。

「目録番号: 5868 茂木への道(Road to Mogi)(5)」は、撮影場所など何も説明がないが、この古写真はその分岐の手前(現 田上1丁目)から、右方の明治大正時代の街道を写している。
谷間へ降りるため、街道がヘアピンカーブとなり、2段の線(3段目は川の線)となった状況が古写真に写っている。現在は住宅地となり、谷方の見通しはきかない。
長崎自動車道の早坂入口高架橋が上をまたいでいるあたりである。
古写真の撮影年代は、したがって新ルートができた明治18年(1885)以降となる。

長崎の古写真考 目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)

■ 確認結果

茂木街道の変遷は、東小島町の正覚寺前に説明板がある。長崎ライオンズクラブが設置した「長崎茂木街道ここに始まる」碑の右脇である。
「目録番号: 5528 茂木への道(愛宕付近)(1)」は、以前は「(田上付近)」と説明されていた。

特徴的な「愛宕山」の山腹を通る道の光景。変遷図を参照。この中の明治大正時代の茂木街道、現在で言うと「上愛宕」バス停手前付近から、愛宕山を入れて道行く人を写したものである。
指摘により、今はこの通り「(愛宕付近)」と訂正された。茂木街道の変遷をよく理解してもらうため、この古写真と説明図(不備が一部あるが)をまず掲げる。

長崎の古写真考 目録番号: 343 茂木(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 343 茂木(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 343 茂木(2)

■ 確認結果

古写真HPで条件を指定して探すと、「茂木」は59点の関連写真がある。3点は横浜の弁天通りなので、長崎の茂木関連は56点である。
昨日から茂木の調査にかかって現地へ出向いていたところ、偶然にも本日朝、朝日新聞にこの古写真が載った。現在、茂木を集中的に調査中。確認できた茂木関連を今後、しばらく続ける。

朝日新聞の昨年夏から土曜日の第2地方面シリーズものは、「長崎今昔 長大写真コレクション」。2008年12月13日付紙面は、「茂木の海岸 洋食文化 先取りの地」であった。
記事中、茂木を通る34号線は、国道でなく「県道」であろう。また間違っているようだ。

新聞の掲載写真が、「目録番号: 343 茂木(2)」。新聞とも撮影場所の説明がないが、この古写真は、茂木の玉台寺本堂裏の一番高い墓地あたりから、茂木の海岸と町並みを写しているようだ。
墓地へ登ると、それでも高度が足りなかった。その後、ビーチホテルや小浜・天草通船の波止場となった中央岬の高台と、奥の北浦との間に海面が見えなくてはならない。
玉台寺墓地の高部よりまだ高い山手から写したようだが、道が不明だった。

長崎の古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 977 ドンの山から見た出島と長崎港(1)
(関連作品)
目録番号: 4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
目録番号: 4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)
目録番号: 4878 ドンの山から見た大浦居留地・出島
目録番号: 5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号: 5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)
目録番号: 1292 小島付近墓地からの市街地

■ 確認結果

「ドンの山」は、東山手の上方の山。標高は131mほど。本来の名は「風取山」だったそうだが、明治から昭和にかけて38年間、この山から市民に正午を知らせる大砲の空砲を打っていたことから「ドンの山」と呼ばれている。
古写真HPで条件を指定して探すと、「ドンの山」で6枚、「どんの山」で1枚の関連作品が出てくる。ほとんどのタイトルや撮影場所を、前は「十人町」や「鍋冠山」「星取山」からと説明していた。

これは「十人町」からと説明していた目録番号:977の古写真。中央右に出島や新地が写り、広場場から流れる川の河口と梅香崎橋が斜め左上に上り、東山手の高台が続いている。
「十人町」でなく、東山手の上方「どんの山」山頂あたりから写したものである。
「十人町」とは高度がまったく違うし、港の対岸は稲佐山の尾根。その奥の岩屋山稜線との重なり具合から、判断していただきたい。

指摘により、タイトルは訂正されたが、居留地全体のほかの写真でも、橋名の「梅ヶ崎橋」「松ケ枝橋」「下り松橋」の混同した説明がある。
目録番号: 1292は、「小島付近墓地からの市街地」。説明は「長崎の正覚寺の右上、小島郷のどんの山の墓地付近から長崎の市内中央を望む」。どんの山は「元町」。「小島」とは、地形的にあまり結びつかない。

「ドンの山」関係の写真を取り上げたのは、目録番号:977と同じような写真の目録番号:4878「ドンの山(「から」の字抜け)見た大浦居留地・出島」が、東山手町の長崎市「古写真・埋蔵資料館」に展示されている。タイトルが「鍋冠山から見た大浦居留地・出島」となっていたようだ。入館は有料なのに、ほかにも2点、説明に疑問を感じたものがあった。
最新写真の後ろの2枚は、参考までに鍋冠山展望台からと星取山下の長崎霊園近くからの写真。方向が違う。目録番号:4878は、後日「星取山」からと確認した。
https://misakimichi.com/archives/1598

長崎の古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)

■ 確認結果

タイトルは、以前から「目録番号: 982 中島川と編笠橋(1)」。背景の山を前は「烽火山」と説明していた。平成19年4月指摘し、「健山」と訂正された。その際に「編笠橋」のはずなのに、「伊勢の宮の前に架かっている橋」と「高麗橋」の説明に変わっている。単純な間違いでないか。

古写真の撮影地点は、あくまで長崎市桶屋町「光永寺」の前である。中島川に架かる「古町橋」の左岸下にカメラを置き、中島川の1つ上流の石橋「編笠橋」を写している。
背景の山は、ビルの後ろとなるため、山が見える長崎市民会館手前の「魚市橋」から写した写真のとおり、(1)については、「金比羅山」や「烽火山」でなく、「健山」(たてやま)であろう。
現地説明板にある当時の「編笠橋」の姿も、古写真と同じようである。

説明をいつ修正されたか。大正4年(1915)橋の上部を鉄筋コンクリートで拡幅、長崎大水害後に解体された石橋「高麗橋」は、平成5年にすでに西山ダム下の公園に移築復元されている。「編笠橋」は、昭和61年に昭和の石橋として再建されている。
「高麗橋」や「阿弥陀橋」の背景に見えるのは、姿がまったく違う豊前坊や武功山の山である。

「関連する作品の一覧」によると「編笠橋」は7点、「高麗橋」は17点の古写真がある。これら写真から判断し、適切な説明をお願いしたい。
特に「目録番号:5633 中島川と編笠橋(6)」と説明文を参照。左から張り出した松は、編笠橋のたもとにあった「太平寺」(現・浪の平)の跡地、松寿軒のものと思われる。
最後の写真は、松寿軒側の「編笠橋」親柱の上に見えた「健山」のかすかな姿。

長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 (2)

朝日新聞長崎地域版、最近は毎週土曜日の紙面に「長崎今昔 長大写真コレクション」と題し、長崎大学附属図書館が所蔵する長崎の幕末・明治期古写真がシリーズにより昨年夏から紹介されている。

上の記事①は、つい先日の平成20年3月1日付「趣ある稲佐崎の伝馬船」。説明文は「長崎の対岸、稲佐崎の伝馬船です。場所は現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたりです」。明治初年に写真家上野彦馬が撮影したもの。タイトルは以前は「長崎湾水の浦」、撮影者未詳とされていた。
訂正したこの説明は、また間違った表現をしているのではないだろうか。

次の記事②は、この前に古写真考(1)でも載せた平成19年11月20日付「稲佐の和船」。説明文は「三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街付近を撮っている」。元治元年頃、英人F.ベアトの撮影したもの。タイトルは以前は「和船」で、撮影場所不祥とされていた。

①と②の写真を、よく見比べてもらいたい。年代・撮影者は違うが、ほぼ同じ地点(当時丸尾山にあった波止場。現在の丸尾公園西角あたり)から、ただカメラの向きを変えて撮影されている。ここは撮影のポイント地点だったらしく、ベアト、内田九一も撮影したことは、ちゃんと①の記事に書いている。
これら古写真類は、私が昨年春に現地調査し、撮影場所などを研究レポート第3集によって報告した。本ブログでも昨年7月28日、この項をすでに載せている。大学も私からの報告を参考に、説明を訂正しているが、②は正しく、①はまた説明をおかしくしている。

当時の地形図は、松竹秀雄著「稲佐風土記」から私が修整作成。根拠は①の写真松の木根元に写る石祠。現在も川端旭町商店街の裏に「恵比須神社」として現存する。ほか家の格好・高台から波止場へ下る道・背景の山並みなどからもよく考えていただきたい。
したがって、①の説明は②と同じく「現在の丸尾公園あたりから旭町商店街付近を撮っている」とならなければならない。「現在の平戸小屋付近で、旭大橋が架かっているあたり」とは、現在の現地ともまったく合わない表現となっている。

このシリーズの間違いは、今回で4回目。「鼠島」でした外国人野外パーティを「神の島」、玉園町「聖福寺」から写した長崎奉行所跡を銭座町「聖徳寺」から、「旭町」商店街を「朝日町」としていた。そのつど、新聞総局を通じて知らせるようにしているが、大学・新聞社とも監修を正しくしてほしい。

この項は次の記事を参照。。https://misakimichi.com/archives/1557

長崎の幕末・明治期古写真考 (1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 (1)

朝日新聞長崎地域版、毎週火曜日の紙面に「長崎今昔 長大写真コレクション」と題し、長崎大学附属図書館が所蔵する長崎の幕末・明治期古写真がシリーズにより紹介されている。
なかでも私が関心を持って見るのは、長崎の風景を写した古写真である。背景の山の姿など考え、カメラをどこに据えたのか。撮影地点などを特定したいためである。このため、できるかぎり現地調査をしている。

上の記事は、平成19年11月13日付「長崎奉行所跡と官立師範学校」。説明文は「聖徳寺(銭座町)から写した」としている。立山はここから見えない。「聖福寺(玉園町)あたり」が正しい。新聞社へ電話すると、大学自身朝から誤りに気づき、訂正の連絡が入っていた。次の紙面の末尾に訂正文が載った。

次は、この翌週11月20日付「稲佐の和船」。説明文は「三菱電機工場横の丸尾公園あたりから朝日町(「旭町」が正)商店街付近を撮っている」。元治元年頃、英人F.ベアトの撮影したもの。タイトルは以前は「和船」で、撮影場所不祥とされていた。
この写真は私も今春に現地調査し、研究レポート第3集によって報告した。本ブログでも7月28日この項をすでに載せている。大学もこれら報告を参考に、具体的で正確な撮影地点の説明になったと思われる。(当時の地形絵図は、松竹秀雄著「稲佐風土記」から私が修整作成)

新聞のシリーズは8月初めにも間違いがあった。「外国人の野外パーティ」の写真は、「神の島あたり」から撮影と説明していたが、パーティは「鼠島」(皇后島)の野外高台広場に布を敷いて開かれた。鼠島は当時、外国人遊歩が許された島である。写真の背後に写る島は、高鉾島と奥は香焼島・伊王島の瀬戸と島。
向きを変えた別写真には、鼠島高台から見た八郎岳尾根が写されている。同種のパーティに分類しているもう1枚は、これは鼠島でなく南山手グラバー園入口坂道ではないだろうか。

長崎大学附属図書館が所蔵する「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」は、誰でもインターネットにより見られる。興味ある人はこれを開いてほしい。ただ残念に思うのは、上野彦馬を生んだ古写真の発祥地で数多くの収蔵写真を持ち、文部省補助を受けて作成した全国に誇るコレクションであるのに、監修がよく行き届いてないようだ。前にも見たとおり間違いが少なからずあることである。

長崎の500枚を越える主な写真を私が今春インターネットで確認したところ、撮影場所のタイトルや説明に明らかな間違いがあると思われるものが25点以上あった。地元の人間がこういったことはしっかり調査しなければと、私が現地の確認写真を添え研究レポートにまとめ、大学へ4月から知らせていたが、対応は遅かった。8月頃やっと修正されている。
長崎市立古写真資料館(東山手町)のものも同じであった。有料であるのに、例えば「野母崎樺島湊」の写真を「大浦海岸」と説明し展示してあったのには、私でさえ困惑を覚えた。

長崎浜屋イベントホールで11月、長崎大学附属図書館新収古写真展「写真術の渡来と初期写真家たち」が開かれた。最終日の18日午後に会場へ行った。日曜日で参観者はひっきりなし多かった。新しく収蔵された古写真が61点展示されていたが、私の見たかぎり6点あまりは、またタイトルや説明に首をひねらざるをえないものがあり、会場の大学担当者へ知らせておいた。

この記事は具体的な写真の指摘や掲載を控えた。このような苦言はあまり望むことではない。今後は関係者の方で十分な注意をはらい、現地で可能なかぎり検証し、再監修をお願いできればと思う。

星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

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星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える

「長崎さるく博‘06」により、平成18年4月、星取山のバス終点に長崎市科学館とNTTの手によって「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板が取り付けられたのを知り、昨年5月にさっそく見に行った。説明板は写真のとおり立派なもので、下部には「観測所風景」と「望遠鏡風景」の古写真を拡大したものがある。

写真をよく見た。「観測所風景」では、施設・機器の地面と背後は明らかに違い、後は「唐八景」の山並みである。これは観測所から東方、唐八景を写している。次に右の「望遠鏡風景」だが、説明板は戸町岳の方を向いて設置されており、三角形の山は「戸町岳」と思い、さんざん比較した。しかし、どうしても山の連なりは合わなかった。

説明板の設置方向に疑問を感じた私は、星取山を一周して同じ風景を探した。山頂はNTT無線中継所が大きく占め、フェンスに囲まれ中に入れない。木立が高く山頂からの眺めはまったく得られない。

山頂東側の下手に、バス停の1つ前から入る大正寺管理「星取墓地公園」がある。ここに搭屋があり、登ると四周がよく見える。ここで撮った写真は上のとおりである。「望遠鏡風景」の背後の山並みは、戸町岳とはまったく反対側。彦山から田手原・甑岩にかけての山に間違いない。手前は三景台団地などである。彦山側視界は山頂手前、NNK中継所アンテナのある所の道路からも開ける。

今回の説明板は、「さるく博」期間中の仮設と思われ、NTT側の敷地上の問題もあるらしい。金星観測史上における長崎のフランス隊金比羅山に劣らない、アメリカ隊による観測場所であった星取山の重要さを全体が認識し、皆が納得できるような恒久的な観測記念碑が早くできないものかと考えている。
また、長崎大学工学部なども協力し、古写真から星取山の観測地点を特定できる方法はないものか。同大学が原爆被爆写真から当時の町並みを再現したニュースを見ている。
(注) 詳しくは、研究レポート第3集に収録。