長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

長崎大水害で流失した茂木街道の柳山石橋  長崎市茂木町

強固な橋とは言いながら昭和57年の長崎大水害で流失・破損したものが多い。そして災害復旧の際に、防災の観点や修復費用の問題から修復されることなく消えていった石橋もあった。先人が残した郷土の財産である石橋。せめて関心だけでも持っていただければと思う。
「長崎県の石橋を訪ねて」HP氏の言だが、こんな運命をたどった石橋がかつて茂木町の若菜川上流に架かっていた。江戸時代の茂木街道の道筋にあった。

もぎ歴史懇談会「茂木の名所旧跡」資料の説明は次のとおり。流失前写真も同資料から(カラーを取り寄せ中)。
・柳山石橋跡
若菜川に沿い辻を通り柳山、転石、田上を経て長崎に通じる石畳みの旧道があり、明和6年(1769)江波市左衛門温石の石畳を敷きつめ、その後安政5年(1858)長崎出来鍛冶屋町竹内億助、東築町蒲池喜兵衛の両名私費で浄善田の石橋を架け交通の便をはかる。
昭和47年6月 市指定有形文化財に指定  昭和57年7月 長崎大水害で流失

また、長崎市南公民館どじょう会「長崎の碑(いしぶみ)第四集」平成7年刊56頁は次のとおり。
※柳山石橋(長崎市茂木町浄善田に所在した)
寛永十一年(一六三四)の長崎の眼鏡橋に始まる石橋には、近郊の石工や人夫多数が参加したと思われるが、彼等は見聞や経験を通じてアーチの理論を体得し、正規の切石ではなく、野石またはそれに近い自然石を巧みに積んで、アーチ橋を架けた。この柳山石橋もその一つで、安政五年(一八五六)六月、長崎の商人竹内億助、蒲池喜兵衛の両名が私費をもって架けた。
億助は天保十三年(一八四二)米百俵の施与を賞され、苗字を許されており、寛永二年(一八四九)には同じく私費をもって日見街道に石を敷き、旅人の難渋を救った。この橋はいた状の緑石麻岩を用い、川幅十一米に架かる。径間九・六米という。この種石橋の中では最大の誠に立派なものであった。(『昭和五十七年の長崎大水害で流失してしまった』)

なお、最後の絵葉書古写真は、長崎大学附属図書館が所蔵する幕末・明治期写真のタイトル「茂木道(1)」。次のとおり説明を「柳山付近と思われる」としているが、石橋でない。
背景の山の形も違い、これは柳山付近でなく、新道(旧県道)の河平川沿いの風景ではないだろうか。
茂木道(1) 写真説明
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた柳山付近と思われる。道端には馬が草を食んでいる。道路は明治18(1885)年に新道(旧県道)として整備された。