長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3812 高鉾島(19)
目録番号:5241 高鉾島(43)
目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
目録番号:3939 高鉾島(35)

■ 確認結果

長崎港の港口、小榊・神ノ島地区の島々を写した古写真の4枚。いずれも指摘によりタイトルや説明などは訂正されているが、再度まとめて見てみよう。

目録番号:3812 高鉾島(19)
神ノ島右端と重なって手前に「鼠島」が黒く写っている。撮影場所から「鼠島」は横に見えるのに、同島を正面に見る現在の長崎市小榊支所裏手の方の高台にある「小榊村大悲寺から」と説明していた。
「鼠島」を見落としている。訂正された説明どおり、この古写真は、港口にある「神崎鼻」から撮影されている。次の目録番号:5341と比較。松の木は同じでないか。根元近くに上がって写したようだ。

目録番号:5241 高鉾島(43)
石垣がある台場か神社のような所の中央に、ひとり人を配した写真である。撮影場所が不明だったのか、以前はまったく説明がなかった。今は「神崎鼻から撮影」と説明が追加された。
高鉾島と神ノ島が写るとおり、前の目録番号:3812と同じく、「神崎鼻」から撮影されている。
「神崎鼻」は、女神が対岸となる長崎港の重要な湾口。古くから台場や見張所が築かれた。
現在は、「JF全漁連長崎給油所」の大きなタンクが立ち並ぶ。通常は入場禁止だが、以前に中へ特別に入れてもらい、遺構と島々の位置関係を写してきた。

目録番号:4807 神崎鼻からの鼠島
最初の目録番号:3812と比較。カメラの向きが右へなったアングル。神ノ島と重なりこれも手前に「鼠島」が写っている。
なのに、以前のタイトルは「神の島からの鼠島」であった。沖に「神の島」が写っているのに、誤認がひどい。
神ノ島が埋め立て陸続きでなく、小瀬戸の間に海峡があったことが良くわかる古写真。
目録番号:3812及び目録番号:5341と同じく、これも「神崎鼻」から撮影された写真である。今のタイトルは「神崎鼻からの鼠島と神の島」とすべきでないか。

目録番号:3939 高鉾島(35)
神ノ島教会へ行くと、高鉾島を近くに望むまったく見慣れた状景なのに、撮影場所を以前は「小瀬戸町あたりから」と説明していた。同じようなアングル作品は多くある。
指摘により「現在の神ノ島教会あたりから見た、高鉾島の遠景」と説明を訂正されたのはよい。しかし、「長崎市の西岸の岬の先の現在の神ノ島教会…」と、続く「右に見える島が、神ノ島」の説明は、やや意味不明。
神ノ島は小瀬戸から離れた島であったし、高鉾島を手前の神ノ島から写している。

長崎の古写真考 目録番号:5317 樺島湊

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5317 樺島湊

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5317 樺島湊

■ 確認結果

長崎半島の南端、野母崎の「樺島湊」。昔から海上交通の要所で、鎖国時代は唐船の風待ち港となった。また漁業が盛んである。
古写真は、今の「樺島港」に間違いない。当時の樺島湊海岸線の最奥部から、湊の出口を写し、背景は脇岬の方の山である。
昭和61年(1986)「樺島大橋」が架かり、脇岬と陸続きとなった。長崎バスの「樺島」終点がその最奥部にあり、樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。
古写真は、鳥居をくぐってすぐ上の参道あたりから撮影されている。

1年ほど前、東山手町の「長崎市古写真資料館」へ見学に行った。この古写真が「居留地の海岸」のようなタイトルで展示されていた。
「居留地」となると「大浦海岸」あたりである。どうも違う。漁港のようであり「樺島」でないかと感じた。撮影場所の明らかな間違いと思われる展示写真がほかに2点あった。
「長崎市古写真資料館」は、東山手・南山手一帯の居留地古写真を展示している。帰宅して古写真HPを調べると、同じ写真でやはり「樺島湊」とあった。現地へ出かけ、山の稜線を確認した。

長崎大学は、撮影場所が新たに判明するなどして、古写真のタイトルや説明を変えても、それを展示している館に、通知はしないようである。
「長崎市古写真資料館」も、全国の観光客へ有料で見せているので、展示写真はきちんとチェクし、正確な展示をしてもらいたい。

その時に間違いを「古写真資料館」へ知らせていたが、先日再び行くと、タイトルを「樺島湊」と変えただけで、まだそのまま展示されていた。
野母崎の「樺島」なら、タイトルだけでなく場所の説明が必要である。居留地関係の展示コーナーから外した方がよいのではないか。

長崎の古写真考 目録番号: 253 和船(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 253 和船(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 253 和 船(1)
目録番号:1276 和 船(3)
目録番号:3233 和 船(9)
目録番号:2880 高鉾島(13)
目録番号:5713 和 船(12)

■ 確認結果

条件に「和船」と指定して探すと、全国の「和船」関連作品が31点出てくる。このうちの長崎関係の5点。「稲佐崎」は後日、別項にまとめる。

目録番号: 253 和 船(1)は、現在のJR長崎駅裏付近から写す。稲佐山と長崎ロープウェイ付近の山がよくわかる。旭町「志賀の波止」の対岸となった大黒町あたりからか。
撮影地域は指摘により長崎となっているが、具体的な撮影場所の説明がない。

目録番号:1276 和 船(3)は、現在の丸尾町丸尾公園から旭町商店街あたりを写す。ここは「稲佐崎」と「丸尾山」に囲まれた入江となっていた。旭町に松の木根元の石祠が恵比須神社となり、また、この古写真の坂道が残る。背景は浜平方面の上の山の尾根。

目録番号:3233 和 船(9)は、現在の丸尾町公園から長崎駅方面を望む。目録番号:1276 和 船(3)と同じところ。ここは「稲佐崎」と「丸尾山」に囲まれた入江となっていた。カメラの向きが変わっただけである。

目録番号:2880 高鉾島(13)は、現在の戸町1丁目。トンネルを出て国分町の方へ行き少し高台に登って写す。「戸町番所跡」の最も南側となる。女神と神崎との間の港口の先に高鉾島を望む。

目録番号:5713 和 船(12)は、現在の戸町1丁目の高台から写す。撮影地域は「未詳」となっているが、目録番号:2880 高鉾島(13)とまったく同じところである。中央に和船が入ったので、高鉾島が見えなくなっただけである。

戸町などから同じように「高鉾島」を写したのは、43点あるが、左から張り出した尾根をほとんど「女神の尾根」と一括説明している。
「女神」でなく、実際は1つ手前、戸町入江側の現在、造船所がある一帯の尾根である。

長崎の古写真考 目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
目録番号:5630 稲佐海岸(5) ((3)は間違い。(5)に訂正している)
目録番号:    お栄の桟橋 「旧渕村の歴史を顕彰する会」所蔵

■ 確認結果

研究レポート第3集179〜182頁に掲載しているので、詳しい説明は省略する。
要点は、稲佐お栄が造った「お栄の桟橋」と言われる桟橋は、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」か、それとも、胸を病み静養を兼ねて烏岩神社のすぐ下、平戸小屋にホテルを開業した時代の「丸尾山」の入江か、ということである。

古写真の1枚目と2枚目は、長崎大学附属図書館所蔵。「稲佐崎」とは、現在の「旭町」バス停右上、マンション「カネハレジデンス旭町」が建っている高台である。
JR長崎駅裏の埋立地から以前写していた写真と比べても、ここが「稲佐崎」に間違いない。「稲佐崎」の桟橋を「お栄の桟橋」として説明している。

古写真の1枚目の「稲佐崎」の左奥には、一帯の埋め立てのため明治期に切り取られた丸尾山と入江が、くしくもそのままの姿で写っている。気づく人は少ないだろう。
この「丸尾山」の入江にも桟橋があった。ここの桟橋を「お栄の桟橋」とするのが、「旧渕村の歴史を顕彰する会」である。
桟橋があった現在の丸尾公園の西角の場所に、説明板を設置している。
その根拠は、同会が所蔵する3枚目「お栄の桟橋」とする古写真。本来は、竹内和子氏所蔵だった。問題はこの古写真の、桟橋の状景となる。

同古写真を見ると、長崎港口を隔てて遠く霞んだ山は、女神上の「大久保山」(標高233.7m)の姿にまぎれもないであろう。
現在の国土地理院地形図を掲げた。丸尾公園の当時の桟橋の位置から、大久保山は写らない。奥まった入江で、丸尾山の先端や大鳥崎が邪魔したはずである。
丸尾山の対岸となる突き出た岬の先端、「稲佐崎」であれば、大久保山はそのように見えて写るはずである。「稲佐崎」を延長し、旭町岸壁のNASA先で、大久保山の姿を写してみた。

外にも理由がある。3枚目の古写真に写る桟橋は、1枚目と2枚目の桟橋とほとんど変わらない。階段・桟橋の向きと格好、横に張り出した木、高台の松も同じように見える。
「稲佐崎」のホテル・ヴェスナーへ行くのに、なぜ遠い「丸尾山」の入江の桟橋を使用しなければならなかったか。ホテル近くに桟橋を造ったはずである。

「丸尾山」の入江とすると、平戸小屋にホテルを開業した時代の桟橋も、「お栄の桟橋」と呼ばれたことは考えられるが、同会が所蔵する問題の古写真については、ホテル・ヴェスナー時代の「稲佐崎」と判定してよいのではないだろうか。

掲載を略したが、長崎大学データベースの目録番号:5630「稲佐海岸(5)」と同写真、目録番号:3816「長崎稲佐海岸(3)」の解説は、間違いであろう。長崎市街地へ通船があった志賀の波止は、まだ北側の入江ではないか。立山や山裾に筑後町の寺院群までは写っていない。左の山は彦山である。
これは、目録番号:5519「ホテル・ヴェスナーと桟橋」の方の解説が正しく、稲佐崎のいわゆる「お栄の桟橋」ではないか。

長崎の古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3817 長崎港と浪の平南山手(1)
〔画像解説〕    超高精細画像
ジョーダンから河村に贈呈されたアルバムの中の1枚で、A206 KONPIRA HILL AT NAGASAKIと印字が読める。長崎の南山手の琴平神社から居留地の南端と浪ノ平を展望する。右手前の大きな建物は明治20年(1887)に新築移転してきた尋常鎮鼎小学校(後の浪ノ平小学校)、その屋根越しに明治22年(1889)上棟の南山手25番、横の洋館は24番が見える。小学校の玄関には先生らしき人が立ち、校庭では男女の生徒が見える。右の丘上の「ヨンゴ松」(曲がった一本松で明治34年台風で倒木)の直下はグラバー邸。その下はリンガー邸で、さらにその下の旗竿はロシア(領事館は明治18年から別の場所で南山手17番)のものである。その下にはロシア海軍病院(石垣下)が見える。浪ノ平の手前の海岸には造船中の和船が見える。写真中央の大きな建物群は造船所で、その背後は出島。その右の出張りは梅香崎にあたる。撮影は明治20年代の中頃と思われる。

目録番号:5461 長崎港と浪の平南山手(2)
〔画像解説〕
南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む。写真右の建物は、明治20年(1887) 7月、尋常小曾根小学校を改称した尋常鎮鼎小学校。学校の裏手から山麓一帯が南山手外国人居留地。左側の町並みは手前から古河町、浪の平町。写真中央の工場付近が小曾根町の三菱炭鉱社と麦粉会社。居留地末期の明治30年(1897)頃。

■ 確認結果

まったく同じ構図の古写真。2枚目の説明は正しい。ただ、撮影場所を「南山手外国人居留地の南の端付近から長崎市街地方向を望む」としている。
居留地の「南端」は、説明文が続けるとおり、写真に写っている「尋常鎮鼎小学校」校舎の「裏手から山麓一帯」となる。
実際には、まだかなり手前となる高台、東琴平1丁目の「金刀比羅神社」の境内内。小曽根乾堂像が立つ一角あたりから、古写真は写されている。

あと注視したいのは、古写真の1枚目の方で、中央右寄り下に小さく写っている桁石橋が、そのまま現存する。親柱に「寄附者永井傳之?」と刻み、橋名はない。
「尋常鎮鼎小学校」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1442
明治11年1月11日に地元の実業家(貿易商・書家)小曽根乾堂が建てた小曽根小学校を後に改称した学校。「長崎市立浪平小学校」の前身となるが、浪平小学校も学校統廃合により2007年3月に閉校した。

「尋常鎮鼎小学校」の跡地は、現在の「長崎市南公民館」と併設の老人福祉施設「つばき荘」である。「長崎市立浪平小学校」は、大正14年頃に上部の別の場所に新校舎を建てたと思われる。
長崎市教育委員会が以前発行した「長崎古写真集 居留地編」には、尋常鎮鼎小学校が建つ前の同じような状景の古写真があり、「このあたりが浪平小学校」と説明している。詳しく説明しないと、現在では少し誤解を与える説明となっているようだ。

古写真HPについて言えば、撮影場所を具体的に「金刀比羅神社の境内から」とし、2枚目の説明を、1枚目にも記した方がわかりやすいと思われる。
「古写真に残る石橋風景」の追記参照。 https://misakimichi.com/archives/1570

長崎の古写真考 目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3883 外国人の野外祝賀パーティー(1)
目録番号:3884 外国人の野外祝賀パーティー(2)
目録番号:3885 外国人の野外祝賀パーティー(3)

■ 確認結果

古写真の1枚目は、まだはっきり確認できないが、現在の「長崎グラバー園」出口の坂道が、一番よく似ている。
注視することは、坂下の横道脇に右へ流れている溝。かなり大きな溝なので、現存しているはずである。坂上の奥と左側に、洋館2棟の屋根が見える。

入口に大きく飾られた国旗は、デンマークである。同国との関わりは、大北部電信会社のほか、グラバー園内の旧リンガー住宅に明治時代に住んでいた、イギリス人「フレデリック・リンガー」。
「ホーム・リンガー商会」を設立し、貿易業務、各国商社代理業務などにたずさわり、スウェーデン、ノルウェー、デンマークなどの名誉領事にも就任したとある。
祝賀パーティーが、そのときの式だった可能性がある。

古写真の2枚目と3枚目は、野外である。3枚目では高鉾島が見え、奥は香焼島と沖の島の間の海。外国人の遊歩が許された「皇后島」(鼠島)の高台広場に会場を設け、野外祝賀パーティをしたようである。
角度を変えた2枚目の、はるかな山の稜線は、八郎岳尾根縦走路。3枚目の左側に立つ白い洋服の人物が主賓のようで、リンガーに似ている。

昨年夏ごろ3枚目の古写真が、、朝日新聞のシリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った。撮影場所を知らせていたのに、「神の島」と説明し掲載されていた。
新聞で紹介するなら、もっと現場へ出かけ古写真を実地確認し、記事にしていただきたい。
最後の写真が、「神の島」の教会から見た場合の高鉾島である。島はこのようにしかならない。

長崎の古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4864 長崎梅香崎洋館群
目録番号:1003 新地蔵と出島(1)
目録番号:5901 新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)
目録番号: 328 大浦海岸通り(1)

■ 確認結果

古写真の1枚目は、新地と梅香崎の埋立地を結んだ当時の「梅ヶ崎橋」。新地湊公園の電車通り側あたりに橋はあったのではないか。

2枚目は、高台からこの「梅ヶ崎橋」がすぐ左下に見える。「梅ケ崎の山手(中新町)からのアングル」と説明している。
3枚目は、新地と出島方面を見たステレオ写真。「梅香崎の丘陵地十人町東側から…眺望したステレオ写真」と説明している。

2枚目と3枚目の古写真を良く見てもらいたい。まったく同じ写真で、3枚目は左側部分をカットしただけである。
2枚目で「梅ヶ崎橋」がすぐ左下に見えるのに、十人町奥となる「中新町」からとはならない。3枚目の説明どおり、「十人町の東側から」が正しいと思われる。
撮影場所は、今の梅香崎郵便局角から坂段を上がる。「天満宮」近くで写したと思われる。
3橋架橋を説明している2枚目の「明治3年」は、「明治2年(1869)」でないか。

古写真の4枚目は、大浦海岸通り。「手前の橋は明治3年(1870)建設の下り松橋(梅ケ崎橋)」と説明している。
「松ヶ枝橋」でないか。建設年代を記すのは、いかにもこの鉄橋?が明治3年に造られたように取られる。ほかの関連作品に、年代の記述はない。

長崎の古写真考 目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5164 中島川と古町橋と光永寺

■ 確認結果

1枚目の古写真の絵葉書には、下部に「長崎桶屋町」と撮影地を印字している。2枚目の古写真「目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)」は、掲載写真の入れ間違いで、正しくは「中島川と一覧橋と光永寺」となると前項で指摘している。
赤く彩色した寺は、屋根の形や白塀を見ると、両方とも桶屋町なら「光永寺」に間違いない。

「光永寺」を左の岸に挟み、中島川の下流にあるのが「一覧橋」、中島川の上流にあるのが「古町橋」である。
したがって1枚目の古写真の橋は、「古町橋」でなく「一覧橋」である。「目録番号:5164 中島川と一覧橋と光永寺」とならなくてはならない。
「一覧橋」現地説明板の古写真と比較しても、橋の姿は同じのようである。
後ろの2枚の写真は、「古町橋」側から見た「光永寺」。中島川の流れに対して寺の向きが逆となる。

長崎の古写真考 目録番号:5163 中島川と一覧橋と光永寺 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5163 中島川と一覧橋と光永寺 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5163 中島川と一覧橋と光永寺
目録番号: 989 中島川大手橋(1)

■ 確認結果

1枚目の古写真の絵葉書は、下部に「STONE BRIDGE NAGASAKI」とだけ印字して、橋名はわからないが、関連作品や背景の山の格好から、「桃渓橋」と思われる。
「桃渓橋」は、西山川の最下流に架かり、西山川はここで曲がる中島川の本流と合流する。
タイトルが「中島川と一覧橋と光永寺」と間違っているのは、前項の「目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)」と掲載写真が入れ変っているためと思われる。

1枚目の古写真の橋を「桃渓橋」とすると、注視してほしいのは、橋下の奥に写っている右側の川岸から斜めに張り出している立木。
同じ木が2枚目の古写真「中島川大手橋」に写り、上流にかすかなアーチが見え、これが「大手橋」と説明されている。
判定は正しい。この立木が証拠となる訳である。したがって、2枚目の古写真「目録番号: 989 中島川大手橋(1)」は、「桃渓橋」の上から「大手橋」を写している。
現在はビルが建て込み、後ろの山並みが写らない。

「大手橋」は、親和銀行馬町支店から新大工町商店街に入る通りに架かる。橋下を覗くと、アーチ式石橋が残っている。下流手前に架かる国道34号線の白い大きな橋「鎮西橋」は、1934年(昭和9年)架橋された近代橋である。 

長崎の古写真考 目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5162 中島川と桃渓橋(1)

■ 確認結果

絵葉書には、「一覧橋」とある橋名の親柱が写り、下部に「長崎光永寺」と撮影地を印字しているのに、どうして「中島川と桃渓橋(1)」となるのだろう。
長年、そのままになっている。単純なミスでは、済まされない。監修と説明の粗雑さが全般に目立つ。文部省科学研究費の補助を受けて構築した、全国に誇る古写真ライブラリーなのである。

現地に長崎市が設置している長崎さるく説明板「一覧橋と光永寺」も掲げる。長崎市も注意しないのだろうか。誰かが指摘しないと直らない。
次項の「目録番号:5163 中島川と一覧橋と光永寺」と、掲載写真が入れ変っていると思われる。