長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1)
目録番号:4215 長崎港と中町教会
(関連作品)
目録番号:5109 長崎福済寺からの長崎港(2)
目録番号:5110 長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
目録番号:5618 福済寺からの長崎市街(2)

■ 確認結果

フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名な長崎市筑後町の「福済寺」。長崎原爆により、本堂・大雄宝殿などすべて焼失した。
文政初年(1878〜)頃の復元模型が、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。監修者は、村田明久氏(長崎総合科学大学)。住職から話を聞き、当時の寺の配置と様子を知るため、模型を写しに行った。唐人屋敷の模型もあった。関連作品の次の項も参照。

参道は現在の位置と違う。山門をくぐって鐘楼・青蓮堂・旧本堂書院・大雄宝殿・開山堂があった。現在の住職宅が旧本堂書院、観音の建った所が大雄宝殿となる。福済寺の甍には、鯱と五重塔があったのが特徴。本蓮寺はない。
目録番号:2900「福済寺からの長崎市街(1)」と目録番号:4215「長崎港と中町教会」とも、福済寺の旧本堂の屋根越しに大村藩蔵屋敷跡(後に中町教会が建つ)と長崎港を撮影しているものと思われる。

最近、目録番号:4215「長崎港と中町教会」の古写真で、福済寺の裏手の道にさるく説明板が設置された。表題を「福済寺からの港風景」と変えている。
現在の寺の屋根が似ているから、この場所に設置したと思われるが、設置場所の間違いでないだろうか。
建物の向きが変っており、説明板の「写真下には、戦前に国宝建造物であった福済寺の大雄宝殿の屋根がみえます」とはならない。書院と左の鯱・五重塔がある横向きの屋根は青蓮堂と思われる。しかも、古写真に写る「中町教会」の位置が、ビルの陰となって全然確認できない。

古写真の実際の撮影場所は、現在の説明板の位置から、まだ左方へ20mほど行ったまだ高い所からと思われる。ここなら現在の中町教会の塔が見え、福済寺の屋根も確認できる。
今の位置の設置板なら、古写真は目録番号:2900「福済寺からの長崎市街(1)」に変え、目録番号:4215「長崎港と中町教会」は、中町教会に設置した方がよいと思われる。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口
〔画像解説〕
ベアトによる1866年2月の書き込み。立山(現長崎駅前)から長崎市内と港口を遠望する。海岸沿いに各藩の蔵屋敷がみられ、旧市内の建物、西役所、出島、大浦居留地、大浦教会がみええる。海上には船舶が多数。

目録番号:2882 長崎立山町からの長崎港(1)

(関連作品)
目録番号:2249 長崎港のパノラマ(2)
目録番号:2899 立山からの長崎港と町並み(1)
目録番号:3814 立山からの長崎港と町並み(2)
目録番号:3851 長崎市街中心部と長崎港(1)
目録番号:5106 長崎市街中心部と長崎港(2)
目録番号:5107 長崎市街中心部と長崎港(3)
目録番号:5108 長崎福済寺上からの長崎港(1)
目録番号:5565 立山からの長崎遠望

■ 確認結果

上記10点の作品は、だいたいアングルが似ている。撮影場所はわずかの違いがあろうが、展望のよい立山の山頂あたりか、墓地から市街地と長崎港口を撮影したものである。
問題は、目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の作品。2009年(平成21年)1月1日付朝日新聞長崎地域版に、開港150年の年頭特集記事として飾られた。
1886年に英国の写真家フェリックス・ベアトが撮影した長崎港の古写真。同じ場所から港を見るため、記者が苦労して撮影場所を探した。「山の形や重なりを確認。福済寺裏手が、めざす辺りだった」とし、その場所から写した現在の長崎港を下に載せている。

これは、誤認であろう。新聞の写真を比べてわかるとおり、深堀城山・大久保山・鍋冠山・八郎岳の山の重なりは合わないし、市街地や港を望んだ高度感を感じない。女神大橋が邪魔するが、港口右に香焼島が見えてない。
記者の場所は、福済寺長崎観音の背後の山手。ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地からと思われる。直線で結ばれる地点。同場所へ行って、最後の写真のとおり、同じく写してきた。

古写真の場所は、まだ右上の高いところで、約100mほど離れている。ホテルの左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりからが景色が合う。立山バス停から下った方が近い。
ほぼ「立山山頂」と言って良い。現在の老人ホームの場所から撮影された可能性がある。

目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の画像解説は、「立山(現長崎駅前の上手の山)から」と、撮影場所を具体的に説明すべきだろう。
次の目録番号:2882「長崎立山町からの長崎港(1)」も、同じ場所から撮影したと考えられる。竹薮と木立が今もあり、中央下に石塔の頭か、わずかに白く写っているので、参考となろう。

長崎の古写真考 目録番号:5653 時津の家並み

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5653 時津の家並み

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5653 時津の家並み
〔画像解説〕
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前は密集した浦郷で、港の入り江を挟んで対岸は崎野の海岸から人家に至る。大村との往還にはこの港が頻繁に利用された。背後の丘陵地は、長与の岡郷、嬉里郷に続く一帯で、後方の高い山は、琴ノ尾岳。

■ 確認結果

2008年12月20日付朝日新聞長崎地域版「長崎の今昔 長大写真コレクション」に掲載があった古写真。
1886年ごろに撮影されたとされる時津村(現在の時津町)の家並み。明治の終わりに塩田は田畑に変わり、海岸は埋め立てられ、今では工場や学校、住宅地に姿を変えた。
HPや新聞記事は、密集した「浦郷」の家並みと港を写し、奥に「市場」や「八幡神社」があると説明している。撮影場所は記していない。どこだろうか。

当時の集落の全体と港が、西から東方へ見渡されるある程度の高台。国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」で渡る。時津町立時津図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園が、古写真の撮影場所と思われる。 
この公園は、宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られ、地区の守護神となっている。公園片隅に現在も赤鳥居があり、古い石祠や灯篭が残っている。ゲートボール場や学童保育「つくしんぼ」の運動場として利用されている。

古写真の奥の木立は、拡大写真のとおり。右とすると「八幡神社」。左となると「萬行寺」である。八幡神社はムクノキが残る。左側にもイチョウの大木があったが、枯れた。
参道入口の「ともづな石」は、もとは70m位離れた中通りの現「高田測量・土地家屋調査事務所」前にあった。区画整理事業で移されている。
「市場」とは地名。茶屋(本陣)角の県道標石は、裏面に字名で「時津村字市場」と刻んでいる。

データベースの画像解説では「後方の高い山は、琴ノ尾岳」と説明している。間違いであろう。
左上鞍部のところが「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面。「琴ノ尾岳」(標高451.4m)は、左方の奥となるので古写真に収まっていない。
現在の写真では、大きなアンテナが目印となる山である。

長崎の古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5301 南山手より長崎港湾奥を望む

■ 確認結果

古写真のタイトルは「南山手より長崎港湾奥を望む」。撮影場所は「南山手」だが、具体的な場所の説明がない。はたしてどのあたりから撮影されたのだろう。
港内には多くの船が停泊している。中央右下に三角旗の旗竿が見え、洋館を1棟確認できる。これが大浦天主堂の横坂、車が登る現在の三菱重工長崎造船所外国人住宅となっているところではないか。

湾奥に右から金比羅山の尾根、左から稲佐山の尾根が下りている。さらに奥の山並みの重なりを合わせると、現在の「長崎市南山手地区町並み保存センター」先の「KKR長崎ニューグラバー」ホテル(南山手町4−26 平成18年6月廃止)建物前と思われる。

「須加五々道美術館」の上で、道がちょうど曲がり角となり、港内の展望が良い。このあたりの外国人居留地が造成される前であろうか。古写真は松林の中の道である。
一段上となる現在の「長崎グラバー園」出口付近の道路まで上がると、最後の写真とおり、山の重なりが合わなくなってくる。

長崎の古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 650 中島川風景下西山町辺り
目録番号:3249 長崎西山松の森(1)
目録番号:5357 長崎西山松の森(2)

■ 確認結果
古写真の中央左の高台に見えるのは、金比羅山に続く後ろの山の稜線などから考えて、現在の長崎市上西山町、松の森神社境内脇にある老舗料亭「富貴樓」に間違いない。
2007年に文化庁「登録有形文化財」指定の建造物。登録番号: 42 − 0068
中島川の支流「西山川」の川際から撮影している。現在の新大工商店街入口のアーチが下に残る石橋「大手橋」の橋上からと思われる。1つ上流の「西山橋」も石橋だったらしい。

だいたい同じアングルの古写真。タイトルを統一してよいと思われる。不思議なのは、2枚目の古写真に写る川原左にあるもの。タイヤに見えるが、回っている「水車」のようだ。
「富貴樓」の前身は、寛政時代に遡る。HP「富貴樓」による歴史説明は、次のとおり。

閑静な松の森神社境内わきにある老舗料亭「富貴樓」。創業百有余年、古色豊かな純和風の店構えの中に老舗ムードが漂う。百畳敷きの大広間をはじめ、大・小の八部屋を擁する当亭には貴族方・内外高官も来亭した。
富貴樓の前身は千秋亭・吉田屋とも云い、寛政時代には「崎陽松の森千秋亭」で知られる有数の料理屋として栄えた。明治二十年内田トミが譲り受け富士亭と改めた。
明治二十二年(1889)二月、ときの内閣総理大臣伊藤博文公来亭の折、豪華に咲き競う前庭の牡丹花を賞で、それまでの富士亭を改め、内田トミの「富」をとり「富貴樓」と称するように薦められたで、トミは有り難くお受けして、以後、これを屋号とした。内田トミと牡丹花がこの料亭の名物だったからである。
料理のメーンは二百有余年の伝統の技で作る長崎の郷土料理「卓袱料理」(富貴樓では[卓子料理]と称す)この伝統の味を求めて県内はもとより、県外からも多くの来亭者がある。

長崎の古写真考 目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)
目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)
目録番号:1206 稲佐海岸(1)
目録番号:1276 和 船(3)
目録番号:3233 和 船(9)
目録番号:5310 稲佐海岸
目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
古写真を一覧してわかるとおり、いずれも「稲佐崎」やこの入江を撮影したものである。

明治期になって、入江は徐々に埋め立てられ、海岸線が変わった。埋め立てに「丸尾山」や「大鳥崎」が削り取られた。ビルや三菱電機の工場などが建ち、当時の入江の面影を見つけにくい。
そのため以前は、「平戸小屋」や「水の浦」「飽の浦」海岸と説明し、地名をタイトルとしていたものがあった。海事関係者の意見らしい。現地調査をしていない。監修が疑われよう。
一部の古写真は、すでに掲載し説明しているが、関係写真をまとめ、もう一度見てみよう。

目録番号:5519 ホテル・ヴェスナーと桟橋
まず最後の古写真から見てもらう。「稲佐崎」とは、現在の「旭町」バス停の右上の高台。稲佐お栄の「ホテル・ヴェスナー」があった。今はマンションが建っている。
この古写真の左奥に写っているのが、「丸尾山」と「稲佐崎」の入江である。
当時の入江の地形は、波止場があったとされる丸尾公園西角に、「旧渕村の歴史を顕彰する会」が設置している説明板の図を参照。 

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
現在の丸尾公園西角から、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。背景に写る山は、「日昇館」などがある浜平上の山並みである。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)
以前は、タイトルは同じだが、「飽の浦海岸」と説明していた。前の古写真と同じく、現在の丸尾公園西角から、左側に「稲佐崎」を撮影している。
長崎港の奥は、現在の五島町・大黒町などの方面と蛍茶屋上の武功山の尾根であろう。

目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)
目録番号: 696「稲佐のイサバ船と弁財船(1)」とほぼ同じ。現在の丸尾公園西角から、丸尾山の少し先端の方へ行き、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。
背景の「日昇館」などがある浜平上の山並みが、同じ姿ではっきりわかる。

目録番号:1206 稲佐海岸(1)
目録番号: 698「長崎稲佐海岸(1)」と同じ古写真。タイトルを「稲佐海岸(1)」としているため、別分類されている。
以前は撮影場所を「稲佐海岸の飽の浦」と説明していた。「稲佐」と「飽の浦」は遠く離れている。

目録番号:1276 和 船(3)
「和船」に分類しているため、撮影地域は関連作品が多くあるのに、「未詳」とされた。近年「長崎」となったが、撮影場所の説明がない。
現在の丸尾公園西角から、対岸だった旭町商店街奥の旭町入江の船と集落を撮影している。背景に写る山は、「日昇館」などがある浜平上の山並み。
この古写真には、中央部に入江の浜から高台の集落に上がる「坂道」(黄線)が、はっきり写っている。同じ坂道が、旭町商店街奥の路地に現存しているのを確認している。

目録番号:3233 和 船(9)
目録番号: 698「長崎稲佐海岸(1)」及び目録番号:1206「稲佐海岸(1)」と同じ古写真なのに、「和船」のタイトルで別分類している。以前は撮影場所を「平戸小屋の入り江」と説明していた。

目録番号:5310 稲佐海岸
目録番号:1206「稲佐海岸(1)」と同じ方向を撮影した古写真。タイトルは以前「長崎湾水の浦」となっていた。「稲佐」と「水の浦」も離れている。
この古写真には、中央左寄りの松の大木の根元に「石祠」(黄線)が、はっきり写っている。
同場所の石祠が、旭町商店街奥に「恵比須神社」としてまだ祀られているのを確認している。
いずれもタイトルを整理し、撮影場所の説明を統一すべきではないか。

長崎の古写真考 目録番号:1960 海上の伝馬船

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1960 海上の伝馬船

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1960 海上の伝馬船

■ 確認結果

古写真は、長崎の人なら誰でもすぐ思い浮かぶ光景。稲佐山が写っている。以前から長年、なぜか撮影地域は「神戸」となっていた。長崎港内の同じような作品は多くある。監修はどうしたものだろうか。
2007年4月からの指摘により、現在は撮影地域が「長崎」と変わり、説明は「女神から見た稲佐山方面」となった。ただ「女神」からの景色と似ていると知らせたのだが、正しくは「古河町あたりの海岸から見た稲佐山方面」と説明すべきと思われる。訂正するにしても現地確認をお願いしたい。

「女神大橋」が架かる「女神」バス停近くからでは遠過ぎる。国分町の「戸町番所跡」や「小菅修船場跡」(ソロバンドック)の先端も遠い。
国道499号線戸町バイパス分岐手前「浪の平」バス停の海岸側に広い駐車場がある。稲佐山山頂の左尾根くぼみと、三菱重工本社ビルのある岩瀬道の高台が茂みが、古写真のアングルとほぼ合ってくる。

稲佐山尾根の全景を船が邪魔して写らないため、次の写真はもう少し先の古河町「ニッサンプリンス(株)社員駐車場」から写した。「ベルサイユ迎賓館」の先で海岸に面している。
古写真は海岸の高さから伝馬船を撮影している。ここなら浪の平の金刀比羅(琴平)神社の海岸側先端の方となり、アングルが合ってくる。
後ろの写真は、「女神」バス停からの風景。

長崎の古写真考 目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5379 愛宕山と愛宕町

■ 確認結果

「出雲町と愛宕山」が、以前のタイトル。出雲一帯にこのような格好の山は見当たらない。「山」と「町」の解せない取り合わせ。場所が離れてまったく違う。なぜ、こんなタイトルとなっていたのだろう。

「愛宕山」の方は正しい。思案橋電停から旧「茂木街道」の道が、「正覚寺」前を上がる。この古写真は、東小島町の「正覚寺」境内の片隅か、近くの旧街道途中から、「愛宕山」を撮影したものであろう。
山腹の家並みは、現在の高平町から愛宕1丁目にかけてである。今、ここに「長崎玉成高校」などが建っている。
出雲一帯では、「鍋冠山」がやや似ているが、当時はこのような家並みはない。

指摘によりタイトルを「愛宕町」と変えている。撮影場所を特定して説明してよいのではないか。
近くの鍛冶屋町に「清水寺」がある。目録番号:5186の石灯籠が、「長崎開港初年貿易船船繋石石灯(水前寺)」のタイトルで、熊本水前寺とされていたのも、驚くばかりであった。

長崎の古写真考 目録番号:5140 日見トンネル(2)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5140 日見トンネル(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5140 日見トンネル(2)

■ 確認結果

前項で「本河内水源地」を見たので、次に大正時代の国道「日見トンネル」の絵葉書写真も見てみる。国道34号にある「日見トンネル」。日見バイパスと「新日見トンネル」ができて、通る車は少なくなった。
土木遺産「日見隧道」を参照。 https://misakimichi.com/archives/1195 

この古写真は、「日見トンネルは大正8(1919)年に着工し、同5(1920)年4月3日に開通した」と説明している。しかし、大正8年は道路法の施行年であろう。
次の建設記念碑や文化庁登録有形文化財説明板(東口にある)から、正しくは「大正13(1924)年に着工し、同15(1926)年4月3日に開通した」となるのではないか。
とすると、「大正中期の…絵葉書写真」とも言えない。

古写真の撮影場所を、以前は日見トンネルの「東口」(日見側)と説明していた。指摘により変わったが、トンネル入口の右道脇に写っている白い工作物を考えなかったものと思われる。
これは長崎県の「日見隧道建設記念碑」。「東口」にはなく、右道脇にあるのは、日見トンネルの「西口」(本河内側)の方である。「東口」は、道路もカーブしている。
もっとも記念碑は、昭和33年佐藤県知事名の銘板に取り替えられている。だが、碑そのものは、トンネルの完成当時からあったものと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:5137 長崎西山水源地(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5137 長崎西山水源地(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5137 長崎西山水源地(3)
目録番号:5138 長崎西山水源地(4)
目録番号:5135 長崎西山水源地(1)

■ 確認結果

日本近代水道の先駆けとなった長崎水道。「本河内高部水源地」は明治24年(1891)、「本河内低部水源地」は明治36年(1903)、「西山水源地」は明治37年(1904)に次々完成した。
関係古写真について、次のとおり「水源地名」のタイトルと説明間違いが見られる。

目録番号:5137 長崎西山水源地(3)
タイトルは、「長崎西山水源地」だが、説明は「明治末年の本河内水源地」の絵葉書とある。この古写真は、本河内高部水源地の浄水場から撮影し、下に低部水源地が満水で見える。左側の尾根は伊良林の高台、遠くの山は対岸の立神山が高く写っているようである。
したがって、この古写真は絵葉書の説明どおり、「長崎本河内水源地」が正しいのではないか。

目録番号:5138 長崎西山水源地(4)
以前は、この古写真のタイトルが「長崎本河内水源地」となっていた。指摘により「長崎西山水源地」と訂正された。今、考えると上の目録番号:5137と、古写真を入れ間違って整理されているのが、その原因と思われる。

市街を向いた場合の「本河内水源地」と「西山水源地」の景色の違いは、高度差と右尾根張り出しや傾斜具合、遠く見える山が立神山か、風頭山かが主なものとなる。
決定的なのは、この古写真に「円錐屋根の塔」が写っている。同じ塔があったのは「西山水源地」の浄水場と思われる。

目録番号:5135 長崎西山水源地(1)
浄水場の「円錐屋根の塔」が、同じものか見てもらうため、建物の古写真を掲げる。同じであれば、絵葉書の説明どおり、前の目録番号:5138の古写真は「西山水源地」となる。

同水源地の浄水場は、昭和55年(1980)本河内浄水場へ統合され、跡地は河川公園となっている。そのため背景の山の確認写真は、堰堤の上から写した。