長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5306 小島養生所と長崎市街地(1)
〔画像解説〕
小島山手山腹から小島養生所越しに、長崎市中心市街地東側から片渕方面を見た鳥瞰写真である。撮影時期を特定できる対象が写っていないが、明治3年(1873)に元唐人屋敷が全焼しているが、それ以後の写真であるので、明治10年(1877)から明治20年(1887)前半の写真と思われる。写真右下の窪地の人家は、唐人屋敷の内部である。一際大きな屋根は福建会館の屋根である。(104−20)の写真と比べると、火災の跡が見られるので、明治3年(1870)ここが全焼した後のものある。

その右の小高い丘の上の建物は小島養生所の建物である。目録番号5383(整理番号104−24)の写真と比べると多く、その後多くの建物が造られ、施設が拡大したことが分かる。万延元年(1860)創建当初の施設の名前が小島養生所、地続きに所に医学所を新設、精得館と改称、さらに長崎府医学校と改称、長崎医学校、第六大学区医学校と変更、明治24年(1891)浦上に移転した。どの時代の写真かは明確ではない。立山の山裾に筑後町の寺院群から諏訪神社にいたる遠景がみえる。

目録番号:5383 小島養生所と長崎市街地(2)

■ 確認結果

目録番号:5306「小島養生所と長崎市街地(1)」の超高精細画像による解説は上記のとおり。次の目録番号:5383「小島養生所と長崎市街地(2)」の解説もほぼ同じ。撮影場所は「唐人屋敷山手中腹から」と解説している。
古写真のさるく説明板が、佐古小学校周辺の「唐人屋敷景」の説明板のすぐ上の坂道に設置されている。

2枚の古写真とも、拡大の違いがあるが、撮影場所は同じであろう。小島養生所の手前前面に十善寺郷墓地が写る。「小島山手中腹」とか「唐人屋敷山手中腹」と説明するのではなく、現在の東山手の海星学園前からドンの山へ登る坂道の途中、中新町の南部15街区あたりから撮影されたと思われる。隣は元町で「上大浦小学校跡」の碑があった。

現在の写真は、角の柿田ビル左先から墓地内を数段下がった高木家墓地から写した。
ここなら唐人屋敷内の「福建会館」の屋根が、現在でも確認できる。この辺りは十善寺郷墓地の一部に変貌していた。
ドンの山からは、右端の風頭山からの尾根の重なりを考えると、登りすぎとなる。

長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 50 館内から出島を望む
〔画像解説〕 超高精細画像
日下部金兵衛アルバムに収められた一葉。旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの。画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5〜6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化した様子がうかがえる。

■ 確認結果

目録番号: 50「館内から出島を望む」は、「福建会館」の上から撮影されているのではないだろうか。画面左手の刹竿が立つ所は、「土神堂」ではなく、この建物こそ現在「福建会館」となっている所であろう。さるく説明板が設置されているのは、唐人屋敷境界の東側中央裏手の高台。ちょうど福建会館の屋根が真正面に見える。脇に「唐人屋敷ご案内」の位置図があり、「土神堂」は、「福建会館」の右奥である。

見通しが良いので、この位置に説明板を設置したと思われるが、「土神堂」を解説や説明文の位置とすると、稲佐山は写らない。設置場所から1段下の路地をまだ左に寄らないと古写真と同じ構図にならない。「土神堂」の位置を現在の写真により確認する。反対に右手へ行くと、白い2つのビルの給水タンクの間に「土神堂」甍がかろうじて見える。この位置をよく覚えていてほしい。

問題は、解説やさるく説明板にある古写真の「左手の刹竿が立つところが土神堂」であろうか。白壁の角の間の通りは、曲がりながら下へ下っている。「土神堂」は、この通りのまだ下にあり、古写真の左枠外となりまったく写っていない。
長崎歴史文化博物館に展示されている当時の唐人屋敷模型から考えてみる。解説にあるとおり、古写真は「福建会館」のあたりから撮影されているから、白壁の囲いが現在の「福建会館」そのものとその右横の公園となるだろう。左隅の土石門が煉瓦造に変わり、便所側の出口に現存している。

白壁の正面右手通り、対面の屋敷塀の曲がり具合に注視すると、この地形の通りも現存し、これが古写真撮影の妥当な位置関係と思われる。刹竿から即「土神堂」とならないのではないか。
「福建会館」は、説明板のとおり江戸後期からあった建物を、明治30年(1897)全面的に改築し、「福建会館」と改称している。

長崎の古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4878 ドンの山(から)見た大浦居留地・出島

■ 確認結果

目録番号:4878「ドンの山(「から」の字抜け)見た大浦居留地・出島」と、まったく同じ古写真が、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成7年刊の42頁に掲載されている。
同137頁による「図版説明」は次のとおり。

25 星取山から長崎港を見下ろす          長崎大学附属図書館所蔵
星取山の山上付近から長崎港を見下ろしたもので、手前に大浦、東山手の居留地、右手に出島と旧市街地、港の向こうには大きく広がった浦上川の河口部と対岸・淵村の集落が望まれる。出島にはその左端に慶応3年(1867)に造成された馬廻しの突出がみえるが、明治2年2月に築町間に架設された出島新橋がないので、明治元年頃の撮影と推定される。東山手の丘上には旗竿を立てたイギリス領事館の2階建て洋館の背面がみえている。

「ドンの山」からの景色は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1512
この古写真は、「長崎古写真集 居留地」の図版説明どおり、「ドンの山」からではなく、「星取山」山頂から撮影されたものであろう。「星取山」山頂は、現在、NTT統制中継所の敷地となり周りの木立も高く、山頂から展望を確認できない。近くで展望がきくのは山頂の北側手前、「長崎霊園」と最近建設工事中の「港ヶ丘パーク墓苑」へ下る道のところ。
大浦川河口が左上に上がり、左奥の稲佐山尾根と岩屋山の稜線の重なりを確認すると、この古写真は「星取山」山頂から撮影されたものに間違いないだろう。

同じ古写真が、長崎市東山手町「古写真・埋蔵資料館」に展示され、タイトルが「鍋冠山から見た大浦居留地・出島」となっていたようだ。
「ドンの山」か、「鍋冠山」か、「星取山」か、似たような風景が広がり、混同が出てくる。
誤った指摘があって撮影場所を変更されたかも知れないが、変更するにしても長崎大学側が現地へ実際に出向き、正しく確認してから変更すべきではないだろうか。変更の際も、展示資料館へ連絡を確実にしてほしい。

後ろの写真は参考のため、両方の墓地上部から現在の写真を写した。星取山山頂からに対してまだ高度感が足りないし、山の稜線の重なりは高度が低いため合わない。

長崎の古写真考 古写真集: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集 居留地: 19 対岸より南山手・浪の平を望む

■ 確認結果

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地」平成7年刊の36頁に掲載されている「 19 対岸より南山手・浪の平を望む」の古写真。
同137頁による「図版説明」は次のとおり。古写真データベースでは、目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の作品となるので、同画像解説も参照。

19 対岸より南山手・浪の平を望む 〔彩色〕      横浜開港資料館所蔵
右下に身投岩がみえるように飽の浦の裏山から居留地の南端を望んだもの。海岸沿いに浪ノ平の町並みが続き、そのうしろに南山手の洋館群やドンドン坂などがみえる。背後の山は鍋冠山。明治20年新築の鎮鼎小学校(のちの浪の平小学校)の校舎(茶色に塗られた2階建て)や、ともに明治22年に建設という南山手25番館(赤色の建物、現在は犬山市・明治村に移築)と右手の山の上の聖ベルナール病院がみえるが、明治28年建設という高木氏宅や同31年建設のマリア園がないので、明治20年代中頃の撮影とみられる。
現存する杠葉病院本館・別館もみえないように、この当時はまだ、この地区に2階建ての洋風住宅は建っていなかったことがわかる。左側に艦船へは団平船による石炭の積み込み作業が行われているが、このような光景が写されているのも珍しい。

現地へ行ってみた。これも撮影場所の説明は違うようである。「身投岩」の岬とは、現在の長崎市岩瀬道町「三菱重工業(株)長崎造船所本館」が建つところ。古写真の「右下」ではなく、「左下」の岩が「身投岩」のようである。この間に湾入があり、現在は第3ドックができている。
浪の平の背後の山は鍋冠山。真ん中に星取山がわずかに覗く。右奥の遠い山は戸町岳である。「三菱重工業(株)長崎造船所本館」は入構禁止なので、正門前から写真を写した。

古写真の撮影場所は、この正門あたりと思われるが、鍋冠山をまだ下から眺め、星取山がわずかに覗くようにならないといけない。したがって実際の撮影場所は、正門から少し下った迎賓館「占勝閣」付近になると思われる。ここには以前から八幡神社があり、「占勝閣」の庭となっている。古写真「右下」は、立神側の先の尾根であろう。
後ろの3枚の写真は、それぞれ岩瀬道の山手の方からと、港内の船上から写してみた。
長崎新聞コラム”水や空”による「占勝閣」の記事は次のとおり。「占勝閣」は公開されていない。

占 勝 閣   (2004年5月25日付)

長崎市飽の浦町、三菱重工長崎造船所本館に隣接して緑の木立に囲まれたとんがり屋根のしゃれた洋館が目につく。第3ドック北側の丘の上にあり木造2階建て。同造船所の迎賓館「占勝閣」だ▲もともとは所長社宅として明治37年に建てられたが、翌年軍艦千代田がドック入りして修理中、艦長の東伏見宮依仁親王が宿泊され、風光景勝を占めるとの意から名付けられた。孫文が大正2年来所した折の扁額揮毫(きごう)もある▲昭和24年5月、昭和天皇が九州巡幸の途中に造船所を視察され、ここに宿泊された。造船所を訪れる皇族や内外賓客の接待に供されている趣のある建物。港と洋館が風景にマッチして長崎の絵になるスポットでもある…

なお、目録番号: 987「飽の浦からの汽船と南山手」は、米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モースコレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊62頁にも掲載されている。同解説は次のとおり。撮影年代は「1890年頃」となっている。
85 長崎港 ca.1890 長崎
鎖国時代唯一の外国貿易港は、明治になっても良港として外国船の出入りでにぎわった。この角度では船影がまばらだが、港全体はパノラマ撮影によらなければ写せない。稲佐山側から港内を撮影したもの。

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) 関連作品: 545 同(1)、 694 同(2)、3238 同(5)
目録番号:1208 飽の浦からの長崎港(4) 関連作品:3239 同(6)
目録番号:5298 飽の浦船着場と長崎港
目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)
目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)     関連作品: 546 飽の浦恵美須神社(2)

■ 確認結果

目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」は、長崎港を望む海岸の高台。2人の人物が松の木の根元に座って憩う。古写真集にほとんど出てくる風景。南山手や浪の平の居留地が前面に見える。
長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年刊の37頁に同じ写真が載せられ、「図版解説」による説明は次のとおり。

20 稲佐方面の人物と背後の居留地〔彩色〕    長崎大学附属図書館所蔵
上野彦馬の撮影。水の浦付近の丘の先端で休息する2人の人物を配した写真で、遠くの対岸に南山手と浪ノ平から小菅にかけてが望まれる。右手の近景は石炭置場で、左は恵比寿神社。左端に遠く大浦天主堂がみえる。明治中期頃の撮影であろうか。

この古写真の中央から右へ遠く霞む山は戸町岳と熊ヶ峰。手前の鍋冠山との山の重なりから見ると、飽の浦町の「恵美須神社」近くに間違いない。図版説明のとおり「左は恵比寿神社」とすると、「水の浦付近の丘の先端」とはならないのではないか。

2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」は、その場所からの左側続きである。右上に松の先端の枝が写り、左側には市街地と背後に彦山の姿を写している。
また、3枚目の目録番号:5298「飽の浦船着場と長崎港」は、高台の松を良く見てもらいたい。同じ木であろう。
4枚目の目録番号:4632 飽の浦からの長崎港(7)は、1枚目の目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」と同じ写真であるが、「内田九一」の撮影である。

ここまではすぐわかった。2枚目の目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」の左に続く写真があった。それが古写真考の前項でふれた5枚目の目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)である。「恵美須神社」を社殿後ろの右方の高台から撮影している。
古写真の連結写真が、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されていた。

したがって、1、2、5枚目の古写真は連結作品で、撮影場所は古写真考の前項で説明したとおり、現在の飽の浦町「菱重興産ビル 第二別館」が建っているあたりの岩場だったところから撮影したものと考えられる。HPや古写真集には、こんな図版解説をしてもらいたい。
連結写真の旧・新を作ってみた(クリック拡大)。新は三菱工場、クレーン、ビルが眺望を遮り、同じ場所から写せないので不揃いとなった。

4枚目の目録番号:4632「飽の浦からの長崎港(7)」は、次のとおり説明している。
「従前、上野彦馬撮影とされていた古写真は、近年、「明治5(1872)年、天皇の西国巡幸に随行した内田九一が撮影した長崎港の4枚組写真の一枚である。会場(海上?)には天皇のお召し艦が見える。もともと上野彦馬の撮影と見られていたが、霞会が所蔵していた西国巡幸の内田の献納写真に同じものがあり、撮影者が九一であることがわかった」。
この「長崎港の4枚組写真の一枚」の所在を、まだ解しかねている。
最後の写真は、長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年発行の33頁に掲載されている「16 対岸から居留地を望む」の古写真から、恵美須神社と思われる所の拡大写真。

長崎の古写真考 目録番号: 51 飽の浦恵美須神社(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 51 飽の浦恵美須神社(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:  51 飽の浦恵美須神社(1) 

目録番号:1694 長崎稲佐海岸(2)  (関連作品) 目録番号: 546 飽の浦恵美須神社(2)

■ 確認結果

長崎市飽の浦町の「恵美須神社」を撮影した古写真の3作品。神社越しに長崎港を見ている。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅠ 長崎の史跡(北部編)」平成14年刊の74頁による神社の説明は次のとおり。
神社は「長崎名勝図絵」にも描かれている。境内に現在「恵比須波止」の標石が残る。

152 釛山恵美須神社 (所在地:長崎市飽の浦町)
釛山恵美須神社は、最初、恵比須町居住の町人某宅に祀られていたが、寛永10年(1633)現在地へ移された。以後、諏訪神社の末社に列し、五箇所商人をはじめ多くの人達の信仰を集めた。旧村社。かつて同社の全面の海中に黄金島とか裸島と呼ばれた島があった。「御用留」には万延元年(1860)この黄金島に船舶標識のための鉄製の灯籠が長崎製鉄所によって製作されることになり、…以下略

目録番号: 51「飽の浦恵美須神社(1)」と目録番号:1694「長崎稲佐海岸(2)」とも日下部金兵衛アルバムらしい。両方とも神社裏の同じ高台から撮影している。
目録番号:1694には赤鳥居と社殿が写っているので、撮影年代が違う。この写真は英文で「長崎、稲佐の景色」と題されているため、タイトルが「長崎稲佐海岸(2)」となっているようだ。

現在の社殿の裏の高台は、「全造船機械三菱長船分会」の組合事務所となっている。ここから写した景色は上のとおり。古写真の左側は水の浦や大鳥崎の尾根、背後の霞む山並みは金比羅山、中央の三角の山が健山、右側は烽火山と武功山となることを確認した。
実際は、社殿向きがまだ左に寄っているので、組合事務所の先のビル「菱重興産第二別館」あたりにあった続きの岩場から撮影されたと思われる。ビルは岩場を削って建てられている。

長崎の古写真考 古写真集: 37 金星観測眼視望遠鏡

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 37 金星観測眼視望遠鏡

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

上野彦馬歴史写真集成: 37 金星観測眼視望遠鏡

■ 確認結果

これは長崎大学HPの目録番号にはなく、馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年初版の52頁に掲載されている「37 金星観測眼視望遠鏡」の古写真。
同頁の「図版解説」は次のとおり。写真は日本大学芸術学部所蔵である。

37 金星観測眼視望遠鏡
明治7年(1874)12月9日の金星の太陽面通過に伴い、その金星観測絶好の地として日本の長崎、神戸、横浜などが選ばれた。彦馬は長崎のアメリカ観測隊に加わり、我が国初の天体写真を撮影したとされる。これはその際の望遠鏡を撮影したものと思われる。なお、彦馬撮影による肝心の金星の写真は一枚も発見されていない。

前の記事「星取山「金星太陽面通過観測の地」さるく博説明板を考える」を参照。
https://misakimichi.com/archives/141
「写真集成」による図版解説や、星取山現地「さるく説明板」の説明はそのとおりである。ただ、望遠鏡背景の山並みを、これまでほとんど確認されていないように感じたのは、不可解だった。
山頂はNTT無線中継所が大きく占め、フェンスに囲まれ中に入れない。木立が高く山頂からの眺めはまったく得られない。

視界が開ける山頂手前、「NNK中継所アンテナ」のある所の道路からや、もう少し下った大正寺管理「星取墓地公園」からの展望は、上の写真のとおりである。
「37 金星観測眼視望遠鏡」の背後の山並みは、戸町岳とはまったく反対側。北方の彦山から田手原・甑岩にかけての山に間違いない。手前の尾根は三景台や風頭町あたりである。
したがって、この古写真は星取山山頂に据えた望遠鏡を撮影していると断定できる。
「さるく説明板」左側下にあるもう1枚の古写真の「観測所」風景の背後の盛り上がった地面は、同じ所に見えるが、これは観測所から東方へ少し離れた「唐八景」山頂の稜線であろう。

長崎の古写真考 古写真集: 16 対岸から居留地を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 古写真集: 16 対岸から居留地を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

古写真集 居留地編: 16 対岸から居留地を望む

■ 確認結果

「16 対岸から居留地を望む」の作品は、長崎大学データベースでは見当たらない。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成7年発行の33頁に掲載されている。同137頁の「図版解説」は次のとおり。

16 対岸から居留地を望む         長崎市立博物館所蔵
対岸の淵村、立神の山の中腹から長崎港越しに居留地を遠望したもので、中央に下り松から浪ノ平と南山手、左手には梅香崎、右手には小菅までが写っている。手前側には左手に岩瀬道の漁村集落、右手側に初期の三菱造船所がみえる。やや不鮮明ながら大浦天主堂は改築後の姿で、東山手の丘にはラッセル館がなさそうなことから、撮影は明治10年代前半期であろう。

すぐ思い浮かぶのは、稲佐山展望台から眼下に見える光景である。長崎製鉄所(明治17年払い下げ、三菱会社長崎造船所飽の浦機械工場となる)と身投崎が手前の右手側に写っているので、立神の山からとはならない。
手前側の左手は「水の浦」、中央は「恵比須神社」、右手は「飽の浦」である。
対岸の右手の山は鍋冠山と星取山。奥にかすむ三角のピークが戸町岳。山の稜線の重なりを見ると、撮影場所は稲佐山の山頂からではない。

飽の浦から登山道が現在もある稲佐山の中腹。現在の長崎市大谷町、社会福祉法人長崎厚生福祉団の介護老人保健施設「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったケアハウス背後あたりが考えられる。ここなら山の重なりが合う。
「シンフォニー稲佐の森Ⅱ」が建ったため、古写真と同じような光景を写せない。登山道も迂回してしまった。現在の写真は、景色が確認できる適当な場所から撮影している。

(追 記 平成21年2月14日)
失礼してしまった。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年発行の第3版によると、137頁の「図版解説」では、撮影場所は「対岸の稲佐山の山頂下付近から遠望したもの」と所要の修正がなされていた。
撮影者は不詳。明治20年代中頃の撮影であろうとなっている。

長崎の古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 (続き)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口 (続き)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号: 763 大黒町および出島と長崎港口(再掲)
目録番号:5565 立山からの長崎港遠望

■ 確認結果
目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」は、1886年に英国の写真家フェリックス・ベアトが撮影した長崎港の古写真。
2009年(平成21年)1月1日付朝日新聞長崎地域版に、開港150年の年頭特集記事として飾られた。この項は、前項 https://misakimichi.com/archives/1575 の続き。

最初の写真が、私が探した撮影場所。ホテルの長崎の左横に赤い建物の老人ホーム「プレジールの丘」が建つ。このすぐ下となる「西勝寺の無縁諸霊墓」の一段上、「中山家之墓」あたりでないだろうかと考えた。
次の新聞記事と写真が、朝日新聞記者が探した撮影場所。福済寺長崎観音の背後、ホテル長崎の展望浴場のすぐ下の墓地あたりからと思われる。

ところでベアトが撮影したこの古写真と、撮影場所が似ていると思われる写真がある。もちろんここからは、多少の場所の違いや高度差を抜きにして話を進める。
次の古写真の目録番号:5565「立山からの長崎港遠望」。撮影者未詳、アルバム名:明治期手彩色小型写真帖でなっている。上野彦馬もまた、まったく同じような古写真を残している。

長崎市写真団体合同展実行委員会が平成15年6月発行した「上野彦馬没後100年・第30回記念 写真集 長崎 第7集」の表紙となっている古写真。
同実行委員会も、古写真の撮影場所を探しているのがわかった。対比写真は記者からまだ左寄りの上、ホテル長崎の展望浴場の横からを写している。
「福済寺」の大雄宝殿の跡に建てられた長崎観音の像は、古写真の外のまだ右となるので、これも合わない。要は、神崎鼻の先に香焼島が古写真どおり写らないのではないか。

上野彦馬は周りを囲む山々から、長崎港を俯瞰した写真を多く撮影している。
馬場章氏編「上野彦馬歴史写真集成」渡辺出版2006年7月初版の60頁には、47、48で「福済寺裏山からの長崎港」がある。同70頁にも「79、墓地越しの長崎港眺望」を載せられていた。実行委員会写真集の表紙となった古写真は、47の作品と若干違うが、上野彦馬の作品に違いないだろう。

88頁には、年代不詳で未整理されている「87、福済寺裏山からの長崎港眺望」の作品がある。左右下に赤×があり、台紙裏に年月などの書き込みが何もないらしい。
朝日新聞の記事となった1886年ベアトが撮影した目録番号: 763「大黒町および出島と長崎港口」の古写真と、まったく同じような構図である。
たしかに詳しく見ると、港内の船や市街の家は少し違う。だが、撮影年代はそう変らないようで興味深い。上野彦馬の写真の撮影年代を推定できるのではないか。
古写真を所蔵する資料館や専門に研究される方において、はっきりした検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:5109 長崎福済寺上からの長崎港(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5109 長崎福済寺上からの長崎港(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、目録番号の順は不同である。

目録番号:5109 長崎福済寺からの長崎港(2)
目録番号:5110 長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)
目録番号:5618 福済寺からの長崎市街(2)
(関連作品)
目録番号:2900 福済寺からの長崎市街(1)
目録番号:4215 長崎港と中町教会

■ 確認結果

フーコの振り子がある「萬国霊廟長崎観音」で有名な長崎市筑後町の「福済寺」。長崎原爆により、本堂・大雄宝殿などすべて焼失した。
文政初年(1878〜)頃の復元模型が、長崎歴史文化博物館2階に展示されている。監修者は、村田明久氏(長崎総合科学大学)。住職から話を聞き、当時の寺の配置と様子を知るため、模型を写しに行った。唐人屋敷の模型もあった。関連作品の前の項も参照。

最初の目録番号:5109「長崎福済寺からの長崎港(2)」は、左下に写っているのが「大雄宝殿」と思われる。甍の鯱・五重塔がはっきりわかる。建物の向きが合い、右下の一段低い屋根は、現在の庭園にあった「開山堂」だろう。

2枚目の目録番号:5110「長崎福済寺からの長崎港(鉄道用地工事中)(3)」は、これも「大雄宝殿」を今度は右下に写していると思われる。左側に続くのは、「斎堂」などの屋根だろう。
長崎駅側の海面が埋め立てられたのは、最初の写真説明にあるとおり、明治37年(1904)。

3枚目の目録番号:5618「福済寺からの長崎市街(2)」は、その左側。右側の松の下に写っている縦向きの建物が、旧本堂の「書院」と思われる。横向きなのは手前が「青蓮堂」、奥のが参道「山門」の屋根とすれば、建物の配列と向きは合うと思われる。