寄稿・ゆうこう・その他」カテゴリーアーカイブ

JR東海道本線下の円明寺ねじれトンネル  京都府乙訓郡大山崎町字円明寺

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JR東海道本線下の円明寺ねじれトンネル  京都府乙訓郡大山崎町字円明寺

京都市在住の近代測量史を研究されている上西先生から、3月29日送られてきた次のメールと画像。京都府大山崎町のJR東海道本線下「円明寺トンネル」(鉄道煉瓦橋梁)。
古いレンガ造りだが、レンガの積み方がねじれていて、トンネルが曲がっているようなのが珍しい。トンネル内は水路を兼用した道路と思われる。

通称「ねじりまんぽ」は、京都では琵琶湖疏水のインクライン跨道橋が有名だが、円明寺橋梁の他に、京都、大阪に少なくとも4基はあるみたいと、石橋・煉瓦橋梁研究の宮崎県にえもんさんの話し。「ねじりまんぽ」と円明寺架道橋は、次のHPを参照。
http://kitahata55.co.jp/untiku/kengaku/neziri-manbo/ooyamazaki-enmyouzi/enmyouzi.htm

関東東北震災のあと標石探索は自粛しております。たまたま先日、JR山崎近傍(過日お送りした桂川鉄橋よりずっと大阪より)で東海道本線の下をくぐっている古いレンガ造りのトンネルを見ました。レンガの積み方がねじれているように見えます。同類のトンネルは琵琶湖疏水にもありますが、鉄道でははじめて見ました。参考になれば幸いです。     上西 勝也

2010年 ”長崎風来紀行”ベスト10

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2010年 ”長崎風来紀行”ベスト10

新年にあたり”長崎風来紀行”により、私の2010年を振り返る。石橋・標石・古写真・史跡・巨樹など、昨年中に新しく探したもののベスト10。詳しくは各記事を。

1 式見でアーチ式石橋が見つかる  長崎市向町
長崎市の式見地区、向町に小さなアーチ式石橋が残っていた。長崎バス式見バス停から下向集落の中へ入る。バスが通る県道112号線の式見トンネルへ登る里道があり、登り口の川に石橋が架かっているのを、11月17日夕方、通りかかって見かけた。式見郷土史にもまったく記していない。橋長:1.8m、橋幅:1.8m、拱矢:1.5mほど。
https://misakimichi.com/archives/2448

2 大瀬戸町に残る方角を刻んだ道標  西海市大瀬戸町瀬戸板浦郷ほか
大瀬戸から大串方向へ県道12号線をしばらく走ると、「下山」バス停がある。当時の往還道は、この先少し行った小道である。右へ入ると往還道の分岐があった。大瀬戸町郷土誌に写真が載っている標石が、畑の土手に無造作に倒されてあった。、「西 瀬戸」「北 大串」「南 雪ノ浦」と刻んでいる。18cm角、高さ75cmの標石である。放置されているのはもったいない。
https://misakimichi.com/archives/2395

3 西彼杵半島旧明治県道の一里標  西海市西彼町・西海町・大瀬戸町
大瀬戸町多以良から行くとトトロのある「柳口」バス停から右の旧県道の道へ入る。西海町七釜郷へ出る中間位の道目木という集落に「一里標」が現存する。この標石は、外海線の旧県道標石と思われる。外海線にも一里標が建てられていたのだ。正面「一里標」 右面「面高ヘ四里八分」 左面「瀬戸へ二里」 裏面「長崎縣」18cm角 高さ1m
https://misakimichi.com/archives/2383

4 大野原の猪見岳直下にある「陸軍」境界石  東彼杵郡東彼杵町
「陸軍」境界石は、9月12日猪見岳(標高589.8m)に登った時、山頂直下で3本見かけた。10月野焼きのため、現在、境界の防火帯が草刈りされており、そこに「陸軍」と刻んだ珍しい境界石があった。矢印、番号も刻まれ、帝国陸軍時代の古い標石と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2425

5 長崎の幕末・明治期古写真考 「甦る幕末」 123:長崎市街風景
ライデン大学写真コレクション。写真の石橋は、変流埋め立て前の銅座川に架かっていた「新地蔵所」南門の石橋なのである。広場場や唐人屋敷と結ぶ南門も、奥の船溜りに入るため橋高なアーチ式石橋が手前に架かっていた。長崎名勝図絵に描かれ石橋の記録があるものの、初めて石橋の姿がわかった貴重な古写真と思われる。
https://misakimichi.com/archives/2348

6 長崎の幕末・明治期古写真考 「海上の伝馬船」など7点を長崎の古写真と確認
データベース整理番号46番台は、個人アルバムからの興味深い古写真。「撮影地域:神戸」とされている一連の作品の中に、今回、はっきり「長崎」とわかった作品が、次のとおり7点あった。目録番号:1966「漁村の風景」は、現茂木郵便局前から撮影した茂木の風景。
7点のほかデータベース全体で、その後、数点が見つかっている。
https://misakimichi.com/archives/2218

7 長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3077 川に架かる鉄道橋
F.ベアトの作品。明治初期に建設された見事な煉瓦橋梁を撮影している。煉瓦建造物の日本近代建築史もまったくふれていないと思われる貴重な古写真だろう。京都の桂川近くにあった国内最大級のれんが造りアーチ橋「下津林避溢橋(ひいつきょう)」(京都市西京区)に間違いない。
https://misakimichi.com/archives/2353

8 式見蝶ヶ崎から舞岳の尾根道整備  平成22年12月
国道蝶ヶ崎トンネル上の蝶ヶ崎展望岩は標高120mほど。尾根道のピークで海の展望が良い。ここが式見郷土史238頁に記す「賀衆ヶ峯」だろうか。狼煙場跡はわからなかった。式見郷土史の説明は次のとおり。34 賀衆ヶ峯 手熊峠の西方の高い山をいう。文化6年(1809年)狼煙場の事として、当村鶚岳賀衆ヶ峯に在り長崎異変の時、こゝでのろしをあげて異変を村の中に知らせる。
https://misakimichi.com/archives/2457

9 河通のアベマキ  西海市大瀬戸町河通郷
西海市大瀬戸町河通郷のつがねの滝近くに、コルクノキの大木がある。地元では「コルクノキ」と呼んでいるが、樹皮が一時、コルクの代用品となったコルククヌギのようであり、和名「アベマキ」として知られる。幹囲3m、樹高15mほどある。長崎県下で2番目に大きい木らしい。
https://misakimichi.com/archives/2392

10 恋?金? 吉運シシ  雲仙市国見町土黒庚
裏雲仙田代原から国見百花台公園へ国道389号線により下る。舞岳の裏側あたり写真のパーキングエリア奥中央に、自然石の「吉(恋か金)運シシ」が祭られている。賽銭をあげたいね。
https://misakimichi.com/archives/2413

伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

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伝統柑橘・ゆうこうに光  原木は約130本確認

朝日新聞2010年(平成22年)1月5日付長崎地域版「長崎さしすせそ」の掲載記事。
川上氏のゆうこう研究を伝える。ゆうこうの原木は、川上氏の分布調査によると、現在は長崎市の外海、土井首の両地区(深堀、三和、野母崎地区もある)、新上五島町?、佐賀県唐津市の馬渡島で約130本を確認している。

2010年新春  明けましておめでとうございます

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2010年新春  明けましておめでとうございます

みなさんのご多幸をお祈りします。旧年中もかわらぬご支援をいただき感謝します。お蔭さまで、新年の縁起良くアクセス10万へカウントダウン。ありがとうございます。
いささかネタが切れかかっていますが、長崎の歴史や風景などをもう少し続けたいと思います。
私もよろしくね。まだ草食系よ。

川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  ピースミュージアムで開催中

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川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  ピースミュージアムで開催中

2001年に“ゆうこう”に出会ってから、今なおその謎に挑む川上さんのロマン豊かな追跡の記録を紹介する企画展が 次のとおり開催されていますから、ご案内します。

<展示協力>
根角博久(農研機構カンキツ研究部):黒川陽子(料理研究家):長崎市「ながさきの食推進室」:長崎・土井首「愛のゆうこう園」:西出津町「フェルム・ド・外海」農園:Mみさき道歩会ほか。 *敬称略

2009年11月17日(火)〜12月6日(日)
● 開館・AM9:30−PM5:30 (最終日・12/6 PM2:00)
● 休館・11/24(火)・30(月)
● 入館無料 

ナガサキピースミュージアム
長崎市松が枝町7−15 路面電車「大浦海岸通下車」徒歩3分
電話 095−818−4247  E-mail  museum@nagasakips.com
(さだまさしさんが、NPO法人ナガサキピースフィア貝の火運動会長です)

食のたからもの再発見  「ゆうこう」

日本では、ユズやカボスのように酸が多く優れた香気のあるカンキツが古くから栽培されている。長崎県長崎市の土井首地区、外海地区などに自生する「ゆうこう」もまた、この在来の香酸カンキツの1つ。由来は不明だが、長く庭に植えられ、自給的に利用されてきた。
昭和35年以降に導入された温州みかんへの交雑が恐れられたこと、手軽な酢などの調味料が普及したことで急速に姿を消した「ゆうこう」だが、地元では、地域の宝として苗作りなど振興の動きが進んでいる。(展示パネルから)

川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  11月17日からピースミュージアムで

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川上さんのロマン“ゆうこう”追跡記録展  11月17日からピースミュージアムで

次のとおり企画展が開催されますから、ご案内します。2001年“ゆうこう”に出会ってから、今なおその謎に挑む川上氏(私の友人)の、ロマン豊かな追跡の記録を紹介。「みさき道」も登場します。

“ゆうこう”を食べたことがありますか
〜川上さんの“温故知新”探訪記〜

“ゆうこう”は柚子(ゆず)・橙(だいだい)・檸檬(レモン)などと同じ仲閒の“香酸カンキツ(みかん)”です。最近発見された新種のみかんですが、「長崎の特産品」として大きな話題と関心を集めています。
誰がいつ植えたのか、どこから来たのか、なぜ「ゆうこう」と呼ぶのか…判っていないのです。それなのに、食の世界遺産と言われる「味の箱船」にまで認定され、一躍スローフード運動の仲間入りを果たしました。

“ゆうこう”を見つけたのは長崎市の川上正徳さん(1943年生・元長崎市職員)です。健康作りを兼ねた長崎半島の「みさき道」歴史路探索の路傍で出合いました。温州蜜柑や柚子・橙とは異なる味と風貌に興味を惹かれた川上さんは…地域の人の協力や専門家に指導を仰ぎながらその分布・歴史・実態を調べました。
その結果、“ゆうこう”は何故か、かつて佐賀藩の領地であった地域やカトリック教徒が多く住んでいた地域に集中していました。また、植物学的な分析などから、どうやら「新種」であることも判りました。

長崎市では特産品・地域振興、環境整備などの面から“ゆうこう”の未来に大きな期待をかけています。
2001年に“ゆうこう”に出合ってから今なおその謎に挑む川上さんのロマン豊かな追跡の記録を紹介します。

<展示協力>
根角博久(農研機構カンキツ研究部):黒川陽子(料理研究家):長崎市「ながさきの食推進室」:長崎・土井首「愛のゆうこう園」:西出津町「フェルム・ド・外海」農園:Mみさき道歩会ほか。 *敬称略

2009年11月17日(火)〜12月6日(日)
● 開館・AM9:30−PM5:30 (最終日・12/6 PM2:00)
● 休館・11/24(火)・30(月)
● 入館無料 

ナガサキピースミュージアム
長崎市松が枝町7−15 路面電車「大浦海岸通下車」徒歩3分
電話 095−818−4247  E-mail  museum@nagasakips.com

”ゆうこう”が味の方舟に認められる  2008年10月

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”ゆうこう”が味の方舟に認められる  2008年10月

川上氏HP「JH6KXGのホームページ」に、次のとおり写真と記事があり紹介しておきたい。正しくは「味の方舟」でないかとのことである。
なお、参考記事はスローフードジャパン公式ウェブサイトから。味の箱舟がめざすものと日本の認定品目を抜粋した。

2年に1度のスローフード世界大会がイタリア・トリノ市で開催され、テッラマードレ2008とサローネグストへ参加してきました。
席上”ゆうこう”が味の方舟に認められたことを知らされました。スローフードの本部のホームページに記載されていました。
テッラマードレ2006でお会いしたボランティアとも記念写真を撮ることができました。

(スローフードジャパン公式ウェブサイトの参考記事)

各地方の伝統的かつ固有な在来品種や加工食品、伝統漁法による魚介類などのなかには、このままでは消えてしまうかもしれない、小さなつくり手による希少な食材がたくさんあります。「味の箱舟」(アルカ)プロジェクトとは、こうした食材を世界共通のガイドラインで選定し、プロモーション活動などの支援策によって、その生産や消費を守り、地域における食の多様性を守ろうというもの。大量生産・大量流通のなかで、世界を包み込もうとする「食の均質化」を「大洪水」に、未来の子供たちに残したい味を「箱舟」にたとえています。イタリアでは、すでに500以上の貴重な食材を「味の箱舟」に選定するなどして、取り組みを進めています。…

「味の箱舟」に乗っている日本の品目は以下の通りです。
認定日 2005年11月27日
品 目 「八列トウモロコシ」 「日本短角種」 「安家地ダイコン」 「花作ダイコン」 「米沢の雪
菜」 「余目ネギ’」 「長面の焼きハゼ」 「カタクチイワシの塩辛」 「雲仙コブタカナ」
認定日 2006年12月21日
品 目 「小瀬菜大根」 「ハタハタ(鰰)のしょっつる」 「鯖のなれずし」
認定日 2007年3月20日 
品 目 「堂上蜂屋柿」 「ざざ虫」 「木曾赤かぶ」
認定日 2007年8月3日
品 目 「長崎はくさい」 「野口菜(水掛菜)」 「谷田部ねぎ」 「まさかりかぼちゃ」 「札幌黄」
認定日 2008年10月31日
品 目 「赤ねぎ」 「ゆうこう」

馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

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馬渡島で「ゆうこう」2本を確認  佐賀県唐津市鎮西町

平成21年3年7日、佐賀県唐津市鎮西町の馬渡(まだら)島へ。呼子港から名護屋港を経由して馬渡島までは、船で30分。柚の新種「ゆうこう」分布調査に川上氏が行くので同行した。
平成18年3月川上氏稿「げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉」は、以下のとおり。悠長にそれから3年、やっと彼の馬渡島の現地調査が実現した。
なお、2007年9月27日付西日本新聞夕刊記事「謎のゲンコウ 佐賀・馬渡島固有のかんきつ類 由来キリスト教に関係? 特産化へ試み始動」がHPに出てくるので参照。

川上氏が佐賀県農業試験研究センターから取り寄せた資料によると、馬渡島に5本の「ゆうこう」の木があるはずであったが、今回の調査では場所がよくわからず時間が足りなく、2本しか見つけることができなかった。
いずれもカトリック信者が住む島内の高台「新村」地区。聖母園の園内入口マリア像前と御堂カトリック教会へ行く車道の左脇にあった。2本の「ゆうこう」の木は写真のとおりである。
馬渡島固有のかんきつ類「げんこう」「とうこう」も、「ゆうこう」との比較上、現物を確認したかったが、地元で研究されている大谷肇造さんが不在で所用を達せず、再び実がなる時期に来島する必要がある。「げんこう」が「ゆうこう」に似ているが、少し扁平という地元の話であった。
詳しい研究結果は、川上氏がまとめるであろう。

げんこう・とうこう・ゆうこう ■佐賀県馬渡島 〈ゆうこうロマンと謎〉

佐賀県の隠れキリシタンの島に「ゆうこう」があるというメールが長崎県果樹試験場根角科長から入りました。早速、毎年、純心大学長崎学講座でお世話になっている純心大学の山田先生に佐賀県の隠れキリシタンの島を尋ねたら「馬渡島」ではないかと教えていただきました。
インターネットで見てみると「馬渡島」のホームページがあり、呼子港から40分くらいで行ける島で、教会もあるようです。さらに見ていくと寛永年間、迫害を逃れて長崎県黒埼村から移り住んだという隠れキリシタンがいたとありました。

長崎県でも小が倉、土井首、深堀、三和、野母崎という旧深堀藩の地域と外海の出津を中心としたやはり深堀藩という共通点がありました。深堀藩は佐賀藩の家老でありましたし、馬渡島も佐賀県ですが、この馬渡島が加わると共通点は隠れキリシタンの可能性が高くなるのではないでしょうか。しかし、隠れキリシタンのメッカの樫山地区には「ゆうこう」がありません。現在、小が倉には大山教会、深堀には善長教会がありますし、馬渡島にも教会があるようです。この3箇所には全て「ゆうこう」が存在したのです。

2月24日根角科長と佐賀県農業試験研究センターから2人の技術者が長崎の「ゆうこう」の調査に来られました。馬渡島の「ゆうこう」について試験研究センターの方の話が、又、面白いものでした。平成11年、もともと古事記にある橘という果樹の起源を調査していたところ、馬渡島に「げんこう」、「とうこう」、「ゆうこう」の3種類の柑橘があったそうですが、「とうこう」は現在ないそうです。島では「げんこう」は今も調味料に使っているそうです。しかし「ゆうこう」は野生に存在するのだそうです。
外海の日宇さん宅で「ゆうこう」の皮入りパンなどでお昼をご馳走になりながら、先ほどの話を聞いていたら、日宇さんのお祖父さんの兄弟に馬渡島からお嫁さんが来られたとの偶然に一同驚きました。

馬渡島は元寇襲来の歴史があり、元寇の大将におばあさんが石臼を投げつけたところ敵将が倒れ、元軍も退却したという言い伝えがあるそうです。
私の考えですが、「げんこう」は漢字で「元寇」→「元柑」、「とうこう」は唐から来た柑橘で「唐柑」ともなりそうです。しかし、根角さんの言われるように、「ゆうこう」は「ゆうこう」たい。となるのでしょうか。日宇さんは、ドロ神父は優しい言葉でいろいろな事を表現していたので「友好」ではないかと言っておられました。そうなるとタイトルを漢字で表現すると「元柑」、「唐柑」、「友柑」となるのでしょうか。漢字の表現はともかく、長崎県果樹試験場と佐賀県農業試験研究センターは近く馬渡島へ現地調査に行く予定だそうです。「ゆうこう」のロマンと謎はますます深まっていきます。
(平成18年3月川上氏稿)

2009年の迎春  本年もよろしく  

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2009年の迎春  本年もよろしく

長崎はみぞれまじりの年明けです。去年も同じだった。北国は大雪でしょう。
新年おめでとうございます。みなさんには昨年中たいへんお世話になりました。うれしいコメントの数々、深く感謝しています。

Yahoo!ブログ ”長崎・佐賀・天草風来紀行”を、2009年もよろしくお願いします。
初日が拝めず、わが家からの風景とわびしい花屋敷をお届けします。不況風が吹く東京の息子、見ているか。

「みさき道」初歩きは、あす1月2日、長崎市三和行政センター前広場に午前9時30分集合。蚊焼峠ー徳道ー岬木場ー殿隠山ー遠見山ー堂山峠ー脇岬観音寺のコースで、約15kmを歩く。
正月は開帳。「みさきの観音」と会えます。参加自由。お待ちしてます。

諏訪神社へ初詣でに出かける方は、一の鳥居前の石橋という「小橋」を、どんなものか見てください。

さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

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さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

一昨年「退職者の会会報」にみさき道人さんの江戸期のみさき道のこと、東樫山の藩境石塚、大久保山の天明藩境石塚の踏査が3回にわたり掲載されました。歴史のロマンを感じながら興味深く読ませてもらいました。
丁度この頃、公民館講座「町並みの史跡をさるく」が開講されました。この講座は申込者が多く、運よく抽選に当り受講することができました。講師の江越弘人先生(著書「長崎の歴史」などあり)は滑石村とキリシタンの話しから始まります。

さるくのスタートは滑石口道標です。20cm四方、高さ40cm程の石柱が半ば埋もれるように立っています。滑石公民館正門近くにあります。
左へ三重道、右へ時津道の道標です。ここに立てば私たちに何かを語りかけてくるような気がします。当時の行き交う人の話し声、足音、蹄の音、耳を傾け偲ぶ。これより時津方面へ向かえば打坂峠にさしかかる。

今は国道206号線が走り、時津街道最大の難所といわれたそれらしき箇所はなにも見当たらない。その当時の峠の所在は種々の説があるそうです。滑石村が大村藩であったことも、このとき知りました。
滑石の住人になって27年になる。己の無知、無関心に全くあきれるばかりである。滑石地区には30余に及ぶ史跡や由緒ある墓地などがあるそうです。

今からでも遅くない。さるけ、さるけで我が町に強くなろう。せっかく講座で長崎の街のあちこちの史跡を教えてもらいましたので、また、さるいてみようかなと気持ちを掻き立てています。
減退していく脳のリフレッシュのためにも。そして、健康ライフとして、「五快二発」。
一 快眠、二 快食、三 快便、四 快気、五 快動。次に、一 発声、二 発汗。
これを柱に据えてさるきたい。最後に温め酒を少々いただくことを日々是、楽しみにしよう。

(註) 滑石の史跡案内図は、1988年編纂委員会編「長崎滑石郷郷土史誌」156頁から
1 六地蔵と三尊仏石窟
2 岩屋山参道口(旧時津街道遺構)
3 旧萬象園(道の尾ラジューム温泉)
4 岩屋クラブ跡(被爆者仮救護所跡)
5 高谷正蔵墓碑
6 小干の浦殉教者遺骨発見の地(江東家)
7 平宗橋街道道標(川上家)
8 平宗寺跡「庵の木戸」
9 平宗無縁墓碑(重橋家)
10 平宗落武者供養塔(松本家)
11 旧滑石小学校跡
12 横道街道道標(旧時津街道)
13 横道角の庄屋宅(菊池高谷家・現柿田宅)
14 白髭宮と虚空蔵
15 肥塚酒造場跡
16 打坂峠竹林(旧時津街道の難所)
17 仁田尾供養塔残欠墓碑群(市指定有形文化財)
18 元・井手庄屋(井手家)、七つが倉跡
19 岩屋神社(神通寺・神宮寺跡)
20 滑石大神宮・同社叢(市天然記念物) 西浦上小発祥の地・被爆者滑石仮救護所跡
21 まご山(きりしたん寺の跡と伝えられる)
22 大庄屋跡(大村家庄屋屋敷)
23 しょうげん寺跡
24 観音様(残欠墓碑群−山下宅)
25 寺川内稲荷明神
26 庵寺供養塔墓碑群(山田宅裏山)
27 式見追分手熊道入口
28 地蔵様
29 藤の平墓地
30 山ん神様
31 釈迦堂(堂屋敷)と納骨堂