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食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」  東京財団HPから

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食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」  東京財団HPから

東京財団は、日本財団および競艇業界の総意のもと、極めて公益性の高い活動を行う財団として、1997年に設立された。研究事業として「食のたからもの再発見プロジェクト」が組まれ、第6弾「ゆうこう」が取り上げられた。
昨年12月末、料理研究家の黒川陽子氏が長崎を現地取材し、同財団HPにより紹介されている。次はその一部である。
詳しくは、http://www.tkfd.or.jp/research/sub1.php?id=52

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食のたからもの再発見プロジェクト第6弾「ゆうこう」

「食のたからもの取材レポート」第6弾は、「ゆうこう」のレポートをお届けします。日本では、ユズやその近縁と考えられる香酸カンキツ(レモンのように主に調理用に利用されるカンキツ)の在来種が、屋敷の庭木の1つなどとして古くから各地で自給的に栽培され、酢の物や香り付け、薬味などとして食文化に彩を加えてきました。「ゆうこう」は、近年、長崎市土井首地区と外海地区に伝わる独自の在来種であることが確認された品種で、日本の香酸カンキツが元来持っている様々な特徴を受け継いでいます。自給的な食材の大切さや現代の暮らしを見直す上で私たちに多くの示唆を与える「ゆうこう」とその再生の取り組みについて、料理研究家の黒川陽子氏が取材しました。

————— <目次> ——————
1.なぜ、たからものなのか
2.どうやって作られているのか
3.味を育む背景や用途について
4.どこで味わい、買うことができるのか/5.人物紹介
6.「香酸カンキツ」文化マップ
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1.なぜ、たからものなのか

■ 歴史的背景

香酸カンキツとは、レモンやライムのように、カンキツ類の中で酸含有量が多く優れた香気を有し、主に調理用として利用されるものを指す。日本において、最も代表的なのはユズである。原産地は中国とされるが、かなり古くから日本に渡来し、奈良・平安時代には既に植えられていたことが確認されている。日本には、ユズの他、ユズの近縁と考えられる地域独自の品種が多く発生し、世界的にみても独特の香酸カンキツが発達している。徳島県のスダチ、大分県のカボスなど地域在来の香酸カンキツが西日本を中心に古くから栽培され、酢の物や香り付け、薬味などに利用されてきた(*1)。「ゆうこう」は、最近になって「再発見」された在来香酸カンキツの一つである。

「ゆうこう」の外見は、ユズやカボスに似ており、熟すと外皮も果肉もレモンのような鮮やかな黄色になり、丸みのある酸味と水分、種の多さ、日向夏と同じように果皮の白い部分も食べられるのが特徴で、成熟果の果皮にはザボンまたはユズに似た甘い香りがする(*2)。

来歴は名称の意味や由来を含めいまだに不祥で、一説にはユズやザボンなどの自然交配で偶発したものと言われている。実生で無性繁殖する「ゆうこう」の持つ多胚性という特性のため、樹齢100年を超える「ゆうこう」の実生樹が複数本現存しており、江戸時代後期から明治初期には、すでにあったのではないかと考えられている(*3)。

「ゆうこう」は、長崎県長崎市の土井首(どいのくび)地区と外海(そとめ)地区の2つの地域でその存在が確認されている。2つの地域は、江戸時代、同じ佐賀領であったという共通点があるが、20km近く離れていて、それぞれ独自に発展してきたとされている。なお、同じ佐賀領で、現在、佐賀県唐津市馬渡島(まだらじま)にも、野生化した「ゆうこう」が確認されている。土井首地区のうち深堀の南部の山奥の大籠地区や小ケ倉の山奥に大山という隠れキリシタンの集落があり、外海から逃れて住み着いたものであり、馬渡島も外海の隠れキリシタンが移住したという3地区に歴史的な共通性があるが、外海の隠れキリシタンが多く住みついた五島にゆうこうの生息は確認できていないので、決定的な因果関係は確認できない。土井首と外海のどちらが原木なのかもまだ、未確認である。

土井首では、ざぼんや夏みかんなどの他のカンキツ類と一緒に屋敷の敷地や畑に植えられ、自給的に利用されていたが、その他、道端などあちらこちらに「ゆうこう」があったといわれている。これは、鳥が「ゆうこう」をついばみ、種を運ぶなどして自生していったからだと地元では考えられている。

外海でも、屋敷の敷地や畑に古くから植えられ、自給的に使われていた。また、キリスト教徒が多く住む外海では、隠れキリシタンを含むキリスト教との関連が深いことが推測されており、村人たちの貧困生活を見て布教により地域住民の暮らしの向上に尽くしたフランス人宣教師ド・ロ神父(1840年〜1914年)が広めたと考えている人もいる。  

「ゆうこう」の用途については、どちらの地域でも、酢の物や鰯などの青魚の調味料、子供のおやつや飲み物代わり、お風呂に浮かべたり、風邪をひいたときなどの薬の代わりとして愛用されてきた。長崎では、一般的に、香酸カンキツは、ダイダイやユズが使われてきたが(*4)、2つの地域では、風味が柔らかく食材の味を引き立たせるので、「ゆうこう」が一番使いよいと言われている。また、どちらの地域でも、ダイダイの導入以前から「ゆうこう」があったと言われている。

しかし、1960年代に入り、第1に、温州みかんの導入・産地化に伴い、交雑が恐れられたこと、第2に、手軽に購入・利用できる酢などの調味料が普及したこと、第3に、野菜用の畑を増反するのに邪魔となったこと、第4に、樹勢が強く高木となり、実が採取しにくいことなどから、「ゆうこう」は急速に地域から姿を消していった。土井首においては、都市化・宅地化の進展が「ゆうこう」の衰退に拍車をかけた。

こうして、「ゆうこう」が絶滅の危機に瀕する中で、2001年に当時長崎市役所土井首支所長兼地区公民館長であった川上正徳氏が「ゆうこう」の存在を知り、長崎県果樹試験場などと連携して調査が実施されたのをきっかけに、2つの地域を中心に「ゆうこう」を守り、再生する取り組みがはじまった。

現在、「ゆうこう」の再生に取り組んでいる人たちは、いずれも、「「ゆうこう」は、地域に自生的に存在し、自給的に使われているものだったので、その大切さがわからなかった。しかし、絶滅の危機に瀕してはじめて、地域における食文化や生活、歴史を特徴づけるものであり、なくてはならないものであることがわかった。」と語っている。

今日の日本において、地域の食文化や生活において大切ではあるが、自給的な性格が強いため、生産性や経済性が重視されるようになるにつれ、衰退、さらには、絶滅の危機に直面している食材は少なくないと思われる。特に、元来、屋敷の庭木の1つなどとして植えられ、調味料や薬味として自給的に利用されてきた香酸カンキツなどは、そうした傾向が強いといえるが、自給的な食材の大切さや現代の暮らしの中での見直しを考える上で、「ゆうこう」とその再生の取り組みは、私たちに多くの示唆を与えてくれると思われる。

● 他の香酸カンキツとの比較
ゆず・ユコウ・ゆうこうの栽培される香酸カンキツの果実形質比較
「ゆうこう」とよく比較されるものを選抜)
(上からユズ、ゆうこう、ユコウ)               
(提供:独立行政法人果樹研究所・根角博久氏)

「ゆうこう」という名前から、徳島県で栽培されているユズの近縁種で、果汁を食酢として利用する香酸カンキツ“ユコウ”と間違えられることがあるが、果実外観、果皮、果肉、種子の形質から、形態学的にも成分的にも異なることが、独立行政法人果樹研究所の根角博久氏らにより明らかにされ(*5)、長崎の2地域にしか存在が確認されていない「新種」として紹介された。

2.どうやって作られているのか

■ 生産状況

2007年12月現在、原産地の2つの地域で確認されている「ゆうこう」の樹は、土井首地区52本、外海地区64本の計116本である。2007年に確認された果実の数は、全体的には不作の年と言われながらも、およそ土井首地区で960個、外海地区で906個となっており、1樹で200個の果実をつけるものも3樹あった。近年、「ゆうこう」再生の取り組みが進められる中で、この他、両地域の母樹園で計220本の苗木が育成されている。また、両地域とも自家用として使っているだけで、加工品を含め、販売はされてこなかったが、外海地区にある道の駅「夕陽が丘そとめ」では、2007年12月に初めて消費者へ本格的に「ゆうこう」が売り出されたが、家にある樹木から採取したものを販売しているため、1日20個程度にとどまっている。

■「ゆうこう」再生の取り組みと活動内容、生産者

「ゆうこう」の「再発見」は、長崎市役所土井首支所長兼地区公民館長であった川上正德氏(左写真)が、2001年に土井首地区に深堀藩の殿様(佐賀藩家老)が佐賀藩への往来に使った「殿様道」を調べに山に入ったのがきっかけだった。当時、土井首地区連合自治会会長だった小中龍徳氏から、道端にある木からもいでもらい、食べたのが「ゆうこう」であった。川上氏にとって、「ゆうこう」は、はじめてみるカンキツであり、見てくれはよくないが、夏蜜柑にも似た独特の味がした。その果実の正式な名前や名前の由来、特徴など詳しいことが知りたくて、「NHK趣味の園芸」へ「ゆうこう」の写真を送ったところ、(独)農業・食品産業技術総合研究機構果樹研究所カンキツ研究興津拠点研究支援センターの根角博久氏の目にとまった。それがきっかけとなり、根角氏と川上氏らによる「ゆうこう」についての調査が開始された。その後、ほどなくして、根角氏が長崎県果樹試験場に転勤し、本格的な調査研究が始まり、「新種」であることや他の香酸カンキツと比較した特徴などが明らかにされた。同時に、現地踏査に基づき、「ゆうこう」の分布図や分布表を作成し、「ゆうこう」の保全のための基礎資料としている。

川上氏は、市役所を退職された現在も、休日になると、地元の方々と連れ立って、新たな「ゆうこう」の樹を探しに出かけ、分布図や表の確認や更新をおこなっている。また、2つの地域における「ゆうこう」再生の取り組みのよきアドバイザーとなって活動を盛り上げている。  (以下略)

スローフードの輪  ●ユウコウ 長崎市  読売新聞記事から

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スローフードの輪  受け継ぐ地域「色」  読売新聞記事から

平成20年1月1日付読売新聞の掲載記事。長崎市特産のかんきつ類「ユウコウ」について、次のとおり紹介している。
本ブログへの川上正徳氏寄稿の別項も参照ください。

●ユウコウ 長崎市  万能の実り 庶民と共に

長崎市の北部に位置する外海地区。角力灘に近い高台の木にぶら下がった黄色い果実から、ほのかに甘酸っぱい香りが漂う。市特産のかんきつ類「ユウコウ」。ひっそりと守られてきた果実が今、見直されている。
「生活の必需品。元気の源です」。地元の主婦、日宇スギノさん(60)が声を弾ませる。子供のころ、せきが出ると母親はユウコウを切ってあぶり、温かい搾り汁にして飲ませてくれた。その思い出が鮮明に残る。
直径7㌢、重さ150㌘ほどの果実は、10〜2月が収穫期。青い実が、次第に黄色く色付いてくる。
ユウコウは長崎市と佐賀県の一部でしか確認されていない。「外国人宣教師が伝えたのでは?」との説もあるが、ルーツは謎のままだ。それでも、果汁を飲んだり、焼き魚にかけたりと、いつも庶民のそばにあった。
注目され始めたのは4年前。元長崎市職員の川上正徳さん(64)が偶然、その存在を知り、長崎県果樹試験場などの協力を得て調べてみた。ユズやカボスとは似ては非なる「新種」と分かり、その後、中性脂肪濃度を下げる効果があることも報告された。
家の建て替えや道路建設などで、以前から生えていたユウコウの木は減った。長崎市内には100本余りが残るだけだが、市は活用策を話し合う検討会を作り、苗木の植樹を始めた。昨年4月に亡くなった伊藤一長・前市長も感心を寄せ、川上さんが贈った苗木を大切に育てていたという。
川上さんは今、古本を調べてルーツをたどる研究を続けている。日宇さんは2年前から、果皮を練り込んだパンを焼き、地元の道の駅で売り出した。
ユウコウが縁で交流を始めた2人は「ここにしかないものだからこそ、魅力を伝えたい。私たちにはかけがえのない宝物です」と口をそろえる。          (加地水治)

スローフード世界大会と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

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スローフード世界大会と「ゆうこう」  川 上 正 徳

土井首地区で出会った小さな蜜柑「ゆうこう」(ゆうこうの実は、優しい香りと筋の山があるのが特徴。発見のきっかけとなった木は土井首にある。別項参照)の縁で、図らずも初のヨーロッパ旅行に行く事になりました。外国旅行は中国へ10回、韓国へも5回ほど旅行をしましたが、欧米旅行は初めてでした。
1昨年、土井首地区で「ゆうこう」の植樹祭、昨年は外海地区でも植樹祭がありました。今年の植樹祭に姉妹都市フランスのボスロール村長一行やスローフード協会の方が参加されました。その後、世界スローフード協会の「味の箱舟」に「ゆうこう」も申請することになりました。そのスローフード協会の世界大会「テッラマードレ2006」が本年10月25日から30日までイタリア トリノ市で開催されるので「ゆうこうコミュニティ」として外海の「フェルムド・外海」の日宇さん一行と参加することになったのです。
長崎県雲仙市の「こぶ高菜」、「えたりの塩辛」2種類がすでに「味の箱舟」に登録され、雲仙市長さん一行が参加されるので、初の渡欧の私も仲間に加えていただきました。
旅行で驚いたのは、成田からフランクフルトまで11時間の飛行機の長旅でした。途中、飛行機の窓から広漠とした自然の厳しい景色を写真に撮ったり、楽しんで見ていたらスチュワーデスから「窓を閉めてください。皆さん休んでしますから」と注意され、私も仮眠しました。飛行中に食事が3度も出されました。
フランクフルトで乗り換えると丁度ヨーロッパアルプスの日没がきれいでした。トリノへ着陸すると拍手が起きました。何だろうと後で尋ねると無事着陸できたから拍手する習慣があるとのことで納得?しました。
宿舎はトリノのオリンピック村でどんな良い部屋かと期待していましたが、テレビ、ラジオ、新聞もなくトイレもシャワーも共同でした。宿舎は4階建てで、エレベーターの表示は1階が“ゼロ”、2階は“2”で“1”はないので始めは戸惑いました。
水道水は飲めないのでミネラルウオーターを買うのですが、だまって買うと炭酸入りで少し酸っぱく、飲んでも喉が渇く始末、「ナチュレ」とか「ノーガス」といわないと自然の水が飲めません。1本0.6ユーロ90円位でした。その代わりというかワインの安いのは一抱えもある瓶なのに4ユーロ600円位でした。勿論高いのもあります。空港にはあった自動販売機が街には一切ありませんでした。夜、ミネラルウォーターが無いと朝まで我慢です。
少し時間を見つけてローマ修道院に在学中のシスターの案内で市内に出ました。電車とバスが同じ会社で同じ切符で乗れました。電気軌道をバスも走ります。乗車券は0.9ユーロで70分乗り放題、バスの中では、お金を一切扱わず、売店で買った切符に消印を自分で印字するだけです。無賃乗車は可能です。 紳士の国なのでしょう。
食事にコーヒー屋に入りました。BARと表示があるのですが、日本のバーでなくバールという喫茶店が沢山あります。バールでは、お金を先払いして領収書で現物を受け取ります。座って食事をすると代金が2倍になりました。地元の人は立ち食いです。
大失敗がありました。10月29日、日曜日から夏時間が終わるのでした。それを知らないで会議に入っても30分も遅れるのはイタリアでは常識と言われていたので、やはりイタリア時間で皆ゆっくりしてるなと思っていたら、1時間早く来ていたのでした。30分後、めずらしく次の会議がきっちり始まりました。帰りは30日14時出発して成田へ翌日の31日16時着きました。
本年1月、スローフード日本の学術委員が現地視察に来られ、外海地区、土井首地区のゆうこうの生育状況、地区の皆さんのゆうこうの利用状況を調べていかれた。来年の世界大会には長崎市から唐人菜とゆうこうが味の箱舟入りを果たし、世界の皆さんへ郷土の果実、野菜の良さを発表できればと願っています。

(注)この稿は研究レポート第3集に収録している。ゆうこう振興策の記事は、長崎新聞2207年3月31日付けの長崎近郊ローカル版に掲載分。

長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

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長崎への道(長崎への抜け道を歩く)  江越弘人氏稿

長崎は、山に取り囲まれており、長崎に入るには必ず峠を越えなければならなかった。
『長崎名勝図絵』には、長崎要路として6つの通路を挙げている。最初に東泊口を挙げ、「長崎の南、更に下れば深堀、野母浦。次に茂木口、長崎の南。田上峠から東南に茂木浦口、天草に至る。頴林口(いらばやしくち)長崎の東、旧長崎城の古道、東南して台原、大窪山の道を過ぎ、眉嶽の南に至り、東口を下りて飯香浦に至る。火見嶺(ひみとうげ)口長崎の東。一瀬橋を渡り、峠口を経て矢上駅。東して諫早荘。馬篭口長崎の北。ここを北に行けば長与路、浦上圯(どばし=現在の本大橋)、更に北すれば時津の港で大村に至る。西山口長崎の東北、路が三つに分岐して、右は矢上駅、左は浦上、中は伊木力から海路大村に達する。」と記している。
東泊口については、対岸の西泊と相対する現在の戸町辺りではないかという説もあり、ここから上流を東泊渓と言っていたが、今日唐八景となったと言っている。恐らく二本松の峠か唐八景から上戸町に下る路を考えているのであろうが、ここは素直に長崎港からの海路のことと考えてもよいのではないだろうか。
このように考えると、陸路としての長崎出入りの重要な道は、田上峠の茂木口、日見峠の日見口、西山口、西坂を越える馬込口の4口で、それに付け加えて矢の平の谷を上って田手原、重籠を通り飯香浦へ出る伊良林口ということになる。
幕末になって、先に上げた4口には、それぞれ番所が設けられ、長崎への出入りを厳しく取り締まった。これらの日見(長崎街道)・茂木(茂木街道)・西山(西山街道=大村殿様道)・西坂(時津街道)などは、それぞれ遠くの地方と繋がっていたが、長崎周辺の村々と結ぶ道も矢張り峠越えで整備されていた。その中で最も知られているのが『みさき道』で、十人町の坂を登り、大浦に下ると再び二本松峠を越えて、深堀や野母・脇岬に陸路で繋がっていた。又、伊良林道は、日見峠が整備される慶長年間以前には、古長崎街道としての役割も果たしていたという言い伝えもあり、4口に次ぐ大切な道であったと思われる。
今回、紹介する2つの峠道は、長崎と矢上地方とを繋ぎ、さらに長崎街道と結ばれる、いわゆる長崎街道の間道として、つい最近まで地域の生活道として使われていた。この峠道は、長崎の山歩きを愛する人々にはよく知られている日見峠から三ツ山への縦走路にあり、いわゆる四つ峠のことである。日見峠は、長崎街道が通り、木場峠は、西山口から矢上薩摩城・田ノ浦へ通じており、長崎名勝図絵にも触れている。
今回、紹介するのは中尾峠道で、本河内から中尾・田ノ浦へと通じている。あと一つの現川峠道は、西山口から仁田木場の集落を通り現川加勢首へ下り、長崎街道へと繋がっている。この二つの峠道は、峠の両側の集落の人々に日常的に使われていたほかに、長崎への近道・間道ともなり、長崎奉行所や山の向うの佐賀藩では、不審者の長崎出入りについては神経を尖らせていた。
この二つの間道が、今も昔のままに残っていることは嬉しいことである。

(注) 江越弘人氏は、長崎街道ネットワークの会会長、「《トピックスで読む》長崎の歴史」著者。中尾峠道・現川峠道の公民館講座資料を研究レポート第2集の222〜232頁に収録している。

お薦めの新刊図書

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お薦めの新刊図書

1 《トピックスで読む》 長崎の歴史          江越 弘人 著
弦書房     2007年3月20日発行  定価 2200円+税

2 長崎街道雑記 長崎街道を腑分けする No.2    織田 武人 著
長崎街道雑記社 2007年7月 7日発行  定価  300円(税込)
申込先 諌早市白岩町18−7    黒岩竹二 0957−26−2467

3 ちくま新書 663  地図に訊け!         山岡 光治 著
(株)筑摩書房 2007年6月10日発行  定価  700円+税

4 子どもと歩く戦争遺跡Ⅲ 熊本県南編    熊本の戦争遺跡研究会 編
熊本の戦争遺跡研究会 2007年8月15日発行 頒価 1200円
申込先 熊本市八景水谷2−7−44 上村文男 096−344−8293 

長崎学と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

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長崎学と「ゆうこう」  寄稿 川上 正徳

私が純心大学「長崎学講座」を最初に受講したのは平成10年でした。12年の講座終了後の茶話会で受講生の中島 勇氏から「岬道」を歩く三和町公民館行事の案内を受け、翌年早々参加しました。その13年4月、私は支所長兼土井首地区公民館長の発令を受け、早速、公民館活動で地元の歴史を学んでもらうため岬道を歩くことにしました。しかし、地元では深堀の殿様が佐賀藩へ行き来した「殿様道」があるので公民館講座では「殿様道」を歩きました。

その下調べでダイヤランドから山へ入り「ゆうこう」という蜜柑と出会いました。正式な名前が知りたくて「ゆうこう」の樹の写真をNHK趣味の園芸へ投稿したところ、12月、(独)農業研究機構果樹研究所かんきつ研究部の根角博久氏から手紙が届き、NHK出版から頼まれたということで「ゆうこう」の調査が始まりました。研究所のある焼津市へ種子や果実を送ったり、地元の協力で分布図、樹高、樹幅、幹周を調べ、根角氏が更に研究し出された結論は、「ゆうこう」は新種であるということでした。

「ゆうこう」は地元では古くから酢の物や遠足のジュース代わりに使われてきた蜜柑なのに新種という望外な結果で地元の皆さんも喜んでいただきました。この経緯は「長崎の空」第11集に掲載され、長崎県果樹研究所へ異動された根角博久氏が日本園芸学会へ発表されたのは平成16年9月でした。

根角氏から「ゆうこう」は外海町にもあるという情報で本年7月、私は調査に行って外海町歴史民俗資料館勤務の日宇スギノ氏と会いました。日宇氏もかねてから「ゆうこう」に関心があり、出津地区の「ゆうこう」の場所を教えていただきました。この地域では西洋せり(クレッソン)は「ドロさまぜり」と呼ばれているので「ゆうこう」も関連があるのではないか?と近所の方と話したことがあるそうです。現在、確認されているのは外海地区でも旧佐賀藩領ですし、土井首付近でも旧佐賀藩(深堀藩)ですので、どちらの「ゆうこう」が古いのか、また、新たな謎=課題が生まれました。長崎学への興味は尽きることがありません。
(純博 No.23 平成16年11月8日に掲載)

写真上が「ゆうこう」の実。優しい香りと筋の山があるのが特徴。下は発見のきっかけとなった土井首にある「ゆうこう」の木。(川上氏HPの画像)
なお、下3枚の写真は、平成19年8月17日撮影。川上氏の調査によるとここに4本の木を確認している。

網場道にある国土交通省「道路ルート 長崎街道」地図の不可解

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網場道にある国土交通省「道路ルート 長崎街道」地図の不可解

網場道バス停すぐ脇の歩道上に平成14年3月、国土交通省九州地方整備局長崎工事事務所が設置した「日見峠道浪漫」の立派な大きな説明板がある。「道路ルートいま、むかし」として昔からの道路ルートの変遷を地図に色分けして記入している。

日見峠越えする当時の「長崎街道」は、写真のとおり緑色のルートで地図上に示されている。このルートは日見トンネル西口から日見峠のあたりの記入を誤っているのでないだろうか。同地図は現長崎河川国道工事事務所HPにも使用されている。
再監修をお願いしたい。皆さんへも判断をしていただくため地図を掲げた。

あまりこういったことは言いたくないが、長崎大学附属図書館のパソコンで見られる「幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」や、東山手にある長崎市古写真資料館に展示している古写真も、撮影場所のタイトルや説明文に、実地を調査してみて明らかな間違いと思われるものが見られる。
誰かが指摘しなければわからないと思い、関係当局へ知らせているが、なかなか対応が遅い。

(追 記  平成19年8月22日)
長崎河川国道工事事務所へ先般電話していたところ、平成19年8月13日、同説明板の地図は修正したと返答をもらった。同22日現地へ確認に行ったら、後の写真のとおりHPもなっていた。少し乱暴すぎる。参考のため日見トンネル東口にある説明板ルート図も掲げる。

(追 記  平成20年5月18日)
日見の散策のため平成20年5月18日、現地を再訪する。同説明板を確認したところ、最後に追加した2枚の写真のとおり「長崎街道のルートは長崎県教育委員会の資料による」として、長崎街道の緑色のルート図は張り替えられていた。
同地図は現長崎河川国道工事事務所HPにも使用されているが、これは修正されていない。困ったものだ。現地説明板の不可解な問題は解決したが、今後このようなことがないようお願いしたい。

「Mみさき道歩会」の組織と活動の状況

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「Mみさき道歩会」の組織と活動の状況

1 会の名称と発足
「Mみさき道歩会」は、平成15年3月頃発足しました。この頃からそのような会の名称を使っているようです。2のとおり実態のない組織と理解してください。
読み方は「みさきどうほかい」と読みます。頭の「M」は「みさき」と「山」の意味で「M」をつけました。単なる語呂合わせです。「みさき道」を大いに歩くこと、また「みさき」とは長崎半島全体を指す言葉ですから、この自然を楽しもうということです。

2 会の目的と組織
三和町(合併前。以下同じ)は、「みさき道」の中間地点です。道塚4本が残っており、今でも街道の雰囲気がただよう長い山道にかかる、ちょうど入口となります。
このため三和町教育委員会や三和町史談会では、「みさき道」研究と保存が行われていました。私たちはこれに協力するため、草刈り整備のボランティア活動を主にして、同時に「みさき道」の調査研究も行うことにしました。
あわせて、「みさき道」に限らず対象エリアを広げ、八郎岳山系をはじめ、長崎半島と市周辺の山々になるべく親しむための行事を実施し、距離・時間の計測や道案内の道標プレート、休憩ベンチの設置などを手がけています。最近は、市外・県外の山への企画も組んでいます。

会と言うものの、特別な組織ではありません。地元を中心にした有志と、その他協力者の集まりに過ぎません。会則・会員登録・会費などありません。道の整備をはじめ、会としての行事に参加された方、調査研究に協力していただいた方が、会員と考えています。 対外的に必要なときだけ会の名称を使用します。あくまで連絡者として、代表1人がいます。

3 会の活動状況(略) 別項「長崎の山野歩き」の各記事とコース地図参照  
4 会の連絡先 (略)