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彩が丘団地から矢上普賢岳へ  平成22年1月

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彩が丘団地から矢上普賢岳へ  平成22年1月

平成22年1月24日(日)晴れ。彩が丘団地から矢上普賢岳(標高439m)へ。参加12人。
矢上バス停9時30分発ー東町ー彩が丘団地ー北西尾根ー矢上普賢岳(昼食)ー行仙岳ー北尾根ー普賢岳林道ー彩が丘団地ー矢上バス停14時10分着(徒歩距離 約12km)

朝からバタバタして出かけ、デジカメが前々日の接写モードのままだった。ピントがボケてておかしいなと思いながら、最後まで写してしまった。見にくい画像となって申し訳ないので小さくした。参加した人は、だいたいどこを写しているかわかるだろう。きれいな画像は宮さんので。

1809段の石段登りで有名な矢上普賢岳。コースを変えて東町彩が丘団地の墓地から登る。北西尾根と呼ばれ、矢上からの写真とおりの尾根を左側から登って行く。時々、急傾斜があるが、植林地で展望なし。黙々と登って行ったら、墓地の山道入口から1時間半で矢上普賢岳の山頂に着いた。11時30分着昼食。

山頂を12時10分発。石段下りを止めて全員、行仙岳(標高456m)方面へ縦走する。普賢岳林道に出、彩が丘団地の出発点へ1時間半ほどで下った。船石岳への分岐を過ぎて、高圧線が尾根を越し、普賢岳林道の鞍部にあるアンテナ塔が見えるあたりで、下山路を間違いやすい所があり要注意。アンテナ塔を目指し、その尾根の道を行くこと。

宮さんの参加記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23314186.html

1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

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1−特 小瀬戸遊園地の右角隅  (長崎要塞第一地帯標? 所在不明)

小瀬戸郵便局の右側に小瀬戸遊園地がある。前小榊小学校跡地で車道に面した右角の電柱脇に10年前位まで陸軍省の石柱があった。近くの小瀬戸久田氏と別に前自治会長峯氏から聞いた。略図にない地点だが、確かな証言である。今回の調査(平成17年12月20日から約1か月間に及ぶ)により新しく判明したが、所在は不明となっている。

(この標石は上記のとおり研究レポート”江戸期の「みさき道」第2集”平成18年刊147頁に調査結果を報告。小瀬戸遊園地は木鉢カトリック教会登り口右側のフェンスがある所。標石があった右角隅は側溝が整備され、電柱が立っていて写真を撮っていない)

長崎の古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6260 飽の浦からの汽船と南山手(3)

目録番号:1007 飽の浦からの汽船と南山手(2)
〔画像解説〕
長崎の西岸飽の浦辺りから、汽船越しに大浦居留地と東山手居留地を撮影した写真である。明治5年(1872)2月16日付の”The Far East”に掲載された写真である。撮影時期が特定できる重要な写真である。煙を吐く汽船の船首付近が下り松居留地で舳先付近の2階建ての建物が下り松42番D、後の香港上海銀行の場所である。煙突の向こうがイギリス領事館、そこから左の山手が東山手地区である。山腹に教会の建物が見えているが、これは、元治元年(1864)に建設された大浦天主堂に先立ち、文久2年(1862)に建設されたイギリス国教会の教会である。現在の海星高校に体育館の下に当たり、プレートがはめ込まれている。その右下に洋館が見えるが、この建物は東山手12番館である。左隅の海岸線は大浦居留地の建物である。明治元年(1868)末、新地が居留地に編入され、明治2年(1869)に3橋が架設され、長崎の外国人居留地が完成した時期の写真である。

■ 確認結果

目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」は、ボードインコレクションにある作品。昨年6月以降、データベースに追加公開されたと思われる。最近、初めて見た。
一見、撮影場所は「飽の浦から」のように見えるが、そうではない。写真の右側、南山手居留地の上は「鍋冠山」、奥に霞んでいるのは八郎岳へ続く尾根の「熊ヶ峰」である。

先日、朝日新聞2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”を、ブログ記事にしていて思い出した。パノラマとした3枚の古写真の今度は右側、1枚目は目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」。
飽の浦恵美須神社近く、松の大木がある岩場から長崎港の南山手方面を写している。飽の浦恵美須神社近くまで来ると、もう鍋冠山の山頂と奥の熊ヶ峰の稜線は合わない。「戸町岳」まで見えてくる。

したがって、目録番号:6260「飽の浦からの汽船と南山手(3)」の撮影場所は、「飽の浦から」とはならない。背景の山の重なりが合う当時の「丸尾山」(丸尾山を削り取って、海岸を埋め立てできたのが現丸尾町)の少し高台から、先端の海岸越しに、対岸の南山手方面に停泊した船を写したのではないだろうか。ホテルヴェスナーがあった稲佐崎からでは合わない。

明治25年の丸尾山地形図は、「稲佐風土記」著松竹先生の作成地図を掲げた。現在の写真は、丸尾町の十八銀行稲佐支店と長崎市消防局丸尾出張所の間にある菱重パーキング屋上から写した。古写真の撮影場所と思われる近くとなり、南山手を見通しできる所は今ではこのあたりである。

次の目録番号:1007「飽の浦からの汽船と南山手(2)」は、関連作品で参考のため。
この古写真は、大浦や東山手居留地が正面に近く写り、飽の浦の浜から右端は身投崎(長崎古写真集 居留地編の137頁解説)か、または身投崎の浜から、画像解説どおり撮影されたものに間違いないように思われる。
現在の写真は、三菱重工業(株)長崎造船所は入構禁止なので、本館ビルがある岩瀬道バス停上の高台の道から写した。目録番号: 987 「飽の浦からの汽船と南山手(1)」の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1590

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

朝日新聞のきょう2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”(クリック拡大)。
解説文には別に問題ないようだが、パノラマとした3枚の古写真の左側、飽の浦恵美須神社を写した部分は、別の作品があるのに連結を明らかに間違っている。
この項は次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

証拠となる連結写真をお見せしよう。データベース上で撮影者は上野彦馬など記されているが、ほとんどは明治天皇巡幸に随行した写真家内田九一の作品とされる。
右の1枚目は、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」、中央の2枚目は、目録番号:1208「飽の浦からの長崎港(4)」、問題の左の3枚目は、目録番号: 51「飽の浦恵美須神社(1)」ではなく、神殿まで写った目録番号:1694「飽の浦恵美須神社(3)」、または同じような写真の目録番号:2875「同(4)」となるのが正しい。

同作品の以前のタイトルは「長崎稲佐海岸(2)」。現在は変更されて「飽の浦恵美須神社(3)」となった。神社関連作品に(3)が出てこないのが間違いの原因だろうが、まったく同じようなな作品が目録番号:546「同(2)」、目録番号:2875「同(4)」でもある。
今回見直すと、私も引用を間違っていたが、上野彦馬アルバムにあり色調から、目録番号:2875「同(4)」(前から公開されていたのか?)の方がふさわしいように思われる。

この連結写真は、三菱重工(株)長崎造船所史料館(飽の浦町三菱構内)に展示されている。
神社境内の右下建物の屋根、海岸線及び対岸の彦山の稜線がこの組み合わせで合い、港内の巡幸の様子を伝えている。長崎大学側はなぜまたこんな調査不足の公表をするのだろう。
朝日新聞シリーズ「長崎今昔 長大写真コレクション」も解説に問題が多い。

(1月23日 追記)
今朝「飽の浦恵美須神社」で条件検索すると、(1)〜(8)の8作品が出てくる。以前はこのようなことはなかった。特に目録番号:5312「同(6)」、目録番号:5648「同(7)」、目録番号:6132「同(8)」は、昨年6月以降に追加公開された作品と思われ、私の覚えがない。
(1)〜(8)を個別に開き、関連作品を見てみると、(1)(2)(4)(5)(6)が1グループ、(3)(7)で1グループ、(8)のみは単独、関連作品がないようになっている。
関連写真の出方はデータベース全体におかしい。見るのに支障があり、早く是正してほしい。

(2014年8月21日 追記)
最後のパノラマ写真2枚は、飽の浦恵美須神社に隣接する菱重ビル屋上から撮影した。

長崎の古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その3。

目録番号:6066 小島からの長崎医学校と唐人屋敷
〔写真集 51頁 40 小島からの長崎医学校と唐人屋敷 275×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
小島から長崎医学校と唐人屋敷ごしに長崎港を遠望している。海側中央の建物が長崎医学校。文久元年(1861)に小島養生所として創設され、医学所を併設して慶応元年(1865)に精得館と改称。明治元年(1868)長崎府医学校と改称。その後明治5年(1872)に第六大学区医学校と変更し、明治7年(1874)には長崎医学校となり、明治24年(1891)浦上に移転した。

■ 確認結果

目録番号:6066「小島からの長崎医学校と唐人屋敷」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。撮影場所が「小島から」とあるが、具体的でない。
長崎医学校の下に唐人屋敷があるが、ほとんど写っていない。中央に覗く橋が新地と梅香崎を結んだ梅香崎橋である。長崎医学校の手前の山腹を右から左へ登る道が、現在の思案橋から丸山公園を通り大浦中学校へ上がる市道の旧道となる。この道路の対面の山手から撮影している。

したがって撮影場所は、現在の鶴鳴学園長崎女子高校正門から入った駐車場の少し下、中小島2丁目の高台あたりから撮影していると思われる。中央右側の尾根上にあるのが、当時の長崎医学校で、現在は長崎市立佐古小学校が建っている。左へ尾根を上がって大木が写る丘の所が、現在の長崎市立仁田小学校となっている。
梅香崎橋のあった場所は、現在の写真のちょうど中央に写るダイエー長崎店の左方となろう。

長崎の古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6065 ドンの山からの出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その2。

目録番号:6065 ドンの山からの出島
〔写真集 50頁  39 ドンの山からの出島 270×215 の作品。写真説明は次のとおり〕
ドンの山十善寺郷ごしに出島と稲佐を望む。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋は見えるが、後ろの松の茂みの高台には明治9年(1876)に建設される長崎県庁はない。左の東山手には洋館1棟(後の梅香崎女学校)がみえる。明治3年(1870)に新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入されたが、右の出島と新地は幕末の建物が残っている。

(関連作品)
目録番号: 987 ドンの山から見た出島と長崎港(1)  略
目録番号:4028 ドンの山から見た出島と長崎港(2)
〔画像解説〕
十善寺上の山より、十善寺地区、新地、出島、浦五島町から長崎湾奥、さらに対岸の稲佐地区を撮影した写真である。明治2年(1869)に出島から築町にかけて架設される出島新橋はすでにあるが、出島の上の高台に明治9年に建設された長崎県庁の洋風新庁舎がまだ見えないので、撮影時期は明治2年(1869)から明治9年(1876)の明治初期のものである。写真左中央には、東山手の洋館が見えている。現在と違って、当時は東山手の丘から長崎湾が一望できたことが分かる。慶応2年(1866)に出島が、明治3年(1870)には新地蔵・広馬場・元唐人屋敷が外国人居留地に編入された。外国人居留地が完成した頃の、外国人居留地の北域を撮影している。写真右下の一画は新地で、長い倉庫が見えている。写真右下は、旧唐人屋敷である。出島には教会の建物がなく、明治初期の出島である。出島の向こうは、湾奥の浦上新田まで海が拡がっている。その後埋め立てられる地域である。
目録番号:4863 ドンの山から見た出島と長崎港(3)  略

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
目録番号:6065「ドンの山からの出島」は、上野彦馬の撮影とされる作品。今回、初めて見た古写真である。「ドンの山から見た出島と長崎港」は、以前から3作品あったが、一番景色が似ている目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」と見比べてみよう。
東山手の丘の洋館を近くに写し、新地・出島を望む。目録番号:6065「ドンの山からの出島」の写真は、目録番号:4028「ドンの山から見た出島と長崎港(2)」の撮影場所、ドンの山の山頂近くまである十善寺郷墓地から左へ寄って、少し下った所から撮影していると思われる。

ポイントは右下に写る中新町の広済寺(唐人屋敷の近く)の屋根、その丘越しの大木の右に写る梅香崎橋である。現在の広済寺は、本堂の建物と位置が少し変わったものと思われる。梅香崎橋は現在、ダイエー長崎店横の湊公園左方あたりの位置だったろう。
古写真の撮影場所と思われる一帯は、宅地や墓地となり、どこか特定できない。とりあえず見通しの良い場所から、現在の写真は写した。ドンの山の山頂近くの十善寺郷墓地内からである。
最後の写真は、現在の広済寺の屋根を墓地内の別の場所から古写真どおり写すと、古写真全体の位置関係が合わなくなる。

長崎の古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6042 大浦川沿いの居留地 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。
この写真集の解説の疑問点は、先に数点を記事とした。一部の作品は再掲となるが、次に後日、実地再確認を必要とした3作品について、現地調査の結果を順に報告する。その1。

目録番号:6042 大浦川沿いの居留地
〔写真集 38頁  29 大浦川沿いの居留地 273×214 の作品。写真説明は次のとおり〕
大浦川沿いを上流(北大浦小学校下)の斜面から撮影している。川口には弁天橋と松ヶ枝橋が見える。居留地には空き地が目立ち、明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる。左の高台には妙行寺とその右横にはヘルビューホテルが確認できる。長崎港には多くの外国船が停泊していた。

(関連作品)
目録番号:5296 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(1)
目録番号:5299 ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)
〔画像解説〕
目録番号5296(整理番号102-2)と同じく上野彦馬の大型アルバムに収載され、キャプションも同じであるが、この写真の撮影地点はもう少し高い位置であり、また大浦居留地背後の大浦32-33番あたりの空洞化が進んでいるので、撮影の時期も1-2年後である。従って明治6-7年(1873-4)頃。目録番号5296と比較してみると、大浦川右岸の川幅が狭まる地点から3軒目にあった倉庫は取り壊されて無い。大浦居留地の中央22番Bにあった倉庫と32番A(明治26年<1893>に孔子廟が建つ)にあった倉庫が取り除かれ、居留地の空洞化が進んでいる。河口の角から2軒目の大浦11番の建物は異常に大きい。右側の丘の大きな二階建て洋館は東山手9番のイギリス領事館で、ユニオンジャックの旗が翻っている。左手の丘には尖塔が一つになった大浦天主堂とその上に「ヨンゴ松」とグラバー邸が見える。  

■ 確認結果

次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/1876
どちらも上野彦馬の撮影とされる古写真。目録番号:6042「大浦川沿いの居留地」と目録番号:5299「ドンの山から見た大浦居留地と長崎港(2)」を見比べてもらいたい。
ほぼ同じ場所から撮影されている。右端の石垣の洋館とその下の宅地の屋根の向き、左端は妙行寺の位置と屋根の格好がポイントとなろう。撮影年代は、大浦川沿いや現在の孔子廟あたり空き地の建物の建ち方から、目録番号:5299の方が少し後の時期のように見える。

目録番号:6042の写真集解説は、「大浦川沿いを上流(現北大浦小学校下)の斜面から撮影している」としているが、大浦川がこの向きとなり、撮影場所の高度が高いから、もう少し上手となるドンの山中腹、海星学園の上となる上大浦小学校跡のグランドから撮影しているものと思われる。グランドは前北大浦小学校の校舎のだいぶん上、運動場となっていたが、同校は現在新設された大浦小学校に統廃合されている。

長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の78頁に「62 大浦川と両岸の町並みB」と似たような写真がある。「撮影は現・北大浦小学校下の斜面地からなされたものであろう」と画像解説しているのを引用したと思われる。この写真(目録番号:3794「大浦川沿い(4)」 掲載は略。)も撮影場所は違う。まだ高い場所からとなる。
目録番号:3794は、撮影場所をデータベース上で「東山手居留地南端の高台から」と説明している。この方が具体的と言えないが、差し障りのない説明と思われる。

「明治7年(1874)8月の台風の被害があちこちに見られる」の解説文もそうだろうか。目録番号:5299の〔画像解説〕との矛盾を感じる。撮影年代をもう少し検証してほしい。

長崎の古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4802 中島川と万橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4802 中島川と万橋
〔画像解説〕
万橋奥の山は健山(たてやま)、その右側は烽火山である。烽火山は江戸時代、長崎に緊急事態が発生したことを知らせる「のろし」をあげた山である。写真右側の家並みの所は現賑橋-西浜町間の電車通りである。万橋は延宝6年(1678)に、旧町名の築町-万屋町間に京都の人が贖罪(しょくざい)のため架設した長さ18m、幅6mのアーチ石橋である。享和元年(1801)再架、大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替え、さらに近年鉄筋コンクリート橋に新架された。最初、万屋町は鍛冶職人が多く居住していたので、鍛冶屋町といった。町が大きくなり、寛文12年(1672)に今鍛冶屋町(現鍛冶屋町)と本鍛冶屋町に分かれ、鍛冶職人の多くが今鍛冶屋に移ったので、本鍛冶屋町は延宝6年(1678)万屋町と改めた。万屋町の「おくんち」傘鉾のたれは「タイ,伊勢エビ,タコ」等の魚づくしで、長崎刺繍の代表的な作品の一つになっている。

目録番号:5881 中島川河口(2)  同作品 目録番号:4301(1)

■ 確認結果

万(よろず)橋は、浜市アーケード商店街通りの入口にある鉄橋のすぐ上流に架かる橋である。
目録番号:4802「中島川と万橋」は、橋が中島川に対して少し斜めに架かり、中島川上流が少し蛇行して曲り、背景の山々の姿と位置から「万橋」に間違いないだろう。
長崎大学の古写真データベース上は別に問題ないが、なぜ、この作品を取り上げたか。

「万橋」が大正4年(1915)9月に橋面コンクリートの鉄桁橋に架け替える前の、アーチ式石橋の貴重な姿が撮影されているからである。現在、現地へ行っても、何の説明板がない。
そして、次の目録番号:5881「中島川河口(2)」は、下流の「長久橋」と考えられるが、これと同じような古写真が「万橋」として、間違われて使用されていると思われるからである。
次記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2159

長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真がそれ。
http://nagasaki.n-grit.com/   川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおりこの写真を「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

中島川石橋群を守り、清掃活動や中島川まつりを開催している中心的な団体である。再掲となって恐縮だが、会の方で古写真がどの橋かはっきりした確認をしてもらい、ウェブサイトには「万橋」の正しい古写真を掲載し広報してもらいたい。

長崎の古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

同古写真の主なものが長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版となって出版されている。
掲載されているのは、明治7年(1874)撮影の上野撮影局・冨重写真所合同アルバムから、昨年6月以降データベースに追加して公開された写真が多い。

写真集60〜62頁「海上からの出島パノラマ組写真」は、データベース目録番号:6075〜6077の3枚組写真。解説文中に撮影場所の説明はないが、タイトルに「海上から見た出島」としている。当時の写真機と写真術で船上から撮影できただろうか。なにも海上からではなく、大浦海岸通りの梅香崎側に突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)があり、そこから撮影できたと思われると、私の考えを述べていた。
https://misakimichi.com/archives/2177

ところで、この記事に関し長崎大学データベースにある別の次の作品について、問い合わせをもらった。 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰

「この写真は明らかに海上と考えられます。これは撮影地点と出島の間に干潟があるのを見ると、船の舳先を干潟の中に漕ぎ入れて固定すれば、ブレも少なく撮影できるのではないでしょうか。場所と方法を考えれば、当時でも(船上からの撮影は)不可能ではないと思われます。大きな写真は朝日新聞社刊「甦る幕末」のp14、p15に掲載されています」ということである。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」は、ボードインコレクションにある1863年(文久3年)撮影とされる古写真で撮影者未詳。私がこの写真を見て疑問に思うのは、不自然に合わされた2枚の組写真である。その上、外国の大型船が損傷や時間を惜しまず、干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのだろうか。そうしていたら、もっとましな出島全景の写真が多く残っていてよいはずである。

背景の山並みは、現在の国指定史跡「出島和蘭商館跡」の南側、電車通りを挟んだ出島パーキング5階から確認した。右端の写真に写る山は、風頭山の奥に彦山。左端の写真に写る山は、稲佐山の立岩尾根だろう。出島の扇形を示すため、折れ曲がった写真とし、中間の山、烽火山・金比羅山は中抜きか、遠いためはっきり写らなかったと思われる。

出島の建物について見てみよう。出島左端に写る離れた1棟の黒い建物。神戸市立博物館所蔵の写真が大きくてわかりやすい。この建物が真横から見える梅香崎橋寄りの所から左の写真は撮影されたから、稲佐山の立岩尾根が背景に写ったのではないか。
次に場所を変えて、大浦海岸通りの突堤(運上所跡で最初の長崎税関前波止場)先端へ行って右側の写真を撮影した。そのため、風頭山と彦山が背景に写ったと思われる。

1863年(文久3年)梅香崎の海面が埋め立てられ、外国人居留地にすでに編入されている。それぞれの撮影場所は、「長崎港精図」に赤線で示した。この2枚を組み合わせれば、いかにも出島の形をした合成写真ができたと思われる。
実際、出島を写したこの写真と同じような構図の写真がある。それが、目録番号:3859「梅香崎洋館群と出島(1)」。ただ高度が違う。手前左側の洋館は「長崎郵便局」と解説している。これをもっても、梅香崎付近の海岸通りから同じような出島の写真が撮影できたのではないか。

目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」の古写真で、あと少し見逃している点があろう。つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。船繋石、通りの縁石、洋館の煙突とも考えられる。左の写真には続いて道路の縁石か屋根みたいなものが下部に写る。
最左端の黒ずみも、写真の汚損ではなく、通りの街路樹、街灯か洋館テラスの柱など考えられる。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないだろうか。
以上、私の一般的な疑問を参考までに説明した。朝日新聞社刊「甦る幕末」の14,15頁がどのように解説されているかは知らない。あとは専門的な研究をお願いしたい。

長崎の西空の夕日  10−01  (部分日食)

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長崎の西空の夕日  10−01  (部分日食)

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 4  平成22年 1月15日の17時14分頃から 欠けた夕日(部分日食)

朝日新聞2010年(平成22年)1月15日付記事「欠けた太陽 夕空に沈む 西日本できょう」を参照。長崎は雲が邪魔した。