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「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

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「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。
「陸軍軍事基地輸送港域伊万里臨時派出所」の概要は、宮地滋氏稿が伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号平成15年11月1日発行に詳しく掲載されているが、高橋氏の標石調査に関係した部分のみ抜粋する。
写真は、伊万里市大川内町の青螺山頂(標高620m)にある「陸軍輸送港域第二区標」。

高橋輝吉氏稿  「陸軍輸送港域標」から見た開戦1年前の伊万里湾

伊万里湾が佐世保軍港より外れて何10年。昭和15年、開戦1年前、陸軍の波が起こった(前々から所望していたのか)。新兵科 陸軍輸送部隊「暁部隊」。川南造船04艇造りも伊万里にあった。伊万里市郷土研究会「烏ん枕」第71号参照。
伊万里湾一帯の土地の証しとして、陸軍省は用地標石100本を建てた。現在、残っているのは、佐賀県側=15本(内1本は「特」所)、長崎県側=10本。

此の内、第二区の第1号は海の中。第一区の第1号は、星鹿の山の中に有り。星鹿には陸軍兵舎有り。黒島にも兵舎有り。星鹿では古老の話しだと、4年生上の生徒は中位の石、煉瓦は高等科、近くの大人は多くの資材を運んだそうです。
城山には海軍の「聴音機」対潜水艦用。石を運んだ道にも「海」石が有り、第16〜133号。多くの石で城山を取り巻いているのかなー。

展望台より見えるのは、元寇の島か、向島の7号か、逃の浦の防塁か、血田の陸軍省か(第一区の2号)。青島の岩礁地帯に、島の話しでコンクリートの「柱」有り。若しやと思い行ってみた。双眼鏡で見ると、岸より130mの所。
陸軍省  第一号(第二区)  陸軍輸送港域第二区標  昭和十五年六月十日

(資 料) 宮地 滋氏稿 「陸軍軍事基地輸送港域 伊万里臨時派出所について」
伊万里市郷土研究会会誌 “烏ん枕(からすんまくら)” 第71号 平成15年11月 

◎標識と高橋氏                      26〜27頁
陸軍輸送港域には第一区と第二区の要塞地として標識(石)が設置されている事は前記しているが、現在この標識を探し求められている佐世保市の高橋輝吉氏である。
戦時中、軍事物資の積出港は全国で、宇品と伊万里の二ヶ所が陸軍輸送港に指定された。伊万里港域を示す標識が第一区四十九平方キロ・第二区は二百十平方キロの区域に約百本の区域標識が建てられている。
高橋氏は次兄が陸軍船舶工兵として戦死をされている経緯もあるが、文献を求める一方、供養の一環として戦後の記録のない状態で探し求められていた。高橋氏は八年前から伊万里方面に出向き腰岳や大川内の青螺山等の伊万里湾が見える尾根を探し平成十五年七月現在で一三本(高橋氏の最近の話では24、25本)と敷地標識も数本が確認されているし、自身も同行したが、簡単に探し出す事は非常に難しい骨の折れる探物である。
今後何本の標識が見付けられるかが期待として大きいのは、丁度此の時期に郷土の地区史を残す為資料を集めていた最中に高橋氏と巡り逢ったので参考になった事は事実で有難い事であった。輸送港基地は当地区であり、地元の年配の方に聞き取る以外に方法はないと思っていたからである。

隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

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隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の詳しい所在地図がある。
佐世保市の隠居岳(標高670m)ウォーカーズパークへ出かける際は、宇戸越・オサイ峠方面へも行き、標石を見てもらいたい。

高橋輝吉氏稿  隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

軍港は山から守るか。海から守るか。それとも標石で守るか。
明治三十五年 → 海と山に標石有り。  大崎町(9号) 隠居岳右下に(67号)
明治四十五年 → 海岸近くに標石有り。
昭和   五年 → 山に有り。
柚木村時代に、海軍省通達で別紙のとおり資料としてあります。特に昭和五年の標石は、八天岳から隠居岳に。第293号より → 第298号と有り。
第293、297号なし。第294、295、296、298号有り。
途中に「山」と書いた小さな石有り。海軍省の標石を見た事ない人は、軍の石とも言う。   

標石の資料は次のとおり。「佐世保軍港境域標」に関係する一及び四の部分だけ抜粋する。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」163〜167頁に資料全文を掲載)
なお、この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違う。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は誤字と思われる)。石盛岳(「八天岳」のこと)は「第七号」移設して個人所有。「第一号」は個人の畠の中、「第二号」は道端にあることを高橋氏は確認している。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
四、
要塞地帯標とは別に軍港境域標と云うものがある。参考までに一部資料にふれておく。
佐建財第二一四號
昭和五年十一月七日               佐世保海軍建築部長
軍港境域標柱及標札建設二関スル件照会
今回佐世保軍港境域改正ノ結果貴村内(註柚木村)二於テ別図指定ノ民有地内二境域標柱及標札ノ建設ヲ要スル事ト相成候就テハ地主ノ承諾ヲ要スル義二付乍御手数別紙書式二依リ地主ノ承諾書ヲ徴シ回付方御取計相煩度(終)
(附図上二図示)
栗木越〜八天岳。第六一号〜六五号
八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号
(註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した。
(参考)
昭和五年十月二十四日               海軍大尉 田中 健介
(軍港境域決定ノ件)
来ル廿七日(月曜日)ヨリ三日間貴村二関スル佐世保軍港境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)ノ決定ヲ致度就而貴村吏員一名御立会ヲ得度右通知ス(以下略)
(註)右に掲げた田中海軍大尉の書簡中に境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)と示してあるところの「西ノ岳」と云うのは所謂国見岳のことであろう。我々地元では「西ノ岳」と云へば通常隠居岳のことを指して謂うのであるが、而しながら国見岳のことを「西ノ岳」と云う例もある由。…

長崎外の古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6019 威海衛の浜辺 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:6019 威海衛の浜辺

目録番号:6020 威海衛の海岸通り

目録番号:6021 威海衛の海軍射撃場

目録番号:6022 威海衛の海軍基地における弔砲

■ 確認結果

目録番号:6019「威海衛の浜辺」など4点の、撮影地域は「中国」。
威海市(いかい-し)は中華人民共和国山東省最東部に位置する港湾都市。かつては威海衛(いかいえい)といった。デジタル大辞泉の解説は次のとおり。

いかいえい 〔ヰカイヱイ〕 【威海衛】

中国、山東半島北東岸の港湾都市、威海の旧称。渤海湾の入り口に位置し、明代には倭寇(わこう)防衛の根拠地、清代末には北洋艦隊の基地。日清戦争で日本が占領。1898年、英国の租借地となるが、1930年中国へ返還。

長崎外の古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4236 紅葉(秋)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4236 紅葉(秋)

目録番号:4166 王子滝野川(8)
〔画像解説〕
享保5〜6年(1720〜21)頃、この地に遊んだ八代将軍徳川吉宗は、王子権現や音無川の由来が自らの故郷である紀州にあることを知り大層喜んだ。それで飛鳥山には吉野桜を、滝野川には紅葉を植えさせ花の名所とした。以後、王子一帯は江戸市民の行楽地となったのである。明治中期。

■ 確認結果

目録番号:4236「紅葉(秋)」は、次の目録番号:4166「王子滝野川(8)」のとおり、撮影地域は東京。王子滝野川であろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1070 洞窟の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1070 洞窟の仏像
〔画像解説〕
写真外に “”AMISH’KIーTHE GOD IN THE CAVE “”とある。洞窟内の神(仏像)であるが、 “”AMISH’KI “”については未詳。洞窟のある小さな丘の上にも石塔が見える。小丘全体が一つの霊域なのであろう。

■ 確認結果

目録番号:1070「洞窟の仏像」は、横浜で発行された英字新聞 “The Far East “ Vol.2 No.12  1871/11/16 に「鶴間村」(現小田原市)、「小田原城」とともに掲載された写真。次号の Vol.2
No.13 1871/12/1 も「小田原の町」である(資料は九州大学デジタルアーカイブ)。
小田原の一連の掲載作品から考えると、目録番号:1070「洞窟の仏像」の写真外に記された
“AMISH’KI “も、小田原近くにあった旧「網一色村」のことと思われる。

小田原市は、1940年(昭和15年)12月20日、足柄下郡小田原町・足柄町・大窪村・早川村・酒匂村の一部(網一色・山王原地区)が合併して発足した。
山王神社境内にある「旧山王原村の図(及び網一色村)」によると、「網一色村」は酒匂川の河口地区。前は相模湾となる。現在の小田原市寿町・東町あたりとなるようであるが、市街化が進んでいるだろう。

小田原市域における古墳時代の墳墓には、久野丘陵の円墳群と大磯丘陵の麓に点在する多数の横穴墓群などが知られ、一部は市指定史跡となっている(小田原市の史跡から)。
目録番号:1070「洞窟の仏像」は、どこか特定できないが、写真の状況から網一色地区にあったこれら墳墓を利用し、仏像を安置した所と考えてよいのではないだろうか。
地図の緑丸は円墳のようだ。地元での検証をお願いしたい。 

長崎外の古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3667 川辺の旅館

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3667 川辺の旅館

目録番号: 914 塔ノ沢温泉(3)
〔画像解説〕
“塔の沢温泉の環翠樓(左)と一の湯(右)の写真である。環翠樓は元湯とも言い、公武合体の時のヒロイン皇女和宮が病気療養で逗留し、32歳で薨去したのは、この環翠樓である。 “”The Far East “”に初載。”

■ 確認結果

目録番号:3667「川辺の旅館」は、次の目録番号: 914「塔ノ沢温泉(3)」のとおり、木橋の対岸から撮影された塔ノ沢温泉(左)の旅館「環翠樓」の改築前の写真であろう。
川岸の石組みと、旅館上部の源泉らしい小屋が同じである。
目録番号: 742「岸辺の旅館」も参照。 https://misakimichi.com/archives/2363

長崎の古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3424 雨の日の日本人の衣装

目録番号:5295 大波止沿岸
〔画像解説〕 
出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真である。撮影年代は明治初期である。極めて鮮明な写真である。目録番号3237(整理番号66-18)の写真とほぼ同じ角度から撮影しているが、江戸町の海岸線により接近した写真になっている。出島の石垣と江戸町護岸の間に水路があるが、この水路が江戸時代から出島と本土を隔絶していた水路である。明治18年(1885)から始まる長崎港改修事業では、約18m出島側が掘削されて、ここが中島川の河口になる所である。対岸の石垣は、長崎市街の西端の沿岸部分である。長崎市街地の背骨にあたる長崎県庁のある丘の西側の沿岸部は、江戸時代以来埋め立てにより、土地を拡大してきた場所である。従って、沿岸部は、写真のように石垣で護岸を形作っている。さらに、海に面した屋敷は、海から出入りできるよう、個人の波止場を持っている。沿岸の中央付近に端正な石積み護岸があり、街灯が並んでいるが、ここが大波止である。

■ 確認結果

目録番号:3424「雨の日の日本人の衣装」は、次の目録番号:5295「大波止沿岸」が同じような光景を写しており、背景の立山や金比羅山の山並みから、撮影地域は長崎となる。
目録番号:5295「大波止沿岸」の超高精細画像の解説どおり、出島の西端から江戸町・大波止から大黒町方面を撮影した写真であろう。
現在の写真は、鍋冠山山頂からの同方面の展望。

長崎外の古写真考 目録番号:2550 神社祭礼の行列風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2550 神社祭礼の行列風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2550 神社祭礼の行列風景
[画像解説]
どこかの神社か神道系の祭典と思われる。神職が馬に乗り、お伴の者がつく。神職の回りには、手綱とり、傘持ちがいる。女性の衣装から伝統的というより、何か特別な祭りとも思われる。

目録番号:3350 千人武者行列
[画像解説]
日光東照宮の百物揃千人武者行列(ひゃくものぞろえせんにんむしゃぎょうれつ)は正式には神輿渡御祭(しんよとぎょさい)という。徳川家康の神霊を静岡県の久能山から日光へ移した当時の様子を再現する祭典である。5月と10月の2度行われる。

目録番号:2120 日光東照宮表参道
[画像解説]
日光東照宮の表参道を南の中山通り側から眺めている。参道の中央に、現在は無い堀が見られる。画面の正面突き当たりが東照宮境内で、杉木立の中に石鳥居と表門(仁王門)が見える。百物揃千人行列はこの表参道を練り歩くことで知られる。画面左手に輪王寺の三仏堂がある。

■ 確認結果

目録番号:2550「神社祭礼の行列風景」は、2枚目の目録番号:3350「千人武者行列」が同じような光景と場所を写しており、日光東照宮の「百物揃千人武者行列」と思われる。
土手・電柱・溝など比較。

撮影場所は、3枚目の目録番号:2120「日光東照宮表参道」のとおり、東照宮表参道より一の鳥居を望んでいるようである。この石鳥居の前に10段の石段があり千人桝形と呼ばれる。武士以外の百姓町人はこの石段までしか参拝できなかった。
中央の溝とゆるやかな段差は埋めたてられて、現在はないそうだ。

長崎の古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1249 高鉾島(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1249 高鉾島(8)
〔画像解説〕 超高精細画像
上野彦馬製作と思われる中型アルバムから解かれた1枚。赤の縁取りの中に花文字印刷でIsland of Pappenberg Nagasakiとキャプションがある。中央の御飯の形が高鉾島で長崎港口に位置し、古くから長崎湾に入港する目印になっていた。鎖国時代にキリシタンが処刑された殉教の島としても知られ、オランダ語のPappennberg(神父の島)という呼び方にはその意味がこめられていた。この戸町方面から望む長崎港口の写真としていろいろのアングルからのものが残されているが、この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる。右側は神崎鼻で高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島、手前長崎半島側の下には戸町に停泊している帆掛け舟の帆柱が2本見えている。このアルバムに含まれていたと推測できる他の写真などから判断して、明治12年(1879)頃の撮影である。

■ 確認結果

データベースで「高鉾島」と検索すると、48点ある。戸町側から写された作品の多くは、戸町の高台墓地から撮影され、戸町浦の入江が写る。その中でも、目録番号:1249「高鉾島(8)」は、特別なアングルの作品。戸町浦は写真左下尾根の山陰にある。
超高精細画像の解説は、「この写真の撮影地点は非常に高い。戸町の大久保山(234m)の山頂から撮影したものかと思われる」としているが、大久保山は長崎港口、女神の尾根上にあり、地理的にあり得ないだろう。

写真右下の尾根は、戸町トンネル西上の尾根である。明治34年測図国土地理院旧版地図のとおり、ここに標高112.4mのピークがあった。現在、大型マンション「アプローズ長崎南」が数棟建って、地形は極端に変わっている。戦後、砕石場もあった。
幕末までは対岸「西泊番所」とともに、長崎港警備の「戸町番所」が置かれ、境内を示す標石が残っていた。次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/5437

目録番号:1249「高鉾島(8)」は、この高台から撮影されている。ピークは一部残り、マンションの小公園となっているが、フェンスに囲まれ、六番館駐車場奥の登り口は施錠されている。
フェンスの外側から登り、現在の写真を写してきた。ここだと女神や神崎鼻、港外の高鉾島、香焼島、伊王島の位置と、海面上の高さがほぼ合うのがわかるだろう。
戸町番所境内の標石は片付けられたか、見当たらない。香焼・深堀間は埋め立てられ、三菱重工長崎造船所香焼工場の工業地帯となっている。

この作品の撮影場所は、戸町の高台墓地や鍋冠山からとはならない。星取山などの場合は、次の記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2350
なお、画像解説中の「高鉾島の後ろは石炭の高島、左は手前が香焼島とその奥は伊王島」は、「高鉾島の後ろは沖ノ島と伊王島、左は手前が蔭ノ尾島とその奥は香焼島」が正しい。高島は遠く離れて確認できない。

長崎外の古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3100 鶴岡八幡宮(7)
〔画像解説〕
鶴岡八幡宮には幕末までこのような塔が存在したが、当宮のものはこけら葺か檜皮葺(ひわだぶき)で屋根の勾配はもっと強く、高欄(こうらん)もない。足廻りも違っており、この写真は八幡宮の建物ではない。写真家集「スチルフリート」所収。撮影年代未詳。

目録番号: 541 摩耶山天上寺(1)
〔画像解説〕
摩耶夫人を祀った弘法大師ゆかりの天上寺は、別名摩耶寺とも呼ばれ、同寺が位置する摩耶山の名もそこから起こったものである。写真は同寺境内の堂。

■ 確認結果

目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」は、タイトル「鶴岡八幡宮」としながら、画像解説では「この写真は八幡宮の建物ではない」と判定している。
目録番号: 541「摩耶山天上寺(1)」と同じ古写真が、ブログ「絵はがきワールド」に掲載されていた。1〜2枚目は寺名の説明がないが、この「摩耶山天上寺」と、立地や木立など全体的な感じは最も合う。

「摂津摩耶山忉利天上寺多宝塔」は、サイト「がらくた置場」by s_minaga に詳しい研究がある。同解説は次のとおり。 http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/sos_mayasan.htm
昭和30年頃:摂津摩耶山多宝塔14:下図拡大図「摩耶山 MT.MAYA 総天然色八枚組」も同サイトから。目録番号:3100「鶴岡八幡宮(7)」の撮影者は、「日下部金兵衛」が考えられるから、同寺を訪ねた作品を参考に載せる。

摩耶山中腹にあり、仏母摩耶山忉利天上寺と号する。寺伝では大化2年(646)、孝徳天皇の勅願により、法道仙人が開創したという。その後、弘法大師が唐から摩耶婦人像を持ち帰り、天上寺に奉安したとも伝える。現在は高野山真言宗。
昭和51年(1976)多宝塔をはじめ伽藍を全焼。賽銭泥棒の失火という。

この項は、目録番号:2032「神社の境内(2)」の次も参照。
https://misakimichi.com/archives/2225
この多宝塔は大津市「石山寺」と推定したが、神戸市灘区「摩耶山天上寺」の可能性もある。