投稿者「misakimichi」のアーカイブ

長崎外の古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2374 芝居小屋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2374 芝居小屋

目録番号:2792 伊勢佐木町の劇場街(5)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。明治20年代の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)界隈、勇座の前辺り。

目録番号:4187 伊勢佐木町通り(2)
[画像解説]
伊勢佐木町から賑町にかけては、明治10年代から芝居小屋や茶屋・料理屋が集中する繁華街として発展した。写真は明治32(1899)年の大火で焼失する以前の賑わいを写したもの。左にみえる建物は松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)の勇座か。

■ 確認結果

目録番号:2374「芝居小屋」の作品は、建物の造りと角地に位置するため、次の目録番号:2792「伊勢佐木町の劇場街(5)」と目録番号:4187「伊勢佐木町通り(2)」にあるとおり、横浜の松ヶ枝町(現伊勢佐木町2丁目)にあった「勇座」と思われる。

長崎の西空の夕日  10−16

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長崎の西空の夕日  10−16

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成22年12月 1日の17時14分頃
写真  4〜 6  平成22年12月 9日の17時 5分頃
写真  7〜 8  平成22年12月19日の17時 4分頃  鍋冠山・戸町から

小ヶ倉水源池から市民の森・戸町岳の一周縦走  平成22年12月

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小ヶ倉水源池から市民の森・戸町岳の一周縦走  平成22年12月

平成22年12月19日(日)晴のち曇り。小ヶ倉水源池から市民の森・烏帽子岩・戸町岳(標高
427m)の一周縦走。参加12人。本年最後のみさき道歩会の例会。
小ヶ倉水源池9時30分発ー創作村尾根ー市民の森ー烏帽子岩12時15分着(昼食)ー戸町岳ー鳥屋城跡展望岩ー小ヶ倉水源地16時15分着(徒歩距離約12km)

小ヶ倉水源池の左側から、立岩神社は略し創作村尾根に上がる。九電鉄塔の作業道を利用して市民の森の森林体験館近くの八郎岳縦走路へ出る。この道は植林が大きく育ち森林浴が楽しめる。八郎岳縦走路により烏帽子岩まで行って昼食。

午後は大山林道を1km歩き、戸町岳への分岐へ入る。戸町岳は展望が良い山だが、きょうは曇って黄砂気味、バッとしない。戸町岳から小ヶ倉水源池の堰堤近くまで下り、すぐ上の鳥屋城跡へ岩峰ルートを取った。

ロープで登る展望岩があり、岩からの展望は写真のとおり。新戸町3丁目奥に開発中の団地「ウェリスパーク南長崎」(総区画数は222区画)が真下に見える。鳥屋城跡の岩峰ルートを下ると、工事中の唐八景トンネル道路で山道は切れ、水源池グランドへは左の配水タンク場の坂段から下った。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/26811052.html

長崎外の古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2231 遊 郭(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2231 遊 郭(1)

目録番号:1845 高島町新風楼(1)
[画像解説]
横浜の遊郭、新風楼の建物と女性達を撮影した写真である。

目録番号:2742 高島町新風楼(3)
[画像解説]
明治5年(1872)以来高島町にあった新風楼は、同15年(1882)を限りに真金町・永楽町への移転が決定すると、神奈川七軒町にも進出、外国人専門の妓楼を開設した。規模の広大さと自家発電による照明で知られ、関東大震災まで存続した。

■ 確認結果

目録番号:2231「遊 郭(1)」は、建物の造りから次に掲げた目録番号:1845「高島町新風楼(1)」と、目録番号:2742「高島町新風楼(3)」のとおり、横浜の高島町にあった遊郭「神風楼」であろう。
遊郭名は、「新風楼」は誤りで、正しくは「神風楼」であろう。山口県立山口博物館の所蔵資料に「横浜高嶋町神風楼之図」がある。
「新風楼」と解説文に出てくる作品は、他に数点見られる。

なお、2枚目の目録番号:1845「高島町新風楼(1)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊173頁に「269 横浜・遊郭神風楼 ca.1900 神奈川」として掲載がある。
撮影年代は「1900年頃」となっている。

長崎外の古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1064 横浜中国寺拝殿

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1064 横浜中国寺拝殿
[画像解説]
横浜にある中国寺の拝殿である。 “”The Far East “”の明治4年(1871)8月2日号の写真として掲載されている。キャプションは、「中国寺の内部、横浜」となっている。

■ 確認結果

目録番号:1064「横浜中国寺拝殿」は、現在の横浜市中区山下町140番地、「横浜中華街 關帝廟」の、初代關帝廟内部の写真である。
「横浜中華街 關帝廟」HPは、歴史の項に同じような写真を掲載し、次のとおり解説している。

初代關帝廟
ファー・イースト The Far East Vol.II,No.VIII,1871年9月16日号 横浜開港資料館所蔵 五姓田の絵とほぼ同じアングルで撮影された写真。「同善堂」は關帝廟を運営する中華会館の母体となった組織と考えられる。

長崎外の古写真考 目録番号:4237 雪(冬) (1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:4237 雪(冬)(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:4237 雪(冬)(1)     同作品 目録番号:6729 雪(冬)(2)

目録番号: 938 横浜本村の薬師堂(1)
[画像解説]
横浜元町増徳院の薬師堂である。

目録番号:4184 横浜本村の薬師堂(2)
[画像解説]
山手の山裾に位置する元町は、開港場建設に際して旧横浜村の住民が移住して生まれた町。町を貫く通り(現元町通り)の突き当たりには、この増徳院が位置していた。写真は、本堂脇の薬師堂。その後薬師堂は、移転を経て現在も堀川端に建つ。

■ 確認結果

目録番号:4237「雪(冬)(1)」(目録番号:6729「雪(冬)(2)」は同作品 掲載略)は、「撮影地域:横浜」だが、場所は不明なのか、画像解説がない。
この作品は、次の目録番号: 938「横浜本村の薬師堂(1)」と、目録番号:4184「横浜本村の薬師堂(2)」のとおり、横浜元町にあった増徳院薬師堂前の雪景色であろう。

建物は建て替わっているようだが、石垣、石段、石灯篭、立木、煉瓦塀などとその配置を比較してほしい。古写真の薬師堂の場所は、現在の横浜市中区元町1丁目13番地。元町プラザが建っている。震災後、増徳院や薬師堂はどうなったか、「よこはま歴史ぶろぐ」に次のとおり記事と写真がある。

増徳院(薬師堂)

元町1丁目13番地、現在の元町プラザの場所にあった寺院。古くから町の人たちの信仰の中心的存在だった。震災後、1928年(昭和3年)に南区平楽103に再建し、戦災を経てそのほとんどが平楽へ移転した。現在元町にあるのは、1972年(昭和47年)に再建された薬師堂のみ。大同年間(9世紀初頭)の創立といわれていますが、記録は残っていない。
ペリー艦隊のミシシッピ号の船員の葬式が行われたときは、葬儀の列は街中を太鼓の音に合わせて行進し、住民達は家や店から出てきて、見物したとされる。そのとき埋葬された場所は増徳院の境内の丘で、現在の外国人墓地の一部で最も古いエリアとなる。

長崎の古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 762 長崎市街の中心と梅香崎居留地
〔画像解説〕 
風頭山から長崎市街地南部を撮影した写真である。梅香崎、新地蔵から出島にかけての海岸部と長崎市市街地の中心部が撮影されている。この写真の重要な点は、梅香崎居留地の埋め立て途中が撮影されている点である。大浦居留地に連続して、梅香崎居留地の造成が終わったところである。その右の長い屋根が見える部分が新地蔵の倉庫群である。新地蔵の右に中島川の河口が見えている。中島川の右岸が築町の突端で、その右側の湾曲した倉庫群が出島である。幕末の出島が、背後から撮影されている。右端の松の木が茂った高台が、長崎奉行所の西役所である。中島川の沿線、鍛冶屋町の通り、本籠町から唐人屋敷にかけての町並みが見える。鮮明な写真であるために、詳しく調べれば、幕末における長崎市街地中心部の建物一軒一軒が特定できる。

■ 確認結果

目録番号: 762「長崎市街の中心と梅香崎居留地」は、F・ベアトが1866年(慶応2年)3月に風頭山から長崎市の中心地および出島、新地、梅香崎を遠望した写真。超高精細画像を見ると、画像解説にはないが貴重なアーチ式石橋の姿が写っている。
黄線枠内は、新地蔵所の南門、広場場側に架かり、唐人屋敷と結ばれていた石橋。幕末の「肥前長崎図」地図や、川原慶賀筆「長崎図」、長崎古今集覧名勝図絵(稿本)「新地南門より唐人屋敷荷物運図」「祭舟流図」などに描かれている。

石橋の大きな古写真は、「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社 1987年発行にも掲載されている。
110頁  作品 123:長崎市街風景
〔画像解説〕
手前中央に石橋があり、遠景の右に片渕町、左に諏訪神社の森、遠くに三ツ山が見える。しかし、この石橋はどこの橋か。珍しい写真である。

写真集解説が「この石橋はどこの橋か。珍しい写真である」で終わっていたのが惜しい。2010年6月5日、検証した結果を次の記事にしているので参照。
https://misakimichi.com/archives/2348
この石橋こそ、新地蔵所の南門、広場場側に架かっていたアーチ式石橋である。このたび、F・ベアトの作品でも再確認できた。
なお、最後の目録番号:1767「風頭山からの港町」は、上野彦馬撮影による明治初年の写真。新地の同石橋は架け替わっている。

江戸期の観音禅寺 (2)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (2) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。これは(1)からの続き。

(五) 江戸期の観音禅寺

さてこの寺と長崎の町人とを結びつけていたのは、観音信仰と徒歩旅行時代の行楽である。観音信仰そのものからすれば、江戸期に入る少し以前から著名になっていたようであるが、ここの観音詣は特に長崎の町と成立と関係深く、長崎の町の賑わいはこの寺の賑わいにも反映したと思われる。長崎から観音禅寺まではその距離が七里といわれ三十キロ弱である。徒歩旅行時代の参詣にちょうどよい距離だったようで、道筋は長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた。この観音寺詣にたどる道には、道塚が立っていたようで、これは寺の階段脇の石柱銘によって、天明四年(一七八四)長崎勝山町石工山下○○の寄進によることが知られる。「道塚五拾本」とある。
この天明期ころが最も観音寺詣が盛んだったのであろう。観音堂の再建、真鍮水器一対(長崎道賢)、観音寺縁起仮名木版(後興善町坂本庄五郎)、石門の建立、経蔵(唐船方日雇頭中)、水盤(深堀伊王島○○)、中太鼓などの寄進が集中している。時代が少し下るが、天保十五年(一八四四)の寄進になる銅製のカネの多くの寄進者名の中には丸山遊女らの名も見え、その信者の層の広さも感じられる。

江戸期の画家司馬江漢は、絵画修行と名所名物案内本の取材も兼ねて長崎まで旅行したが、彼も長崎の知人に誘われて、一泊宿りのこの観音寺詣を楽しんでいる。彼の『西遊日記』には次のように記し、木版本として出版された『西遊旅譚』では、観音禅寺を少し上方の遠見山近くからの俯瞰図の中に描き込んでいる。
「(天明八年十月)十二日、天気にて、朝早く御崎観音(へ)皆々参ルとて、吾も行ンとし、爰より、七里ノ路ナリ。(稲部)松十郎(おらんだ部屋付役)夫婦、外ニかき(鍵)やと云家の女房、亦壹人男子、五人にして参ル。此地生涯まゆをそらず。夫故わかく亦きり(よ脱ヵ)うも能く見ユ。鍵(カキ)や夫婦ハば(はヵ)だし参リ。皆路山坂ニして平地なし。西南をむいて行ク。右ハ五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり、二里半余、山のうへを通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。
十三日 曇ル。時雨にて折々雨降ル。連レの者は途中に滞留す。我等ハ帰ル。おらんた船亦唐船沖にかゝり居ル。唐人下官(クリン)の者、七八人陸へ水を扱(汲)みにあがる。皆鼠色の木綿の着(キ)物、頭にはダツ帽をかむりたり。初メて唐人を見たり。路々ハマヲモト、コンノ菊、野にあり。脇津は亦長崎より亦(衍ヵ)暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイ(粥)を喰す。芋至て甘し。白赤の二品(ヒン)アリ。」、(黒田源次・山鹿誠之助校訂『江漢西遊日記』より)

また寛政六年出版の『西遊旅譚』には、
「十月十二日長崎より七里西南乃方、脇津と云所阿り。戸町、深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏(ふみ)て行事、二里半余(ヨ)、山乃頂(ウヘ)人家なし。右の方遥(ハルカ)に五島見(ミル)是ヨリ四十八里。左の方天草島(アマクサジマ)、又島原(シマハラ)、肥後の国見(ミエ)て、向所(ムカウトコロ)比国無(ナク)、日本乃絶地(ゼッチ)なり。脇津、人家百軒余、此辺琉球芋(ヘンリュウキュウイモ)を食(ショク)とす。風土暖地にして雪不降(フラズ)。ザボン、橙其(ダイダイ)外奇草を見る。」
江漢らが宿泊したのは多分本堂ではなかろうか(現在のものは再建)、ここはつい最近まで宿泊所として開放されていた。絵画家と関連して、観音堂の天井絵について触れておきたい。この有名な天井は、その落款に次のようにあることが知られている。
「長崎画史鑑賞家七十九翁、禁衣画師石崎融思敬写、同石崎融済謹写、補助石崎融吉敬写」
石崎融思は当時の唐絵目利の長老格であり、七十九才といえば彼の没年であり、弘化三年(一八四六)にあたり、二月に没している。この天井絵にはシーボルトの絵師であった慶賀の名に成るものもある。慶賀はこの時六十一才で、それより少し前の天保三年(一八四二)にはオランダ人のために国禁に触れるような図書を描いたとして、二回目の江戸、長崎の所払いを命じられている。石崎融思は慶賀の父、川原香山とも親しく慶賀の出版物に序文すら寄せていて、この不遇の出島出入の画家であった慶賀を引き立てている。この天井絵もまた、所払いの身であった慶賀を引き立てて仕事を与えたのかも知れない。

江戸時代のこの寺は、以上見てきたように長崎の人々の行楽と観音信仰によって支えられたようで、余り曹洞宗の禅寺としての姿はみえない。ただ明治に入ってからは長崎の文人墨客がここによく逗留しており、画冊の寄せ描きも残っているし、書道界に名の知れた川村驥山も、若いころかなり永いことこの寺に寄宿し、多数の書を残している。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

江戸期の観音禅寺 (1)  徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

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江戸期の観音禅寺 (1) 徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」から

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎県立美術博物館「長崎県久賀島、野母崎の文化 Ⅱ」昭和57年所収の徳山 光氏著「西彼杵郡野母崎町の寺(下)」82〜87頁は次のとおり。野母崎町は現長崎市。
文が長いため、(1)と(2)に分けた。続きは(2)へ。

(五) 江戸期の観音禅寺

前年度と今年度の報告として紹介した、この寺の資料からも知られるように、この寺に現存する資料の中には、江戸期より前のこの寺の状態を知るうえでの直接的な資料は、観音堂に安置する千手観音像と縁起を除けば一点もない。しかも千手観音像単独での存在であることから、当初からこの寺にあったかどうかについて疑問をもつ人もあり、したがって江戸期より前のこの寺について知るうえでの資料としては、縁起と深堀家文書がほとんどであり、この点から考えられる事柄は先の(四)で述べた。
即ち、歴史上、「肥御崎寺」が存在したことは明確な事実であり、仁和寺の末寺であったことまではわかっている。平安末期から中世にかけて、この寺が存在していたとすれば、その伽藍があった場所には当然、石碑類が存在しているはずであるが、現在の境内にはそのように古い時代のものは一点も発見できない。したがって口伝でいわれるように、現在の境内は近世またはそれに近い時代になって新たに興されたのではないかと想像できる。
旧寺蹟の存在を知るためには、この石碑類の発見や古瓦の発見が重要であるが、その土地らしいといわれる、もっと奥の小高い場所へは、現在ではそこへ通じる山道の通行者がなく、立入りが不可能になっていて、今回の調査では現地の実見ができなかった。冬場の草枯れの時期に調査せねばならない。

観音堂そのものの実際の移建は前章で述べたように、観音信仰と同時に、村民の寺としての存在という関係からも、江戸期に入るより少し前に行われたと考えられるし、現存する観音堂の堂内の構成が、密教寺院の様式をそのままうけついでいて、この堂はこの寺が曹洞宗の禅院として再興される以前に、この地に建立されたと考えられる。そしてこの観音禅寺が実際に寺名を「観音禅寺」としたのは、江戸期に入り深堀の曹洞宗の菩提寺の末寺に組み入れられてからの名称であり、この野母一帯が佐賀鍋島領となってからのことであることを示している。
観音堂はこの寺が禅寺に変る以前に、再建されたことは縁起からも知られたし、観音信仰の力に守られていたものと考えられ、幕府の政策に関係して曹洞宗への転宗が行われても、この寺のそれ以前の信仰形態を完全に断ち切ることができなかったことが、この寺の観音堂を中心とした伽藍や、観音堂内に残る密教様式から判断できる。
ただ前述のように、この寺に現在存在する絵画資料をはじめとする寄進の様々や、境内の石碑物などは、江戸期に入っての寄進によるものであり、それもほとんどは長崎の町人によるものである。このことは実際にこの寺を江戸期に支えたものが、長崎の町人の観音信仰が主であったことを如実に物語っている。この寺の再興と現実の繁栄は、実に長崎の開港、江戸期を通じてのわが国唯一の開港地として栄えた町人によるところが大きかったのである。

先に引用したこの寺の最も古い縁起には裏書きがある。しかしこれは巻子装であるため、すれて消え、判読不明の部分もあるが、この縁起の表装が商取引のため長崎を訪れた、京都の萬屋徳兵衛の喜捨によることが記されている。これはこの表装が成った宝永年間頃には長崎への外来者さえも訪れるくらいに著名な寺となっていたのである。
また観音像の脇待の造法を見ると、長崎の黄檗寺院で見られる中国様式による木寄法を用いていて、中国人との何らかの関係も考えることができる。ただ中国人の直接のこの寺への参詣は許されていなかったようで、この寺にある丁運鵬筆の羅漢渡海図巻に対する、中国人十三人による讃文巻子への揮毫は、唐通事へこの寺の住職が依頼することによって成ったものである。唐通事のうちの数人は、かなりこの寺と密接な関係があったようで、来舶画人であった費漢源に学んだ楊利藤太はこの寺の寄進目録に名が見えるし、頻川氏によっては、十八羅漢図などが寄進されている。

この寺の所蔵品の中で注目すべきものの一つに、先に引いた丁雲鵬作の羅漢渡海図巻とその讃文巻子そろいの二巻がある。図巻の方は多分、天明年間に寄進されたものであろう。丁雲鵬は中国明代の画家で、白猫の仏画を善くしたといわれる。その羅漢図巻の真贋を問うこともあってか、観音禅寺第八代の泰田が唐通事に預け、中国より来舶していた中国人から画讃をうけたものである。これらの中国人の中には、費晴湖の名も見える。この当時、長崎に来舶した清人の名称と足蹟が知られる点でも興味深く、これらの画讃が記されたのは後に記す司馬江漢が長崎に来たころとも近い時期で、彼の西遊旅譚にも当時長崎に来ていた中国人名が知られ、その中にも費晴湖の名が見える。このころの長崎での中国人との交流の一端が知られる。
次に注目すべきものとして「常陽寿昌沙門東海拝画」の款をもつ達磨大師半身像がある。これは紙に太筆によって大描きした大作で力作である。沙門東海は長崎東海禅寺(不明)に住し、のちに水戸祗園寺の住職になった。常州那珂郡石神村鈴木直右衛門の男、画法は桜井山興に学び、花鳥人物に工、よく河豚魚を写す。世に東海の河豚と称されるという。享和二年(一八〇二)十月三日寂す。年八十三という。
東海禅寺は不明だが、あるいは中国人東海の墓のある長崎市内の春徳寺のことを指しているかもしれない。どのような経過でこの作品がこの寺に入ったか不明だが貴重な作品と思われる。

次ぎに石塔の中には豪潮の名を記した宝篋印塔がある。名を寛海律師といい、八万三千煩悩主人と号す。肥後州玉名郡に生れ、比叡山に学び、仏乗および儒教に長じ、かたわら書画をよくし、近世の名僧といわれる。一時玉名郡の寿福寺をついだが、八万四千の宝篋印塔の建立を発願して西日本から名古屋に渉って建立している。文化元年(一八〇四)には長崎に滞在したことが知られており、この際にこの脇岬もおとずれ建立の機会を持ったものと思われる。他に長崎市内の本河内やその他、また平戸最教寺にも同様の塔が存在している。この寺の塔も豪潮の足蹟を知る上で貴重な資料である。
また観音堂の左脇にせまっている斜面に、かなりの数の石仏が存在しており、またさらに上方にも数体散在しているが、その中には享保年銘をもったものがあり、これらは力強い彫を見せ、中国系仏像の流れによる表現をもっていて、長崎を中心に行われていた中国系の仏像彫刻の作例として貴重であろう。
その他に江戸期の仏器と明確にわかるものであり、近世の仏器関係、特に中国系の仏器の様式的基準を示すものとしての重要性もあると見られている。

以下、(2)に続く。

(注  本稿は、会の研究レポート「江戸期のみさき道」第3集35〜38頁に掲載している。「みさき道」の道筋が「長崎から南へ、出雲町を振出し、星取山を経て、尾根づたいに長崎半島を西南へ下っていったといわれる。大正のころまでは朝まだ暗いうちに提灯を手に出発し、観音禅寺で昼食をとり、帰路につくと夕方暗くなってしまったと聞いた」とする部分は、一般的でなく疑問があろう。「道塚五拾本」は「今魚町」の寄進である。また、長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」に、「みさき道」研究の第一級の史料、御崎紀行があるのに、取り上げられていない)

長崎の古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

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  長崎の幕末・明治期古写真考 「幕末 写真の時代」 138:飽ノ浦より長崎港を望む

「幕末 写真の時代(第2版)」筑摩書房 2010年3月発行から、気付いた作品を取り上げる。

133頁  作品 138:飽ノ浦より長崎港を望む 
F・ベアト撮影 慶応年間(1865〜68)後半〜明治初期 鶏卵紙(横浜開港資料館所蔵)
〔画像解説〕
文久元年(1861)長崎の対岸飽ノ浦の地に幕府はオランダの指導援助をうけ長崎製鉄所を完成している。この写真はその製鉄所の上の丘より港の入口、戸町・女神方面を撮し、遠景の山は長崎半島である。港内の軍艦はイギリスのバロッサ号であるという。

■ 確認結果

133頁の作品 138 は、「長崎製鉄所の上の丘より港の入口」を撮しとあるが、飽の浦の恵美須神社付近の高台からは、長崎港内の地形上、港の入口戸町・女神方面は見えない。海に落ちる山の傾斜も急である。
この作品は、港のまったく反対側、居留地造成中の「松ヶ枝海岸埋立地」高台から、長崎港の奥を向いて撮影されていると思われる。写真右側の集落が写る岬は、現在の稲佐橋が架かる「鵬ヶ崎」だろう。同写真集53頁に、同じような光景がある。

53頁  作品 39:長崎港全景
ロシエ撮影 万延元年(1860) 鶏卵紙 (イギリス国立公文書館所蔵)
〔画像解説〕
この組写真は現在グラバー邸のある丘の上に写真機を据え360度の角度で長崎市域全景を撮影したもの。… ⑤は飽ノ浦より続いている丘で鵬ヶ崎。その岬の先端は浦上川の河口。…

横浜開港資料館所蔵には、別の組写真「長崎居留地パノラマ(4枚続き)」もある。
3点の作品とも、松ヶ枝付近から、長崎港の奥、鵬ヶ崎・浦上川河口方面を撮影していることがわかるだろう。
2010年3月15日発行の写真集(第2版)最新版である。そのままの画像解説ではどうかと思われるので、検証をお願いしたい。

この写真は、2010年6月18日すでに指摘済だったので、次の記事も参照。
https://misakimichi.com/archives/2360