投稿者「misakimichi」のアーカイブ

多良山系の金泉寺から五家原岳へ縦走

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多良山系の金泉寺から五家原岳へ縦走  2012年11月

2012年11月18日(日)快晴。多良山系の金泉寺から五家原岳(標高1057.3m)へ縦走。参加8人。みさき道歩会の例会。
黒木8:30—八丁谷8:56—西野越11:02—金泉寺11:15—中岳13:11 昼食 13:30—五家原岳14:51—横峰越15:51—黒木17:50(徒歩距離 約10km)

多良山系の全山縦走を、各登下山路の現況調査もあり、2年ほどかけ小分けして実施していた。きょうは、メイン区間の金泉寺から五家原岳と横峰越まで歩くと、縦走の全線がつながる。
無風、快晴の絶好の日和。紅葉の山を訪ねてファイナーレとしたかったが、紅葉ははや過ぎていた。距離が長く、起伏が激しい。

私がまたバテてしまった。時間は落伍タイム。黒木へ戻ったのは、まさに日没寸前。暗い山道をやっと歩けた。大モミ見学に行くどころではない。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30301372.html

みさき道歩会は、初期の目的をほぼ果たした。高齢化などによる会員の離脱が進み、新春の「みさき道」初歩き後、そろそろ解散の時期と考えている。
いちばんがっくりきたのは、本年4月刊行された市制120周年長崎市発行「長崎市史 第二巻近世編」の編者内容。私たちの5年以上に及ぶ、「みさき道」の古地図など史資料調査、実地踏査、地元調査に基づく研究が無視され、机上の論がまたしてもまかりとおった。
市民全体で後世へ伝える正しい記録となっていない。長崎大学の古写真研究もしかり。「長崎学」とは言えない。長崎市長がしっかりしてほしい。

御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

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御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

2012年11月18日(日)快晴。妻の休日。佐賀県武雄市の「御船山楽園の紅葉まつり」(12月5日まで)と、多久市の陶玲工房作陶展(11月30日まで)へ。
2012全国紅葉最前線|全国旅そうだんHPは、次のとおり。

御船山楽園

1845年、武雄第28代領主、鍋島茂義公が約15万坪(東京ドーム10個分)の広大な敷地の中に、約3年の歳月をかけ創設した「御船山楽園」(旧萩野尾苑)は、山水画を彷彿とさせます。秋は燃えるような約500本の紅葉があり見事な深赤色を彩ります。国登録記念物(名勝関係)。

Yahoo!ブログの改善要望

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Yahoo!ブログの改善要望

Yahoo!ブログは、長年親しんできた画面が広告枠を増やすため、10月17日からメニューの横幅が変更され、広告の内容とともに不評が多く寄せられている。経過は次のとおり。
広告枠は理解するものの、客の意見をなるべく取り入れるため、11月7日に”Yahoo!ブログ やります宣言!!”が出た。「その他の改善を希望されるお客様は、コメント欄に、希望する改善内容を、具体的に明記していただければと思います」とあった。
私の改善要望を以下のとおり、11月8日コメントしている。みなさんの意見も聞きたい。

お客様の記事ページのデザイン(メニューの横幅)を変更させていただきます
2012/10/15(月) 午後 1:48お知らせネットサービス
2012年10月17日(予定)より、パソコン版Yahoo!ブログにて、お客様の記事ページのデザインを変更させていただきます。
メニューの横幅が広がります。※メニューの表示項目に変更はありません。
この変更により、ごく一部のお客様(期間限定の背景画像を使用のお客様)の背景画像が使用できなくなります。
変更後は、初期設定のグレーの背景画像となります。
また、メニューの上部に広告枠が表示されます。
広告の追加に関しては、サービスを継続するための仕組みとなりますので、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。

広告表示に関して
2012/10/26(金) 午後 1:41お知らせネットサービス
2012年10月17日より開始させていただいております、広告表示に関して、多くのお客様からご意見をいただいております。
繰り返しになりますが、広告の追加に関しては、サービスを継続するための仕組みとなりますので、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。

Yahoo!ブログ やります宣言!!
2012/11/7(水) 午前 10:36お知らせネットサービス
Yahoo!ブログは、お客様の意見を取り入れ、以下の改善に、今後、取り組んでいきます!
1)お客様の好きな背景画像を設定できるようにします!
2)お客様間のメッセージ機能を復活します!
3)アンドロイド用アプリをリリースします!
4)コメントやトラックバックのスパムを減らします!
改善の時期に関しても、追って連絡いたします。
その他の改善を希望されるお客様は、コメント欄に、希望する改善内容を、具体的に明記していただければと思います。
Yahoo!ブログスタッフは、全てのコメントを読んでおります。
全ての希望に答えることはできませんが、できる限りの努力はしていきます!
今後ともYahoo!ブログをよろしくお願いいたします。

(私の改善要望  2012年11月8日コメント)

1 やればできるんではありませんか。ブログ存続のため広告枠を増やしたのは、われわれもある程度は納得します。チカチカして、画面展開が遅くなり、フリーズするのはやめてください。
2 そのため、ブロガーを無視した改悪をし、無益な騒動を起こした社員・管理者の認識のなさは、深く責任を追求してください。
3 背景の画面は幼稚過ぎるものが多い。何も少女・こどものためだけのブログではありません。
4 プロフィール欄の文字配置が悪い。それぞれ1行ずつにきちんとしてください。
5 マイページでは、その人を記事を見て×したら、またマイページの該当行画面に戻るようにしてください。
6 投稿した記事の確認のとき、「こんな記事もあります」は検索の出方がおかしくなっています。以前のとおり戻し、だれの記事かわかるようにしてください。
7 検索マシーンの検索条件がおかしい。せっかく投稿したのに、上位に表れません。見出しは誰でも考えてつけます。見出しの文字で主に検索し、記事内容も適切に表示してください。
8 ブログ人気度は、友だちの数や、コメント・トラバ数だけではないでしょう。記事の内容と訪問者数の多さも重要ではないでしょうか。
9 記事の作成途中、うっかり他のキーを押すと、せっかく入力した記事全体が消えてしまいます。また再入力しなければならず、対策を考えてください。
10 地域情報は、何でたべものだけの情報が多いのですか。地域に役立つもっとましな情報を載せてください。
11 メールも前と比べると、画面が見にくく、余計な手間がかかるようようになりました。改善してください。
12 ヤフーをやめたら、以前のブログ記事はすべて削除されるのですか。それはそれで文化遺産です。貴重な映像も多いです。後世でも閲覧できるよう考えてください。
2012/11/8(木) 午後 7:40

長崎の古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3)   撮影者未詳 明治期手彩色小型写真帖

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)   撮影者未詳

目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)   内田九一
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)   撮影者未詳
〔画像解説〕
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。

目録番号:6664 長崎稲佐海岸(6)   撮影者未詳 ボードインコレクション(4)

目録番号:3233 長崎稲佐海岸(7)   内田九一
〔画像解説〕
長崎、稲佐の舟遊びを撮影したもの。着色されている。目録番号1196、3238と同じく、内田九一により明治天皇の長崎行幸時(1872年)に撮影されたと推測される。

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557

さてこの一帯の入江が、丸尾山を削り埋め立てられたのは、いつ頃だろうか。HP「舎人学校」の前慶応大学教授高橋先生から照会があり、長崎の伊能忠敬研究会入江氏と先月調査した。
「長崎市制65年史」や「明治維新前後の長崎」(復刻版)に史料があり、埋め立ては長崎港第二期港湾改良工事で、明治31年(1898)10月から始まり、完成は明治37年であろう。

この際、関係古写真を比較していて、入江氏が貴重なパノラマ写真となることに気付いた。上記はすべて同じ写真で、目録番号の上2枚が左部分、下4枚が右部分。
この記事では、松の枝の続きが良い目録番号:5576「稲佐のイサバ船と弁財船(3)」と、目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」を取り上げ、他は掲載を略した。

入江氏がモノクロ変換し、つないで作成した。パノラマ写真であることは、超高精細画像では特に端がカットされ、私も気付かなかったが、古写真研究関係者もほとんど知らないだろう。
撮影者は、内田九一、上野彦馬、ベアトが考えられ、撮影年代ともいろいろな解説がある。関係者は研究を深めて統一して解説してほしい。

明治9年魚見岳「地理局測點」の地中埋石が見つかる

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明治9年魚見岳「地理局測点」の地中埋石が見つかる

長崎港口の女神大橋をはさんで、魚見岳(大久保山の中腹)と天門峰山頂岩に残る明治九年「地理局測点」は、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。
私は6年ほど前、長崎にあるこの標石の存在に気付いた。京都市上西勝也氏(近代測量史研究)が関心を寄せられ、2006年2月長崎を来訪、本年2012年4月にも現地を再調査され、私が同行した。その状況は、本ブログ次の記事などで紹介している。
https://misakimichi.com/archives/3197
https://misakimichi.com/archives/377

「地理局測点」標石の基盤石の下には、必ず方角を刻んだ本体の地中埋石があるとの確信を、上西先生は最初から持っておられたが、本年2012年4月も時間の余裕がなく、発見するまで至らなかった。そのため私に、いつか基盤石の下を掘ってみるよう指導されて帰られた。
私が意を決したのは、11月11日午後。国史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登る。現地の標石と基盤石は、林間になぜか登山道をはさみ3mほど離れて見つかっている。

発掘状況は写真のとおり。ひとりでは重たい2つの基盤石を動かすと、方角を見事に十字線刻した本体の地中埋石をその下に確認した。形状は末広がりの角錐形。上辺は25cm四方。約8cmほどの高さを掘って、下辺は30cm四方位となった。これ以上掘らず、底辺は確認していない。
基盤石を持ち上げる取っ手の方を掘っていたら、4月に早く発見できたと思われるのに、残念だった。地中埋石は6年越しの発見となった。
私の動きが遅く、上西先生にはたいへん申し訳なかったが、3度目の来崎をお願いしなければならないだろう。

魚見岳の標石にあったのだから、対面の天門峰山頂岩に刻む「地理局測点」の岩下周辺の地中にも、方角を刻んだ本体の地中埋石が現存する可能性もある。
わからないのは、天門峰山頂同岩上に刻む四角枡。往時、交易船への燈火として、石燈籠を置き夜毎灯したものであろうとする史談(長崎市史 地誌編288頁)があるが、やはり明治期となって、「地理局測点」の測量機器を置くため、方角を合わせた岩の刻みではないだろうか。
これが本体だとすると、珍しい岩の測点となる。上西先生が再び来崎できるのであれば、天門峰山頂の方も再度、詳しい調査と確認をお願いしたい。

双方の「地理局測点」とも、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。長崎市文化財に指定して保存するよう、烽火山南畝石(蜀山人歌碑)、茂木玉台寺大イチョウとも早くから要望している。長崎市の回答は、思わしくない。
魚見岳では、本体の地中埋石が見つかったことにより、正当性が立証された。天門峰山頂自然岩の刻面の方は、ほとんど風化して文字を読み取れないほどになっている。

長崎の測点標石は、(大日方純夫ほか編)「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。
https://misakimichi.com/archives/81

「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

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「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年11月10日(土)曇り。その第2回目。深堀の長崎記念病院前に集合。10:00出発。
深堀地区の史跡である御船手、円成寺、恵比須様、武家屋敷、貝塚資料館、深堀陣屋跡、菩提寺、五官の墓を通って見学後、みさき道の山道へ入る。
途中の「女の坂」地蔵は、深堀藩の注進侍が、前をさえぎった身重の女を斬った菩提の地蔵堂の伝承がある。文久元年深堀郷図にこの場所に描かれ、地蔵はそれ以前の建立であり、この道が街道と示す。
大籠町の車道へ出たところから、昼食のため善長教会へ上がる。ルルドはさだまさし映画「解夏」のロケ地。隠れキリシタンの移住が許された善長開拓碑から、「ゆうこう」の大木が見え色づきはじめていた。

大籠町の観音堂と新田神社へ下って、再びみさき道へ戻る。平山台団地上のタンク地点は、深堀道と長崎道の重要な分岐と思われる。晴海台団地上までは現在の市道が、そのままのみさき道である。
寿司市衛門先から少し畑道に入ると、岳路みさき道との分岐を示す貴重な道塚が残る。蚊焼入口近くにあと1本あり、国道上に出て、きょうの行程はここまで。三和行政センター前広場で、14:35解散した。明日のサンサンさんわフェスティバル会場だが、雨が降り出した。

<徒歩距離6km 高低差140m> 参加者15人。私も道案内で同行。
第3回は、2012年12月8日(土)。蚊焼から高浜海水浴場まで。

佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

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佐世保市の高橋氏と長崎要塞地帯(区域)標めぐり

2012年11月8日(木)、佐世保市から高橋氏が来訪。最近、相次いで見つかった長崎要塞地帯(区域)標など4本の現地へ案内した。
詳しくは、長崎要塞地帯標の項に、以前の各記事と写真あり。

写真  1〜 2  富士見町 富士見公園
「陸軍省」「長崎要塞第三?地帯標」「第五十五号」「明治三十二年六月十日」
以前の高橋氏撮影写真が所在不明のため、撮り直しへ。

写真  3〜 5  田上3丁目 小国民資料館の庭
「陸軍省」「長崎要塞第二地帯標」「第二十三号」「明治三十二年六月十日」
高浪さん(めがねのコクラヤ前経営者)50歳のとき、北村西望先生(彫刻家)との握手写真があった。この屏風は、料亭青柳にある。

写真  6〜10  太田尾町山川河内と潮見町の旧道峠
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第二七号」「明治三十二年六月十日」
2012年10月22日の最も新しい発見。春日町に80円自販機があった。

写真 11〜14  中尾町 田川内公民館の裏
「陸軍省」「長崎要塞区域標」「第三十二号」「明治三十二年六月十日」
田川内公民館の古い建物を解体したとき、裏にあった。公民館は新築され、隣りの神社参道横に移設されていた。あと1本は上部欠損。「区域標」「号」との刻みはわかるが、番号は不明。

長崎外の古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

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長崎外の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 78P 知恩院入口の参道、西京

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第六章 京都・大阪  78P  知恩院入口の参道、西京
京都市東山区新橋通、知恩院入口の参道。知恩院は法然上人の吉永禅房にはじまる、浄土宗総本山。三門は、徳川秀忠による日本最大の楼門である。元和5年(1619)着工、2年後に完成している。参道にはランプが立ちならび、井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる。マンスフェルトが業者から買ったものである。
090 サイズ/234mm×185mm 大

目録番号: 5710 参道

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
78P「知恩院入口の参道、西京」は、長崎大学データベースでは目録番号: 5710「参道」が同じ作品。京都市東山区の「知恩院黒門通り」であろう。知恩院三門より一筋上(北)の通りとなる。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2309

目録番号:5710「参道」と同じような構図の古写真が、ウェブ「洛中洛外散策」百年前はこんな風景 にあるので、次を参照。現在の写真も同ウェブから。
http://www2.ocn.ne.jp/~teiten/meiji.html
京都府立総合資料館所蔵資料データベース「京都北山アーカイブズ」の矢野家写真資料明治頃の京都および近郊の名所等 Iに作品49「知恩院黒門通」として同古写真は収録されている。
http://www.pref.kyoto.jp/archives

78P「知恩院入口の参道、西京」において、「京都市東山区新橋通(東方が三門への知恩院通?)、知恩院入口の参道」とするのは解説間違いで、1つ北の「知恩院黒門通り」となろう。
「井戸の横にはまげ姿の男性が佇んでいる」も「井戸」ではない。黒門の前にある周囲に石柵をめぐらした「瓜生石」。石の下を掘ると、二条城まで続く抜け道があると言い伝えられている。
通りは地図を参照。知恩院黒門から撮影した「華頂道」ではないか。東山区「古門前通り」の一部で東側。「知恩院黒門通り」とも呼ばれる。「瓜生石」の最近写真は、京都市上西氏撮影。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 35P 茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  35P  茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて
茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下でくつろぐマンスフェルト一行の人夫たち。まだまげを結っている男性が多い。次ページの写真とあわせてみると、一行は茂木滞在中、この元庄屋宅を宿舎にしたように思われる。熊本からの旅行中であろうか。
016 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

目録番号: 6282 農夫たち(2)
〔画像解説〕    ボードインコレクション
ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。竹籠のなかには人参、ネギ、菜っ葉、魚が見えます。茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。足に脚絆を巻き、履物は地下足袋と草鞋です。天秤棒は竹からできています。ボードイン博士の撮影依頼に応じた笑顔が少しこわばっているのが印象的です。 -6282-

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」は、木の背後に薄く写る山が、茂木の汐見崎の稜線と同じだから、撮影場所は「茂木の元庄屋森岡平左衛門の屋敷(現茂木郵便局)前の海岸に立つ木の下」に間違いないと確認できる。

ふと思い出したのは、長崎大学データベースの目録番号: 6282「農夫たち(2)」(目録番号:6281「農夫たち(1)」も同写真)の人物。ボードインコレクションにあり、「ボードイン博士が長崎郊外の散策中に出会った「物売り」の行商人たちです。…茂木方面から長崎に向かう行商人ではないでしょうか。…」
35P「茂木の庄屋屋敷前の「木の下」にて」の右端2人を拡大した。顔・ポーズとも似ているようでもあり、余談として人物の確認をお願いしたい。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 33P 茂木の海岸に沿って

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  33P  茂木の海岸に沿って
茂木の旧庄屋屋敷あたりから撮影された茂木海岸と茂木村本郷の家並み。マンスフェルトは茂木旅行に大型カメラを持参し、これを撮影したようである。写真は埋め立て前の片町付近で、左奥の寺は玉台寺。僧寶譽の創建で、島原の領主松倉氏の代に第3世義山和尚が再建した。
018 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/207mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行された。
33P「茂木の海岸に沿って」は、解説では「写真は埋め立て前の片町付近」としているが、「片町」は若菜川の右岸一帯のため、場所が違う。

長崎市役所茂木支所に展示している「茂木港今昔」の次の地図と説明どおり、大正時代に埋め立てられたのは、「橋口、中、寺下」の海岸である。
「若菜橋」も、橋口側の位置が、現在の橋とは異なっている。
この項は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2147

茂木港今昔
この地図は、大正時代の埋め立て前と現在の海岸線を比較したものです。現在のフェリー乗り場や新田の汐見崎観音寺付近は岩場で、橋口、中、寺下の海岸は砂浜でした。
若菜橋も橋口側の位置が異なっています。

33P「茂木の海岸に沿って」の撮影場所は、「旧庄屋屋敷あたりから」。現在は弁天橋があるSマート茂木店前あたりからであろう。左奥の寺も、「玉台寺」に間違いない。大イチョウがすでに撮影されている。