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長崎の測量  上西氏HPから

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長崎の測量  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

長崎の測量  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

1876年(明治9)に発行された内務省第一回年報、1877年(明治10)の同第二回年報にはつぎの記述があります。

長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼島神ノ島等ノ地ニ於テ測點ヲ二十九箇所ニ撰定シ其新大工町ト片瀕郷ニアル二點間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日ニ至リ全ク成ル叉底線地の高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス其經費総計金千七百五拾三圓九拾壹銭八厘ニシテ第二十六號表ノ如シ(表略)[内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p595−596]

長崎三等三角測量ハ明治九年四月起業九年六月マテノ事業は前周年ノ報告書ニ詳カナリ同年七月底線測量トシテ其長サヲ算定ス夫ヨリ測点石埋設測標臺建築及測角等ノ事業漸次施行シテ十月ニ至リ卒業ス次テ三角諸邊ノ長サヲ算籌シ一万分一比例線三角網圖ヲ製シ十一月極星ヲ測リテ真子午線ヲ定メ十二月補助點ヲ測定シテ三角測量全ク卒業セリ且ツ細形測量ハ該地ヲ區分シテ八部ト爲シ其一部及三部ハ九年九月起業漸次施行中本年一月廃寮置局ノ改革アルヲ以テ各技員歸京僅ニ二員ヲ以テ残業を継續シ方向測量ヲ施行ス然ルニ同年六月ニ至リ實際支障アリ故ニ此二員モ亦歸京セシメ以テ半途休業セリ其經費(中略)前周年(中略)ト合算スレハ七千貳百八拾五圓五拾五銭トナル(以下略)[内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p428]

この内務省年報にある「技員歸京」については1877年(明治10年)に西郷隆盛(1828〜1877)をはじめとした反乱、西南の役が勃発したことと関係があるように思われます。司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」では地理寮官員の不穏な動きが察せられます。

林友幸は熊本から長崎に移っていた。そこで落ちあい、十二月二十六日、便船で長崎を出発した。林とは別目的で鹿児島へゆく地理寮の官員三名が同船していたが、林自身はその任務においては単身にひとしい。 [司馬遼太郎:翔ぶが如く 三 文藝春秋 1983(司馬遼太郎全集 第37巻)p246]

1876年(明治9)12月、内務少輔(しょう、しょうゆう)の林友幸(1823〜1907)は西南の役直前に鹿児島の状況視察のため鹿児島県令の大山綱良(1825〜1877)と長崎で落ち合い鹿児島へ入ろうとしていました。「地理寮の官員」が文中に唐突に現れるのはなぜかわかりません。前後の文、小説全体を通じて地理寮はこれだけのようです。なお長崎の三角測量はこのとき終了したところですがこの「地理寮の官員」が長崎に従事したかは不明です。大山県令は西南の役で官金を西郷軍に提供した罪を問われて長崎で斬首されました。司馬は大山県令のつぎの供述を引用したようです。

二十六日少輔ならびに自分、且地理寮の官員三名同船二七日鹿児島に着す。 [徳富猪一郎:近世日本國民史95 西南役緒篇 近世日本國民史刊行會(時事通信社) 1962 p146]

現在、この測量の遺跡として2ヶ所の測点が残存しています。女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹です。当時の長崎縣庶務課地理掛の事務簿(長崎歴史文化博物館蔵)によれば内務省出仕、小林一知による大三角測量敷地買上にする文書に測点位置について図面を含めた記録があります。これによればつぎの33ヶ所が記載されていますが現在地との照合が困難なところが多いようです。アバ山と魚見岳はそれぞれ天門峰と大久保山(中腹)のことです。

新大工町、大平山(米国金星測量臺跡)、城ヶ島、萬屋町、出島居留地、大浦居留地、鉄炮石、高鉾島、辻、勝山町、今町、鼡島、アバ山、栁千本、梅ヶ嵜、南町、舩津、竹ノ山、古川辻、小島正覚寺、辻、釜 竹ノ久保、上笠頭、前田、石原久保、御臺場跡、魚見岳、△石(△不明)、影野尾、中番所、原田、嶋ヶ崎、中之間[長崎縣庶務課地理掛:自明治十年至仝十三年事務簿全 大三角測量敷地買上 内務省地理局気象観測臺用地買上測点敷地圖面 長崎縣庶務課 1877 頁なし(長崎歴史文化博物館蔵 整理番号14 721−3)] 

地図については1881年(明治14)内務省地理局が「大日本國全圖」の分轄図として発行した「長崎福岡大分三縣圖」がありますが86万4千分の1と小縮尺で「測點」は載っていません。 [地図資料編纂会編:明治前期内務省地理局作成地図集成 第2巻 日本図編 柏書房 1999]

明治十七年測圖同二十七年製版、陸地測量部の一万分一図、長崎近傍ノ五「福田村」には天門峰の測点位置に三角点記号と標高165,35が、また同長崎近傍ノ六「深堀村」にも大久保山の測点位置に三角点記号と標高158,38、さらにその上に意味不明の「(13)」の記載があります。これらの地図にある三角点記号は地理局の測点そのものと考えられます。明治三十四年測圖同三十六年製版、陸地測量部の二万分一地形圖長崎要塞近傍六號「深堀」では天門峰の測点位置には三角点記号はなくなり標高164,7鰯見(イワセン)嶽と記載があります。また同図幅で大久保山の測点位置にはなにもありません。

大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2012年12月

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大久保山から小ヶ倉上の岩場へ  2012年12月

2012年12月2日(日)曇りのち小雨。大久保山(標高233.7m)から小ヶ倉上の岩場へ。参加4人。みさき道歩会の例会。
女神9:35—魚見岳台場9:50—地理局測点10:26—大久保山10:57—展望原11:13—峠部11:40 昼食 12:00—小ヶ倉上の岩場12:16—八幡宮12:53—白崎藩境石13:15—女神13:40(徒歩距離 約7km)

雨の天気予報のため、参加者少数。地中埋石が見つかった魚見岳「地理局測点」の見学が目的だったが、標石は埋め戻しており、地中まで見てもらえなかった。
https://misakimichi.com/archives/3503

いつものコースで、大久保山から小ヶ倉上の岩場へ回る。写真は、マテバシイ、八郎岳子午線標、ウルトラマン岩、天明藩境塚、展望原、小ヶ倉大岩群、こて絵、藩境石など。
午後からかすかな小雨がときどき降った程度。下山にまったく支障なく、白崎へ下った。

長崎の西空の夕日  12−11

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長崎の西空の夕日  12−11

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。

写真  1〜 5  2012年11月 1日の17時26分頃
写真  6〜 8  2012年11月26日の16時57分頃

「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

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「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

「心田菴」は、江戸時代から伝わる日本庭園で、平成24年1月に増田水産株式会社より長崎市に寄贈された。紅葉の時期、日本庭園と茶室を、期間限定で一般開放されている。
入場無料。直接会場へ
日 時:11月17日(土)〜12月9日(日)の午前9時〜午後5時
場 所:心田菴(片淵2丁目18−18)  長崎大学経済学部の裏通りから上がる

長崎市文化財課作成資料(会場配布)は、次のとおり。

江戸時代からの由緒ある日本庭園と茶室 「心田菴」(しんでんあん)由来

心田菴は、何兆晋(がちょうしん)が長崎片淵郷(現在の片淵2丁目)に建設したといわれる別荘である。何兆晋は、寛永5年(1628)長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男であり、万治元年(1658)に唐小通事(とうこつうじ)となった。父・高材とともに清水寺本堂(国指定重要文化財)の寄進を行ったことでも知られている。

長崎の茶道において重要視された由緒があり、天和(てんな)2年(1682)の「心田菴記」や、文化14年(1817)の「心田菴図」など、当地に関わる資料も残されている。長崎市にとって歴史的、文化的な遺産である。

名称の由来は「心田菴記」に、心田菴主である「何兆晋の心の田畑はとても広大である。まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である。」と記されている。
つまり、人は地位や名誉、財産などより、「心の田畑を耕すことが最も大切である」との意味から名付けられたものと察せられる。

〜心田菴略年譜〜

寛文 8年(1668) 何兆晋 唐通事を退役する
↓       このころ心田菴が建てられたと推定
天和 2年(1682) 高玄岱「心田菴記」を記す
↓       このころ黄道謙「心田菴」を描く
貞享 3年(1686) 何兆晋死去
文化14年(1817) 菅井梅関「心田菴」を描く
天保10年(1839) 中島広足「橿園文集」を書く
このなかに「松蔭舎記」があり、心田菴が紹介されている
明治39年(1906) 青木氏、心田菴を取得する。その後何度か所有者が変遷 
平成24年(2012) 1月、増田水産株式会社から長崎市に心田菴が寄贈される

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。(1)の続き。

写真  1〜  5  長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台

長崎報時信号所跡は、グラバー園スカイロード第2ゲートから、鍋冠山へ100mほど登ったところにある。国から払い下げられた市有地の空き地があったが、最近公売により新しい民家が建った。その工事中、地下から出てきた長崎報時信号所跡の遺物。タイムボール鉄柱支え台であろう。現在は掘り除き庭に置かれているが、原田・宮川先生も調査に来られており、適当なところに保存されるだろう。

長崎報時信号所のタイムボールについては、HP「日本のタイムボール」に詳しくあるので参照。
「九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》」吉田初三郎筆(昭和8年)に、ドンの山とも描かれている。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kanko/yoshidamap/index.html
長崎の文献としては、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/3513
南山手美術館所有の油絵の一部に部分的に描かれていると聞いた。

朝日新聞昭和53年8月26日スクラップ「ドンの山—長崎海洋気象台百年」(ズーム拡大)を、参考に載せる。長崎では1912年(明治45年)2月、鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始し、昭和16年?まで存続した。
「報時信号所とは、鍋冠山の中腹に設けられていた港内の船舶向けに正確な時刻を知らせる信号所のことで、正午に赤い玉を落とす。船で赤い玉が落ちる瞬間を見て、備え付けのクロノメータの規正を行ったものである」
上西先生は、HPで午報も調べられている。長崎報時信号所跡のこの遺物について、中央での文献調査をお願いした。

写真  6〜  7  四郎ヶ島東側の小島の「四建三角点」と「四建基準点」

日没まで時間があり、上西先生へ標石の場所を知らせるため訪ねた。神の島から海道を渡った四郎ヶ島台場跡の東側小島に、「四建三角点」と「四建基準点」が別々の場所にある。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため昭和30〜40年頃、建設省第四建設局が設置した三角点・基準点と思われる。

この項は、本ブログ次を参照。現在行っても藪や竹がまた密生し、私の記憶があいまいになり、小さな標石のためすぐにはもう探しきれなかった。したがって標石写真は、以前の撮影分である。
https://misakimichi.com/archives/99
https://misakimichi.com/archives/1665 

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは、先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。

写真  1〜  7  明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘

この項は本ブログ次の記事を参照。本体となる上面十字刻みのある角紡錘形の地中埋石を、深さ約50cmほどまで完全発掘し、また埋め戻した。地上標は基盤石の上に乗せ、本来の位置に立てた。
https://misakimichi.com/archives/3494
https://misakimichi.com/archives/3500

まさしく内務省地理寮、地理局のタイプ。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では、京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じだった。地中標に4角の穴はなかった。
長崎は明治9年中に測量が終った。京都は明治7年に測量がはじまったが、西南戦争など諸事情から明治10年にいったん中止、明治14年から16年まで測量が再開された。
明治9年魚見岳「地理局測点」を、上西先生と私はやっと6年越しで全容確認した。

写真  8〜 16  ダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点

私が「みさき道」調査において、長年、探していた明治地図にあった水準点の標石。関覚斎日記に記す小ヶ倉港を眼下に西海緲々を望む「佳景の平地」の決め手となる。団地造成で失われ、場所がはっきりしなかったが、老人ホーム「オレンジの丘」敷地、西側フェンス内に残されていた。
地元小ヶ倉の前自治会長山下氏が、先日のみさき道講座の翌日、ふれあいセンターを通し、現存を知らせてくれた。「いぼがある標石があり、何か字を刻んでいる。殿様が腰掛けた石で、絶対動かさないよう古老の伝えがある」

これは地元の勘違いで、「水準点」「五三九七」と刻む。明治30年の標石である。新旧地形図を重ね合わせた対比ルート図では、水準点の位置が違う。
老人ホーム「オレンジの丘」敷地へ約200m、西へ下って動かされたと思われる。そのため私は、まさかここに現存しているとは、今まで気付かなかった。
現在の水準点「5397」は、小ヶ倉中学校正門右奥に平成15年(2003)再設され、旧標石は廃止されているのを、上西先生と確認した。

ダイヤランド団地内には、昭和56年(1981)の開発前、「みさき道」の道塚が加能峠・山頭・一本松に3本あった証言がある。この水準点の標石とも、小ヶ倉の郷土誌に調査・記録がないのは、かえすがえすも残念なことだった。

南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

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南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

書庫を誤って削除し、現在復旧中。烽火山「南畝石」に関連。長崎奉行所支配勘定役として滞在した大田南畝こと蜀山人が、長崎で残した風流な狂歌。あまり知られない一首。
「南京房義圓墓」は、長崎市本河内1丁目長崎街道沿いにある。現在訪ねても、碁目の線刻や碁笥の花立がこれか不明だった。両資料で狂歌下句が違う。
小森定行氏著「本河内村の史跡」1995年発行の174頁は、次のとおり。寸法図はこれから。

碁盤の墓

昌源の長崎街道筋、原花屋前「ケヤキ」の大木の根元にある。中国から長崎に来た棋士で、長崎囲碁界の草分け、南京房義圓の墓である。宝暦十四年申(1764)年3月23日長崎で没す。
墓石は、一般僧侶の墓に共通な頭部のまるい無縫塔で、蓮華座下の台石が碁盤で、花筒が碁笥(ごけ 碁石入れ)になっている。高さ0.60mの塔身には正面に南京房義圓墓、右面に宝暦甲申年三月廿三日と刻している。
文化元(1804)年蜀山人(太田南畝・本名太田直次郎・長崎奉行所勘定役)がこの地を訪れ次のような歌を残している。
この墓は南京房か珍房か ごけ引きよせてごばん下じき   蜀山人

長崎手帖社「長崎手帖 No.16」昭和33年11月発行の30頁は、次のとおり。

南京房義圓の墓

151 墓の多い長崎で、他に類がないと言われている一つに、南京房義圓の墓がある。この墓は、一ノ瀬旧街道(本河内町1丁目)にある唐金塔の近くの道端に建っている。墓面に宝暦十四年とあるから194年前のもの。墓は「坊んさん塔」だが、珍しいのは381目をひいた碁盤の台石と、碁笥(ごけ)の形をした花立である。
義圓については、当時の碁の名手であったことと、赤寺(唐寺三寺のうち、どの寺であるかは不明)にいた形跡があるとのこと以外は、素性も人となりも寡聞にして知らない。しかし、その後奉行所勘定方として長崎に滞在した太田南畝こと蜀山人は、この義圓の墓に、
南京房か珍房か碁笥(ごけ)引きよせて碁盤すな
と風流な狂歌一首をたむけているそうだ。

「ゆうこう」発見と江戸期の「みさき道」講座

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「ゆうこう」発見と江戸期の「みさき道」講座

長崎市ダイヤランド・小ヶ倉ふれあいセンターの講座。昨年は中尾氏が戸町・女神一帯の史跡探訪をし、好評だった。
世界のスローフードに認定された柑橘類の新種「ゆうこう」発見のきっかけとなった木は、ダイヤランド下方、土井首にある。川上氏からその発見のいきさつと、研究を聴くため、こちらからセンターへ今年の講座を提案した。

ついでに私が、江戸期の「みさき道」のダイヤランド団地内ルートを、長崎医学伝習所生「関覚斎日記」などにより考えるとし、きょう11月23日(金 祝日)、センター第1研修室で午前10時から12時まで開催された。
地元に密着したテーマとしたつもりだったが、参加者25人。私の方が話し過ぎ、川上氏を持ち上げることができなかったのは、申し訳なかった。

京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

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京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

長崎・国指定史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登ったところにある明治9年魚見岳「地理局測点」は、2012年11月11日、本体の地中埋石(写真1〜2)が見つかったことを、本ブログ次の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3494

上西先生から「このたびは、大変な朗報をいただきありがとうございました。やはりありましたか。これは、まさしく内務省地理寮、地理局のタイプです。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じです」とメールをもらい、今月下旬に長崎へ3度目で来られることとなった。

さて、形状を同じとする京都「清水寺の地理寮測點」だが、どんなものだろうか。上西先生HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史  (旧題:三角点の探訪)」内務省 京都の測量による「清水寺の測點」解説は次のとおり。関係写真とともに紹介する。
明治9年魚見岳「地理局測点」は、同じくらいに古く貴重な測量標石であることが、理解されるであろう。

清水寺の測點   地図:京都東南部

清水寺の入口には仁王門と呼ばれている大きな建造物があります。標石は向かって左下(北側)の基壇前にあります。標石の頭部が20センチメートルほど露出しており「地理寮」の文字も「地理」というところまでは現れていたのですが、わたしも50年間、京都に住んでいながら気づきませんでした。

ところが仁王門の修理工事にともない2000年(平成12)3月、国土地理院近畿地方測量部により、この標石が発掘されました。今回の発掘後、清水寺の談話として地元の新聞につぎのように載っていました。

何の石か分からず「仁王さんのへそ石」とも呼ばれていた。寺ということで開発される可能性も少なく、眺望もいいので、この場所が基準点に選ばれたのだろう。表示標は元の位置に戻して保存したい。 [京都新聞:仁王さんのへそ石 2000年11月7日版]

わたしは清水寺におことわりし工事中の現場で京都府教育委員会文化財保護課のお許しを得て見せていただきました。標石は花崗岩で3個の部分から構成されています。まず地理寮などの名称が刻字された標石が最上部にありました。角柱で頭部は錐形です。西面には「測點」南面には「地理寮」東面には「明治八年」北面には「明治十五年八月建 地理局」と刻字があります。四角柱は横一辺25センチメートルの正方形で高さは38センチメートルあり頂部は高さ3センチメートルの四角錘です。この標石はこの下に本点の地中標があるという標示杭に相当しますが、かりに「表示標」と呼ばれています。

ついで、この標石の下には最下層の標石上部を保護するためと思われる平らな「蓋石」がありました。一辺46センチメートルの正方形、厚さ12センチメートル程度あります。蓋石の下面とその下にある本点標石の上面はいずれも正方形ですが45度ずれて収まるように蓋石の窪みがあります。

最深部は上部平面対角線に×しるしが彫られた截頭方錐形の「本点」標石です。上部平面は一辺15センチメートルの正方形、底面は40×30センチメートルの長方形で高さは50センチメートルあります。文字は何も彫られていません。

標石は全体が地中80センチメートル程度埋まっていましたが、発掘時には底部に深さ50センチメートル、直径7センチメートル程度の穴が4本ありました。発掘の後日、穴がふさがれるのを防ぐため、とりあえず新聞紙がまるめて入れてあります。もし基礎を補強するために木杭が打ち込まれたとすれば、その残骸はあるはずですが空洞になっています。この穴の目的はわかりません。

標石が三段重ねで埋まっていたのは発掘時に立ち会った文化財保護課の人からわたしが直接聞いた話で、はじめて知り後日、復元組み立てをしていただきました。

最上部の表示標には1874年(明治7)に発足した地理寮と1877年(明治10)に改称された地理局の両方の文字が彫られているので1875年(明治8)に設置され、その後改埋されたものか、あるいは標石だけ既製品としてあらかじめ地理寮の名前入りでつくられており地理局になってから設置されたものかいずれかでしょう。

この清水寺の発掘は2000年9月には「国土地理院広報」で公表されました。これによると最下部の×印の本点標石の設置時期と最上部の表示標に地理寮と地理局の両方が刻字されている理由としてつぎのように記載されています。

標石の設置は地理寮が測量時の明治8年(1875)頃に行い、地理寮が地理局に改編された後、明治16年まで実測していたことが記録されていることから表示標の設置は地理局が1882年(明治15)8月に設置し、この時に測量の経緯を記録するために組織名を併記したと推測されます。 [中野博美、徳永和典:清水寺で内務省地理寮の基準点が発見される「国土地理院広報」 387号 2000.9 p7]

この報告のように表示標はその刻字にもあるとおり1882年(明治15)に設置されたことは間違いないでしょうが地中の本体までが同時に設置されたかどうか不明です。当初は見通しのきく清水寺の五重塔が三角測量の偏心点とし観測され、のちに本点の位置に表示標が設置されたのかも知れません。

仁王門の改修工事は2003年(平成15)末までかかりましたが、それまでに発掘された標石は元どおりに埋設されています。ただし後年の破損、分解を防ぐため最上部の表示標と蓋石はボルトで固定され、さらに一辺56センチメートルの正方形、地上高さ6センチメートルの新設基盤の上に載せられました。また埋設地点近くには国土地理院により説明板が設置されました。

国土地理院により設置された説明板には英国の技術を導入して京都市街地図を作成するために設置された基準点であること、標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準であること、清水寺からは高瀬七条上ル、六角堂、聖護院村に設置された基準点を視準して測量した、などと解説されています。

茨城県つくば市にある国土地理院「地図と測量の科学館」の「地球ひろば」には内務省の標石や現行の基準点などともに清水寺の標石、最上部の表示標の複製品が展示されています。

「烽火山番所道」は、越中先生が歩かれていた  長崎手帖1959年の記録

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「烽火山番所道」は、越中先生が歩かれていた  長崎手帖1959年の記録

次は、長崎手帖社「長崎手帖 No.20」(1959年発行)6〜8頁に掲載されていた、「烽火山番所道」の貴重な記録。長崎楽会中尾氏が見つけてくれた資料である。
新、旧番所跡を通って登るこの烽火山旧道は、ほとんど歩かれていないと思っていたが、さすが越中哲也先生。今から53年前にちゃんと調査されていた。

新番所近くにあった「染筆松」石碑(現在は所在不明)、山頂近くの巨岩に彫られた太田南畝(蜀山人)の漢詩碑を記録されている。
やはり山頂の前記「南畝石」近く、烽火山十景「亀石」の所在にまでは、気付かれなかったろうか。山頂東下の「人面岩」、七面山妙光寺参道登り口の「傴僂巖」(カウコウイハ)も、この記録に説明がないのは惜しい。
これら石などは、本ブログ次を参照。書庫を誤って削除しているため、現在復元中。
https://misakimichi.com/archives/3342
https://misakimichi.com/archives/3345
https://misakimichi.com/archives/3346

越中哲也先生稿  私の長崎案内 第9回「春徳寺より烽火山まで」

(前半の春徳寺、焼山部分は、掲載略)

川ぞいに七面山に登ってゆくと、蜀山人が加藤清正を詠んだ詩碑が、清正公様を祀る七面山に向って建っている。この碑もあやうく、なくなるところだったのを、昭和29年、鳴滝町西部町内会の方々のお蔭で、現在の地に立派に建てられたのは欣ばしい。(たしか当時の町内会長さんは中村順作氏であったと記憶している。)

これから、いよいよ山道である。烽火山は本当の山名を斧山といったが、寛永15年(1638)島原の乱に出陣した松平伊豆守信綱が、帰途長崎に立寄り、斧山の地形は四方の連絡に便なる所であるとして、長崎に火急の事変が起った際、大村、諫早、島原をはじめ港内外の台場番所に非常を報知するため、山の頂上に烽火台を作り、番所を設けて、遠見番役人を勤務させたので、山名も烽火山とよばれるになった。この山で最初の烽火があげられたのは、正保4年(1647)6月24日、当時通商禁止のゴアの南蛮船2艘が突如長崎に入港した時であったという。

延宝年間(約270年前)長崎奉行として在勤した牛込忠左エ門は、風雅の道を愛し、この山に烽火十景と題して名勝の地を設け、崎陽の文人墨客を招いて度々佳筵を開いた話は有名である。山道は七面山の方に登らず、旧道の秋葉山ぞいに登ると、昔のおもかげをしのばせる石段がある。然し現在ではこの道は使用されていないので、足よわの人は七面山道に廻られる方がよい。旧道を登ると番所の跡も、「ふでそめの松」も見られる。ふでそめの松と言っても、今では古松は枯れ、牛込奉行が「染筆松」と揮毫した石碑のみが建っている。このあたりより道は急坂となる。

頂上近くの巨岩に「滄海春雲捲簾瀾云々」と烽火山の詩が彫られている。これは文化元年
(1804)9月、長崎奉行支配勘定役として赴任した太田直次郎(蜀山人)に、長崎の豪商中村李囿が、長崎七高山の一つ一つに建てる詩文を書いてもらったものの一つであるが、他の六つの山には建てられなかったものか、現在では烽火山にのみしか見ることが出来ない。頂上にある烽火を焚いた“かま跡”は、年々風雨にさらされ、こわれかかっている。
文化時代(150年前)の古記録によると、「地より凡そ二間程高く築上げ、丸くして縁を石灰にて塗る。中の深さ凡そ三間程、三方の下地より溝道を穿ち火入口とす。唯小屋の方は無し指渡し二間四尺」と記している。

帰途、健脚の人は、雑木林をくぐりぬけて、岩窟にある秋葉大権現に火事除けのおまじないをあげ、下って、享和2年(1717)江戸の亀井戸天神を模して作ったという、石段をふみ、石橋を渡って、紅葉の名所として名高い妙相寺の境内に入る。妙相寺は晧台寺の末寺であり、中国人のあげた聯額や、木喰上人の像などがある。はじめてこの道を下る人は、迷い易いので要心していただきたい。
足に自信のない人は、頂上から左手の峰づたいに、片淵三丁目に出られるとよい。この道は、深々とした松木立の中をゆるやかに下ってゆくので、ちょっと市中の人には味えぬ静けさがある。      (筆者 当時長崎市博物館学芸員)