「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

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「心田菴」(しんでんあん)を一般公開中  長崎市片淵2丁目

「心田菴」は、江戸時代から伝わる日本庭園で、平成24年1月に増田水産株式会社より長崎市に寄贈された。紅葉の時期、日本庭園と茶室を、期間限定で一般開放されている。
入場無料。直接会場へ
日 時:11月17日(土)〜12月9日(日)の午前9時〜午後5時
場 所:心田菴(片淵2丁目18−18)  長崎大学経済学部の裏通りから上がる

長崎市文化財課作成資料(会場配布)は、次のとおり。

江戸時代からの由緒ある日本庭園と茶室 「心田菴」(しんでんあん)由来

心田菴は、何兆晋(がちょうしん)が長崎片淵郷(現在の片淵2丁目)に建設したといわれる別荘である。何兆晋は、寛永5年(1628)長崎に来た住宅唐人・何高材(がこうざい)の長男であり、万治元年(1658)に唐小通事(とうこつうじ)となった。父・高材とともに清水寺本堂(国指定重要文化財)の寄進を行ったことでも知られている。

長崎の茶道において重要視された由緒があり、天和(てんな)2年(1682)の「心田菴記」や、文化14年(1817)の「心田菴図」など、当地に関わる資料も残されている。長崎市にとって歴史的、文化的な遺産である。

名称の由来は「心田菴記」に、心田菴主である「何兆晋の心の田畑はとても広大である。まさに子が種をまき、孫が耕すごとく、心の宝である。」と記されている。
つまり、人は地位や名誉、財産などより、「心の田畑を耕すことが最も大切である」との意味から名付けられたものと察せられる。

〜心田菴略年譜〜

寛文 8年(1668) 何兆晋 唐通事を退役する
↓       このころ心田菴が建てられたと推定
天和 2年(1682) 高玄岱「心田菴記」を記す
↓       このころ黄道謙「心田菴」を描く
貞享 3年(1686) 何兆晋死去
文化14年(1817) 菅井梅関「心田菴」を描く
天保10年(1839) 中島広足「橿園文集」を書く
このなかに「松蔭舎記」があり、心田菴が紹介されている
明治39年(1906) 青木氏、心田菴を取得する。その後何度か所有者が変遷 
平成24年(2012) 1月、増田水産株式会社から長崎市に心田菴が寄贈される