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長崎外の古写真考 目録番号:1529 湖畔の宿場町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1529 湖畔の宿場町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1529 湖畔の宿場町
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはないが、他の写真などとの比較から、芦ノ湖あたりの雰囲気がうかがえる。いずれにせよかなり賑いを見せる宿場町のようである。風景写真としても美しい。

目録番号:3148 箱根宿(7)
〔画像解説〕
箱根関所跡付近から見た箱根宿。立木の背後二階屋は旅籠はふや(現在の箱根ホテル)、その右手の大きな藁葺き屋根は本陣で、順に川田本陣・駒本陣・石内本陣・天野平左衛門本陣。目録番号2945より本陣の裏庭等が芦ノ湖に突き出ている。背後の左手の山が鞍掛山で、その右側の鞍部が箱根峠。

目録番号:4677 芦ノ湖(17)
〔画像解説〕
箱根関所の跡地付近から箱根宿を望んだ写真である。写真中央に見える樹木の下の建物は、「湖崖に層楼を築く」(明治27年出版『増補箱根温泉案内』)と紹介されている「はふや」の三景楼(さんけいろう)である。高瀬四郎右衛門が経営する「はふや」は明治10年(1887)代にこの三景楼を新築し、宿泊客に対して西洋料理を出すなど先駆的な旅館として人気を集めていた。三景楼の後ろには、川田覚右衛門・駒佐五右衛門(柏屋)・石内太郎左衛門(鎌倉屋)・天野平左衛門といった本陣の大屋根が連なる。箱根宿の本陣は6軒あるが、その内の5軒が湖側にあり、芦ノ湖から遠く富士山を望むことのできる眺望の利く場所に位置していることがわかる。また、湖岸に石積みをして敷地内に裏庭を確保している。背景のなだらかな峰を越え、山を下ると三島である。

■ 確認結果

目録番号:1529「湖畔の宿場町」は、目録番号:3148「箱根宿(7)」及び目録番号:4677「芦ノ湖(17)」にあるとおり、箱根関所跡付近から見た「箱根宿」である。
タイトルなどのの調整要。

長崎外の古写真考 目録番号:1312 谷川の丸木橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1312 谷川の丸木橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1312 谷川の丸木橋
〔画像解説〕
場所を特定する手掛かりはない。谷川にかかった丸木橋をすげ笠をかぶり、裾を端折った人物が杖を頼りに渡っている。

目録番号:2996 箱根山中の木橋
〔画像解説〕
箱根山中には大小様々な河川があるが、主な川は早川と須雲川 である。この写真がどちらかは微妙であるが、川幅や石の形等から、須雲川の方ではないかと推測する。丸太を渡したような木橋は、堂ヶ島や木賀の写真で早川に架かったものなどが見られるが、この写真とは風景が異なる。

■ 確認結果

目録番号:1312「谷川の丸木橋」は、目録番号:2996「箱根山中の木橋」と同じ写真である。撮影場所は、箱根山中の「須雲川」に架かった橋ではないかと推測されている。

悠々人氏HP「旧東海道五十三次 ぶらり徒歩の旅 (19)箱根湯本〜畑宿」から、須雲川を渡る「旧東海道」図と、現在新設された須雲川自然探勝歩道にできている「仮設木橋」写真を参考のため載せる。この木橋が古写真の場所というわけではない。同氏の記録は次のとおり。

鎖雲禅寺  霊泉山鎖雲寺は早雲寺の塔頭の一つとして湯本に創建されたが、東海道の賑わいに合わせ、寛永7年(1630年)にここ須雲川村に移されたとのこと。この鎖雲寺を出ると須雲川に架かる須雲橋となる。この橋を渡ると、女転がしの坂となる。橋の左袂に「女転がし坂登り1町余」と掘られた石碑がある。
須雲川自然探勝歩道  乗馬の女性がこの坂で落馬したことから女転がしの坂と呼ばれるようになった。しかし、関東大震災の時、崩落してしまいその坂は今は無い。 須雲橋の手前を川沿いに須雲川自然探勝歩道が出来ている。舗装された県道を歩くのは面白くないので、この自然探勝歩道の道を選んだ。入口の道標に畑宿まで1700m、元箱根まで6200mと書いてあった。
須雲川渓谷  樹間より須雲川渓谷が見え、なかなか快適な歩道となっている。旧東海道はこうであったろうという感じの道である。…なおさら快適な山歩きをしている感じであった。
須雲川仮設木橋  途中で、須雲川を渡る所がある。ちゃんとした橋が出来ているわけではなく、丸太で出来た梯子状の橋が渓谷の岩と岩の上に掛けてある。手前から坂を下り、この丸木橋を渡って対岸に行くようになっている。手前に大きく「あぶない、増水時注意」との警告板がある。対岸に渡ると、急な坂を上り、県道に出る。この坂の途中が一部旧東海道になっている。
割石坂石畳道  自然歩道より県道に戻り横断すると「割石坂(わりいしさか)登り1町余」と掘られた石の道標がある。ここからまた暫くは旧街道歩きとなる。案内板に、曽我五郎が冨士の裾野に仇討ちに向かう途中、ここで腰の大刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところと書かれている。

長崎外の古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1470 東海道大橋からの富士山

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1470 東海道大橋からの富士山
〔画像解説〕
キャプションにある「大橋」に該当する地名は見あたらない。あるいは中央の橋の名称か。その橋と、対岸の二本の松ごしに、やや霞んだ富士山の遠景がとらえられている。

目録番号: 169 鈴川河合橋からの富士山(1)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1661〜1673)に架橋された。河合橋は江戸時代から高欄の板橋であったが、高欄に斜格子が入り、橋板が水平に近づく点や既に電信柱が存在するため、明治中期頃の撮影と考えられる。橋の手前には茅葺きの建物が写るが、橋と建物の間には小さな船着場があり、荷物の積み下ろしが行われていた。橋の向こうは東海道の松並木で、この先、吉原宿(よしわらしゅく)へ向かうと富士山が道の左側に見える「左富士」となる。この写真は、静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)の残したガラス乾板にあるため、水野の撮影したものである。

目録番号: 206 鈴川河合橋附近からの富士山 
〔画像解説〕
鈴川は元吉原ともいい、吉原の駅が寛永16年(1639)水害をさけて、移動したのち、鈴川駅が作られたという。富士に最も近い鉄道の駅があり、海浜には田子の浦が広がっている。

目録番号:2913 鈴川河合橋からの富士山(2)
〔画像解説〕
沼川(ぬまがわ)を渡る旧東海道に架けられた河合橋(かわいばし)の南側から富士山(ふじさん)を撮影した写真である。沼川は浮島沼(うきしまぬま)を水源とし、この橋の下流で田子の浦(たごのうら)に注ぐ。架橋部分は、元々渡船箇所であったが、寛文年間(1780〜1780)に架橋された。この写真の河合橋には「河合橋」と名前が記され、単純な二段の高欄で、橋板は緩く弧を描く上、橋のたもとに船着場の建物がないことからも目録番号169(整理番号4-20)の写真の河合橋より少し古い時期のものと考えられる。橋の向こうには東海道の松並木が見え、その間には電信柱が消された痕跡が残る。橋の上にいる人力車や大八車の人々の様子は不自然であり、モデルを使っての撮影であろう。静岡出身の写真師水野半兵衛(みずのはんべえ)は、時期を変えて河合橋を何度も撮影しているため、この写真も水野の撮影の可能性がある。

■ 確認結果

目録番号:1470「東海道大橋からの富士山」は、目録番号: 169「鈴川河合橋からの富士山(1)」などにあるとおり、この橋は「鈴川河合橋」のことだろう。
現在の写真は、「絵葉書にみる東海の富士」から。同説明は次のとおり。

河合橋は、鈴川駅(現JR吉原駅)北方200m、沼川にかかる東海道の橋。橋の上の馬車は、鈴川−大宮間を結んだ富士馬車鉄道で、明治23年開業。当時、富士郡南部唯一の交通機関だった。橋の上には、北に向かって右側に幅2フィートの線路がひかれていた。そのため、鉄道馬車は左側通行、馬力は右側通行に見える。

長崎外の古写真考 目録番号: 640 一の滝 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 640 一の滝 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 640 一の滝
〔画像解説〕
場所は不明であるが、滝壷の側に立っているのが外国人のようであるから、場所は横浜の近くではないかと思われる。

目録番号: 904 滝壺で遊ぶ子供たち
〔画像解説〕
水量豊かな山間の滝壷で十数人の子供たちがふんどし姿で水遊びをしている。手前に飛び込み台があり、回りにはカンカン帽をかぶった見物人がいる。

目録番号: 231 布引滝(6)        関連作品は12点あり
〔画像解説〕
布引滝下部を構成する雌滝とその滝壺。観瀑のための施設と人影も見える。

■ 確認結果

目録番号: 640「一の滝」及び目録番号: 904「滝壺で遊ぶ子供たち」の滝は、目録番号: 231「布引滝(6)」にあるとおり、布引渓流の下流の滝「雌滝」(めんたき 高さ19m)ではないだろうか。
布引滝は神戸の外国人居留地から近く、外国人が多く訪れた。幕末から多くの写真が撮影された。写真は布引滝「雌滝」で、橋の手前に観覧用の廊橋が架けられている。4つの有名な滝を、下流から数えると「一の滝」となるのではなかろうか。

布引の滝(ぬのびきのたき)は、神戸市中央区を流れる布引渓流(名水百選)にある4つの滝の総称。日本三大神滝のひとつ。布引滝とも表記する。名瀑として知られる古来からの景勝地である。かつて役小角が開いた滝勝寺の修験道行場として下界とは一線を画する地であった。

六甲山の麓を流れる生田川の中流(布引渓流)に位置し、上流から順に「雄滝(おんたき)」、「夫婦滝(めおとだき)」、「鼓ケ滝(つつみがだき)」、「雌滝(めんたき)」からなる。 栃木県日光市の華厳の滝、和歌山県那智勝浦町の那智の滝とともに三大神滝とされ、日本の滝百選に選ばれている。平安時代の歌集『伊勢物語』や『栄花物語』をはじめ、古くから宮廷貴族たちが和歌に詠むなど多くの紀行文や詩歌で紹介される文学作品の舞台となっている。

長崎外の古写真考 目録番号: 752 山間の宿場町

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 752 山間の宿場町

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 752 山間の宿場町
〔画像解説〕
山の高いところから山間の宿場町を見おろした風景。街道に沿って何軒もの宿屋が並んでいる。右手には川が流れ、川にはいくつもの岩が露出している。

目録番号:4256 木賀温泉(8)
〔画像解説〕
明治22年(1889)開通の宮ノ下・宮城野間新道が見えないので、それ以前の木賀温泉である。奥の鳥居の位置が薬師堂。手前が亀屋の建物群で、その右端が神代楼。須沢を挟んで手前が松坂屋。左端の白壁が見えるのが松坂屋の眺海楼。一番手前が仙石屋。右に早川、背後に箱根外輪山明神ヶ岳が見える。

■ 確認結果

目録番号: 752「山間の宿場町」は、目録番号:4256「木賀温泉(8)」にあるとおり、神奈川県足柄下郡箱根町のほぼ中央部にある「木賀温泉」である。
宮ノ下、小涌谷などとともに箱根火山中央火口丘神山東斜面の有力温泉場の一つ。泉質は単純泉また弱食塩泉。歴史が古く、江戸中期(元禄時代)には「箱根七湯」の一つ(木賀湯)にあげられ、将軍家への献上湯とされた。中風(ちゅうぶ)に効くことで知られる。小田原駅からバス30分。(Yahoo!百科事典)

長崎外の古写真考 目録番号:3095 神社山門

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3095 神社山門

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3095 神社山門

目録番号:6558 京都上加茂

■ 確認結果

目録番号:3095「神社山門」は、目録番号:6558「京都上加茂」にあるとおり、京都市北区上賀茂本山町にある上加茂神社の楼門である。楼門は1628年建造。
京都の社寺HPによる説明は次のとおり。現在の写真も同HPから。

上加茂神社

上賀茂神社は下鴨神社と並んで京都でもっとも古い神社の一つである。伝説では神武天皇の時代に加茂山に祭神が降臨したと言われ社殿の前にある円錐型の立砂はその山の形を表したものである。上賀茂神社は雷神を祭ることから厄除けの神、五穀豊穣の神としても信仰され、祭礼にもその性格が表れている。五月五日の競馬神事は馬の競走でその年の米作を占うもので、平安時代からの伝統行事である。最大の行事は京都三大祭の一つである葵祭りである。葵祭りの名称は参列する人の衣冠や牛車を葵の葉で飾ることにちなむ。現在も平安時代の風俗を再現した行列が京都御所から下鴨神社を経て上賀茂神社まで練歩く。

長崎外の古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5911 五重塔と池

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5911 五重塔と池

目録番号: 160 浅草寺五重塔と鐘楼(1)
〔画像解説〕
弁天池奥から北に向かって五重塔と鐘楼を撮す。整理番号4-10の位置より引いて、右に振ったもの。五重塔の左隣に本堂の屋根、右手前に経蔵が見える。芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」でも有名。

目録番号:4440 浅草寺時の鐘と五重塔(2)
〔画像解説〕
弁天山の時の鐘から五重塔を望む。江戸期には庶民は時計を持たなかったから時の鐘を聞いて時刻を知った。まず捨て鐘を三つ叩いたとのこと。早朝九つ鳴れば三つを引いて明六つ(現午前6時頃)ということだった。内田九一が明治5〜6年(1872〜3)に撮影した写真だが、この写真は後に手彩色され横浜写真として販売されたものである。

■ 確認結果

目録番号:5911「五重塔と池」は、目録番号: 160「浅草寺五重塔と鐘楼(1)」及び目録番号:4440「浅草寺時の鐘と五重塔(2)」にあるとおり、まったく同じ作品て゜、「浅草寺の五重塔と鐘楼」を撮影している。それぞれのタイトルを調整要。撮影者が「日下部金兵衛」や「内田九一」となっているのも調査要。

長崎の古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4718 峠の人力車(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

目録番号:2514 峠の人力車(1) 
〔画像解説〕
和服姿の女性が2人で人力車に乗り、その後方路上に傘をさした2人の和服の女性が立っている。梶棒を持つ車夫は笠を被り印半纏、膝上股引、地下足袋をはいている。背景は左崖面、右木立が並ぶ路上で撮影している。

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

■ 確認結果

目録番号:4718「峠の人力車(2)」及び目録番号:2514「峠の人力車(1)」とも、目録番号:1365「茂木街道(2)」にあるとおり、これは田上峠から茂木へ河平川沿いに下る茂木街道の明治新道(旧県道)の光景であろう。
この項は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1879

長崎の古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)

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         長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3870 長崎の墓地(3)
 
 HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3870 長崎の墓地(3)
〔画像解説〕
   筑後町にある本蓮寺の墓地である。本蓮寺はもとサン・ラザロ病院やサン・ジョアン・バプチスタ教会があった場所で、それが破却された後、元和6年(1620)に大村本経寺の僧日恵が開創した日蓮宗の寺院である。境内は宝永4年(1704)に拡充整備されて大伽藍を形成するようになった。画面中央上の重層入母屋造りの建物が本堂で、その左手は位牌堂、右手の大きな木の手前に木部を赤く塗られた流造本殿形式の建物は清正公堂(番神堂ともいう)の神殿で、その右は廊下と拝殿である。その上に屋根が連なってみえるのは庫裏・方丈・客殿などであろう。長崎市史によると、清正公堂神殿は明治23年(1890)の建て替えで入母屋造りの仏堂形式に変更されたというので、撮影時期は当然それよりも前である。墓前に躓いて参拝する人物はまだ髷を結っているので、むしろ明治初年、上野彦馬の撮影であろうか。本蓮寺は原爆で全壊し、以後順次伽藍を復興しつつある。

 ”文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

 
 目録番号:3870「長崎の墓地(3)」は、超高精細画像の画像解説にあるとおり、長崎市筑後町にある「本蓮寺の墓地」である。タイトルの変更要?。

長崎外の古写真考 目録番号:3018 神社(8)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3018 神社(8)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3018 神社(8)

目録番号:3103 芝増上寺境内(1)
〔画像解説〕
“文昭院霊廟奥院拝殿に通じる石段と唐門を,仕切門をくぐった位置から撮影したものである。左手に並ぶ灯篭は銅製で、大名家から寄進されたものである。銅灯篭には「文昭院尊前正徳二年十月二十四日」の刻銘がある。この日は、家宣の亡くなった日である。”

■ 確認結果

目録番号:3018「神社(8)」は、目録番号:3103「芝増上寺境内(1)」にあるとおり、「芝増上寺境内」であろう。