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長崎外の古写真考 目録番号:2990 滝(6)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2990 滝(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2990 滝(6)

目録番号: 491 湯元温泉湯滝
〔画像解説〕
湯の湖からの水の落口に広い岩盤を末広がりに流れ下る湯滝がある。 湯滝が湯川となって戦場が原を流れ龍頭の滝となって中禅寺湖に落ちる。 滝壷近くの中央の立木はまだ小さい。 昭和末大きくなったこの立木は洪水で流失した。

■ 確認結果

目録番号:2990「滝(6)」は、目録番号: 491「湯元温泉湯滝」にあるとおり、「湯本温泉湯滝」(「湯本」が正)であろう。湯滝は奥日光、湯ノ湖から流れ落ちる滝で、高さ50メートル、幅20メートル。華厳の滝、竜頭の滝と並び奥日光三名瀑のひとつである。
現在の写真は、ギャメロンさんのブログ「ぶら〜り日記」から。

長崎外の古写真考 目録番号:2364 五重塔

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:2364 五重塔 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:2364 五重塔

目録番号:1780 仁和寺五重塔
〔画像解説〕
仁和寺五重塔を塔西側から東に見上げる。辺りには小高い松の木と、御室桜が植えられている。手前の左右に続く参道は仁和寺の仁王門と金堂をつなぐ。仁和寺五重塔は寛永14年(1637)に徳川家光が創建した。各方約5.5m、高さ33mの朱塗の五層塔婆である。

■ 確認結果

目録番号:2364「五重塔」は、目録番号:1780「仁和寺五重塔」にあるとおり、京都市市右京区御室大内にある仁和寺の五重塔でないだろうか
真言宗御室(おむろ)派の総本山、御室御所とも言われている。仁和寺五重塔(重要文化財、江戸時代初期 寛永14年 1637年再建、本瓦葺、高さ32.7m)
復古式五重塔の代表作。塔は、各層の屋根の大きさがほぼ同じという江戸期の特徴を示している。現在の写真は、京都の塔から。

長崎外の古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1106 蓮池(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1106 蓮池(2)
〔画像解説〕
本コレクション中に蓮池の写真が多数ある。整理番号15-49「不忍池(2)」などとの比較から、本写真も不忍池と思われる。全面の大きな蓮の花と遠景の木立の対比によって、池の広がりが強調されている。

目録番号:2253 鶴岡八幡宮の蓮池(5) ほか
〔画像解説〕
” №54B. LOTUS FLOWERS AT KAMAKURA.’とある。向かって右には木の鳥居があり、その左側の赤い建物は若宮で、上にあるのは上宮廻廊(かいろう)であろう。ところで、明治期には池の周囲に馬場があったというが、この写真では判然としない。「玉村康三郎作品集」所収。撮影年代未詳。

■ 確認結果

目録番号:1106「蓮池(2)」は、目録番号:2253「鶴岡八幡宮の蓮池(5)」ほかのとおり、「鶴岡八幡宮の蓮池」だろう。

長崎外の古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1149 神社(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1149 神社(3)
〔画像解説〕
神社の社殿配置を全体的に捉えた写真であるが、神社の特定は未詳である。

目録番号:1540 生田神社(3)
〔画像解説〕
湊川神社の写真である。湊川(みなとがわ)神社はJR神戸駅の北に位置し、建武3年(延元元年[1336])5月湊川の戦で足利軍に敗れ、この地で自刃した楠木正成(くすのきまさしげ)を祀る。神社としての歴史は、慶応4年(1868)4月に政府が社壇造営を決定したことに始まる。明治5年(1872)4月に社号は湊川神社、社格は別格官幣社と決まり、5月には社殿が完成。写真は明治10年頃から20年代前半の撮影であろう。手前の建物は拝殿、奥は本社である。写真には写っていないが、元禄5年(1692)に徳川光圀(みつくに)が建てた「鳴呼忠臣楠子之墓」(ああちゅうしんなんしのはか)の石碑などが現存する。神社北方の丘陵には、後に実業家大倉喜八郎(おおくらきはちろう)が別荘を営んだのにちなんで、明治44年(1911)大倉山公園が開園される。その右手の宇治野山には、明治29年(1896)兵庫県立神戸測候所が創設され、大正9年(1920)に日本最初の海洋気象台が発足する。

■ 確認結果

目録番号:1149「神社(3)」は、目録番号:1540「生田神社(3)」と同じ神社を撮影した写真である。目録番号:1540「生田神社(3)」は、タイトルが「生田神社」となっているが、画像解説では「湊川神社の写真である」とし、解説している。

湊川神社(みなとがわじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区にある楠木正成を祭る神社。地元では親しみを込めて「楠公(なんこう)さん」と呼ばれている。建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社である。
生田神社(いくたじんじゃ)も、同じ神戸市中央区にある神社だが、古写真の中央建物は、当時の「神能殿」のようであり「湊川神社」が正しいと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1456 不二沼からの富士山(1)  関連作品 目録番号:1465 同(2)
〔画像解説〕
写真左下に書き込まれている「不二沼」という地名は現実には見あたらないが、当て字だろうか。

目録番号:2245 東海道沼川からの富士山(1)
〔画像解説〕
富士市柏原新田付近の浮島沼(沼川の上流)から北方の山頂に雪の積もった富士山を遠望したもの。沼の水は沼川を通り、田子ノ浦に注ぐ。浮島沼の周囲は浮島ケ原の湿地帯であり、川舟で移動するため、多くの水路網が発達していた。帆を張った川舟には男性が1人が乗る。

■ 確認結果

静岡市HPに、歌川広重が描いた「五十三次名所図会」の作品として、”吉原 不二沼浮嶋が原”が出てくる。不二沼とは「浮嶋が原」ではないだろうか。
東海道五十三次今昔物語ー吉原宿ーHPの中に、八代市ちくたく凡様の寄稿として、次の文がある。

吉原宿から三里半余り、原宿(沼津市原)に着きます。目立たない小さな宿場ですが、白隠禅師が生まれた地で、住職を勤めた松蔭寺があり、ここにも禅師の墓があります。境内のすり鉢松も見ものです。吉原から愛鷹山麓に広がる浮嶋が原湿地帯(富士市・沼津市にまたがる)と富士山を左に見ながらの旅は爽快です。鴨長明が著した『東関紀行』でもこのあたりの風景の美しさは絶賛されています。(今は住宅が立て込んで見えにくくなっています)

長崎外の古写真考 目録番号:3096 風景

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3096 風景

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:3096 風景

目録番号:1387 三井寺と長等神社
〔画像解説〕
三井寺(園城寺)南側に接する長等神社である。飛鳥時代に、天智天皇が建速素戔鳴尊(タケハヤスサノオノミコト)に勧請して長等山岩倉谷に祀ったのが始まりとされ、また貞観2年(860)、比叡山の高僧円珍が、大山昨命(オオヤマクイノミコト)を合祀して園城寺の鎮守としたとされる

■ 確認結果

目録番号:3096「風景」は、目録番号:1387「三井寺と長等神社」の右上高台の風景である。したがって大津市「三井寺観音堂」を長等神社側から撮影していると思われる。
神社のすぐ横から三井寺へ登っていく長い石段が続いている。駆け上がれるほど短くもない。上がりきったところが、三井寺観音堂。今は駐車場の関係で仁王門から三井寺を訪れる人が多いが、かつてはこちらから参拝する方が主だったらしい。
現在の写真は、大津絵blog 雪月鬼から。

長崎外の古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1285 青銅の仏像

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1285 青銅の仏像
〔画像解説〕
“写真台紙に “”Bronze Emage and grave stones “”とある。雨ざらしの青銅阿弥陀仏は温和な藤原仏を思わせる。左、縁側に腰掛け仏像を見上げている髷を着けた男は、墓守であろうか。右下に “”KRODANI “”とあるが未詳。”

■ 確認結果

目録番号:1285「青銅の仏像」は、写真右下に “”KRODANI “”とあるなら、京都市左京区黒谷町にある浄土宗の寺院「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」でないだろうか。山号は紫雲山。本尊は阿弥陀如来。通称寺名をくろ谷さん(くろたにさん)と呼ぶ。知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の大本山の1つである。
現在の写真は、Kimono act.Com 桜巡りから。境内に同じような造りの建物があるようだ。

長崎外の古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1237 谷川(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:1237 谷川(1)
〔画像解説〕
場所は特定できない。かなり大きな谷川である。山あいをゆったり流れる豊かな水の様子が捉えられている。

目録番号:5047 保津峡を下る屋形船(5)   関連作品 目録番号:5557 保津川(9)
〔画像解説〕
保津川を航行する屋形船を上流北岸から撮影する。右山腹に京都鉄道軌道とトンネル口が見える。保津川下りとは亀岡保津町から嵐山渡月橋上流までの行程約16kmの船による川下りである。近世には丹波亀岡から京都へ木材や物資を輸送した舟運が、明治後期に京都鉄道の開通により衰え、行楽化した。写真は京都鉄道嵯峨・園部間が開通した1899年8月以後の撮影。

目録番号:1239 谷川(2)
〔画像解説〕
大きな岩が点在し、それらに当たり砕けながら流れる水の様子が捉えられている。露光時間が長いので砕ける水を瞬間的に写すことは出来ないが、流れの速さは感じ取れる。遠景の橋を人が1人渡っている。

目録番号:1690 保津川(8)

■ 確認結果

目録番号:1237「谷川(1)」の谷川奥の山の形は、目録番号:5047「保津峡を下る屋形船(5)」と同じである。したがって場所は京都の「保津川」であろう。

目録番号:1239「谷川(2)」も同じように見ると、目録番号:1690「保津川(8)」の山と似ている。これも京都の「保津川」ではないだろうか。

長崎学さるく”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”  平成22年3月

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長崎学さるく”藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり”  平成22年3月

平成22年3月14日(日)晴。長崎市南部八郎岳山系寺岳の裏側、橘湾に面する藤田尾・千々古道と自然史跡めぐり。途中にある石鍋製作所跡、領界目印石、金鉱跡、大ツバキ、石橋架橋碑を見学する。参加30人。
為石バス停9時30分発ー白川稲荷神社ー石鍋製作所跡ー藤田尾古道ー飛瀬領界目印石ー金山金鉱跡ー藤田尾ー大ツバキー千々古道ー千々14時5分着。

三和中学校横の坂を上がり寺岳登山道の途中にある白川稲荷神社へ登る。石鍋製作所跡はこの裏手にある。為石海岸の浜川橋近くまで行って藤田尾古道に入る。昔の道が2kmほど残っている。寺岳を左上に見ながら藤田尾近くで県道34号線と合い、県道を少し戻って飛瀬海岸に降りる。寺岳から下ったこの尾根が御領(茂木村藤田尾)と佐賀藩領(為石村)の境。天保8年(1837)領界争いを解決した目印石(無刻)が2本残っている。

飛瀬よりそのまま海岸の岩場伝いに20分ほど歩いて、字金山の金鉱跡まで行く。海岸の黄色がかった層の岩場の中段に、ポッカリと穴が空いている。坑口は2か所。中で通じ、広場となって5mほど奥へ入れる。金脈に賭けたはかない夢。採鉱は思わしくなかった。
藤田尾へ上がり、長崎市指定天然記念物の大ツバキを見学。樹齢約300年、根回り約2.8m。市内一の大木である。海岸が見える所にもう1本の大木がある。花はまだ付いていた。下の海岸近くの川口にあるのは、かつての石橋架橋記念碑。ゲートボール場で昼食

午後はゲートボール場前から千々古道へ入る。登って行くと、旧県道の道へ出る。桃ハウスがあり、天草灘を望む枇杷畑が多い中の道から、眼下にニッ岳崎が見える。竹林内のカーブが連続する道を下ると、千々先のきれいな浜と岩場に着く。大潮でワカメ採りが多かった。集落まで歩いて、千々14時45分発のバスに十分間に合った。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/23968331.html
次回の学さるくは、4月11日(日)に”三重樫山などの藩境石とゆうこうの古木めぐり”。10時三重バス停集合。

長崎外の古写真考 目録番号: 146 久形橋

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 146 久形橋 

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 146 久形橋
〔画像解説〕
詳細位置不明。神戸市街北側に広がる丘陵山地付近の風景と思われる。

目録番号:1269 丘陵地より神戸港の遠景
〔画像解説〕
布引(ぬのびき)付近(現在のJR新幹線・新神戸駅の北側)から南方の神戸港を望む。中央を蛇行して海に注ぐのが生田川(いくたがわ)。この川の右(西)側に居留地がある。右奥には湊川(みなとがわ)河口の出洲、その向こうに和田岬がうっすらと見える。居留地の右手前の森は三宮神社。神社と居留地の間を旧西国街道が通り、3年あまり前の慶応4年1月11日(1868年2月4日)新政権の命を受けて西宮警備に向かう備前岡山藩兵と、外国人が衝突した「神戸事件」の舞台となった。生田川は写真のようにふだんは水量が少ないが、長雨が続くと氾濫して大きな被害をもたらしたため、明治4年(1871)に流路が付け替えられた。左手前の隅に付け替え工事中の新生田川が見えるので、明治4年(1871)頃の撮影であろう。この後、旧川筋は加納宗七(かのうそうしち)らによって埋め立てられて「加納町」が生まれる。”The Far East”1871年11月1日号によく似た写真がある。

■ 確認結果

神戸市文書館所蔵「又新日報」によると、検索画面で「明治24年 … 久形橋竣工式(昨日挙行につき) 葺合村生田川久形橋」と記録が出てくるが、正確な年月や橋の場所は不明。明治4年(1871)の生田川流路の付け替えの様子は、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」にある。
目録番号: 146「久形橋」の画像解説は、「詳細位置不明」とあるが、目録番号:1269「丘陵地より神戸港の遠景」が、場所的に関連性のある作品だから、解説の参考となろう。

目録番号: 146「久形橋」の撮影者は、「日下部金兵衛」ではない。金子隆一氏研究紀要 ”内田九一の「西国・九州巡幸写真」の位置””(Adobe PDF)に、「図52 神戸より布引へ至ルノ途上」として、同じ写真(東京都写真美術館などの所蔵)がある。
明治5年(1872)、明治天皇の巡幸に随行した「内田九一」の作品である。帰路7月、神戸に寄って撮影している。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による「生田川」と「葺合区」の解説は次のとおり。

生田川
生田川(いくたがわ)は、兵庫県神戸市を流れる二級水系の本流。六甲山系の摩耶山北側の兵庫県神戸市灘区六甲山町付近に源を発し南流。大阪湾の神戸港に注ぐ。
…天井川かつ流域が平地であるがゆえに、水害が発生するとその被害は広範囲にわたる大きなものとなっていた。幕末の開国で、京都に近い港として神戸(当時の「神戸」は、現在の神戸市中央区のフラワーロード以西、生田裔神八社の点在するエリアを指した。同じく明治時代に付け替え工事のなされる前の旧湊川が「神戸」の西の境で、その西が「兵庫」であった。)の開港が決まったが、開港にあわせて整備することとされたが外国人居留地(神戸外国人居留地)が、その位置から、生田川の災害が発生した場合に大きな被害となることが予想された。早急なる神戸の開港・神戸外国人居留地の整備が求められたことが追い風となり、加納宗七が現在の位置に生田川を付け替える工事をし、1871年に完了した。そのため現在の生田川を新生田川と呼ぶこともある。

旧生田川の河川敷は加納宗七に払い下げられ、これが同地域の地名「加納町」の由来になっている。なお、加納町歩道橋の一角には、ここにもとの生田川があったことを示す石碑が建てられている。さらに、この付け替え工事が終わり、天井川たる旧生田川が消えたことで、以後、神戸の市街地は、明治時代のうちに、それまでは田畑や林が広範囲を占めていた東側の旧菟原郡部へ急速に拡大していった。特に、旧菟原郡のなかで、もともとの「神戸」のあった旧八部郡にもっとも近い葺合村は、1889年に神戸市が誕生した当初から神戸市となっている。
…上流には布引の滝や、神戸ウォーターの採取地があり、山陽新幹線の新神戸駅がまたいでいる。河川敷にある生田川公園は桜の名所になっている。

葺合区
葺合区(ふきあいく)は、かつて兵庫県神戸市に存在した区。現在の中央区東部に当たる。旧生田川、すなわちフラワーロードを境に東側が旧葺合区の区域である。ただし、ポートアイランドは全域が生田区に属していた。
地名としての「葺合区」は1896年(明治29年)、神戸市に6区が設置された時に始まるが、当時は行政区ではなく、地域を表す呼称の扱いだった。1931年(昭和6年)、区域はそのままに行政区となる。1980年(昭和55年)に区域再編がなされ、葺合区は生田区と統合され中央区となり、消滅した。ちなみに神戸市中央区生田町は生田区ではなく葺合区にあった。