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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年4月

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長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備  2012年4月

2012年4月8日(日)快晴。長崎半島東回りみさき道の踏査と草刈り整備。参加9人。みさき道歩会の例会。パソコン修理のため報告が遅れた。
三和行政センター前広場9:30発ーどんどん坂ー為石大川橋10:52ー堀首ー川原住吉神社
11:21ー宮崎橋11:38−三和記念公園(11:50着 昼食 12:20発)ー脇岬村路標石地点
12:35−石橋跡13:45−川原木場手前15:28−海星高グランドー川原公園前バス停
16:29着(徒歩距離 約9Km)

長崎半島東回りみさき道も考えられる。三和公民館展示ホール奥の中庭に1本の標石が残る。「東 脇岬」「南 明治三十二年十一月建」「西 高濱」「北 川原村字池田」と刻む。近隣の集落では年中行事で観音参りが行われていた。主にその道であり、昔から集落を結ぶ道はあった。もともと建っていた場所は、川原小池上の脇岬村路と高浜村路との分岐である。 
詳細なルート図は後日、載せるが、今回はこの脇岬村路の検証。踏査と草刈り整備をまず手始めに栄上から川原木場まで行なった。

栄上からすぐ大川を渡り対岸を行く。淵の絶壁はどんどん坂で高巻き。三和中・サントピア前を通り、為石の大川橋へ。ここは木橋か渡し舟が考えられる。堀首を越し川原本村へ。住吉神社はルートではないが、大クス見学のため立ち寄った。蛭子崎は丘を越し、宮崎橋に出る。宮崎川はモータレ川という。橋下の祠の所へ飛び石で渡ったようだ。
宮崎の町中から現在の三和記念公園まで行く。川原小池を埋立てたのが公園である。東屋で昼食。

アパート側から高台へ登る。この上の分岐に「東 脇岬」「西 高濱」の標石は建っていた。川原大池にそそぐ池田川の鉄工所まで下る。しばらく行って右奥の杉林に入ると、洪水で流された石橋跡がある。これから県道へ上がり、山中へ入る。シダが密生し、ルート探しと草刈りに苦労した。川原木場手前まで来て3時半。きょうの踏査ははここで打ち止め。
海星高グランドの方へ寄り道して回ると、ゆうゆうランドの馬の散歩と出会った。川原公園前バス停で解散。
宮さんの参加記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29488439.html

伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

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伊王島町ふるさと資料室  長崎市伊王島町

長崎市伊王島行政センターの右に伊王島開発総合センターがある。「伊王島町ふるさと資料室」は、この建物の2階。同町の貴重な資料を展示しているが、あまり広報されていないので、展示内容を写真により紹介する。
HP上で見ると、次の記事しか見当たらない。長崎さるくコースに入っていない。行政センターの所管で、土・日曜など休館?

2001年4月9日、長崎県西彼伊王島町が整備を進めていた「町ふるさと資料室」が同町開発総合センター2階にオープンした。1941年から約30年間栄えた伊王島炭鉱の歴史をまとめ、現存する炭鉱に関する資料や島の生活道具の散逸防止と継承を目的に、同センター図書室を改修した。

長崎名勝図絵の風景  39  阿蘭陀船難船(難船挽揚図)

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長崎名勝図絵の風景  39  阿蘭陀船難船(難船挽揚図)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
前の記事「木鉢浦図」も参照。  https://misakimichi.com/archives/3178

2007学さるくの江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年
(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

234  阿蘭陀船難船  (文献叢書 210〜215頁  所在地 長崎市木鉢町)

寛永10年(1798)の冬の事であった。その年の夏、例年のように入津、商売も無事に済ませ、出帆しょうとしていたところ、10月17日夜、急に西北の風が烈しくなり、高鉾島の瀬方に吹付けられ、帆柱は折れ、船底も破れたとの報告があったので、奉行所から役人が多数出向き、木鉢浦に挽き入れたが、遂に沈没してしまった。それで浜辺に仮小屋を建て、乗組の阿蘭陀人を収容すると共に、荷物や銅等を、水泳の達者な者に潜り取らせ、更に沈船の浮上について、考えのある者は申出るよう、触れを出された。それでいろいろ工夫をする者もあったが、何分大きな船の沈没であるから、容易に浮上させることもできず、空しく冬も過ぎた。ところが周防国都濃郡串ガ浜の船頭で、村井喜右衛門という者がいて、何か考えがあるらしいということを、阿蘭陀人がどこからか聞いてきて、官の許可を得、この者にさせることとなった。喜右衛門は翌11年の正月16日から着手、29日には浮船にして、2月3日に木鉢浦の仮屋前の浜辺へ引揚げた。阿蘭陀人の喜びは一方ならず、以後修理も進み、帆柱も立って、5月25日沖に向って走り去ったが、洋中で再び逆風に逢い、難船したので、又もや乗り戻して6月16日入津し、再度修復して9月20日、その年入津の船と一緒に帰国した。

長崎名勝図絵の風景  38  阿蘭陀船難船(木鉢浦図)

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長崎名勝図絵の風景  38  阿蘭陀船難船(木鉢浦図)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
次の記事「難船挽揚之図」も参照。 https://misakimichi.com/archives/3179

2007学さるくの江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。
4 木鉢浦
奥深い入江になっており、嵐の時に避難泊まりになっていた。寛政10年(1798)にエリザ号が暴風で沈没し、防州櫛ヶ浜の村井喜右衛門が智恵を凝らして引き上げたのも、享和元年
(1801)にアンボン(アンボイナ)の船(実はポルトガル船)が五島に漂着し、曳航されて停泊したのもこの木鉢浦であった。
なお、海岸には火薬庫(土生田煙硝蔵)や石銭番所が置かれていた。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

234  阿蘭陀船難船  (文献叢書 210〜215頁  所在地 長崎市木鉢町)

寛永10年(1798)の冬の事であった。その年の夏、例年のように入津、商売も無事に済ませ、出帆しょうとしていたところ、10月17日夜、急に西北の風が烈しくなり、高鉾島の瀬方に吹付けられ、帆柱は折れ、船底も破れたとの報告があったので、奉行所から役人が多数出向き、木鉢浦に挽き入れたが、遂に沈没してしまった。それで浜辺に仮小屋を建て、乗組の阿蘭陀人を収容すると共に、荷物や銅等を、水泳の達者な者に潜り取らせ、更に沈船の浮上について、考えのある者は申出るよう、触れを出された。それでいろいろ工夫をする者もあったが、何分大きな船の沈没であるから、容易に浮上させることもできず、空しく冬も過ぎた。ところが周防国都濃郡串ガ浜の船頭で、村井喜右衛門という者がいて、何か考えがあるらしいということを、阿蘭陀人がどこからか聞いてきて、官の許可を得、この者にさせることとなった。喜右衛門は翌11年の正月16日から着手、29日には浮船にして、2月3日に木鉢浦の仮屋前の浜辺へ引揚げた。阿蘭陀人の喜びは一方ならず、以後修理も進み、帆柱も立って、5月25日沖に向って走り去ったが、洋中で再び逆風に逢い、難船したので、又もや乗り戻して6月16日入津し、再度修復して9月20日、その年入津の船と一緒に帰国した。

長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

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長崎名勝図絵の風景  37  神崎大明神(神崎神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

230  神崎大明神  (文献叢書 204〜208頁  所在地 長崎市西泊町)

天門峯の神埼にある。由緒は古い神社であるが、永年荒廃していたのを、正保4年(1647)長崎の内田治郎助宗貞という者が、旧記を調べ旧址を尋ねて、船魂猿田彦大神、住吉大明神を祀る小祠をここに建てた。当社の縁起を調べてみると、神功皇后が新羅征伐のために、… そしてこの深江浦 長崎の古名 に来られ、… 神功皇后の船路の、いわれある跡どころも、歳月の経過と、今一つは南蛮人横行のために、跡型もなくなり、神の名さえ忘れ去られたが、… こうして正保4年(1647)の夏、亜媽港(あまかわ)の黒船の侵入があったので、近国諸藩から出兵し、大綱小綱竹木を集めて、女神と雄神の間に船橋を渡した。内田宗貞もこの仕事に参加したが、…白狐伝説が続く… 宗貞はかねて、古い社祠のあったという場所、聞き伝えていたので、早速幣帛を捧げてお祭りをし、その年の秋八月十一日に社殿を造立した。これがこの神崎社の再興である。… 宗貞の三代内田寛求が、元禄11年(1698)京都吉田家の免許を得て、唯一神道の神社となった。
発 句  神埼や波の卯の花白幣   長崎奉行牛込忠左衛門藤原勝登

長崎名勝図絵の風景  36  西泊御番所・戸町御番所

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長崎名勝図絵の風景  36  西泊御番所・戸町御番所

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
戸町番所跡は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/5437

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

221  西泊御番所  (文献叢書 197〜203頁  所在地 長崎市西泊町)

長崎の西南20町ばかり、湊の右手の西泊郷にある。寛永18年(1641)筑前城主松平右衛門佐忠光が、上意を蒙って建てられた。外周220間、坪数約3900坪。山の地形を利用して、堡をなしている。

222  戸町御番所  (文献叢書 197〜202頁  所在地 長崎市国分町)

長崎の南20余町、湊の左手戸町浦にある。寛永18年(1641)幕命により、肥前城主*鍋島忠直が建てられた。〔*長崎実録大成は、西泊戸町両番所共、筑前侯が建てたとし、多くはこの説をとる。〕ここは西泊に対して、東泊とも呼ぶ。東西両御番所が相対して、魚鱗鶴翼の陣のようである。白壁が星のように点々と連らなり、鎗刀は雲のように集まり、その他の兵器、船具、火砲等もあって異船の侵攻に備えている。筑前肥前の二藩が、隔年交替でこれに当り、兵士数百人が詰める。俗に千人番所という。
東泊というのは、小菅浦の南、湊の出口で、西泊と相対する。戸町村に民家五六十戸がある。漁家が芦葦の中に網を干している。静かなたたづまいも又、一景である。熊山(チヂヤマともいう)に発する川を戸町川といい、ここで海に注ぐ。附近は温石(オンジヤク)を産する。…

長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

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長崎名勝図絵の風景  35  三 投 石(身投石)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1590

岩瀬道町に三菱重工長崎造船所本社ビルと、迎賓館占勝閣がある。この岬の先端に「三投石」(身投石)があったが、今はドックとなって跡をとどめない。三菱構内は立入禁止のため、現在の写真は正門前などと、船上から写している。
豪商伊藤小左衛門の抜荷が発覚し、一門親族とも処刑された。彼の寵愛を受けていた丸山花月の遊女定家は、その悲しみから岬から身を投げた。後に、その岬を「身投岩」と呼ぶようになった。悟真寺には、二人を葬ったといわれる比翼塚が残っている。(「長船よもやま話」)

HP「広助さんの丸山歴史散歩」では次のとおり。
○金島枯骨合葬之処(こがねじま-ここつ-がっそうのところ)
/比翼塚(ひよくづか)【悟眞寺境内】
言い伝えによると、博多出身の豪商:伊藤小左衛門は五島町に屋敷を構えたいへんな贅を尽くした生活を送っていましたが、よく思わない者から密貿易の罪に問われ他の28人と共に磔刑により死罪となります。そして小左衛門を慕っていた丸山の遊女:定家も後を追って身を投げます。その後、たまたま稲佐瀬ノ脇にあった金島(コガネジマ)で穴を掘っていたところ善之助という男が人骨を拾い、その夜の夢枕で怪しげな男女がもう一つあると告げられたため、あわてて掘ってみるとやはり骨を見つけます。善之助は早速、悟眞寺の境内に丁重に葬ったといい、現在、悟眞寺の境内には「金島枯骨合葬之処」という碑と、そのことを刻した「金島枯骨誌」が建っています。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

219  三 投 石  (文献叢書 196〜201頁  所在地 長崎市岩瀬道町)

長崎の西、石背洞にある。高い岩、低い岩が、崖に岸に、或いは重なり、或いは入り交って、変ったながめである。剣戟とか折石とも称するが、普通は三投石、転じて身投石と呼んでいる。昔一婦人がここから身を投げて死んだという 湊内第一の景勝である。夏ともなると、屋形船を浮かべて納涼する者が多いが、この近くに来ると、拳を打ったり、酒さかなに唄三味線と、賑やかなことである。この岩の下、水の深いところに、大亀が棲んでいて、時たも浮上って頭を出すが、その首は馬の頭のようで、今でも見た者がいるという。

長崎名勝図絵の風景  34  唐船の千燈籠

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長崎名勝図絵の風景  34  唐船の千燈籠

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

名勝図絵の右下に描かれているのは、新地蔵所の広馬場側となる南門の石橋である。現在の大徳寺公園から見た、長崎港内に浮ぶ唐船の千燈籠の風景であろう。
この項は本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3154
南門の石橋は、新版「写真集 甦る幕末 ライデン大学写真コレクションより」朝日新聞社1987年発行110頁の拡大。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

218  唐船の千燈籠  (文献叢書 196〜199頁  所在地 長崎市新地町ほか)

長崎の湊の美観の一つである。浮船があれば、これをする。唐船が入港して、荷揚げを終れば、空船となり、梅香崎に引いて行って、繋いで置く。入港してまがなく、荷揚げが終らないか、或いは交易が終って、代り荷を積み、梅香崎を離れて、港中で出航指令を待っている船。これを浮船という。その日は三月七月九月の廿三日を当日とし、廿二日から始める。これは天后祭の日でもある。故に唐三箇寺ではこの日、臨番で焔口供 … をする。船中には、三つの帆柱に掛渡した帆綱に、無数の燈籠をすき間なく吊るし、点灯するので、昼のように明るくなり、海面に燈影を映じて、誠に美しい景観である。

長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

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長崎名勝図絵の風景  33  恵美酒社(恵美須神社)

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

215  釛山恵美酒社  (文献叢書 193〜195頁  所在地 長崎市飽の浦町)

稲佐の瀬の脇村にある。昔は木鉢浦にあったという。今の恵美酒町で、或る人が、その家庭内に祭っていたものが起こりで、町名もそのために恵美酒町となったといわれる。いつの頃か、小柳五郎左衛門という者が、官に願って、瀬の脇 この村の前に大きな瀬が二つあったので、瀬の脇村という の岸を穿ち、小祠を設けて祭っていた。享保元年(1716)周防国徳山の柳木内膳という神官が、これを譲り受けて、五ヶ所 京、江戸、大阪、堺、長崎 の商人等の寄進を受けて、海岸を削り、海を埋立てて、立派な神社を建て、吉田家〔吉田神道の宗家〕の免許を得て、諏方社の末社となった。本社、渡殿、幣社、拝殿等があり、稲荷社、龍神社、人磨社の三つの末社がある。

長崎名勝図絵の風景  32  悟 真 寺

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長崎名勝図絵の風景  32  悟 真 寺

「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)

本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
淵神社の境内は、稲佐山山頂と結ぶ長崎ロープウェイの発着駅となっている。福山雅治は、ここの宝珠幼稚園に通った。

長崎名勝図絵 巻之三   西邊之部

212  終南山光明院悟真寺  (文献叢書 190〜193頁  所在地 長崎市曙町)

稲佐浦にある。浄土宗 筑後善導寺末寺。もとは巌屋山の支院であったが、年久しく荒廃した。…筑後国善導寺に聖誉玄故という僧がいたが、…慶長元年(1596)の頃長崎に来て、稲佐山麓の岩穴…に隠れ、邪教徒の圧迫にも屈せず、附近の住民の教化に努めたので、これに随う者も次第に多くなり、ここに一庵を結んだ。慶長3年(1596)の頃、…本山に願い、…今の寺号の免許があった。切支丹横行の時代における、仏法再興の最初の寺である。その後慶長7年
(1602)…二人の唐人が来朝したが、玄故が熱心な僧侶なので、深く帰依し、この二人が檀首〔檀家の筆頭〕となって、唐人のための菩提寺とした。然し墓地がないので、代官末次平蔵を通じて官に願い、江戸幕府の許可を以って、数百畝の地を賜わった。…以後唐商の死者はここに埋葬したが、のち唐三箇寺ができてからは、それぞれの唐寺に祭るようになった。以上が当寺開基の始末である。