わが庭の自然石によるアーチ式石橋 試作3
前回の作は、雨で少しズレ落ちていた。試作3は写真のとおり。なかなか良い石がない。不揃いの石では失敗ばかり。橋の長さを短くしやっと完成した。いっときはこれで我慢しておこう。
きょうの四郎ケ島台場跡草刈りは、昨夜、佐賀からツアー中止の連絡があった。大雨の天気予報だったが、今はもう晴れだした。残念だったろう。
八郎岳沢に架けた、モニュメントのような自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、今も健在、こちらの最近の写真を載せる。
わが庭の自然石によるアーチ式石橋 試作3
前回の作は、雨で少しズレ落ちていた。試作3は写真のとおり。なかなか良い石がない。不揃いの石では失敗ばかり。橋の長さを短くしやっと完成した。いっときはこれで我慢しておこう。
きょうの四郎ケ島台場跡草刈りは、昨夜、佐賀からツアー中止の連絡があった。大雨の天気予報だったが、今はもう晴れだした。残念だったろう。
八郎岳沢に架けた、モニュメントのような自然石によるアーチ式石橋「乙女橋」は、今も健在、こちらの最近の写真を載せる。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:6069 風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)
■ 確認結果
長崎市史編さん委員会編「新長崎市史 第二編 近世編」が、平成24年3月30日発行された。
170〜171頁に掲載されている「写2−32 「風頭からの長崎市街鳥瞰(立山側)」上野彦馬/長崎大学附属図書館所蔵」は、データベースでは、目録番号:6069 の作品である。
新長崎市史の解説は、次頁の172頁にある。
長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション 明治7年の古写真集 長崎・熊本・鹿児島」長崎文献社刊2007年初版の58,59頁に掲載されたこの古写真の解説の疑問点は、すでに次の記事により2010年1月指摘している。
https://misakimichi.com/archives/2171
新長崎市史の解説は、本ブログ記事も参照されたか、「延命寺の山門」の撮影とされ、了とするが、遠景の寺を「⑱が聖福寺、⑲が福済寺」と説明されているのは疑問がある。
航空写真で位置関係を見てみる。「⑱が福済寺、⑲が本蓮寺」ではないだろうか。
「聖福寺」は、「⑰永昌寺」のすぐ近くであり、⑱を「福済寺」とするなら、その中間に大きな甍が見えるところと思われる。
延命寺上からの現在の写真は5枚目のとおり。高いビルなどで、聖福寺などは見えなくなった。
最後の古写真は、越中哲也・白石和男氏共編「写真集 明治・大正・昭和 長崎」図書刊行会昭和58年再版12〜13頁に掲載されている「19 長崎の街なみ」。
長崎に市制が実施された明治22年当時の長崎の町の全景。上野彦馬の撮影という。
風頭山頂からの撮影と思われるが、同じような構図であり、鮮明であるので参考となろう。所蔵は長崎市市立博物館のようだ。4枚組だが、左右は省略した。
「’89長崎市制施行100周年 NAGASAKI 100」24〜25頁にも同じ写真がある。
なお、新長崎市史182頁「写2−44 新大工町の鳥瞰」A.Fボードイン/長崎大学附属図書館所蔵」の解説は、「⑩が金比羅山」ではなく「烏帽子山(金星観測があった)」、「⑪が上宮」ではなく「金比羅山」と説明した方が正しいだろう。
https://misakimichi.com/archives/2193
https://misakimichi.com/archives/2389
また、179頁「図2−14 測図長崎市街地図 1884(明治7)年頃(部分)(「地図で見る長崎の変遷」財団法人日本地図センターより作成)」は、「1884(明治17)年頃」の誤字である。
図中の「⑦が淵神社」は、まだ下の岬の方に表示した方が良い。
「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点
「新長崎市史」第二巻「近世編」が3月30日発行された。広報ながさき4月号に刊行を大々的に載せ、書店発売を知らせているが、肝心の長崎市施設、地区公民館図書室などに4月10日になっても蔵書がなかった。
市史編さん室と広報広聴課へ苦情を言い、やっと4月19日、地元の公民館へ配本があり借りることができた。市長はこんな事態を知っているのだろうか。意気込みのわりには、おかしなことだった。
私の関心は、今回の刊行で新しく取り上げるとあった第4章「天領・大村藩・佐賀藩領の村々と街道」第4節「長崎の街道」にあった。
「6 御崎道」は、366〜369頁に掲載されている。
平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」や、平成20年3月発行された長崎伝習所報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」の問題点は、すでに指摘している。
今回の「新長崎市史」第二巻「近世編」における「御崎道」の記述も、問題点が多い。せっかくの新市史刊行だから、もう少し信頼性がある研究をお願いしたかった。
全文は掲載できないので、疑問の箇所のみ引用し、私の考察を説明する。
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図を、ちょうど本ブログ上で作成したところである。参照してもらい今後の研究に役立ててほしい。
1 368頁左段 「御崎道は、峠からダイヤランド2丁目を経由して磯道町、三和町、毛井首町、鶴見台、江川町などを経由、深堀町へ至った」
毛井首町、鶴見台経由は、明治以降発展しできた道で、遠回りとなりあまり考えられない。長崎往還を草住町へ向かい、江川町から深堀手前の峠(鳥越)を越して、深堀町へ至った。
2 368頁右段 「御崎道は、蚊焼から秋葉山に上り、高浜に下ったが、秋葉山(標高254m)の山頂には火の神秋葉神が祀られている」
御崎道は、秋葉山山頂は通らない。中腹を行く。誤解されかねない記述だろう。
3 368頁右段 「また、『寛斎日記』にも「東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり(略)」とあるように〔27〕」
末尾の注〔27〕は、林郁彦稿「維新前後に於ける長崎の学生生活」『長崎談叢 19輯』長崎史談会 1937 21頁。この文献は、関寛斎『長崎在学日記』原本からすると、誤字が多い。引用資料としないようお願いしたい。
4 368頁右段 「また、前掲の道塚は、蚊焼から分岐して岳路を通り以下宿から上って来る道との合流点であり、途中には「みさき道」「今魚町」と刻まれた道塚が残されている」
「前掲の道塚」とは、徳道三叉路の里程道塚。以下宿からここには上がらない。「途中には」とは、岳路の道塚を説明されているが、黒浜から尻喰坂を越し以下宿に下り、南谷を上がって、里程道塚からの道と合流、延命水へ至った。
5 368頁右段 「ほかの御崎道のコースとしては、二ノ岳付近から高浜と脇岬の間の殿隠山、遠見山、堂山峠を経て観音寺に至るコースがあり」
殿隠山、遠見山、堂山峠間の尾根コースは、明治地図でも道の連続がない。街道とは考えられない。郡境・村境の見誤りだろう。(343頁の写4−17、345頁の写4−18の「肥前一国絵図」など参照。道は赤線である)
岬木場から来た道は、殿隠山鞍部で高浜から上がって来た道と合流、脇岬へそのまま下る。
6 368頁右段 「殿隠山コースには、道塚が2本残されている。1本には「みさき道 今魚町」「上川原道」、もう1本には「右 御崎道」「左 川原道」とそれぞれ刻まれている」
野母崎ゴルフ場裏門内の道塚2本を説明されているが、この道塚は殿隠山コースには向かわない。高浜へ下るコースの道塚である。ゴルフ場内の下道に、今魚町道塚がもう1本、確かにあったことを記録と記憶により確認している。
7 368頁右段 「また、観音寺から、山越えして野母に至る、観音道と呼ばれるコースがあった。このコースには元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。なお、野母から舟便を利用、長崎に行くコースもあった」
方向が逆。記述に一工夫してほしい。「また、脇岬海岸にも元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。これは野母まで舟便や歩いて来られたが、ここから観音寺まで十丁の山道にかかる「観音道」を示す道塚である。長崎へ舟便で帰るときや海が荒れた日にも利用された」と説明した方が良い。
8 なお、354頁に「図4−6 長崎の主な街道図」が掲載されている。「(注)御崎道には諸説があるが、ここでは今魚町の道塚のある道について記述した」とし、緑線により「御崎道」、黄緑線により「観音道」のルートを表示している。
1〜7で見たとおり、三和町「三和町郷土誌」昭和61年発行もそうだったが、問題点が多いルート図である。諸説があるならなおさら、関係史料・古地図類を良く研究し、実地踏査のうえ、これらは正しく公表してほしい。
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図 3 川原道経由
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035
みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。
画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。
幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。
参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」 佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」 長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕 同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」 同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」 同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」 三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。
容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 川原道経由の4枚目の図は、3枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している。5,6枚目は、2012年12月18日特別に追加。
熊ノ岳山腹を登る明治道塚「西 高濱」の詳細ルート図。これにより徳道まで上がり、二ノ岳脇を行き岬木場へ出て観音寺参りをした話が地元にある。明治地形図も参照)
背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図 2 岳路道経由
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035
みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。
画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。
幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。
参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」 佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」 長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕 同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」 同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」 同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」 三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。
容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図 1 みさき道本道(2)
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035
みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。
画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。
幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。
参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」 佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」 長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕 同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」 同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」 同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」 三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。
容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 後ろ2枚の図は、3・4枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している)
この記事では、佐賀藩の安政7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」図が、いかに精緻に作成されているか、具体例として現行地形図に重ね合わせたカラー地図も見てもらう。
背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図 1 みさき道本道(1)
文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、1泊2日により仲間3人で御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生、関寛斎『長崎在学日記』(北海道陸別町同資料館所蔵)による当時の「みさき道」推定ルート図は、本項の前の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3035
みさき道歩会の研究レポート第1集に収録したとおり、推定ルート図は平成17年当時の調査である。約7年が経過した。その後、判明した正しいと思われるルートが一部区間に出てきた。
ここに掲げる詳細ルート地図は、伊能忠敬研究会入江氏(長崎市在住)の地図画像研究により、私が主に実地を再踏査した結果である。
研究・調査期間は、本年2月初めから約2か月を要した。
画像研究の方法は、長崎市南部の1/10000地形図に、佐賀藩が幕末に作図した古地図と明治中期の地図、昭和49年度に撮影された航空写真、昭和23年に撮影された米軍の航空写真をグラフィックソフトのレイヤーで重ねて行なわれた。入江氏の協力に深く感謝したい。
幕府領の村の古地図は見当たらず、街道はこれが正しいという確かな史料も存在しない。この詳細ルート地図も、お互いが協議を重ね実地踏査の上、作成した推定ルート地図に変わりないので、あらかじめ了解をお願いしたい。地図のズレもまだ若干あると思われる。
詳細ルート地図は、みさき道本道のほか、岳路道、川原道(長崎半島東回りの道)経由の道についても、同時に実施した。
参考とした文献・関係資料は多くあるが、地図類の主なものは次のとおりであった。
①慶長年間(1596−1624)「慶長図絵図」 佐賀県立図書館蔵
正保 4年(1647)「肥前一国絵図」 長崎歴文博物館蔵
元禄14年(1701)「肥前全図」 〔いずれも長崎半島部分〕 同
②安永 2年(1773)「高木作右衛門支配所絵図」 〔当時の長崎代官〕 同
③安政 7年(1860)「高来郡深堀 御崎村・脇津村」 同
萬延 元年(1860)「高来郡 為石村・布巻村、彼杵郡 平山村」 同
萬延 元年(1860)「彼杵郡深堀 蚊焼村彩色絵図」 三和公民館蔵
文久 元年(1861)「彼杵郡深堀郷図 深堀本村・小ヶ倉村・土井首村・大籠村・竿浦村」
長崎歴文博物館蔵
④明治34年(1901)「国土地理院旧版地図」 〔大日本帝国陸地測量部作製〕
⑤平成 7年(1995)「三和町全図」修正字図ほか
③は佐賀藩南佐賀(深堀)領の各村であり、①は同藩が作成し長崎奉行所が写したものとされる。天領の川原・高浜・野母村、大村領だった戸町村(安政5年古賀村と交換されて天領となった)などの絵図は見出しえなかった。
④は国土地理院に明治17年測図同27年製版図があるが、そこまで調べてない。
容量の制限があり、4記事に分けて詳細ルート地図13枚を掲載した。ブログ画像は、不均衡に表示されるが、オリジナル画像(ズーム拡大)では、同じサイズ679×960の縦か横となる。
(注 後ろ2枚の図は、3・4枚目と同じ。印刷用としてサイズ合せのため、縦に回転している)
背景の地図は、測量法第43条の規定により、長崎市長の承認を得て、平成18年度地形図(縮尺1/10000)を複製した。
※長崎市都市計画課承認番号 長都計第1038号 平成24年2月29日
安保地区の花壇 長崎市香焼町
2012年4月14日に妻が撮影。香焼・安保地区の花壇は、昨年開通した「伊王島大橋」へ向かい、香焼トンネルの手前となるので、出かけてください。
長崎名勝図絵の風景 41 祝 島(俊寛僧都の墓)
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
最後の「俊寛僧都物語」は、伊王島町ふるさと資料室の展示パネルから(ズーム拡大)。
本シリーズ「長崎名勝図絵の風景」は、これで一応完とする。
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
244 祝 島 (文献叢書 220〜222頁 所在地 長崎市伊王島町)
深堀村の西にあり、硫黄島ともいう。香焼島と列んでいる。島の広さ三千二百余丈。民家一百余。南の方に瀑嶼(たきじま)がある。岩の間から滝が落ちている。広さ四百二十丈ばかり。祝島とは三十丈程しか離れていないので、遠くから見ると、続いているようである。その間の部分を大中狭門と呼ぶ。唐船が長崎に入港する時、ここを通ることがある。長崎君舒が著わした長崎図志によると、もとこの島の北を松浦潟、南の浜を薩摩潟といったのは、昔遣唐船がここを通ることが多かったために、こういう名が付いた。今も長崎に入津の船は、皆この島の水路を通るのである。
俊寛僧都もここに流され、のち深江を経て帰ったという。古本平家物語に、治承元年(1177)平相国の命令で、丹波少将成経、平判官廉頼、僧都俊寛の三人が、肥前国硫黄ガ島に流され、翌二年安徳帝御生誕の大赦で、成経、廉頼の二人だけが赦免となり、俊寛一人が漏れたので、成経ら二人が憐れと思い、俊寛を伴って鹿背の庄まで行ったが、そこで俊寛が病死した。その墓が今もあると書いてある。
盛衰記の説も大体同じである。ところが今の本は誤って、薩摩の硫黄島に流されたように書いてある。これは硫黄島の名が混同したものであろう。…
この島の東、深堀という所に、有王塚というのがあるというのも、妙なことである。又肥前領地の境に、鹿背という地があり、彼杵に近い。ここにある法性寺は俊寛開基という。この地は資盛の領地で、苔むした石塔、俊寛の遺物、資盛の書記等がこの寺にある。いずれにしても俊寛は、島では死んでいないのではないか。すべて名所旧跡には異説があるもので、薩摩と肥前のどちらが本物か、さだかではない。ということである。島の上に長福寺という小寺があり、堂前に俊寛の墓と称する石碑がある。蔦蔓が附き、文字もよく読めないが、大変古いもののようである。宝暦六年
(1756)俳諧歌人勝木沈山が自費で建てた石碑がある。…
長崎名勝図絵の風景 40 半 片 山(福 田 洞)
「長崎名勝図絵」は、長崎奉行筒井和泉守政憲の命を承け、当時長崎聖堂助教で儒者であった、西疇 饒田喩義強明が、野口文龍渕蔵の協力を得て編述し、これに画家の竹雲 打橋喜驚惟敬の精緻な挿絵を加え、完成したもので、執筆は文化、文政年間(1804−1829)であったと思われる。平易に読める文体に書き改めた詳訳が、丹羽漢吉先生の訳著によって、長崎文献社から長崎文献叢書第一集・第三巻「長崎名勝図絵」として、昭和49年(1972)2月発行されている。(発刊序から)
本ブログ「長崎名勝図絵の風景」は、主な図絵について現今の写真と対比させる試み。デフォルメされた図絵が多く、現在ではそのとおりの風景はほとんど写せない。おおかたがわかる程度の写真として撮影している。解説は詳しく引用できないので、図書を参照していただきたい。
福田洞は古写真考の次記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/1933
長崎名勝図絵 巻之三 西邊之部
240 半 片 山 (文献叢書 217〜219頁 所在地 長崎市福田本町)
福田洞 長崎の西南三里余、大村領との境、福田浦の前にある。山が半分削れたように、絶壁となっている。山頂に一株の松があって、風致をなす。下に洞穴が五つある。皆南に向いているが、一つだけ北に向いているのがあって、これは小舟で這入れる位の広さがある。洞門のところで、海水がはっきり区切られたようになっていて、中は青々と澄んでおり、塵一本も浮いてなく、又濁ることもない。洞の奥は深くて、誰も極めた者がいない。時津の近くまで達しているとか、龍が棲んでいるとかいわれている。一度大村の人が、探検のために炬火を持って、中に這入ったが、暫く行くとどこからか風が吹いて、火を消された。それで火をつけて更に進み、数十歩行くと、又もや風のために吹消され、これを三四回繰返えして、まだ奥に達しないので、遂に断念したそうである。この洞の中で、時に鳴動があり、その声が遠く長崎の街まで聞こえる。鳴動すれば三日を出でずに、風雨があると信じられている。だから漁師はそれで天候を判断した。とに角一つの変った名所である。