長崎県」タグアーカイブ

福田の千本松原  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

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福田の千本松原  長崎市福田本町

林 純夫著「福田村郷土史」平成12年発行の629〜630頁による説明は、次のとおり。福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が田子島台場跡とともにある。本ブログ次も参照。
福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1670
大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原
https://misakimichi.com/archives/3670
後ろの写真は、千本松原の前面海岸を埋め立てた海の駅「長崎サンセットマリーナ」の風景。 

三、千本松原

福田の千本松原については、「福田長兵衛の墓」でも述べましたとおり、24代福田長兵衛兼明が疱瘡で死亡する前年の元文元年(1736年)、その兼明が福田大番所加番中において、津波よけとして田子島から崎山までの海岸沿いに多くの松を植えたことからその名が付けられたと伝えられています。
かつては大人が数人で手を回す程の大松もあったそうですが、その松も虫食いなどで次第に枯れて、福田本町の田尻正年氏などによれば、昭和19年頃にはほぼ全滅状態だったと言うことです。
現在、千本松原に僅かに残る松は、由緒ある史跡でもあったことを考慮し、昭和24年昭和天皇が長崎御巡幸に際し、長崎県に対し「松の苗木100本分」の御下賜があったうちから、特にそのうちの50本分を福田村に賜り、松の苗木を千本松原に植樹したものであるようです。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

福田の千本松原 ふくだ
長崎市 海岸防潮林 長約1.4㎞(当初) 元文元(1736) WEB(みさき道人) 植樹後120年の安政4(1857)には162本、昭和5には80数本、昭和25にすべて枯れ、補植の松も少ない 福田の地頭・福田長兵衛兼明が津波の波除けとして田子島〜崎山まで植樹したとされる/宝永地震(1707)による津波被害を受けたものと推測できる/津波除けの防潮林は、現在判明している限り、他には和歌山県にしか存在しない 4 A

長崎の古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「明治の長崎 撮影紀行」 長崎文献社 2014年12月刊

16P 神の島海岸からの高鉾島  (目録番号:3874)
…島の左手に遠くみえている山は唐八景だろう。多くの写真家が登った大平山(星取山)のすぐ近くで、長崎の街を見下ろすいい展望台である。

17P 小瀬戸からの高鉾島  (目録番号:5241)
当時の神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。高鉾島の右手後方へみえているのは香焼だろう。…

87P 茂木の町並み  掲載略 (目録番号:1000)
…当時の海岸線が今は国道34号線になっている。のどかな茂木の街の全景をこの寺の背後の丘から見通すことができたのである。

■ 確認結果

森 望氏(前長崎大学附属図書館長)著「明治の長崎 撮影紀行」が、長崎文献社から2014年12月発行されている。脳神経解剖学者の著者が科学的手法で古写真の謎を解く。近来にない本格研究の古写真集であるが、内容において私が直観的に疑問とした作品を取り上げる。
第2版をだすような状況になれば、そのときに改訂しますとのことである。

16P 神の島海岸からの高鉾島 (目録番号:3874)
「島の左手に遠くみえている山は「唐八景」だろう」は、具体的にどの山を指すかわからないが、中央左奥の三角形の高い山は、これこそ「大平山(星取山)」である。
現在の星取山山頂には、NTT長崎無線中継所がある。大きなアンテナ塔数本が建つので確認できる。
1昨日、写真3のとおり星取山の拡大写真を写してきたので、確認のため載せる。「唐八景」はその後ろの低い山で、写真には写らない。星取山右端に少しは低い稜線として写るくらいだろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか
https://misakimichi.com/archives/1687

17P 小瀬戸からの高鉾島 (目録番号:5241)
「神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。」
撮影地は、「小瀬戸の大悲寺の高台あたりから」てはなく、視点が低くこのように高鉾島や神ノ島が見えるのは、「神崎鼻の台場」からであろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか
https://misakimichi.com/archives/1552

87P 茂木の町並み (目録番号:1000)
「当時の海岸線が今は国道34号線になっている。」は、何度も言うが「県道34号」が正しい。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号: 343 茂木(2) ほか
https://misakimichi.com/archives/1513
https://misakimichi.com/archives/2147

92〜97P 小浜・雲仙7点
撮影地の現在の写真がある。まず間違いないと思うが、少し、しっくりしないところもある。私もそのうち現地へ出かけて確認したい。

「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は? ( 長崎県 )

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「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真の場所は?

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)479頁に、「神ノ島台場跡(長崎市神ノ島町)」の写真があったので、現地確認に行った。次頁まで良く読めば良かったのに、これは神ノ島公園から下ったところから撮影した四郎ケ島の渡り口である。
文献には「神ノ島」とあるが、「神ノ島」(四郎ケ島を含む)と伊王島の台場築造話のようだ。

左奥が神ノ島から四郎ケ島へ佐賀藩が埋め立て築造した海道で、現在の神ノ島一周市道ではない。電柱が対岸まで立っているのは、四郎ケ島の沖波止建設工事当時の写真だろう。今は電柱は撤去されている。右端の一周市道は海側に拡幅され、車道中央に立たないと、これと同じような写真は写せなかった。

平幸治氏からさっそく教示いただいた。史料のモノクロは『佐賀藩海軍史』からのもの。絵図には、神ノ島側に「崎雲岬?台場」と「崎雲山上台場」、四郎ケ島側に「四郎島台場」と「小島台場」が描かれている。全体を総称して「神ノ島台場」となる。
両方が入るようにとアングルしたつもりでしたとのことであるが、1枚に写すのは、私にもむつかしかった。

(2015年6月23日 追 記)
前伊能忠敬研究室入江氏から、神ノ島の台場は「兜崎(カブトザキと読むのか、地元の人の言うドンクが正しいのか不明)」「飛渡(神ノ島工業団地の造成時に削られて消滅し、危険な崖になっている)」「崎雲浜手」「崎雲山上」の台場が在り、他に「四郎ヶ島」「小島」が在りましたという教示があった。
嘉永5年の台場計画の場所として、『佐賀藩銃砲沿革史』160頁から、台場地図を載せる。

御 船 手  長崎市深堀町1丁目 ( 長崎県 )

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御 船 手  長崎市深堀町1丁目

この項は、本ブログ次を参照。場所は深堀バイパス(県道29号)歩道橋の所から右折、高架橋下を通って行く。   深堀の散策(1)長崎市深堀町1〜6丁目  https://misakimichi.com/archives/1964
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。
平幸治著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)492〜493頁の写しも載せる。

(2)御 船 手(1丁目460)
佐賀藩海軍の施設があった処である。元来、長崎は日本の唯一の開港場であつた関係上、外国船の入港も多く従って之が警備のため、佐賀藩、黒田藩が1年交替で長崎御番の任につき、佐賀藩の当番年には本藩家老(深堀の領主)が之に当り、記録によれば寛永年中(1631年)以降である。又沖波に対して、埋立前は殿様石垣が約100m位防波堤としてあった。その左側の石垣(永江)は当時のまゝである。日本博愛社は日本赤十字社の前身で、西南の役に多数の官賊の負傷者を見て、其の必要を痛感し博愛社を創った佐野常民が、此処で日本最初の蒸気船を作った処でもあるが、その結果は芳しくなかった。

サイト「近世以前の土木。産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

深堀の御船手・跡 ふかほり
長崎市 石護岸 寛永8(1631)以降 WEB(みさき道人) 埋立により形態は改変→石垣護岸のみ残る 佐賀藩海軍の船溜/長崎警備のために設けられた 3 B

深堀陣屋跡の現況 (11)  長崎市深堀町5丁目 ( 長崎県 )

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深堀陣屋跡の現況 (11)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ次を参照。
現況(10)は、https://misakimichi.com/archives/4293

長崎市教育委員会から「深堀陣屋跡—教会新築計画に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書—」が、2015年3月発行された。報告書から主な内容を載せる。
報告書は、長崎市立図書館・長崎県立図書館・長崎歴史文化博物館・長崎市深堀地区公民館図書室で閲覧または貸出されるので、詳しくはこれを利用し見ていただきたい。

長崎の古写真考 目録番号:5867 対馬(1) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5867 対馬(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5867 対馬(1)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5867「対馬(1)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港から撮影していると思われる。
先般4月22日、対馬を訪れ現地確認をしたが、古写真左下の三角形の島を大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)とすると、状景が現地写真2のとおりやや合わなく、確証を得られず調査保留とした作品。

撮影地はどこだろう。今、ほかの人のブログを見て気付いたが、現地写真3の黄囲線内のとおり、やはり美津島町尾崎漁港からの風景だろう。次の尾崎漁港岸壁からの写真を参照。
投げ釣り戦記 2008-10-29  http://blog.goo.ne.jp/jca1/e/425385776b539b0445951f91f2debbd4
古写真の撮影地は、大島「都々智神社」対岸となる当時の尾崎海岸あたりからと考えられる。現在は広い海岸埋立地となり、公園や高い防波堤があって状景確認ができなかった。

尾崎漁港は浅茅湾の西の入口にある。背景の左側遠く高い山は、対馬の名峰「白嶽」だろう。ここなら全体の状景が合う。問題は古写真左下の三角形の島。私は大島「都々智神社」ではないかと思っていたが、そうではない。現地写真3のとおり、撮影地尾崎岸壁の先に写る沖波止の岩礁類。沖波止の建設のため、この島は削られて低くなったのではないだろうか。地元の検証をお願いしたい。

この作品は、本ブログ次も参照。1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊した。撮影者は同じく、この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の写真の1枚である。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)
https://misakimichi.com/archives/4549
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)
https://misakimichi.com/archives/4550

樺島大ウナギ・権現山公園・古里鯉流し  長崎市野母樺島町ほか ( 長崎県 )

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樺島大ウナギ・権現山公園・古里鯉流し  長崎市野母樺島町ほか

ゴールデンウイークの5月2日(土)、東京から帰省中の長男を連れて近場へ。長崎半島南端、樺島の大ウナギ見学(島港奥に南方産オオウナギが棲む井戸がある。熱帯性オオウナギの生息北限地として大正12年に国の天然記念物に指定されている。鑑賞は水槽で)と、その井戸前のレストラン大万で昼食。
野母権現山展望公園へ登り、古里海岸の鯉流しを写して帰った。写真は妻撮影。

元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里 ( 長崎県 )

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元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原港の東端にあるのが耶良埼(屋良崎)。フェリーターミナル手前からいずはら病院の高台に上がると、病院奥から屋良崎灯台へ下る山道がある。「元・耶良埼の遠見台」とされる石組み(写真4〜7)は、灯台上部の山頂三角点手前にある。

元・耶良埼の遠見台 やらざき
対馬市 厳原港 石望楼(四角錐) 高3.5m,頂辺1.9m,底辺3m 江戸末期? WEB/市教委 耶良埼山頂付近にあったものを移設(復元の程度は良くない)/乗船客しか入れない 「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡」と推定されている/粗加工の石材を布積崩し風に積み上げる 3 C

後ろの写真は、厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏。現在はジェットホイル乗船場内となっている)に移設された旧耶良崎灯明台(写真9〜13)と、厳原市街八幡神社境内にある春日灯籠(写真15〜17)

これら石組み、灯明台などの詳しい推察は、対馬海上保安部HPの次を参照。
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara1/yomo3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」 対馬藩設置の耶良埼灯明台について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara2/yomo4.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その3」 対馬藩設置の灯明台は、寛永年代に設置されたのか?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/kodairoman3/kodairoman3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その4」 耶良埼山頂付近の石組みは、何の跡か?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama6/yomoyama6.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その6」 幻の古絵地図から
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama8/yomoyama8.html

阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原 ( 長崎県 )

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阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原市街から国道382号を厳原中学校まで北上。この一帯が桟原で、現在桟原城(桟原屋形)跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
「阿須川の開削」とは、尾根の鞍部を掘り割って人口の川を通し、桟原屋形の濠となったというから、阿須川のこのあたりの話だろう。川面には降りられなかったので、桟原トンネル手前の橋上から写した。

阿須川の開削 あずがわ
対馬市 阿須川 付替え 万治2(1659) WEB/市教委 一部C護岸 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した 2 B

平成9年発行「厳原町誌」106頁の記録は、次のとおり。

阿 須 川
厳原の北西砥石淵から東に流れ、阿須湾に注ぐ川をいう。これは近世、寛文から延宝の間(およそ320年前)、桟原屋形(府中城)の築城に際し、袖振山から後山に続いていた尾根の鞍部を掘り割って、人口の川を通したもので、上流の知首川と砥石淵川が合流した水勢を、阿須湾に放水したわけである。
これは桟原屋形の濠であることはいうまでもなく、それに府中の水害を解消する機能があった。

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

桟原城

桟原城(さじきはらじょう)または桟原屋形(さじきばるやかた)は、長崎県対馬市厳原町桟原にあった城郭で、対馬府中藩3代藩主宗義真が金石城を拡張整備したのと同時期に新築された藩主の屋形。金石城からは市街をはさんで北東隣に位置する。

概要
万治3年(1660年)3月に着工し、延宝6年(1678年)に完成した。金石城に代わって新しく府城となった。対州府城または府中城とも称した。明治2年(1869年)に対馬府中を厳原と改称してからは厳原城(いずはらじょう)とも呼称する。現在城跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
対馬府中の整備
着工と同時に府中城下町の町割と水利工事が行われている。1663年(寛文3年)には藩営ドックである「お船江」が完成し、1669年(寛文9年)には金石館に櫓門が築かれた。また、1685年(貞享2年)には桟原の南に子弟教育のための学校「小学校」が建てられた。厳原は、現在もこの時期の城下整備による街並みのようすをとどめている。
遺構
遺構としては、第三門であった高麗門が県立対馬歴史民俗資料館付近に復元されている(注 現在は厳原保育園の門柱に再移築されていた。写真13,14)。また、石垣の一部が現存しており、標柱(注 桟原屋形跡 写真2)で案内がなされている。

上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分