長崎県」タグアーカイブ

上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿 ( 長崎県 )

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水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の遺跡大辞典」による説明は、次のとおり。県道24号により美津島町尾崎漁港へ向かう。漁港の先の方、大島の「都々地神社」が対岸となるあたりの畑地に遺跡説明板がある。 

遺跡名
水崎遺跡(みずさきいせき)

所在地 対馬市美津島町大字字仮宿
緯度 北緯34°18′59″ 経度 東経129°13′32″
標高 4m 地形 沖積地
種別 遺物包含地 時代 中世〜近世(12世紀〜17世紀前半)
資料所在地 対馬市教育委員会 指定状況 未指定
参考文献等 『水崎遺跡』 美津島町文化財調査報告書 第8集 1999
『水崎(仮宿)遺跡 』 美津島町文化財保護協会調査報告書 第1集 2001

遺跡・史跡の概略
遺跡は浅茅湾開口部付近の狭小な平坦地に位置する。町道拡幅に伴って1996年美津島町教育委員会によって調査された他、遺跡の重要性に鑑み2000年再度内容確認のための発掘調査が実施された。 当該地は15世紀前半頃、朝鮮王朝や琉球と交易を行っていた海商早田氏の拠点であったとされている。出土遺物は輸入陶磁器が主体を占め、中でも朝鮮王朝陶磁器が70%を占めている。また東南アジア産の陶磁器も5%を占め、琉球を通じて手に入れた状況が看取されている。
遺跡は14世紀後半から15世紀前半頃に一つのピ゜−クがあり、備前・信楽焼の甕の存在から15世紀から16世紀にも遺跡として継続し、以後17世紀前半頃まで連綿として継続している事が確認された。

主な遺構
掘立柱建物
主な遺物
1996年調査:国産陶器(備前・信楽)、中国産・朝鮮王朝陶磁器、ベトナム産陶磁器、石鍋:2000年調査:中国・朝鮮王朝・タイ・ベトナム陶磁器、メノウ製石帯、中国銭貨(含む大元通宝)

長崎の古写真考 目録番号:5869 対馬(2) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5869 対馬(2)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5869 対馬(2)

対馬関連作品は、ほかに目録番号:5867(1)、5870(3)、5876(4)、5877(5)、5878(6)がある。

■ 確認結果

目録番号:5869「対馬(2)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港を撮影している。
前記事とした目録番号:5878(6)の、大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)のまだ手前、尾崎漁港入口のバス停あたりからの景色である。
ほかの関連写真も、近辺の集落や海岸と考えられるが、調査時間がなく、まだ確証を得るまでに至らなかった。

目録番号:5878「対馬(6)」は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、撮影者を次のとおり解説している。
目録番号:5869「対馬(2)」もこのとき撮影された湾内の1枚で、撮影者はヘンリー・スチュアートである。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

1890年、イギリス海軍の軍艦ヴァーノン号が対馬の浅茅湾に停泊しました。この軍艦の見習い将校ヘンリー・スチュアートが撮影した対馬の大島の都々智神社と軍艦の写真です (写真82)。場所は湾の入り口付近で、対馬を撮影した写真としては最古のものでしょう。長崎大学にはこのき撮影された湾内の写真がほかに5枚残されています。…

長崎の古写真考 目録番号:5878 対馬(6) ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5878 対馬(6)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号:5878 対馬(6)

対馬関連作品は、目録番号:5867(1)、5869(2)、5870(3)、5876(4)、5877(5)がある。

■ 確認結果

目録番号:5878「対馬(6)」は、撮影地が長崎県対馬の6作品の1枚である。画像解説がなく、撮影者・撮影年代とも未詳となっているが、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影している。関連写真は、近辺の集落や海岸であろう。

この作品は、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」2009年刊の189頁に掲載があり、画像解説は次のとおり。186〜187頁に詳しい解説がある。

82 都々智神社とイギリス軍艦
対馬の浅茅湾に進入したイギリス海軍ヴァーノン号と都々智神社。1861年にはロシア艦隊がこの湾の一部を半年間占拠した。
ヘンリー・スチュアート撮影、1890年、鶏卵紙、15.2×10.3

この項は、再掲。本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2390
今般、遺産リストで対馬を訪れる機会があり、古写真の現地確認も行った。目録番号:5878「対馬(6)」は、現在の対馬市美津島町尾崎漁港の大島にある「都々智(つつち)神社」(里宮)を撮影しているのは間違いないので、現在の写真を載せる。

豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか ( 長崎県 )

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豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。唐津から壱岐へ渡り、博多からの深夜便フェリーに乗り継ぎ対馬厳原港へ着いた。国道382号で万関橋を渡って北上。豊玉町横浦から塩浜の方へ向かうと山手鞍部に、「豊玉の猪垣」入口案内板がある。

豊玉の猪垣 とよたま、いがき
対馬市 横浦<長崎牧?> 野馬土手(石垣) 長145+96m,高1.1m 中世〜江戸期 県有形民俗 WEB/市教委 残存部の保存状態良好 対馬の農事業で有名な儒者・陶山訥庵の猪鹿追詰の際に築かれた石垣と伝承されてきた/近年の研究では、中世から近世元禄の頃まで設置されていた宗氏の馬牧場の一つ長崎牧の石垣であった可能性が指摘 2 B

HP「長崎県の文化財」による説明は、次のとおり。

豊玉の猪垣

有形民俗文化財(県指定) 
よみがな とよたまのいがき
指定年月日 1973年02月06日
所在地 対馬市豊玉町横浦字白子ほか

豊玉町塩浜の西南の尾根に,東西約240mにわたり,高さ1.1m,上幅0.6m,下幅1.2mの石垣が築いてある。対馬全島に類例がない。元禄の野猪狩りは,対馬藩政史上画期的な事業であったので,その遺構ともいう。ほかに山城説,斎垣(いがき)説もある。ただ西彼杵半島や五島各地に現存する猪垣に,構造がよく似ていること,ししがきは一般に鹿垣と書き,猪のみが対象でないことなど,村の共同防災用・狩猟用も加え,まだ考察の余地もある。

前平の鯨供養碑  平戸市的山大島 ( 長崎県 )

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前平の鯨供養碑  平戸市的山大島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。的山大島(あづちおおしま)は、長崎県の平戸島の北方にある島。全島が長崎県平戸市に属する(2005年10月1日の現平戸市発足以前は北松浦郡大島村)。 通称で「大島」と呼ばれることも多い。
平戸島の平戸港や薄香港から平戸市営・美咲海送のフェリーが、的山大島の神浦(こうのうら)港と的山(あづち)港まで運航されている。一部の便は旧田平町の田平港(平戸口桟橋)にも寄港する。
画像提供は、平戸市教育教育委員会大島分室。

前平の鯨供養碑 まえひら
平戸市(的山大島) 真教寺 (鯨組井元氏の墓域) 石碑(駒型) 高122㎝,幅45㎝ 元禄5(1692) 市有形 市教委 /松崎憲三 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「(梵字)鯨鯢三十三 死生」/西海捕鯨発祥の地とされる度島(旧・多久嶋)に近い的山大島に残る鯨供養碑/建立されている井元氏は寛文4(1664)〜享保(1726)の間捕鯨に携わった家系/捕鯨遺産 2 B

佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石 ( 長崎県 )

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佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石

佐世保市の高橋輝吉氏から送ってきた資料。「海軍用地」石を、黒島の田代地区で民家正門横に移設した2本、高島では港地区の当時、軍資材置き場で1本を見つけたという報告と実物写真。

高橋輝吉氏稿 「佐世保市黒島・高島で見つけた「海軍用地」石」

黒島の海軍用地は、古老の方が「用地石は有ります」と。他の方は「有りません」と?。元々、この石の意味を知らないですかなー。
田代地区。元の発電所兵舎近くに有ったそうです。1本は立っていて、1本は埋まっていたそうです。1本40kgあります。コンクリート製です。

高島の海軍用地は、港地区。70年前の軍資材置場に建てたのかなー。山の上にはなし。ここでも知らないと言う。さわらぬ神と決め込んでいます。
私はぐるぐると廻り廻って見つけてきました。「海軍用地」「二二〇号」。白いみかげ石。60kg位かなー。

鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎 ( 長崎県 )

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鎮守明神祠堂の造営由来  佐世保市赤崎町庵崎

佐世保市高橋輝吉氏から送付された。佐世保市赤崎町庵崎の「鎮守明神祠堂の造営由来」碑文と、高橋氏稿「同石文を読んで」は、次のとおり。祠堂と石碑所在場所は、軍用タンク群がある航空写真のあたりだろう。

祠堂造営由来
大正七年七月ヨリ庵崎ニ於テ海軍ノ工事始マリ職員職工二百余名此ノ地エ居住由ツテ一同記念ノ為メ鎮守明神ノ祠堂ヲ造営シ恵比須神ヲ合祠ス
大正十年四月十日

高橋輝吉氏稿  「鎮守明神祠堂造営由来の石文を読んで」

軍の仕事。海軍は秘密の事が多い。事に此の地での仕事は、僻地の所であった。重油タンクを「コンクリート」で造る事で、大変だったと思う。さて、工員の方は、どこからどうやって来たのかなー。三年有余。現在はウラ道より行けるが、当時は海からだけです。
海軍式で、五?分前となー。体も一回り大きな人が。後はどうなったのかなー。コンクリートだけで重油タンクの造り。並の仕事ではない。当時は「ミキサー」なんてなく、手造りだったと思う。針尾無線塔も人海造りだ。同じような事かなー。
今にして思えば当地方、地震帯がなく完成した。工事関係者は安堵にて、石文の事となったと思うが、一つ洗脳の事もあったと思うので、恵比須神と二つの神を祀ったと思う。

佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石 ( 長崎県 )

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佐世保市愛宕山に残る戦前の炭鉱標石

佐世保市高橋輝吉氏から送付された。2015年2月7日(土)付読売新聞佐世保地域版の掲載記事あらましと、高橋氏稿の資料は次のとおり。

尾根中心に20本 「日炭」や「相浦炭坑」刻印  採掘示す貴重な資料  (読売新聞)

佐世保市の愛宕山(259m)で戦前のものとみられる炭鉱の標石が見つかった。同市木宮町の高橋輝吉さん(87)が「日炭」や「相浦炭坑」などと刻まれた20本を確認した。旧日本軍の要塞地帯を調べている高橋さんは「軍事施設を一望できる愛宕山は戦前、立ち入りが規制されていた。炭鉱開発を円滑に進めるため置かれたのではないか」と推測している。

高橋輝吉氏稿  「第二要塞地帯内の愛宕山炭坑標石」

地元、佐世保市愛宕山の西側に有った。陸第25号を探していたとき、「相浦炭坑」と刻したコンクリート柱を発見す。10年前である。陸軍の石が一息ついたので、思い出してみた。調べている内に「日炭」とも刻された石も有り「コンクリート」。元は昭和14年頃。発電所、日産炭坑と佐世保西側の町が揺れ動いた時代。炭坑史誌の記録あり。
昨年4月より、愛宕山の中を廻り廻った。棚方町の新住宅地あたりが境とみた。石の間隔は30m〜50mの間が有ります。一部は崖崩れで石なし。10月に一歩踏み出し、山の上方面へ。有りましたぞ。4本の石発見。これより下方面を探す。航空写真の図を参照。
昭和14年、朝鮮の方が「相浦中学校」へ入校して来ました。吉田君、ガク君、周君と入って来ました。吉田君の父は「ヤンバン」でした。町にもチョゴリの方が。鱈の干物等も有りました。朝鮮の方は、伍=コ、拾=チと、発音してました。炭坑の石より、当時を思い出してみた。

伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地 ( 長崎県 )

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伊能忠敬長崎測量の止宿は、諏訪神社下の地

次は前伊能忠敬研究会入江氏の作成資料。「長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)」跡とは諏訪神社下。現在の炉粕町7番地「立正佼成会長崎教会」の地である。全国的にもこれほど長期間滞在した止宿(ししゅく)は珍しい。NHK大河ドラマは、2年後に「伊能忠敬」が予定されているという。
長崎市観光政策課へ次の内容の「伊能忠敬長崎測量止宿」さるく説明板を早く設置するよう要望しているが、まだ実現しない。
佐世保市ではすでに2014年5月、「伊能忠敬相浦地区測量二百年記念之碑」が建てられている。

「伊能忠敬長崎測量止宿説明文」
伊能忠敬(いのうただたか。測量時は伊能勘解由・かげゆ)は全国測量の内、第八次測量(九州第二次測量)に於いて、文化十年八月十八日(1813年9月12日)から九月二日(9月25日)と九月十六・十七日(10月9・
10日)の16日間、ここに在った大同庵(だいどうあん)を止宿(ししゅく)とした。
この期間、新大工町から測量を始め、海岸線や町中を縦横に測量した。

伊能忠敬『測量日記』  八月十八日(9月12日)
晴天。六っ半頃(午前7時頃)に稲佐郷、又浦を出立。乗船して五っ時後(午前8時過ぎ)に長崎町へ着く。 乙名の春野半兵衛と横瀬半三郎が出る。四っ半頃(午前11時頃)立山役所(現:長崎歴史文化博物館)へ届けに出る。当時(この時)の御奉行遠山左衛門尉(景晋。江戸町奉行遠山金四郎景元の父)の用人の福田仁右衛門と手付の豊田源治左衛門に挨拶する。長崎町の止宿、炉粕町の大同庵(皓台寺の末寺)に一同で泊まる。

伊能忠敬『測量日記』  九月一日(9月24日)
晴天。前と同じ(同所に逗留、地図並びに諸帳を調べる)。 阿蘭陀出島館(この時のオランダ商館長はヘンドリック・ドーフ)、並びに象(セイロン産の象1頭。版画が残されている)を見た。唐館(忠敬の手紙によると、唐船も見学している)を見る。 夜は曇り(夜間の天文測量が出来なかった)。