長崎県」タグアーカイブ

元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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元・立山役所(石階段)  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

元・立山役所(石階段) たてやま
長崎市 長崎歴史文化博物館<長崎奉行所立山役所> 石階段 24段 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/WEB 平成17に長崎歴史文化博物館が開館した際、石階段、石垣、井戸等を修復・復元 長崎奉行所の東役所/寛文3(1663)の大火で焼失したため東役所・西役所に分けて再建(隣接)、10年後に火災時の類焼を避けるため東役所を立山に移したもの/西役所は現・長崎県庁(遺構なし) 3 B

ウィキペディアフリー百科事典の「長崎歴史文化博物館」による説明は、次のとおり。

概略
2005年(平成17年)11月に開館。長崎県と長崎市が行政の垣根を越え予算と収蔵品を出し合い設置した。
建築
長崎県立美術博物館が閉鎖され、当博物館と長崎県美術館とに分離される際に、旧美術博物館の敷地と、同館に隣接していた旧長崎県知事公舎の敷地に建てられた。3階建。建設時には旧長崎奉行所の石段や庭園などの遺構が出土した。石段は補強され、奉行所門側のエントランスとして活用されている。設計は日本を代表する建築家黒川紀章。同館の西側には長崎原爆投下時に、第一報を政府や軍に打電した立山防空壕(旧長崎県防空本部)が残っている。同館のオープンにあわせ壕内を整備、周辺が公園化され、一般公開されている(無料)。

長崎開港史に関する文献類    古賀十二郎氏著「長崎開港史」ほか ( 長崎県 )

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長崎開港史に関する文献類  古賀十二郎氏著「長崎開港史」ほか

前記事「旧・「長崎開港旧町」の石垣 長崎開港当時の旧6ヶ町一帯」に関連し、布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊42〜43頁以外の、長崎開港史に関するわかりやすい文献類を少しまとめて載せる。
・古賀十二郎氏著「長崎開港史」 同翁遺稿刊行会 昭和32年刊 18〜19頁
・江越弘人氏著「トピックスで読む 長崎の歴史」 弦書房 2007年刊 78〜79頁
・長崎市史編さん委員会編「わかる!和華蘭 『新長崎市史』普及版」 長崎市 平成27年刊 38〜39頁

古賀十二郎氏著「長崎開港史」同翁遺稿刊行会昭和32年発行の19頁は、次のとおり。

b 田辺氏は、長崎の町建が戦国時代にできた事など全く閉脚し、且つ大村純忠が町建着手に先ち、計画や設計に苦心した事には、いさゝかも理解をもつてゐなかったものと考へざるを得ないのです。大村氏は、長崎の町建に先ち頻に考案を練り、特に神父メルショウル・デ・フィゲイレドはもとより、家臣朝長対馬、長崎純景などとも協議した結果、町割の設計を定めたものでありませう。そして、朝長対馬は、土木事業や建築の事に長けてゐた人物であつたでせう。
随って、長崎最初の六町は、田辺氏の云うやうに「年々出来せし町筋」ではなく、町建着手より約半歳ぐらゐで完成または完成に近かつたもので、まさに大成功と称すべく吾邦の他の都市にして、斯くまで秩序ある準備を整へ、斯くまで速に建設されたものは、その類例が無いと思ひます。これは、確に長崎草創の一特色であると考へざるを得ないのです。

旧・「長崎開港旧町」の石垣  長崎開港当時の旧6ヶ町一帯 ( 長崎県 )

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旧・「長崎開港旧町」の石垣  長崎開港当時の旧6ヶ町一帯

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

旧・「長崎開港旧町」の石垣 ながさき
長崎市 桜町〜興善町〜賑町〜築町〜県庁・南〜樺島町〜五島町〜金屋町 石垣 長約1.6㎞(当初) 16C後半
or 江戸期 WEB(みさき道人)/WEB 県庁南側と、五島町〜金屋町にかけて3ヶ所に分かれて残る 長崎の語源となった「海に長く突き出た岬」を囲むように築かれた石垣/長崎開港(16世紀後半)当時の長崎の遺構と見る説もある(大村・長崎対深堀・西郷の抗争の中で次第に構築されていった)/表題の「長崎開港旧町」は最初の6ヶ町を意味する→決まった名称はない 3 A

布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。

喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段

忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
…事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。

旧・「長崎開港旧町」の石垣は、この喧嘩坂の後段に次のとおり記述がある。

裏手の丘はもともと海に長くつきだした岬で、これが「長崎」の語源になったといわれている。長崎の町は、この岬からはじまり、周囲にひろがっていった。江戸時代の地図をみると、この丘をとりかこむ石垣が描かれており、そのあとにはいまなお自然石の石垣や、ていねいにしあげた正方形の石材を水平積みした石垣が断続的にのこっている。県庁の南東側には自然石の石垣の上に正方形の水平積みの石垣をつぎたしたものが見られる。全部が江戸時代またはそれ以前の遺構ではないとしても、このようなものが都市のまんなかに存在していること自体が貴重である。

さらにつけ加えれば、片寄俊秀氏(現関西学園大学教授)は、著書『長崎歩く考える』のなかで、結城了悟二十六聖人記念館前館長の考えを紹介し、この石垣が開港当時(16世紀後半)の城塞都市「長崎」の遺構である可能性を示唆している。当時の長崎はキリシタンの町であり、しばしば敵対勢力による攻撃をうけていた。
その意味からも、市中心部の石垣については、これをしっかりと保全し、調査していく必要がある。

先般、NHKテレビ「ブラタモリ 長崎編」により紹介があった。遺産サイトは城郭・山城までは調査対象としていないが、都市形成の遺構であり、私も現地を訪ねた。主に遺構が確認できる所在図赤線通りの金屋町・江戸町・築町一帯の石垣の現状を撮影して報告した。すでにコンクリート化された箇所もある。
出島の対岸となる一帯で、護岸もあるだろう。船つなぎ石も残る。私の調査は専門的な歴史研究ではないので正確な史実ではなく、石垣遺構の概要として判断いただきたい。
本ブログ古写真考の次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3623

「長崎石物語」以外の長崎開港史を記述した主な文献類を、次の記事により少しまとめて載せる。 

天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町 ( 長崎県 )

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天満坂(喧嘩坂)  長崎市万才町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。現在の万才町、長崎地方検察庁と同法務局の間を築町側へ下る石階段の坂。

天満坂 てんまん
長崎市 万才町(長崎地方検察庁〜長崎地方法務局) 石階段 元禄13(1700)以前 WEB(みさき道人)/WEB 保存状態良好 「長崎喧嘩騒動」が起きた場所 1 C

布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の42〜43頁による説明は次のとおり。本ブログ次も参照。深堀の「金谷山菩提寺の沿革など」と「長崎喧嘩騒動」
https://misakimichi.com/archives/391

喧嘩坂 — 長崎版討ち入り事件の発端となった石段

忠臣蔵で知られる赤穂事件の前年、その元祖ともいうべき討ち入り事件「長崎喧嘩騒動」が起こっている。事のあらましはつぎのとおりである。
1700(元禄13)年12月19日の昼、「天満坂」(別名大音寺坂)で佐賀藩深堀領主鍋島官左衛門茂久の家臣である深堀三右衛門が杖をついて歩いているとき、誤って泥をはねた。これが、長崎の町年寄高木彦右衛門の使用人にかかって、口論となった。その場はいったん収まったものの、その日の夕方、長崎にあった深堀屋敷に高木家の使用人が大勢で押しかけて乱暴狼藉を働き、三右衛門らの刀をうばった。
この知らせが深堀の城下にとどき、翌日、家臣多数が長崎にむかい、三右衛門らとともに高木屋敷に討ち入り、彦右衛門らを討った。本懐をとげた三右衛門は屋敷内で切腹、その甥である志波原武右衛門はいまの浜市アーケード入り口にあった「大橋」(現在の鉄橋 くろがねばし)の上で切腹した。その後、幕府の判断をあおいだ長崎奉行は、「討ち入りに加わった深堀の家臣は切腹、遠島、深堀邸に乱入した高木家の使用人は斬首」との処分を下した。
事件の発端となった天満坂はのちに喧嘩坂とよばれ、現在は史跡に指定されている。その坂には長崎産の安山岩でできた石段があって、その両側には同じ材質の大きな自然石(または、それを二つに割った石)が空積みされた立派な石垣がある。…

長崎軍団片渕仮病院の位置について  長崎楽会中尾氏私見 ( 長崎県 )

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長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載)
の位置についての私見

高橋氏の疑問の元は、松本良順が、仮病院の場所は新大工町であると記述してあることだと思われます。
結論から言えば、仮病院の所在地は間違いなく長崎村片渕郷の内(現・長崎市片渕一丁目)なので、この記述は厳密には言えば、明らかに間違っています。この場所は、新大工町の裏の狭い通路に接する地域で、新大工町側から入る所なので、新大工町裏の……と言えばよいのですが、町の境界は他地区の人にはよくわからず、今でも普通に、新大工町の………と言われたりすることがよくあります。(このような例は、近辺でもみられ、たとえば、片淵に接する夫婦川郷(現在は町)にあった高島四郎兵衛私有地の砲術稽古場は、俗には片渕の射的場と呼ばれていたそうです。)

➀ 仮病院が建てられた新大工町裏手一帯の土地は、私の友人大井氏の研究によると、以前から、幕府(奉行所)が、非常時のため確保していた土地で、天保14年(1843)には、立山奉行所の与力・同心を住まわせる御組屋敷(のち、手附出屋敷と改称)が置かれています。また、文久2年(1862)には岩原官舎に置かれていた英語伝習所が一時的にこの地に移転され英語稽古所となったり(翌年には立山役所に移転)、翌文久3年(1863)には、地役人を訓練するための乃武館(だいぶかん)と言う武術訓練所が設けられています。乃武館の訓練生は、奉行所お抱えの遊撃隊として、幕末長崎の治安活動に従事していたが、ほどなく、幕府が滅亡したため、解体の憂き目に合うが、薩摩藩士松方助左衛門の説得を受け、土佐藩大監察佐々木三四郎の説得を受けた海援隊の長崎残留者と合流、名を振遠隊と替えて、戊申戦争には新政府軍として奥州に出兵し活躍しています。

② 国立公文書館の軍団仮病院(官軍臨時病院)の写真は私も持っていますが、画質がきわめて悪いので、背景などがよくわからず細かい判読が難しいようです。長崎歴史文化博物館の精密画を拡大すれば背景まで鮮明に確認できます。富貴楼や諏訪神社がはっきり写っており、この地域を知っている人が見れば、この写真が新大工町裏手の現在の片渕一丁目辺りだと一目瞭然です。また、写した場所は、諏訪神社と富貴楼の位置関係から見ても、トッポ水横から階段を上った春徳寺裏門辺りより南側の一段下の地、現在シャン・ドゥ・プレ夫婦川マンション(トッポ水横棲登り口辺りの右手に見えるエンジ色のビル、入口は夫婦川横道の方から入る)の敷地南端当たりと思われます。写真でおもしろいのは、仮病院敷地に写っているすべての人物が写真を写している方向を向いていることです。

③ 写した位置が少しずれるが、軍団仮病院が建てられた同じ場所の写真があります。この写真は、明治元年に九州鎮撫総督兼長崎裁判所(行政府)総督として赴任した沢宣嘉が振遠隊の教練を閲兵したときの写真で、『長崎市史』地誌編神社教会下のp431−432梅香崎招魂社の項に掲載されているものです。画像がよくないが、原版は沢家から国会図書館に寄贈されたと聞いている。探せば、もう少しましな画像があるかもしれない。

平成27年6月17日  中 尾

国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から ( 長崎県 )

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国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から

高橋信一氏(前慶応大学准教授)著「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話二 —真実を求めて—」が2015年6月に渡辺出版から発刊されている。
266〜270頁に「282 長崎軍団病院の写真」として、国立公文書館が所蔵する古写真の考察がある。

私は懇意にしてもらっており、現在の撮影地調査に協力した。私や堺屋氏(長崎の古写真研究家)の調査では、この古写真はトッポ(獨鈷)水横から春徳寺裏門へ登る坂段道の高台あたりから、「移設前の旧長崎原爆病院辺りの片淵の畑地に掛け小屋を建てて仮病舎としたと言われる」仮病舎そのものを撮影していると思われる。現在は住宅が建て込み、古写真とまったく同じ写真を写せない。
背景の諏訪神社、松の森神社の大楠、料亭富貴楼、遠く帆掛山・稲佐山稜線などを合わせると、だいたいこの春徳寺付近から、西方の片淵の仮病舎を撮影しているのは間違いない。

詳しい説明は省くが、要点は「仮病院の場所は新大工町である」との記述とか、上野写真撮影局屋上から撮影したとするのは、正確な事実と違い誤解を与える。古写真がこれを正しく記録している。というのが高橋先生の考察である。
長崎文献社刊「アルバム・長崎百年」などにも、同じ古写真が掲載されているので、主なものを参考に載せる。「続・アルバム長崎百年」から明治15年同地にできた長崎監獄(片渕監獄)の位置も参照。
その後、大戦後の日赤長崎原爆病院は茂里町へ移転。済生会病院がここに建っていたが、長崎市立片淵中学校の高台移転へ伴ない、済生会病院の新病院建物は、中学校跡地側へ移っている。

ところでこの広い平地「片淵の畑地」。いわく因縁のある官有地だった。軍団仮病院となる当時は、農民の畑地に一時払い下げられていたようだが、西南戦争拡大に伴いそれをまた買い上げて、長崎軍団片渕仮病院ができたというのが真相のようである。
地元片渕地区に住む私の知人、長崎楽会中尾氏がおもしろい研究をしてくれたので、次の記事「長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載))の位置についての私見」によって紹介する。

ツル掛石鍋製作所・跡  西海市平山郷ツル掛 ( 長崎県 )

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ツル掛石鍋製作所・跡  西海市平山郷ツル掛

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。

ツル掛第二石鍋製作所・跡 つるかけ
西海市 平山郷ツル掛 石鍋製作場 平安末期〜鎌倉初期 東 貴之 高20-30m、幅5-10m、奥行100m以上の規模をもつクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→最大規模の石鍋製作遺跡 2 A

国指定史跡ホゲット石鍋製作遺跡などと同じく、「西彼杵半島の山中では、…最大規模の石鍋製作遺跡 2 A」とあり、昨年から現地へ出かけ調査を進めているが、長崎県教育庁学芸文化課・西海市教育委員会などに尋ねても、正確な場所がわからず実態を把握していない。
長崎県教育庁学芸文化課サイト「長崎県遺跡情報システム」による詳細と所在地図(別図)は、次のとおり。

■ ツル掛第1遺跡
遺跡名称 : ツル掛第1遺跡(つるかけだいいちいせき)
市町村名 : 西海市
種別 : その他の生産遺跡(石鍋製作跡)  時代 : 古代/中世  立地 : 山地

■ ツル掛第2遺跡
遺跡名称 : ツル掛第2遺跡(つるかけだいにいせき)
市町村名 : 西海市
種別 : その他の生産遺跡(石鍋製作跡)  時代 : 中世  立地 : 山地

さて、東 貴之氏(長崎石鍋記録会長)の記録である。遺産サイトの 「高20-30m、幅5-10m、奥行100m以上の規模をもつクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所」とは、同会の石鍋橋「この橋は?(ホームページ版)」後段に表れる。
http://www2.tvs12.jp/~m-hide/screen/008_konohashi.pdf#search=’%E7%9F%B3%E9%8D%8B%E6%A9%8B’ 【引用・参考文献】とした、石橋忠治氏 2007「八人ヶ岳における石鍋製作所跡」『西海考古』第7号 西海考古同人会 など確認しても、肝心な「ツル掛第2遺跡」のことはまったく紹介されていない。

クレパス状遺跡がある「ツル掛第1遺跡」は、八人ヶ岳山頂近くの駐車場へ行く車道途中の「鯖くされ岩」少し先から、右手のロープを張った右の農道へ入る。奥に梅林の廃ビニールハウスがあり、この端から左手の雑木林内高台へ登る。石鍋未成品のほとんどが剥ぎ取られたか、昔、集落にローセキ工場があったとかの話で、滑らかなクレパス状壁面が広く残っていた。現地遺跡の状況は、私が2014年12月に2回出かけて撮影した写真のとおり。記録数値はここではややオーバーなようにも感じる。
写真18枚目以降が「ツル掛第2遺跡」。集落の人家上で大カーブの車道や墓地となり荒れている。残っている岩面からはクレパス状とは考えられない。近くの人家の庭石にされた石鍋がある。

「ツル掛第2遺跡」か「ツル掛第1遺跡」か、単純な表記間違いと思われるが、東氏は転出されたようで連絡が取れない。長崎石鍋記録会関係者は、個人の論文だからと調査に前向きでないため、これ以上の確認がむつかしい。
長崎県遺産リストの未画像案件は、私が保留していたのでこれ1つのみ残った。一番良いのはこのブログ記事を参考に、長崎石鍋記録会が正確な現地再調査を行い、撮影画像を遺産サイトに提供し、ホームページ版を修正してもらうことだろう。遺跡場所間違いが私にあるかも知れない。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり修正し更新された。

ツル掛石鍋製作所・跡 つるかけ
西海市 平山郷ツル掛 石鍋製作場 平安末期〜鎌倉初期 WEB(みさき道人) 奥行数10mのクレバス状の遺跡 滑石を刳り器状に仕上げた石鍋の製作所/西彼杵半島の山中には滑石層の露頭が多く石鍋製作遺跡が散見される→本遺構は中規模/第一・第二の2ヶ所があるとの報告もあるが、現在確認できるのは1ヶ所 2 B

津波よけの石垣  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

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津波よけの石垣  長崎市福田本町

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊44〜47頁による説明は次のとおり。
本ブログ次を参照。 福田の散策(3) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

(3) 事代主神社祠と宮林
此れから海浜防波堤に沿いながら千本松原の方へ歩くと、道中、事代主神社祠があります。そして米田歯科研究所手前辺りに、頃は寛永12年(1635)、中野平五左衛門が天満宮を再興しました。しかし当時、福田地方は津波が度々あり、後難を恐れて天和元年(1681)徳川五代将軍綱吉の時代に現在の高台に移しました。跡地は今日、住宅が立ち並び僅かな樫、椿の巨木が当時の区域として残るのみです。

(4) 津波よけの石垣
自然石を1〜2m積み上げた石垣が所々残っています。これは天和元年(1681)以前に津波があり、度重なる津波に後難を恐れた住民が、宮林より海岸沿いに長々と石垣を築いたものです。

さて、この歴史散歩「(4)津波よけの石垣」である。福田バス停近くに「福田史蹟案内図」があり、(4)の場所を訪ねた。「津波除けの石垣」というのは、全国でも和歌山県に3ケ所、大分県に1ケ所以外、今のところ把握されていないくらい貴重な遺構となるらしい。
事代主神社祠後ろの宮林跡近くで、私が見た石垣の現況は、写真のとおり。この辺りは住宅地となり、石垣はだいぶん壊されているが、ここの畑地に幅2m、L字に曲がって長さ50mくらい、高さ1〜2mほどの古い石垣が残っていた。多分この石垣のことではないだろうか。
遺産サイトへ画像で報告したところ、次のような返答があった。

長崎歴史文化博物館から回答がありましたが、福田地区に関しては資料を所蔵していないとのことで、期待した情報はありませんでした。
『日本被害地震総覧』より、長崎周辺で、下記の地震があったことが分かりました。
・1657年1月3日(明暦2年11月19日) 夜 長崎
家の接目が口を開き、柱および壁が倒れたという。
・1725年11月8〜9日(享保10年10月4〜5日) 肥前・長崎 M6
9月26日に80回余の地震を感じた。
大分有感。この両日は地震を強く諸所破損多し。
平戸でも破損多し。天草・大分有感。
『出島日記』よるとこの地震は継続的に翌年の8月30日までつづく。
この年11月25日06時ころ強震、出島の建物はすべて小損。大村では感じなかった。
翌年1月13日5時ころの地震で被害かなり。
テントに暮らす。中国人居留地破壊、また長崎市中にも被害。
『出島日記』により、被害が少し分かるようになった。
津波除けは、24年も前なので、関係があるとはちょっと言い難いかもしれませんね。
津波除けが90度に曲がっていると、そこに波が集中して危険です。津波除けの堤防は直線状に造られるはずです。

岩永氏が参考資料としたのは「福田の旧跡(福田公民館)」。「福田村郷土史」は宮本瑞穂氏や林純夫氏著のがあるが、林氏のでは記述を見出せない。正確な文献や現地調査は、地元にお願いしたい。
福田は外洋に面し、地形的な高波、冬場の荒波や台風期には上陸地点となることがある。今行ってもこの付近だけ防波堤がさらに嵩上げされていた。

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料は、次のように記している。
15 津波よけの石垣
福田は、しばしば津波(恐らく高波であろう)に襲われ、福田本町の辺りは水に浸かった。そのために津波よけの石垣を築いていたが、今でもその跡が所々に残っている。
長崎文献社平成10年刊「長崎町人誌 第六巻」中の”新編 長崎名勝シリーズ”福田地区の天満神社の項
257〜258頁に次の記述があった。わざわざ「海嘯(*高波)」と注釈がある。これが正しいのだろう。
L字状に築かれたのは、当時の集落の端がこの辺りまでだったためと思われる。

天満神社  旧福田村の鎮守で、福田本町字宮の脇に鎮座する。創立は詳らかではないが、大村純忠時代のキリスト教徒による寺社破却以前から祭られていた。寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興。そのころ田子島にあったが、天和元年(1681)夢の神託を蒙り、現在地に勧請。…
夢の神託のこと  ある夜海嘯(*高波)あり、当地佐々木某神託を蒙る。即ち「海嘯あり自分は今流失の危険にさらさる海水すでに胸に達す」と、佐々木某奇異の思ひをなせしがまさかとの疑念を抱きて寝に就く再度神託ありしも意に留めず三度神託を蒙りただ事ならずと思い衣を改めて出ずれば夢の如し、直ちに海水に浸して社殿に至れば神体正に流失の危機にあり直に神体を奉持し自宅に安置せり、海嘯悉く引きて後再度社殿に奉遷せんと考えたるも 後難を患へ現社地内に勧請せりといふ 旧社地を天満宮元屋敷と称し附近の林を「宮林」と称せり。(『福田村郷土史』より)

「かいしょう 海嘯」 (広辞苑第2版から)
(津波に当てるのは誤)満潮の際に遠浅の海岸、特に三角形状の開いた河口部に起る高い波。中国の銭塘江、南米のアマゾンなどに顕著。
「かいしょう 海嘯」 (旺文社国語辞典から)
(「嘯」は、うなる意)遠浅の海岸や三角形状の河口などで、満潮時に逆流する海水が、狭い河口の抵抗によって壁状の高い波となる現象。また、その高波。

なお、サイト「近世以前の土木・産業遺産」リストへの登載は、次の見解があり保留となった。

「海嘯」という用語は、江戸時代には、各種の要因により海水が高く押し寄せる現象すべてを指していましたから、現代の用語の海嘯とは違います。しかし、各種の要因の中には、地震による津波だけでなく、高潮も、台風による高波も含まれます。
問題は、ここからです。天和元(1681)年に夢を見て、現在地に勧進とあります。ということは、勧進はそれ以後となります。これを信じれば、津波の場合、宝永地震(1707)によるものとなります。もちろん、高潮、高波については年代は特定できません。
一方、福田天満神社の「棟札には寛永年間(一六二四〜一六四四年)の再興とある」との記述も見つけました。棟札は建物に付属するものですから、もし、「現在地に勧進」されたとするのが正しいのであれば、棟札は18世紀の年代が書いてあるはずです。

棟札が、「寛永12年(1635)8月中野平五左衛門茂明が再興」の数値と同じと言うことは、移転はなく、現在の位置に最初から建てられていたことを意味します。そのくらい、棟札の持つ意味は重いのです。もちろん、この棟札の情報そのものが間違っている可能性もあります。
しかし、もし正しいとすれば、「夢の神託」そのものが作り話ということになり、波除石垣も雲散霧消してしまいます。形態が、前に申し上げたように、波除としてはあり得ないことも、それを裏付けているように思います。
一方、松林の方は、宝永地震(1707)を受けて造られたと考えれば、元文元(1736)の築造も合理性があります。

田子島台場跡  長崎市福田本町 ( 長崎県 )

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田子島台場跡  長崎市福田本町

平成21年4月学さるく「神の島から福田まで」講師江越弘人氏の作成資料による説明は、次のとおり。
福田バス停から福田中学校へ向かう。グランド側の市道沿いに史跡説明板が千本松原とともにある。
本ブログ次も参照。  福田の散策(4) 福田本町の史跡 長崎市福田本町
https://misakimichi.com/archives/1671

田子島台場跡
嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した一月後の7月に、ロシアのプチャーチンが軍艦4隻で長崎に来航し、通商を求めた。大村藩では翌年安政2年(1854)に長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に4つの台場を築いた。また、3年後には改築して台場を増強したが、その概要は次のとおりであった(大村郷村記)。
一の台場  18ポンド砲1門、12ポンド砲1門、1貫目砲1挺  計3門
二の台場  12ポンド砲2門、1貫目砲1挺  計3門
三の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、5百目砲1挺  計3門
四の台場  12ポンド砲1門、1貫目砲1挺、7百目砲1挺  計3門
硝煙蔵1棟、武具蔵2棟、番手小屋1棟、硝煙小出蔵4ヶ所

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータに、次のとおり登載された。

田子島台場・跡 たごしま
長崎市 台場(大村台場) (一)18ポンド砲1,12ポンド砲1(二)12ポンド砲2(三)12ポンド砲1(四)12ポンド砲1 安政2(1855) WEB(みさき道人) 石塁が残る(総延長約400m) 大村藩が長崎出入の枢要の地点である千本松原の田子島に築いた4つの台場の総称(一の台場〜四の台場) 3 B