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城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目 ( 長崎県 )

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城の古址の石切り場跡  長崎市片淵2丁目

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。これは、城の古址の現況。
城の古址(しろのこし)の石切り場跡は、夫婦川町春徳寺右から同寺墓地の最上段駐車場まで車道を登る。城の古址への坂段途中から左の山道へ入るとある。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の52〜55頁による説明は、次のとおり。

春徳寺と「城の古址」—最初の教会跡、最大規模の唐人墓がみどころ

…「東海の墓」の百メートルほど北東にある西向き斜面には、幅四十・五十メートル、奥行き十五・二十メートルの凹地があって、片側は高さ十メートルほどの垂直な崖になっている。ここが江戸時代に石材を切り出した採石場あとのひとつである。現在はうっそうとした森に包まれていて、外からはまったくみえない。しかし、西(山頂に向かって左側)のほうにまわりこむ小道があるので、これにそって歩いていけば、かんたんになかまではいることができる。そのすぐ裏山が「城の古址」(しろのこし)である。…

風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町 ( 長崎県 )

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風頭山の石切り場跡  長崎市風頭町

長崎の江戸時代の主な石切り場跡、風頭山・城の古址・豊前坊の3箇所を訪ねた。まず、風頭山の現況。
風頭山の石切り場跡は、風頭町の風頭公園内展望台の西と北側に残る。布袋厚著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の102〜104頁による説明は、次のとおり。

風頭山の石切り場跡—坂本龍馬も歩いた溶岩の山

江戸時代の長崎で最大の石材産地は風頭山(かざがしらやま)である。現在、石切り場のあとは公園となっていて、その全容をかんたんにみることができる。風頭山は寺町の背後にある標高百五十二メートルの丘…
公園の園路を200メートルほど歩くと、左に「坂本龍馬の像」や展望台がみえてくる。それらのまわりにある一段低いところが石切り場のあとである。まわりをかこむように切り立った岩肌が露出しており、展望台の下には、石を割るときにクサビを打ちこんだあとのくぼみがのこっている。とくに運動広場から上る階段の近くにはたくさんみられる。
崖からみると、数十センチメートルの間隔で、たて方向に割れ目がはいっているのがわかる。しかし、水平方向の割れ目はあまりないので、長い柱状の石がとれるのである。岩肌には、ところどころ、直径数センチメートルほどのまるいかたまりがはいっていて、眼鏡橋などの石材と同じものであることがわかる。
風頭山は厚さが百メートル以上もある溶岩でできており、市街地付近の溶岩としては最大規模である。…

幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか ( 長崎県 )

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幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂  長崎市寺町ほか

長崎市の坂で有名なのは、「オランダ坂」「天満坂」のほか、寺町や筑後町に3つの「幣振坂」、上小島1丁目に「ピントコ坂」、南山手町に「ドンドン坂」があるので、現況を報告する。
現地説明板や長崎市公式観光サイト「あっ!とながさき」、HP「長崎県の坂」リストによる説明は、次のとおり。

幣振坂 1  (皓台寺側 長崎市寺町と鍛冶屋町の間から寺町と高平町の間まで 一部階段 下部は車道コンクリート化)
晧台寺と大音寺の間の坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達をこぶしたことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか延命寺と長照寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。この坂は,長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭やラストシーンに出でてきます。   管理者:長崎市

幣振坂 2   (長照寺側 長崎市寺町 階段 下部はコンクリート化)
風頭山頂へと続く坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧台寺と大音寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。   管理者:長崎市

幣振坂 3   (東本願寺側 長崎市筑後町 階段 ほとんどコンクリート化)
幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧大寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏(げげ)」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。   管理者:長崎市

ピントコ坂   (長崎市上小島1丁目 斜度=10°/道幅=3.1m ほとんどコンクリート化)
ピントコ坂とは、旧茂木街道にあたる上小島の墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続く坂段のこと。
寛永年中(1624〜1643)、贋金作りの唐人・何旻徳(か・ぴんとく)が処刑された場所で、彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)があることからこの名で親しまれるようになったという。
下部にあるピントコ坂と表示板の場所から南高前にある表示板まで、それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。古く長崎では険しい坂段を上り下りするときに“ぴんとこどっこいしょ”というからピントコ坂という説もあるのだとか。

ドンドン坂   (長崎市南山手町 一部階段)
坂の特徴 坂の方向  南東に向かって上る。長さ 110m,道幅=1.7m 傾斜 急坂(高低差27m,平均斜度14度)
形態  直線の狭い坂。坂の頂上部で短い階段になる。
由来他  南山手に残る居留地時代の坂道。オランダ坂に匹敵する歴史的な遺構で,今なお居留地時代の雰囲気が残っている。石畳で,石材は建設当時のまま,舗装されたのは1877(明治10)年以降と考えらる。(「ARCHITECTURAL MAP」」より)
雨が降ると流れ落ちる水が途中でどんどん速くなることから,こんな名がついた。両脇の溝の形がU字・三角溝・四角溝など違っているのも水量とスピードを調整するためという。(「長崎さかみち散歩」より)
命名時期  明治時代
参考文献  『長崎さかみち散歩』真木雄司 春光社 2006 『ARCHITECTURAL MAP ドンドン坂』

長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎居留地の地番標石1〜4  長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。境石1〜5は、前記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の地番標石1 ながさき
長崎市 南山手町15-39 居留地の地番標石 高50㎝,幅15㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No1/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「35、南山手 三十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石2 ながさき
長崎市 南山手町13-30 居留地の地番標石(尖頭角柱) 高59㎝,幅18㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No14/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「B乙 十六番/B乙 十五番」 1 C

長崎居留地の地番標石3 ながさき
長崎市 南山手町10-25 居留地の地番標石 高56㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No26/WEB(みさき道人) 塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「乙 十四番」 3 C

長崎居留地の地番標石4 ながさき
長崎市 出島復元整備室<出島> 居留地の地番標石 高70㎝,幅17㎝ 文久元(1861)以降 WEB(みさき道人) 保管 同上/(正面)「十一番、No.11」 2 C

長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか ( 長崎県 )

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長崎居留地の境石1〜5   長崎市南山手町ほか

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。地番標石1〜4は、次記事に。
長崎の外国人居留地の境石や地番標石は、東山手町や南山手町を中心に全体で約90本近く残っている。
遺産リストでは、高さ50cm以上を取り上げているため、この分の標石のみ改めて紹介する。
現地写真は各2枚ずつ。標石の所在場所など詳細は、本ブログ書庫「長崎の外国人居留地跡標石」リストから、以前の各記事をそれぞれ参照。

長崎居留地の境石1 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高111㎝,幅30㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No6/WEB(みさき道人) 原位置?/本リストでは高さ50㎝以上のもののみを取り上げるが、それ以下のものを含めれば80基以上が現存し、大半が原位置もしくはその近くに残る 安政の五カ国条約により外国人に開放され、安政7以降、大浦の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。グラバー邸の完成が文久3(1863)、長崎大学附属図書館が作成した慶応3(1868)の長崎居留地の敷地割の地図では丘陵部の敷地割は完成しているので、現存する当該地区の居留地境石、地番標石は幕末〜明治初期のものと推測される/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石2 ながさき
長崎市 南山手町16-30 居留地の境界石 高78㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No7/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 C

長崎居留地の境石3 ながさき
長崎市 小曽根町1-13 居留地の境界石 高92㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No27/WEB(みさき道人) 原位置?/同上 同上/(正面)「居留地境」 1 B

長崎居留地の境石4 ながさき
長崎市 グラバー園 居留地の境界石 高111㎝,幅28㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No31/WEB(みさき道人) 移設・集約/同上 同上/(正面)「居留地境」 2 B

長崎居留地の境石5 ながさき
長崎市 東山手町1-41 居留地の境界石 高145㎝,幅27㎝ 文久元(1861)以降 どじょう会No69/WEB(みさき道人) 煉瓦塀に埋め込み/同上 同上/(正面)「□留地境」 3 B

唐人屋敷の境石  長崎市館内町 ( 長崎県 )

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唐人屋敷の境石  長崎市館内町

サイト「近世以前の産業・土木遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。館内町唐人屋敷跡の上部、天后堂後ろ側角に「福建地堺」の境石はある。
稲佐国際墓地の最上部(稲佐山登山道路側)には、「福建墳?地堺」と刻む境石(高52cm,29cm角)もある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/422
天后堂資料は、布袋厚氏著「長崎石物語 石が語る長崎の生いたち」長崎文献社2005年刊の30頁から。

唐人屋敷の境石 とうじんやしき
長崎市 天后堂・裏 唐人屋敷の境界石 高100㎝,24㎝角 元文元(1736)以降 WEB(みさき道人)/長崎石物語 煉瓦塀に埋め込み/他に高さ50㎝以下のものが1基現存 唐人屋敷は、清の「遷界令」の撤廃(1684)を受けて、元禄2(1689)、長崎奉行所が設けた中国人居留地であるが、境界石の設置年代は不明(左記の年代は天后堂の建立年)→安政の開国により廃屋化したので、下記の外国人居留地境石よりは古いと推測される(刻字が浅く、居留地境石と同時期の建立とは考え難い)/(正面)「福建地堺」 3 B

「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答 ( 長崎県 )

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「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答

ご意見(要旨) 【「わかる!和華蘭」のわからん】  【2015年06月受信】

新長崎市史の普及版「わかる!和華蘭」が、本年3月発行されています。私の理解不足もありますが、内容でわからんのをお聞きします。
35頁 右下の掲載写真の説明は、「戸町氏の居城・戸屋城跡(上戸町)」とあります。一方、長崎学ハンドブックⅡ「長崎の史跡(南部編)」104頁では「鳥屋城跡」となっています。長崎名勝図絵・長崎日記・大村郷村記など古書で、確かにいろいろな表記がありますが、どれが正しいのかわかりません。「鳥屋城跡」を「戸屋城跡」と変えた理由を市民にわかりやすく説明してください。
80頁 長崎の主な街道図で、なぜ「御崎道」はこのようなルートになるのですか。長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」文久元年の紀行や、平凡社「長崎県の地名 日本歴史地理体系43」御崎道の解説、道塚の所在、文久・明治地図などからは、まったく考えられない史実に反した説と思います。
「新長崎市史」は、市民が後世へ伝えるなるべく正確なものにお願いします。市史発刊時すでに指摘し、監修の充実を市政へ提案していました。正誤表も必要と要望していました。それはどうなったのですか。

回 答 【統計課】  【2015年06月25日回答】

「新長崎市史」全4巻及び本年3月に発刊しました「わかる!和華蘭 新長崎市史普及版」については、一部、記載内容に誤りが見つかっており、訂正方法を検討しております。読者の皆さまならびに関係各位にご迷惑をお掛けしておりますことを深くお詫び申し上げます。
今回、ご指摘いただきました箇所につきましては、執筆者等と検証することとしておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
一人でも多くのかたにご活用いただける市史等を目指してまいりますので、お気づきのところがございましたら、統計課へお知らせいただきますようお願いいたします。

立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、狭田水樋土管を倉田水樋の木管や支管用土管とともに展示している。
この土管は約37年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げて車道を造った際、古い土管が出土したという。
本ブログ次も参照。  立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉 長崎市西山1丁目 (倉田水樋は別項)
https://misakimichi.com/archives/1233

狭田井 せばた
長崎市 <立山役所専用水樋?> 湧水井 延宝2(1674) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7 保存状態良好 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明 1 C

立山役所専用水樋の土管 たてやま
長崎市 長崎市水道資料館<立山役所への給水施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降? WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択) 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成 4 A

丹羽漢吉氏編「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊の特集7頁による説明は、次のとおり。

倉田水立山水系  立山役所専用水樋

立山役所(奉行官宅)は、倉田水樋が完成した延宝元年(1673)に、外浦町にあった奉行所内東西両屋敷の内、東屋敷が分離移転したものであるが、標高の関係があって、倉田水樋の水は引けなかった。
そこで翌延宝2年(1674)奉行牛込忠左衛門は倉田次郎右衛門に命じ、立山役所専用水樋を架設させた。
次郎右衛門は西山郷背畑(狭田)山に水源を求め、水道樋(延長約1,420mという)をもって、立山役所に水を引いた。しわゆる倉田水立山水系とでも呼ぶべきものの始まりである。
これによって次郎右衛門は、水樋役に任命され、本五島町乙名(寛文11年1671任命)とを兼ねることとなった。
一説に、狭田水を立山役所に引いたのは寛政8年(1796)とし、井戸所有者に年銀700目を給したという。
次いで、享保2年(1717)水樋役倉田(4代)源次兵衛常政は、奉行石河土佐守の命により西山郷椿原の水源から、水樋(約1,400mという)をもって、立山役所へ水を引いた。倉田水立山水系の第1次拡張事業である。…

(2015年6月30日 追 記)
入江氏から教示いただいた。国立公文書館所蔵「肥之前州長崎図(ひのぜんしゅうながさきず)」森幸安が寛延から宝暦(1748-63)にかけて書写、収集した地図類の、長崎奉行所岩原御目附屋敷の上のところに、後方に「せばた山」とあり、井戸の名は書かれていないが、「此水長崎第一ノ水トス 龍ノ口」と書かれているようなので、絵図を参考に追加する。

倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、出土した倉田水樋の木管や支管用土管を展示している。
本ブログ次も参照。  倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目  (立山役所水樋狭田井は別項)
https://misakimichi.com/archives/1202

倉田水樋の木管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設> 木管(上水道) 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6 長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり) 寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない 4 A

倉田水樋の支管用土管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降?? WEB(みさき道人)/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明 上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの 3 C

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

倉田水樋
倉田水樋(くらたすいひ)は、江戸時代に長崎に水を供給した水道。

水道敷設の経緯
この水道は、本五島町の乙名である倉田次郎右衛門が私費を投じて創設したものである。
長崎の町は元々水源に乏しく、生活用水や非常時の消火用水の不足が問題になっていた。そして、寛文3年(1663年)の大火の際に水不足を痛感した次郎右衛門は、長崎のための水道を造る事を決意。寛文7年(1667年)、許可を得て中島川の上流の現・伊良林1丁目付近の銭屋川を水源とする水道の敷設工事に着手した。
この水道工事は市内36町に水樋を引き送水するというもので、多額の工費が必要となり、次郎右衛門が私財のほとんどを売却しても足りなかったため長崎奉行も白銀300枚の資金援助をした。
水道が完成したのは延宝元年(1673年)の事であった。奉行所では水樋係を新設し、その任を倉田氏に世襲させた。以後、明治24年(1891年)に日本初の上水用ダムである本河内高部ダムが完成するまで、倉田水樋は200年余りにわたって長崎の住民に水を供給し続けた。

水樋
工事はパイプである木樋作りから始まった。松や檜の丸太を幹の縦方向に約3分の1切り離し、残りの部分を幹沿いに丸くくり抜く。これに初めに切り取った部分をかぶせてパイプとし、この外に杉皮や桧皮を巻いて、丸太のくり抜き木樋とした。後には板製の箱型木樋も用いられた。
木樋は中島川沿い左岸の八幡町−銅座町、右岸の大井手町−築町に通じる木樋を2幹線とし、町のほぼ中心部に当たる38ヶ所に埋設された。水は町の所々にある溜枡(貯水槽)に流れ、さらに下手に向かって配水された。この溜枡から市民は水を汲む事が出来、また溜枡には塞弁(そくべん)という板がつけられ、必要に応じて一定方向に水量を調節する事が出来るようになっていた。

参考文献
・『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
・『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
・『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社

立山役所の境界石  長崎市立山1丁目 ( 長崎県 )

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立山役所の境界石  長崎市立山1丁目

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎公園六角堂近くの立山側の自然石に「従是御立山」と刻む。
笹やぶの中にあり場所が分かりにくいから、所在図参照。カーブミラーの真下くらいの遊歩道脇にある。
本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/3085

立山役所の境界石 たてやま
長崎市 長崎公園六角堂近くの立山側 役所の境界石 (自然石) 延宝元(1673)以降 WEB(みさき道人) (正面)「従是御立山…」 –