幣振坂1〜3・ピントコ坂・ドンドン坂 長崎市寺町ほか
長崎市の坂で有名なのは、「オランダ坂」「天満坂」のほか、寺町や筑後町に3つの「幣振坂」、上小島1丁目に「ピントコ坂」、南山手町に「ドンドン坂」があるので、現況を報告する。
現地説明板や長崎市公式観光サイト「あっ!とながさき」、HP「長崎県の坂」リストによる説明は、次のとおり。
幣振坂 1 (皓台寺側 長崎市寺町と鍛冶屋町の間から寺町と高平町の間まで 一部階段 下部は車道コンクリート化)
晧台寺と大音寺の間の坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達をこぶしたことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか延命寺と長照寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。この坂は,長崎でロケがおこなわれた映画「解夏」の冒頭やラストシーンに出でてきます。 管理者:長崎市
幣振坂 2 (長照寺側 長崎市寺町 階段 下部はコンクリート化)
風頭山頂へと続く坂道。幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧台寺と大音寺の間や東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれています。 管理者:長崎市
幣振坂 3 (東本願寺側 長崎市筑後町 階段 ほとんどコンクリート化)
幣振坂の名前は,寛永11年(1634),諏訪神社の一の鳥居に使用するための石材を麓に下ろした際,宰領が御幣(紙を切り細長い木に挟んで垂らした神祭用具)を振って,人夫達を鼓舞したことに由来するとも言われています。長崎では,この坂のほか晧大寺と大音寺の間や延命寺と長照寺の間の坂も幣振坂と呼ばれています。長崎でロケがおこなわれた映画「解夏(げげ)」の冒頭に登場する「井戸」が坂の途中にあります。 管理者:長崎市
ピントコ坂 (長崎市上小島1丁目 斜度=10°/道幅=3.1m ほとんどコンクリート化)
ピントコ坂とは、旧茂木街道にあたる上小島の墓域から長崎県立南高等学校正門前まで続く坂段のこと。
寛永年中(1624〜1643)、贋金作りの唐人・何旻徳(か・ぴんとく)が処刑された場所で、彼を慕った悲恋の遊女、阿登倭(おとわ)がここで自死。この遊女を葬った傾城塚(けいせいづか)があることからこの名で親しまれるようになったという。
下部にあるピントコ坂と表示板の場所から南高前にある表示板まで、それにしてもピントコ坂は結構険しくて長い。古く長崎では険しい坂段を上り下りするときに“ぴんとこどっこいしょ”というからピントコ坂という説もあるのだとか。
ドンドン坂 (長崎市南山手町 一部階段)
坂の特徴 坂の方向 南東に向かって上る。長さ 110m,道幅=1.7m 傾斜 急坂(高低差27m,平均斜度14度)
形態 直線の狭い坂。坂の頂上部で短い階段になる。
由来他 南山手に残る居留地時代の坂道。オランダ坂に匹敵する歴史的な遺構で,今なお居留地時代の雰囲気が残っている。石畳で,石材は建設当時のまま,舗装されたのは1877(明治10)年以降と考えらる。(「ARCHITECTURAL MAP」」より)
雨が降ると流れ落ちる水が途中でどんどん速くなることから,こんな名がついた。両脇の溝の形がU字・三角溝・四角溝など違っているのも水量とスピードを調整するためという。(「長崎さかみち散歩」より)
命名時期 明治時代
参考文献 『長崎さかみち散歩』真木雄司 春光社 2006 『ARCHITECTURAL MAP ドンドン坂』