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重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る  2013年6月

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重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る  2013年6月

2013年6月2日(日)曇り。重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る。参加6人。みさき道歩会の例会。旧茂木街道から見て縦走できないか計画したルートだが、考えが甘かった。
大波止10:10—(バス)—重篭10:35—九電3号鉄塔10:49—4号鉄塔11:09—5号鉄塔11:30—ながさき出島道路入口12:42(昼食)13:20—茂木大山祗神社13:54—黒橋バス停14:35(徒歩距離 約8km)

大波止10:10発飯香の浦行き乗車。重篭バス停から歩き出す。霧雨も止む。九電送電線の長崎江川線(長崎丸山線)3号鉄塔から茂木大山祗神社上の12号鉄塔まで、重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る予定だった。
5号鉄塔まで行って、6号鉄塔の矢印標識が轟の滝少し上流の市道右にあったもののの、先の山道がわからず、途中で断念した。最近の道路事情から廃道となっているものもあり、一概に信じられない古い標識がある。

長崎自動車道の長崎IC側に市道をそのまま下り、ながさき出島道路入口の駐車場で昼食。茂木大山祗神社のヤマモモの大木を見学し、黒橋バス停へ出て帰った。
5号鉄塔と6号鉄塔の間は、若菜川上流の深い谷間になっている。6号鉄塔は高くて遠いピークにある。茂木大山祗神社上の12号鉄塔から逆に登らないと、九電鉄塔作業道を見つけるのはむつかしいようだ。再度、調査したい。

大正十一年頃のガラス写真 222 岩屋山

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大正十一年頃のガラス写真 222 岩屋山

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
222  (岩屋山)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号222は、背景に長崎市北部の山「岩屋山」(標高475.2m)が写っている。
山の稜線の重なりから撮影地を探すと、現在の長崎市竹の久保町「長崎県立長崎西高等学校」のグランド高台からと思われる。
現在の写真は、グランド裏門からフェンスを少し西側へ行った、岩屋山の見通しの良い場所から確認した。

この地は、1923年(大正12年)4月1日「長崎県立瓊浦中学校」が開校。竹ノ久保の元長崎重砲兵大隊兵舎を仮校舎とした。原爆により全壊。学制改革などあった。
1950年(昭和25年)7月「長崎県立長崎西高等学校」が長崎市竹の久保町(旧・長崎県立瓊浦中学校跡)に木造校舎を新築し、鳴滝から移転した(ウィキペディア沿革)。
私の母校で景色を思い出した。古写真に写る対面木立の中の大きな建物(現岩見町あたり)がどこだったか、ご存知の方は知らせてほしい。

大正十一年頃のガラス写真 128ほか 広馬場

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大正十一年頃のガラス写真 128ほか 広馬場

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
128,175  (広馬場)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号128,175は、湊公園近く現長崎市籠町の「広馬場」の風景と思われる。道路の反対側に渡り、カメラの向きを変えて撮影しているようである。
整理番号175は、新地籠町通りの「十軒蔵」が写っており、すでに次の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3679

青線囲みの丸屋根「公衆トイレ?」(現在もこの場所に、改築された公衆トイレがある)と、「右側建物」(バス待合所のよう?)及びその板壁に取り付けている「広告看板」は、同じであろう。
したがって、整理番号128も、湊公園近く「広馬場」の風景と判断できる。現在の写真は、ローソン長崎湊公園前店あたりから確認した。

寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備  2013年5月

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寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備  2013年5月

2013年5月26日(日)快晴。寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備。参加10人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。19日が雨のため延期した。
三和行政センター前9:35—西大道道塚10:05—平山台団地上分岐10:40—平山地蔵堂11:35—江川総合運動公園12:30(昼食)13:10—鹿尾川渡り地点13:58—ダイヤランド水準点14:41—現右衛門茶屋跡道塚15:00—二本松神社16:30—大浦石橋電停16:45(徒歩距離 約12km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施中。今回はその第4回目。関寛斎日記の帰路である「長崎往還道」を解明する。
国道499号蚊焼入口先の石段を上がり、「みさき道」を平山台団地上の水道タンクまで戻る。途中に2本の道塚がある。平山台団地上の地点は、重要な場所で、深堀道と長崎道の分岐である。関寛斎日記の記述は次のとおりである。
「夫(蚊焼茶屋)より半里許を行て昨日と道を換ふ。西方は深堀、東方は長崎道なり、八幡山峠を西に見八郎ヵ岳を東に見る」。距離や状景から、平山台団地上の水道タンク地点が分岐に間違いなく、明治地図の県道である。

平山へ下る道はさほど荒れていなく、団地北側の側溝に出る。車道を出入りしながら平山地蔵堂に着き、為石からの「長崎往還道」と合する。「長崎往還道」は、現在の国道499号に沿った道だが、ルートは地図のとおり。道はほとんど残って歩ける。江川総合運動公園で昼食。
午後からは、いつも歩く「みさき道」の逆コース。土井首大山祗神社前の鹿尾川渡り地点の跡を見てダイヤランドへ上がる。最近発見した明治地図の水準点、現右衛門茶屋跡道塚、南佐嘉領藩境石を見学しながら、上戸町の一方通行の所から弁慶岩の方へ登る。二本松神社から大浦石橋電停に下って今回の企画は終了した。
こんな道歩きに関心があり、新しい参加者が熱心に草刈り整備に協力してくれたことは、大きな収穫で感謝したい。

大正十一年頃のガラス写真 231ほか 茂木港内

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大正十一年頃のガラス写真 231ほか 茂木港内

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
231,232,233  (茂木港内)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号231,232,233は、現長崎市茂木町の「茂木港内」の風景と思われる。
当時、橋口、中、寺下の海岸はまだ砂浜だった。中あたりの海岸から、北浦、赤崎鼻、寺下方面を撮影しているようである。現在の写真は、弁天橋手前の岸壁から確認してみた。
茂木港の明治初期の様子と、埋め立ての歴史は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3489

大正十一年頃のガラス写真 209 脇岬海岸

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大正十一年頃のガラス写真 209 脇岬海岸

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
209  (脇岬海岸)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号209は、現長崎市脇岬町の「脇岬海岸」であろう。先に見える砂浜が「脇岬海水浴場」となっている。JRおでかけネットによる説明は、次のとおり。
脇岬海水浴場
はまゆうが自生する長さ1300mに及ぶ白砂の浜は、ボードセーリングのメッカ。週末には海上に色とりどりの花が咲き乱れる。また、干潮時には波の浸食により創られた棚瀬(ビーチロック)が現れる。日本の水浴場88選にも選ばれている。

大正十一年頃のガラス写真 208ほか 樺島湊

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大正十一年頃のガラス写真 208ほか 樺島湊

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
208,216,251  (樺島湊)

目録番号: 5317 樺島湊
〔画像解説〕   超高精細画像
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号208は、現長崎市野母崎樺島町の「樺島湊」である。当時の樺島湊海岸線の最奥部から、湊の出口を撮影している。
背景は脇岬の方の遠見山や殿隠山などである。左横には樺島の「無量寺」の屋根が写る。
長崎バス「樺島」終点から前樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。参道を登った神社境内から撮影したと思われるが、今は木立のため完全な景色が見えない。

次の整理番号216,251も、背景の脇岬の方の山が同じ。「樺島湊」の風景を近くの海岸から撮影している。モロ出しのこどもの写真が残った。
長崎大学データベースには、上野彦馬撮影の目録番号: 5317「樺島湊」の作品がある。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550

大正十一年頃のガラス写真 206 茂木の立岩

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大正十一年頃のガラス写真 206 茂木の立岩

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
206  (茂木の立岩)

目録番号: 5265 茂木立岩(1)
〔画像解説〕
茂木海岸にあった奇岩立岩の絵葉書写真。茂木は外国人の保養地として人気があったが、明治18(1885)年には旧県道が開通し、明治39(1906)年にはビーチホテルである茂木ホテルが開業し、観光客相手の絵葉書が多く残されている。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号206は、茂木海岸にある「立岩」である。南側から撮影している。
長崎大学データベースには、目録番号: 5265「茂木立岩(1)」などの作品がある。

大正十一年頃のガラス写真 178ほか 三菱立神ドック

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大正十一年頃のガラス写真 178ほか 三菱立神ドック

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
178,182  (三菱立神ドック)

目録番号: 3835 三菱第一船渠及クレ-ン
〔画像解説〕
三菱造船の第一ドックとガンとリークレーン。明治後期から大正期(1890〜1920)の手彩色の絵葉書。第一ドックは、立神地区に最初に建設されたクレーンである。明治12年(1819)完成。5234と同じもの。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号178,182は、三菱重工長崎造船所「立神第一ドック」を、長崎港対岸の浪の平から撮影したものであろう。
長崎大学データベースには、目録番号: 3835「三菱第一船渠及クレ-ン」などの作品がある。

大正十一年頃のガラス写真 191 島原の眉山

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大正十一年頃のガラス写真 191 島原の眉山

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
191  (島原の眉山)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号191は、 島原市内から見た「眉山」であろう。現在の写真は中尾川から写している。
「眉山」(まゆやま)は、長崎県島原市にある山。雲仙岳の東山麓に付属する溶岩円頂丘。主峰となる七面山(標高818.7m)の他、天狗山(695m)・南峰(708m)の三峰を合わせた全体を「眉山」と総称する。
1792年(寛政4年)群発地震と普賢岳の噴火の後、火山性地震を直接の原因とした山体崩壊が発生し、多量の土砂が有明海に流れ込んだことにより島原大変肥後迷惑が発生した。(ウィキペディア)