長崎の西空の夕日 ファイル 3から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 3から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
長崎の西空の夕日 ファイル 3から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 3から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5251 茂木道(2) (再掲)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5251 茂木道(2) 関連作品 5252 茂木道(3)も同じ。
〔画像解説〕
長崎から茂木に向かう江戸期からの街道。正覚寺下から八剣神社前を経て田上に至り、さらに転石、柳山を経て茂木港に達する。写真は田上から下り終えた転石付近と思われる。牛が荷駄を運搬している。道路は明治18(1885)年に新道(旧県道)として整備された。
■ 確認結果
データベース目録番号:5251「茂木道(2)」の画像解説は、「田上から下り終えた転石付近と思われる」としている。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「懐かしい写真」が、この写真を取り上げている。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同111頁の解説は、「絵葉書写真で、右下に「Mogi Road,Nagasaki.」とある。現在地は特定できていない」
この項は、本ブログ次を参照。橋と道路の状況に疑問があるが、背景で考えていた。
https://misakimichi.com/archives/1528
この写真は、伊能忠敬研究会入江氏から、ストリートビューの画像研究により「茂木方面の道では、このような地形は見当たらない。愛宕町バス停上流の旧茂木街道の橋ではないだろうか。背景は愛宕山の山裾と思われる」との教示をいただいた。
橋は知っていたが、まだ急な坂のように感じていた。現地調査すると、この「愛宕橋」に間違いないようである。
データベースには、目録番号:5528「茂木への道(1)」もある。「愛宕橋」を登り上がった場所の愛宕山の作品となり、目録番号:5251「茂木道(2)」は、「愛宕橋」と十分考えられる。
「愛宕橋」付近の現地確認写真を掲げ、前記の茂木「大川橋」とした記事は修正したい。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5245 茂木通田上(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5245 茂木通田上(2)
〔画像解説〕
大正初期の茂木街道田上峠付近の絵葉書写真。田上は長崎県庁から一里、当時人家20〜
30戸、茶屋10戸ほどで蕎麦と筍が名物。旅人の休息所であり、茂木に向かう旅行者はここで旅装を整えた。田上寺、観音寺、千歳亭など旧跡も存在する。写真から人力車による旅行風景がわかる。
■ 確認結果
データベース目録番号:5245「茂木通田上(2)」の画像解説は、「大正初期の茂木街道田上峠付近」としているが、場所を特定していない。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「古写真をたずねて」が、この写真を調査している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同57頁では、撮影地を「大正初期の茂木街道転石の絵葉書写真。平口橋付近から撮影したものである」。現在の写真は「手前の橋は平口橋、写真右側の橋脚は高速道路から唐八景トンネルへ続く道路の橋脚である。平口橋の名称の由来は、この付近に「ひらくち」(マムシ)が多かったことから平口橋となったということである」と解説している。
確かに古写真は、転石から茂木へ下る旧県道つづら折りの道を撮影しているようだが、茂木支所の「平口橋付近から」とする解説には疑問がある。
「平口橋」を渡って、下から見上げているとすると、街道の道はこのように写らない。同じ高さか、対面の少し高い位置からの撮影と考えるべきであろう。背景の山の稜線も合わない。
私の調査で撮影地を探すと、昔の茂木街道から分かれ、明治18年(1885)開通した旧県道へ下る大カーブ地点に立ち、現在、ホテル「古都」が建っている直線道を見上げた写真ではないだろうか。現在の写真は、大カーブの少し手前から写している。確定したわけではないが、ここもひとつの候補地として、考えてもらいたい。
茂木支所は、地元だから表面的ではなく、深い研究をして公表をくれぐれもお願いしたい。
長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5874 茂木への道(2)
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
目録番号:5874 茂木への道(2)
■ 確認結果
データベースでは、目録番号:5874「茂木への道(2)」の画像解説はない。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「古写真をたずねて」が、この写真を調査している。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同58頁では、撮影地を「茂木から転石を登った旧県道の田上の手前、写真奥のカーブは、明治18(1885)年に開通した旧県道と昭和9年に開通する新県道の分かれ道にあたる」と解説している。
大杉左側は谷間斜面となっているようで、一般的にはこのあたりが撮影地と考えられるが、「転石の分かれ道」付近では、S字状カーブは合うが、坂道はまだ急に下り、背景の山の稜線の高さと形に少し疑問がある。
同じようなS字状カーブを、旧県道の道を平口橋まで下って探すと、数箇所あった。このつづら折りの道で、古写真と合う景色は、平口橋の右斜め上あたりにある2枚目の写真のカーブである。確定したわけではないが、ここもひとつの候補地として、考えてもらいたい。
茂木支所の「転石の分かれ道」とするような、HP全体すべて断定的な解説文はうなずけない。地元だから表面的ではなく、深い研究をして公表をくれぐれもお願いしたい。
長崎の西空の夕日 ファイル 2から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 2から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
長崎の西空の夕日 ファイル 1から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 1から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
平山から深堀城山と江川尾根へ 2013年6月
2013年6月16日(日)曇りのち快晴。平山から深堀城山(標高350.4m)と江川尾根へ。参加9人。みさき道歩会の例会。平山から深堀城山へ直接登る新ルートを、最近見つけた。
平山9:35—九電鉄塔9:55—180mピーク10:15—深堀城山11:24—愛宕神社跡11:
46(昼食)12:25—江川尾根—テレビ中継放送所13:02—江川総合運動公園13:42(徒歩距離 約8km)
平山バス停交差点から車道を山際の民家まで進む。家裏に九電鉄塔「岳路線12号」の標識があり、山道へ入るとすぐ鉄塔に出る。急な尾根道がまっすぐ続き、30分ほど登ると、国道から見える約180mピークに着く。石英のみの四角の大きな塚があり、不思議な石積みである。地元で聞いても何かわからない。
平坦な尾根道となり、やがて植林地へ出る。登山道は右側の雑木との境を行く。道をまたぐ壕がある。戦時中に掘られた壕で、これは善長カトリック墓地下にあるのと同じ造りである。
白テープを目印に草つきや幼い植林内を、ほぼまっすぐに尾根を上がると、俵石先のきちんとした道と合う。山頂は右でゆるやかに登って行く。城塁へ出てすぐ先が八幡宮を祀る城山山頂である。11:24着。
山頂には近くにあと1本の長崎要塞第二地帯標第八号があるが、ガスがかかり写真はボケた。
愛宕神社跡の広場まで下って昼食。晴れ間が見えてきたが、女神大橋と長崎市街方向は雑木とかずらが高くなり、見渡せなくなったのは残念である。
江川尾根へ下り鶴洋高校前に出て、江川総合運動公園で解散した。梅雨どきの中休みとなり、晴天に恵まれた新ルート歩きができたのは、幸いだった。
大正十一年頃のガラス写真 262ほか 鯉のぼり
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
262,81,254 (鯉のぼり)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号262は、小島街道沿いの現上小島2丁目あたりから見た「鯉のぼり」風景と思われる。背景の右側から写っているのは、金比羅山の尾根で、立山の谷間や筑後町方面の寺が確認できる。現在の写真は、市街の見通しが効く街道沿いの駐車場から、適当に撮影している。
あとの2枚は、参考に掲げる。整理番号81も、「鯉のぼり」風景だが、同じ場所の「鯉のぼり」ではない。整理番号254も、背景に写っているのは、金比羅山の尾根と立山方面である。上小島の上部高台と考えられるので、撮影地を調査中。
(2015年4月16日追記)
整理番号81の鯉のぼりが立っている場所は、この付近に大正の同時期あった温室栽培「翠紅園」の一角と思われる。次の記事と重複で、解明している。英彦山(標高385.6m)?の山頂がこのようにわずかに覗く。
大正十一年頃のガラス写真 81 鯉のぼり
https://misakimichi.com/archives/3712
翠紅園は、「八釼神社の上祠」のある場所のあと一段上、現在、「レオパレス21」が建っている場所にあった。写真好きのこの撮影者の父が経営していた。
大正十一年頃のガラス写真 125,127,286,287 翠紅園
https://misakimichi.com/archives/3715
大正十一年頃のガラス写真 221ほか 潮見崎
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
221,226 (潮見崎)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号221,226は、現在の長崎市茂木町「潮見崎」の風景と思われる。背景に写っているのは、赤崎鼻である。
HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきに、同じような潮見崎海岸の景色がある。
大正十一年頃のガラス写真 11ほか 潮見崎の磯遊び
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
11,280,291 (潮見崎の磯遊び)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号11,280,291は、一連の家族写真。現在の長崎市茂木町「潮見崎」の磯遊び風景と思われる。背景に写っているのは、赤崎鼻である。現在の「いけす料理かね万」前あたりの海岸を撮影している。
「かね万」は、昭和7年8月休息所として最初は開業しているので、それ以前の写真であろう。