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大正十一年頃のガラス写真 288 鳴川橋

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大正十一年頃のガラス写真 288 鳴川橋

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
整理番号 288  (鳴川橋)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号288に写っているのは、長崎市東小島町の「鳴川橋」と思わせる。正覚寺下電停の上流の川に架かる橋。現在の国道324号あたりから、このように見渡せる。

長崎の西空の夕日  ファイル 4から

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長崎の西空の夕日  ファイル 4から

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 4から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
2枚目は、五島列島。15枚目は、唐八景から。

小ヶ倉水源池から市民の森へ一周  2013年7月

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小ヶ倉水源池から市民の森へ一周  2013年7月

2013年7月21日(日)快晴。小ヶ倉水源池から市民の森へ一周。参加10人。みさき道歩会の例会。暑いさ中であり、木陰の林道と林間の登山コースを歩いた。
小ヶ倉水源池9:35—林道中間10:26—ふれあいの水辺11:39(昼食)12:30—市民の森12:49—巨木スギ13:45−小ヶ倉水源池15:00(徒歩距離 約12km)

水源池グランドに集合。小ヶ倉水苑から烏帽子岩への林道へ上り、水源池右岸を歩く。鹿尾川上流へ進むと、木陰の林道が続き、約2時間で小ヶ倉水源の森ふれあいの水辺へ着いた。
昼食後、川を渡り谷間を少し登ると、対面に戸町岳と防火帯が見え、八郎岳縦走路の途中にある市民の森野外キャンプ場へ出る。東屋のところは雲仙岳や市内の山の展望が良い。
昆虫の森には上戸石子ども会の団体が来ていた。巨木スギへ下り、帰りは水源池左岸を歩いた。

長崎の古写真考 目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5247 茂木街道田上竹林(1)
〔画像解説〕
大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。田上には元禄11(1698)年向井去来がこの地の千歳亭を訪れて「名月や田上にせまる旅ごころ」の句を詠んだ。この町から採れるタケノコは古くから田上タケノコとして有名である。写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である。

■ 確認結果

データベース目録番号:5247「茂木街道田上竹林(1)」の画像解説は、「大正初期の田上付近の竹林を撮影した絵葉書写真である。…写真は明治18(1885)年に新道として整備された旧県道である」としている。最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「懐かしい写真」が、この写真を取り上げている。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/827000/p023389.html
同111頁の解説は、「大正初期の絵葉書写真で、「長崎茂木街道田上竹林」とある。現在地は特定できていない」

撮影地のひとつの候補地として考えられるのは、明治18年(1885)に新道として整備された旧県道の転石からつづら折りで下る道。平口橋の右斜め上となるあたりのカーブ地点である。左側の畑の状況が似ている。
背景の山の稜線が、古写真では竹林、現在の写真では自動車道橋梁にさえぎられ、全体をはっきり確認できない。茂木支所の方で、詳しい調査をお願いしたい。

大正十一年頃のガラス写真 135 愛宕山と金比羅山

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大正十一年頃のガラス写真 135 愛宕山と金比羅山

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
135  (愛宕山と金比羅山)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号135に写っているのは、山の形から右は愛宕山(標高224m)、左は金比羅山(標高366.3m)、その奥は帆場岳(標高505.9m)であろう。
昔の茂木街道でピントコ坂を登りきり、田上へ下りかける一番の高台あたりから撮影していると思われる。現在の写真は、適当に確認できるところがなく、長崎県立長崎南高校の正門近くの道路から写した。右側の愛宕山?をもう少し高い位置から俯瞰しているようなので、正しい撮影地の調査は今後も続けたい。

大正十一年頃のガラス写真 127 八釼神社から清水寺

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大正十一年頃のガラス写真 127 八釼神社から清水寺

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
127  (八釼神社から清水寺)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号127の写真左上に写っているのは、長崎市鍛冶屋町の「清水寺」であろう。撮影地を探すと、昔の茂木街道を正覚寺から進み、高島秋帆旧宅の先となる東小島町「八釼神社」の上祠のあるあたりから撮影していると思われる。

大正十一年頃のガラス写真 103 英彦山と愛宕山

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大正十一年頃のガラス写真 103 英彦山と愛宕山

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
103  (英彦山と愛宕山)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号103に写っているのは、山の形から右は英彦山(標高403m)、左は愛宕山(標高
224m)であろう。昔の茂木街道でピントコ坂を上がり、田上へ少し下りかける現在の「上小島5丁目バス停」あたりから撮影していると思われる。
英彦山と愛宕山との奥には、烽火山が見えるはずだが、このガラス写真ではボヤけて、撮影地ははっきり確認できない。

長崎の古写真考 マンスフェルト集 34P 漁村茂木の町中

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長崎の幕末・明治期古写真考 マンスフェルト集 34P 漁村茂木の町中

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本」

第三章 茂木  34P  漁村茂木の町中
茂木の街角。漁村特有の狭い路地に地域の子供や服装から漁民と思われる大人が佇んでいる。手前の男性がゴーストになっているのは撮影中に動いたためである。軒の樋は竹でつくられていることが分かる。屋根の漆喰は風による瓦の飛散防止である。
017 1872年頃 マンスフェルトか サイズ/205mm×156mm 大

■ 確認結果

長崎大学附属図書館企画・編集の長崎大学コレクション外編Ⅰ「マンスフェルトが見た長崎・熊本 古写真で見る近代医学校の成立」が、長崎文献社から2012年10月発行されている。
34P「漁村茂木の町中」は、最近の長崎市茂木支所HP「茂木をたずねて」の中の「懐かしい写真」に取り上げられている。同111頁の解説は「片町付近かと思われるが、同じ石の塀は現存していない」

撮影地は、私も以前から調べていた。「若菜橋」の上から片町(現在の峰酒店)の方を撮影しているようでもあったが、路地や石垣奥の建物の向きが少し合わない。
伊能忠敬研究会入江氏から、ストリートビューの画像研究より、かえって「峰酒店の交差点から東方向を写すと、古写真と同じ道にならないか。道は右へカーブしており、奥に山裾の林が見える」との教示をいただいた。

現地確認すると、これはやはり現在の峰酒店前、昔の茂木街道本通り石敷きの道を撮影しているようである。道の曲がり具合や建物の向きが合い、背景の山の稜線も交差点の手前からなら高さが合う。 
最後の古写真は、同マンスフェルト集32頁にある「漁村茂木にて」。同じ頃撮影された「若菜橋」である。これらを参考に、茂木支所の方で調査を進めてほしい。

長崎初の大型獣脚類(肉食恐竜)の実物化石  長崎市三和行政センターで展示

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長崎初の大型獣脚類(肉食恐竜)の実物化石  長崎市三和行政センターで展示

長崎半島西海岸に分布する三ツ瀬層(みつぜそう:白亜紀後期 約8400万年前)から産出した長崎初の大型獣脚類(肉食恐竜)の実物化石が、長崎市三和行政センターで7月12日(金)まで公開展示されている。
福井県立恐竜博物館HP「恐竜博物館の調査研究情報」による記事は、次のとおり。

長崎初の大型獣脚類(肉食恐竜)の化石について
2013年7月8日
福井県立恐竜博物館と長崎市教育員会は、長崎市内の長崎半島西海岸に分布する三ツ瀬層(みつぜそう:白亜紀後期 約8400万年前)から産出した、長崎県では初産出となる獣脚類(肉食恐竜)の化石を報告します。獣脚類の化石は2点の歯の一部であり、共に2011年7月に恐竜博物館の宮田和周主任研究員が発見しました。化石は三ツ瀬層から産出したワニ、カメなどの他の脊椎動物化石と共に、長崎および福井で展示公開されます。

画像1 獣脚類の歯:歯根側の約半分
画像2 獣脚類の歯:歯冠の一部

獣脚類の化石2点のうち1点(図1)では、歯冠の高さ35.4mm、幅26.8mm、厚さ11.2mmであり、完全な歯の歯根側の約半分にあたる(完全であれば約6cmの歯と推定される)。歯の前後には特徴となる鋸歯も保存されている。もう一点(図2)は歯冠の一部であり、高さ34.2mm、幅13.6mmである。いずれも化石の不完全さから、獣脚類の種類を特定することは困難だが、ハドロサウルス科の恐竜(草食恐竜)に続いて、大型の肉食恐竜がかつての長崎半島周辺に生息していたことを示す。国内における肉食性の獣脚類化石は、岩手、福島、群馬、富山、石川、岐阜、福井、和歌山、兵庫、福岡、熊本、鹿児島の各県から報告があり、多くの場合、歯の化石から知られる。長崎の歯の化石(図1)はその中でも大きく、全長約7mを超える大型獣脚類のものと考えられる。

福井県立恐竜博物館と長崎市教育委員会は昨年度より、三ツ瀬層から産出する白亜紀後期の脊椎動物化石の共同研究事業を行っている。本年度から野外での試掘調査も行い、白亜紀の脊椎動物化石のさらなる収集を行う計画がある。昨年度は以前に収集された化石を含む岩石のクリーニング(化石周囲の岩石を取り除く作業)が恐竜博物館で行われた。これら獣脚類の化石以外には、翼竜の骨(第二標本)、ワニの歯、カメ(スッポンのなかま)の甲羅、硬鱗魚の鱗など、新たに54点(総計57標本/2013年3月末時点)の標本が処置された。なかには、噛まれた痕のあるカメの腹甲といった興味深い化石もある。これら資料には鑑定が困難な断片的な骨や、鑑定にはまだ時間を要する化石も多く含まれるが、三ツ瀬層の脊椎動物化石の多様性を示す重要な資料である。今回の獣脚類の歯化石を含む11点の実物化石と複製が下記の予定で長崎市と福井県立恐竜博物館にて一般公開される。

展示公開予定
長崎市三和行政センター:
7月9日㈫〜7月12日㈮ 実物化石を展示
長崎市科学館:
7月14日㈰〜7月28日㈰ 実物化石を展示
7月29日㈪〜10月16日㈬複製を展示
10月17日㈭から実物を常設展示
福井県立恐竜博物館:
7月12日㈮〜7月28日㈰ 複製を特別展(2013年度恐竜博物館特別展「発掘!発見!1億年の時を越えて〜福井県恐竜化石発掘25周年記念〜」)展示
8月1日㈭〜10月14日㈷㈪実物化石を特別展にて展示
10月17日㈭から複製を常設展示

脇岬村路を逆踏査し殿隠山鞍部から高浜へ  2013年7月

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脇岬村路を逆踏査し殿隠山鞍部から高浜へ  2013年7月

2013年7月7日(日)曇り。脇岬村路を逆踏査し殿隠山(標高263.0m)鞍部から高浜へ。参加8人。みさき道歩会の例会。
脇岬9:50—野母崎取水場10:24—農具小屋11:20—林道カーブ12:20(昼食)13:00—殿隠山鞍部13:30—高浜尾根下り口13:59—古里分れ14:39—高浜海水浴場前15:
05(徒歩距離 約6.5km)

4月21日下った不明区間の逆踏査と整備。脇岬諸町バス停から歩き出す。そば我流近くから県道上に登る道跡は不明。野母崎取水場裏まで行き、脇岬村路の旧道へ入る。この尾根を上の農具小屋に向うが、竹が密生し道跡は今回もはっきりわからず、強行突破した。これからえぐられた道をたどり、林道カーブに出たところで昼食。

殿隠山鞍部まで林道に出入りしながらえぐられた道をなお直線的に登って行く。これが脇岬村路であり、長崎半島東回りのみさき道である。風車の見える鞍部からHルートで殿隠山のすぐ下まで行き、高浜尾根を下る。植林と雑木林内の歩きやすい尾根道となった。古里分れから高浜海水浴場前へ下った。梅雨明け。雨には遭わなかったが、蒸し暑い1日だった。
高浜海水浴場は、昨年で桟敷が廃止され、さびしい浜となっていた。