大正十一年頃のガラス写真 208ほか 樺島湊

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大正十一年頃のガラス写真 208ほか 樺島湊

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
208,216,251  (樺島湊)

目録番号: 5317 樺島湊
〔画像解説〕   超高精細画像
樺島は長崎半島の先端近く、長崎県西彼杵郡野母崎町脇岬の南方300mにある周囲7.5kmの島である。現在は、樺島大橋が架設され本土とつながれている。写真は、明治初期から中期にかけての樺島湊のある湾奥から脇岬方向の、湊内の船の輻輳する状況を撮影したもの。樺島湊は、江戸時代以前から長崎港に出入りする船の、風待ち、潮待ちの湊として繁栄してきた。明治時代になっても、遠くから多くの物資を運搬するための主要運搬手段は、沿岸を航行する船であった。樺島は良好な湊があったために、近世から近代の初頭にかけて大いに繁栄した。島内には多くの遊女屋があり、写真が撮影された明治10年代でも、7軒から9軒の貸座敷があったと記されている。湊内に停泊する廻船の数から、明治初頭の繁栄した樺島村の状況が分かる貴重な写真である。写真前方の島は、現在樺島大橋が架設されている中島、前方の山は長崎半島先端の遠見山方向である。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号208は、現長崎市野母崎樺島町の「樺島湊」である。当時の樺島湊海岸線の最奥部から、湊の出口を撮影している。
背景は脇岬の方の遠見山や殿隠山などである。左横には樺島の「無量寺」の屋根が写る。
長崎バス「樺島」終点から前樺島小学校の方へ向かうと、すぐ「金比羅神社」の鳥居がある。参道を登った神社境内から撮影したと思われるが、今は木立のため完全な景色が見えない。

次の整理番号216,251も、背景の脇岬の方の山が同じ。「樺島湊」の風景を近くの海岸から撮影している。モロ出しのこどもの写真が残った。
長崎大学データベースには、上野彦馬撮影の目録番号: 5317「樺島湊」の作品がある。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1550