月別アーカイブ: 2013年5月

大正十一年頃のガラス写真 168ほか 十軒蔵

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大正十一年頃のガラス写真 168ほか 十軒蔵

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
168,170,175  (十軒蔵)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号168,170,175は、新地籠町通りの日浦海岸にあった「十軒蔵」でなかろうか。
168は、まだ検証する必要があるが、これだけの倉庫群があり、遠くの風頭山の稜線は、同じように感じる。
170は、銅座橋側から広馬場方向を望む。さるく説明板にもこの向きの写真がある。焼肉店「喜楽園」の屋根上に、今でも倉庫の屋根かたわれの一部が残っている。
175は、逆に広馬場側から新地籠町通りを望む。同じような道の造りが確認できるだろう。

「十軒蔵」については、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3613
https://misakimichi.com/archives/3192
https://misakimichi.com/archives/3119

大正十一年頃のガラス写真 166 浦上川の白魚とり

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大正十一年頃のガラス写真 166 浦上川の白魚とり

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
166  (浦上川の白魚とり)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号166は、「浦上川の白魚とり」の風景。背景の岩屋山の位置から、浦上川と下の川が合流する現川口町の川岸から、撮影したと思われる。
この写真は、長崎文献社「アルバム長崎百年 ながさき浪漫 写真でしのぶ明治・大正・昭和」平成11年発行の102頁にも掲載されている。

「ながさき浪漫」解説者は気付いていないが、この写真で注目するのは、対岸高台に写った白い建物。大正12年に九州初のコンクリート3階建て校舎として完成した開校当時の「城山尋常小学校」(現在は長崎市立城山小学校)の姿を撮影した貴重な写真である。
長崎原爆の被爆遺構として、現在も一部が保存されている。城山小学校も、開校当時を写したこの写真の存在を知らないだろう。
この項は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/3111

大正十一年頃のガラス写真 132 彦山の月

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大正十一年頃のガラス写真 132 彦山の月

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
132  (彦山の月)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号132は、「彦山の月」であろう。彦山にのぼる月を、長崎港対岸のかつて市営交通船が通った旭町桟橋あたりから撮影していると思われる。

大正十一年頃のガラス写真 131 玉江橋

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大正十一年頃のガラス写真 131 玉江橋

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
131  (玉江橋)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号131は、中島川の河口に架かる「玉江橋」であろう。出島側から長崎駅側を撮影したもので、遠くの山は金比羅山の稜線。現在の写真は、後日追加する。
土木学会図書館「戦前土木絵葉書ライブラリ」に、同じような絵葉書「長崎大波止玉江橋」がある。
「特集83年振りにヴェールを脱いだ11形 – 長崎の路面電車 ホームページ」には、次の記事がある。  http://www.nagasaki-romen.com/index/11gata-news.html

大正末期の玉江橋と20形?

玉江橋(現在の玉江橋と同位置)を渡る※20形 
※大正末期頃 (土木図書館所蔵)  ※梨森武志氏の推定による

こちらは大正末期の玉江橋(出島〜大波止間)を渡る20形と思われる電車。同じく梨森武志氏によると、出島側から長崎駅側を撮影したもので、当時の玉江橋は長さ39.9m、幅5.1mのトラス橋梁で、その両側に幅4.1mの歩道があった。川の流れに対して斜めに架かっており、平行四辺形の斜橋だった。

橋の幅員の関係から橋梁を含む75mは単線で開業。営業開始後3ヵ月以内の架替条件だったが、昭和10年にようやく鉄筋コンクリート製の新橋への架け替えが初まり、完成までの間、橋の区間は徒歩連絡であった。
ちなみに、この時の新橋は今なお現役である。

大正十一年頃のガラス写真 130 浦上天主堂

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大正十一年頃のガラス写真 130 浦上天主堂

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
130  (浦上天主堂)

目録番号:5133 長崎浦上天主堂(1)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号130は、長崎「浦上天主堂」(長崎市本尾町)であろう。
長崎大学データベースに、目録番号:5133「長崎浦上天主堂(1)」などの作品がある。
浦上教会は、一般的には「浦上天主堂」の名で知られている。

昭和20年(1945)の長崎原爆によって破壊されたが、昭和34年(1959)に元の場所に旧天主堂の外観を模して再建された。昭和37年(1962)以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル・大聖堂)となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会である。

昭和33年(1858)には、浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設し、原爆遺構として保存。高さ13m、幅3mの側壁が復元。

嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石

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嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石

佐世保市の高橋氏から送られてきた資料。嬉野の元海軍病院跡とは、現在の「独立行政法人 国立病院機構嬉野医療センター」。山の中で見つけた「海軍用地」の標石と、「底栗車之塔」(実験動物慰霊塔)の現地写真はなかった。
釜山加徳島 日本軍砲陣地跡の標石資料は、次のHPと「日本築城史」から抜すいしている。
http://cgjbusan.web.fc2.com/shiseki/Busan/Gadeok/image.html

高橋輝吉氏稿 「嬉野の元海軍病院跡と、韓国の釜山加徳島の標石」

嬉野の元海軍病院跡。山の中に「海軍用地」の標石があると見て、探し廻りました。用地石15cm角を13本発見しました。中に何とも解せない「底栗車之塔」(裏面 昭和十九年七月)もありました。呉海軍病院の場合を調べると呉にも残り、「底栗車(テリシャ)」とは、梵語で畜生という意味。「実験動物慰霊塔」のようです。

インターネットで調べているうちに、戦前の韓国での日本軍軍事のことが出てきました。「日本築城史」にもないようなことです。韓国での旧日本軍の史料「軍事」が、いろいろありますね。参考までに送ります。釜山一帯には、多くの砲台跡の史料があると思いました。韓国のインターネットを調べたいです。

八郎岳周辺登山道案内図の不可解

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八郎岳周辺登山道案内図の不可解

野母半島県立公園「八郎岳」は標高589.8m。長崎市の最高の山で、九州百名山となっており、県内外からも訪れる人が多い。長崎市平山町の八郎岳登山口に、駐車場、公衆トイレ、国道側の標識など要望したが、長崎市、長崎県とも対応がない。
1年半ほどしてやっと実現したのが、周辺登山道案内図だけである。先日、登山口の墓地の場所に、この設置を確認に行った。

八郎岳山頂に緑の基金で以前から設置している地図と同じであるが、良く見ると健脚登山道において不可解なルートを表示している。国土地理院「ウォッちず」から載せたと思われるが、実際に歩きもしないで、こんな案内図を堂々と設置されたら困る。
青線で修正してもらいたいところを表示した。兜岳への尾根道と、千々へ下る登山道である。この道が一般的。せっかく設置したのに、無駄づかいであろう。

登山ルートについては、長崎市山岳連盟の監修が必要ではないか。一般登山道は、距離・所要時間を記載してもらいたい。「長崎市農林整備課作成」と表示し、責任を明らかにするべきではないか。数年前に、誤って千々側の沢に下った遭難事故があった。そのため設置された案内図である。慎重を期した地図としてもらいたい。
千々へ下る登山道は、ブログ「軟弱日記」GPSとカシミールによる経路概念図があったので、参考に載せる。  http://guzuguzu.blog14.fc2.com/blog-entry-318.html

大正十一年頃のガラス写真 123 稲佐悟真寺墓地

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大正十一年頃のガラス写真 123 稲佐悟真寺墓地

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
123  (稲佐悟真寺墓地)

目録番号:5313 稲佐悟真寺墓地
〔画像解説〕    超高精細画像
上野彦馬アルバム所載の1葉。悟真寺は稲佐山の麓に位置し、慶長3年(1598)の創立という長崎近郊では最初に再興された浄土宗の寺院である。裏山に広がるその墓地は、早くから長崎で客死した中国人やオランダ人の埋葬に当てられており、幕末以降には来航したロシア人なども加えられて、それぞれに区画された墓域をなす国際墓地を形成していた。画面左手の松林の向こうにロシア正教の礼拝堂があり、中央下に蓮池に架かる石橋が見えることからして、現在の「悟真寺国際墓地」入り口に当たる。橋の上の人物は、中央の水桶を天秤で担ぐのは服装からして中国人のようで、両脇の褌に半纏を羽織り、頭に鉢巻きをした人足風の二人はまだ髷を結っているようにもみえる。とすれば、明治初年の撮影であろうか。画面に墓域の明確な区画は見えないが、オランダ人墓地の周囲に煉瓦塀を構えるようになったのは、ずっと下って大正7年(1918)のことであった。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号123は、「稲佐悟真寺墓地」(長崎市曙町)であろう。
長崎大学データベースに、目録番号:5313「稲佐悟真寺墓地」などの作品がある。
画像解説にある「中央下に蓮池に架かる石橋」を渡って、墓地内中央の石段の通りの道を少し登って、左後ろの方を振り返る。中国人墓地越しに「悟真寺」の本堂がこの位置に見えるはずだが、現在は木立のため写らない。
本堂は原爆で焼失し再建されているが、横壁は同じ造りと確認できる。

大正十一年頃のガラス写真 116ほか 興福寺

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大正十一年頃のガラス写真 116ほか 興福寺

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
116,117  (興福寺)

目録番号:2862 興福寺境内(1)
〔画像解説〕    超高精細画像
興福寺は元和年間(1623年頃)に創立されたという黄檗宗の古刹で、現在は寺域が県指定史跡となっている。右手は元禄2年に再建されたものが慶応元年(1865)の暴風で大破したため、明治16年(1883)に再興された同寺本堂の大雄宝殿である。よって撮影はそれ以降の明治中期とみられる。この再興には部材を中国で切り組んで舶載し、中国人工匠が渡来して建設に当たった純中国式の建物であるため、年代は比較的新しいが国の重要文化財に指定されている。左手の重層・入母屋造りの建物は、元禄4年(1691)の再建後、享保15年(1730)に重修された鐘鼓楼で、現在は県の有形文化財に指定されている。鐘鼓楼から本堂(大雄宝殿)奥に屋根が一部みえる媽祖堂へと延びる歩廊は現存しないが、その手前の石造の勾欄や堂前の蘇鉄などは今も残る。鐘鼓楼の現在は剥げ落ちた彩色が鮮やかに施されている。

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号116,117は、長崎市寺町「興福寺」である。柱の列の同じような写真だが、「本堂(大雄宝殿)」と「媽祖堂」前の別々だろう。
長崎大学データベースの目録番号:2862「興福寺境内(1)」は、「本堂(大雄宝殿)」を撮影している。「媽祖堂」は左奥にあり屋根の一部しか写っていない。
「鐘鼓楼から本堂(大雄宝殿)奥に屋根が一部みえる媽祖堂へと延びる歩廊は現存しない」と解説している。

整理番号116は、氷裂式組子の丸窓があるから、「本堂(大雄宝殿)」である。これに対し、整理番号117は、さらに左奥の「媽祖堂」建物の墓地側に立ち、「媽祖堂」前と今は現存しない鐘鼓楼へ延びる「歩廊」を撮影している。
後ろに見えるのが、「本堂(大雄宝殿)」の屋根の一部であろう。

大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原

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大正十一年頃のガラス写真 095ほか 福田千本松原

「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「大正十一年頃のガラス写真」
095,140,201  (福田千本松原)

■ 確認結果

「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。

整理番号095,140,201は、長崎市福田本町海岸の「千本松原」であろう。かつて台場も築かれた。遠くの島は、伊王島と思われる。
「千本松原」のあった場所は、現在の長崎市立福田中学校グランドと長崎サンセットマリーナ(ここは海岸埋立地)の間の海岸通り一帯となる。昭和25年に松食虫のため全部枯れ姿を消した。
絵葉書は、HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきから。