大正十一年頃のガラス写真 131 玉江橋
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
131 (玉江橋)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号131は、中島川の河口に架かる「玉江橋」であろう。出島側から長崎駅側を撮影したもので、遠くの山は金比羅山の稜線。現在の写真は、後日追加する。
土木学会図書館「戦前土木絵葉書ライブラリ」に、同じような絵葉書「長崎大波止玉江橋」がある。
「特集83年振りにヴェールを脱いだ11形 – 長崎の路面電車 ホームページ」には、次の記事がある。 http://www.nagasaki-romen.com/index/11gata-news.html
大正末期の玉江橋と20形?
玉江橋(現在の玉江橋と同位置)を渡る※20形
※大正末期頃 (土木図書館所蔵) ※梨森武志氏の推定による
こちらは大正末期の玉江橋(出島〜大波止間)を渡る20形と思われる電車。同じく梨森武志氏によると、出島側から長崎駅側を撮影したもので、当時の玉江橋は長さ39.9m、幅5.1mのトラス橋梁で、その両側に幅4.1mの歩道があった。川の流れに対して斜めに架かっており、平行四辺形の斜橋だった。
橋の幅員の関係から橋梁を含む75mは単線で開業。営業開始後3ヵ月以内の架替条件だったが、昭和10年にようやく鉄筋コンクリート製の新橋への架け替えが初まり、完成までの間、橋の区間は徒歩連絡であった。
ちなみに、この時の新橋は今なお現役である。