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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(9〜10) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(7〜8) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

さて、「8 命の水 御崎参りの頼りに」の延命水水場で、さわやかなセーラー服の少女2人が写っている。県立野母崎高校に合格し、通学路の確認にきた帰り。三和町の自宅まで歩いて1時間かかるという。山間の川原木場か徳道集落の娘さんと思われる。
思い出の写真となるだろう。岡山のmaki♪さん。こころあたりないだろうか。まさか貴女ではないでしょうね。連絡を取って、「消えた道塚」の記憶を聞いてください。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(5〜6) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3〜4) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

長崎の古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4813 茂木街道(5)
〔画像解説  超高精細画像〕
この写真のタイトルは「長崎からの茂木街道」となっている。撮影時期は彩色写真から見て、明治20年(1887)代である。写真の対象は、比較的規模の大きな住宅の前に止まる人力車に乗った若い女性と車夫の演出写真である。撮影場所は、道路の整備状況から判断して、茂木の港の近くではないかと思われる。明確な場所の特定はできていない。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。

目録番号:3837 茂木街道田上梶原茶屋 (掲載略)

■ 確認結果

きょう2012年2月11日付、朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「田上の東郷・梶原茶屋」古老の証言から特定。解説は次のとおり。
「これまで撮影場所も建物の名前も不明でしたが、今年に入って長崎市の茂木支所職員が地元の古老に確かめ、昭和初期まで田上の中心地にあった東郷茶屋であることがわかりました。場所は現在の長崎バス田上バス停付近。手前の石垣は隣の茶屋、鶴見荘のものです」

「東郷茶屋」は、データベースでは目録番号:4813「茂木街道(5)」の作品。私も以前から田上の茶屋と思っていたが、深く調査はしなかった。看板「江戸町の広島岩作商店」も興味はあった。
ところで、本ブログこの古写真考は、別に「東郷茶屋」の疑問ではない。茶屋がそんないきさつでわかったなら、次のデータベース作品も、「撮影場所:神戸」となっているが、実は「茂木街道」関係の古写真なのである。

地元茂木の関係者や長崎大学附属図書館は、まだ知らないと思われる。早く正しい検証をお願いしたい。
この記事は再掲。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2218

目録番号:1962 山間の水車小屋  撮影地 茂木町の河平川岸
https://misakimichi.com/archives/2210
目録番号:1963 八坂神社      撮影地 鍛冶屋町の八坂神社
https://misakimichi.com/archives/2211
目録番号:1964 弟を背負う兄と妹 撮影地 茂木町の茂木街道「河平橋」手前
https://misakimichi.com/archives/2212
目録番号:1965 山腹から望む港町 撮影地 桜木町の弥生が丘バス停付近
https://misakimichi.com/archives/2213
目録番号:1966 漁村の風景     撮影地 茂木町の茂木郵便局前
https://misakimichi.com/archives/2214
目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 撮影地 茂木町の茂木郵便局先
https://misakimichi.com/archives/2215

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(1〜2) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」。十人町から蚊焼間の「その一」は、前の記事とした。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行30〜31頁ですでに紹介済み。写真は、三和行政センター前広場へ移設されている「みさき道の道塚」、蚊焼古茶屋坂の「みさき道入口看板」、みさき観音の「脇岬観音寺本堂」。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年  35〜36頁

私の所属する、あゆみハイキング・クラブは御崎街道歩きの二回目として、蚊焼から脇岬の観音寺までの三里の道を、平成十一年十二月五日に歩きました。私は、街道歩きが自分の天職と公言しているY氏と三回に渉り、調査のため御崎道を歩きました。Y氏は九州の各街道を全部歩いた後、東京の日本橋までを各地の名所、旧跡を訪ねながら歩く事を夢みています。
長崎から脇岬までの街道は、何時の頃からあったのかは、はっきりしていません。それに、時代と共に道筋も変わっていることでしょう。長崎談叢第十九輯『維新前後に於ける長崎の学生生活』関寛斎の日記、司馬江漢の『御崎参詣の記』、および、原田博二氏の『観音信仰と御崎街道』を参考として御崎街道を歩くことになりました。

第一回目は、Y氏と蚊焼より歩きはじめ、旧茶屋跡から、秋葉山の稜線を歩きました。この山中には、現在道塚は一本も残っていません。二百五十四メートルの頂上近くに郷路八幡神社が祀られていて、この神社の近くに平家の残党がこの地で果てたと伝えられ、近くには墓石らしき石塚が残っています。今は雑木に被われて展望はありませんが、江戸時代は雑木が少なかった様で、寛斎の記述には「此の処東西狭くして直に左右を見る。東は天草、島原あり、遥かに其の中間より肥後を見る」と記してあり、私達も木の葉の間から遠く五島列島を見ることが出来ました。この郷路八幡の近くに、ビックーサンと呼ばれている日蓮宗の尼僧の墓が一基あり、「妙道尼信女」「文政三年旧六月廿三日」と刻されています。  

これより下ると、以下宿との別れ道に「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」と刻した道塚があり、これより十分進むと川原への分かれ道があり、ここに二本の道塚があります。奥の道塚は「みさき道、今魚町、上川原道」とあり、手前の道塚は「右御崎道、左川原道」と刻してあり、この手前の道塚は墓石を利用した珍しい道塚です。
ここより御崎道は二つのコースに別れます。①二ツ岳、生目八幡、岬木場、長迫、殿隠山、堂山峠に行く道。②以下宿、高浜、古里、堂山峠へと行く道筋があります。しかし①の道筋はゴルフ場となり、通行禁止で、殿隠山から堂山峠に至る道は現在ヤブとなっており、道筋は失われています。

Y氏と一回目の調査の時、①のコースを調べたのですが、どうしても堂山峠に辿り着く事が出来ず、迷った末に遠見山に登りました。この山には時代は不明ですが、狼煙(のろし)場と遠見番所跡が残り、また先の戦時中の観測台跡が頂上近くに残っています。
Y氏と二度目の調査は秋葉山のヤブ払と徳道から以下宿、高浜、古里のコースを歩きました。以下宿に下る道筋に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があり、ほどなく毛首の延命水があり、「奉供延命水」「安政四丁巳仲秋吉祥日」「長崎今下町施主中尾民助高浜村」と刻されていて、この場所は駕籠立場であって、御崎詣りの人々の恰好の休み場であったことでしょう。高浜は浦迫が中心となる町で、山城跡に真宗の金徳寺があり、また深堀一族を祀っている浄土宗の正瑞寺があります。

御崎道は毛首から蔭平に進み海沿いの道を古里まで歩きます。今は県道となり車が激しく往来しています。古里は、昔あぐり高浜と呼ばれていたそうです。Y氏と堂山峠の登り道を見た時、これは並大抵のヤブではないと判断し一応この日は引き返しました。
三回目は古里から歩きだしました。Y氏の御両親は脇岬の出身で、現在も墓地は脇岬にあり、Y氏の話では「母は、大正五年脇岬で生まれ、十八の時、当時同村より長崎に出て働いていた父の元に嫁ぐため、堂山峠を歩いて長崎まで行きました。母は下駄を履いて、親類の者に花嫁道具を担いでもらって、大変難儀してこの堂山峠を越えた事を、死の直前まで話していました」とのことでした。関寛斎の日記にも「此峠道中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云うべからず、下りて直に観音寺あり」と記述されています。

私とY氏は、古里を出発する時、近くの商店に四人の老婦人が世間話をしておられたので、話の輪の中に入って、堂山峠から観音寺までの道筋を尋ねてみました。道筋はY氏の母上が話しておられたのとほぼ同じでした。その老婦人達の話によると堂山峠越の道は、昭和二十年代まではよく行商に行く道として利用していたとの事でしたが、最近は通る人もなく、大木が倒れ、ダンジクという竹がヤブとなって通れないとのことでした。
老婦人達との話の中で、こんな会話がありました。「おばさん達は、何んの行商にいったとね」「米ば担いで行ったと。脇岬には米んなかもんね」という返事でした。司馬江漢の日記にも「脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤二品あり」と記しています。

Y氏と私は意を決して、このヤブ道を切り開くことにしました。古里から堂山峠の手前までは意外と簡単に行けたのですが、これからが大変でした。たしかに道筋らしき敷石のある道があるのですが、倒れた木と竹をY氏と二人で山刃・ノコ・カマを使い分けて進むのですが、思う様に進まず、約七時間かけて峠から観音寺までの道を切り開きました。その時二人とも話す事もできぬほど疲労していました。二人とも「あした、仕事出来るやろか?」とキズだらけの手を見ながら帰路につきました。

(注) 「みさき道」のルート紹介や、歩いた道が正しかったかは別とし、なんとか脇岬観音寺までたどりついた陸門氏とY氏の、平成11年12月の貴重な踏査記録。
実は文中に、重要なことを書かれている。以下宿の道筋(高浜延命水手前)に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があったら13本目の道塚となる。

「みさき道本道」は、ゴルフ場道塚から確かに高浜へ下り、「関寛斎日記」とおりである。
道塚はゴルフ場造成の平成5年頃まで確かにあった。近くに畑を持つ高浜松尾栄氏の証言を得た。平成18年1月に3者で現地調査したが土砂に埋められたか、道塚はもうなかった。
この項は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/154

陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」。蚊焼から脇岬観音寺間の「その二」は、次の記事とする。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行28〜30頁ですでに紹介済み。写真は、十人町石段登り口の「みさき道(御崎道)の道塚」。「この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた」と、説明している。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年  45〜46頁

今、全国各地で旧街道を歩く会が盛んに行なわれています。私が所属している、あゆみハイキングクラブも、山行の一部として街道歩きを取り入れ長崎街道を歩いています。この会では、ただ歩くだけでなく名所旧跡を訪ね、見聞を広めながら歩く事を目的としています。今回は長崎から脇岬の観音寺までの七里の道のりを歩く事となり、第一回目は長崎から西彼三和町までの四里を歩きました。
同行二人の杖をつき、御崎の由緒ある観音寺の千手千眼観音に思いを馳せながら歩きはじめました。起点は十人町である。梅ヶ崎から十人町に上がる石段の付け根の所に、昔はユダヤ教会があったそうです。この教会は第一次世界大戦の際、敵国財産として没収され、その後は荒れるにまかせていたが昭和二十一年に取り壊されてしまいました。
この教会を建立したのはユダヤ人のゴンドレーキが主となり、世話人はレスナーやナフタリー・エスコーンと言うユダヤの人々だったそうです。ユダヤ人は寺院を建てる時には貴金属を祭壇の下に埋めるそうで、ユダヤ人が長崎を引き揚げる時、教会の飾りは全部取り外して持ち帰ったそうですが、祭壇下の貴金属は掘り出す事が出来なかったと言う話ですから、あるいは、今でもそのまま埋まっているかも知れません。

四海楼ガレージの坂道を登り右に曲がり、石段を登った所に長崎から御崎まで、今魚町(現魚の町)の人々が五十数本の道標を建てたのですが、第一番目の道標が、ここ十人町で「みさきみち」「今魚町」と刻まれているはずですが、現在はかんじんの文字は消えて、時の流れを感じます。このあたりは昔の面影が残り石段もゆるやかで、レンガ塀や格子づくりの家などが残りしっとりと落ち着いていました。
坂の途中に小説『お菊さん』を書いた、フランスの作家ピエール・ロチ寓居の地という碑が建っています。ロチは明治十八年長崎に約一ヵ月ほど滞在し、その間十八歳の長崎娘「おきく」と結婚した事になっています。この体験をもととして書いたのが小説『お菊さん』である。安政の開国により、この地区が外国人居留地となり、ここに居留地界の碑が建っています。
洋館群の急な坂を下ると大浦石橋に出ます。江戸時代ここまでが海でした。現在石橋は道路の下になっていますが、今もそのままの型で残っています。少し行くと出雲町の元遊郭街へと出ます。この遊郭街は明治二十五年に浪ノ平から移転して来たもので、現在は一軒のみ残り今にも倒壊しそうになっています。この遊郭街は丸山などと違い、客も一般庶民が多かったとの事、最盛期には十六軒の遊郭と三百五十人の娼妓がいたそうです。

この道を登り、二本松神社に出て少し行くと旧御崎道で唯一の街道らしい場所に出るのですが水道工事のため多くの石畳が破壊されています。なんとか元に修復してほしいものです。この道の中ほどに「みさきみち」の道標がひっそりと立っています。この道を下ると、長崎甚左衛門の一族である長崎氏の墓地があり、今も子孫の方により大切にまつられています。
戸町小学校から新小ヶ倉一丁目にさしかかると、「従是南佐嘉領」の碑があり、これから先は佐嘉藩深堀領となります。ダイヤランド入口手前に「力士墓」の碑があり、この碑の前の植木屋の庭の中に小さく破損した「みさきみち」の道標が人々に忘れさられながらひっそりと立っています。ダイヤランド団地の造成で古道に行く道がなくなり御崎道はここで途切れてしまいます。
今回は磯道町から土井首、毛井首を通り深堀の町へと出た。深堀の町は長崎近郊では唯一城下町的な姿を残している町です。由来記によれば、八百年前までは深堀を中心に戸町から野母崎まで散在する島々を含めて「戸八ヶ浦」と呼んでいました。建長七年(1255)に鎌倉幕府の命を受けた三浦能仲が地頭職として赴任し地名を「深堀」と改め、十七代仲光の代に、諫早西郷家より西郷純賢を養子とし鍋島に改姓し、佐嘉鍋島家の家臣となりました。

深堀を過ぎると、大籠町に至る。上の善長地区は文化年間(1804)に三重の樫山からキリスト教には寛大であったこの地に六家族が旅芸人の風を装い住みついたそうです。住みつく条件は八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として領主用の水(お茶の水)汲みの役を果たす事でした。そして表向きは菩提寺の信徒でした。善長とはポルトガル語で異教徒から転化したものです。
この地区の墓地にはキリスト教様式の寝墓が多く、また氏神の新田神社は新田義興を祀っていますが、鳥居には隠し十字があり、奉献の奉の字が となり、神社家紋○一は石祠上部にある○大と○一とが合体されて○となり大神デウスを表していると思われ、石祠の屋根側面は大三角形で三位一体を表すそうです。石祠の屋根前面には蟹の彫塑があり、この地区の人々は蟹を食べないそうです。
この地区の上部が千二百年前頃の朝鮮式の山城で標高三百五十米の頂上付近には五条の空堀と、俵石と言われる柱状節理の円柱状の石群があります。江戸時代中期の画家、司馬江漢の「御崎紀行」には、「皆路山坂にして平地なし」と記されています。三和町に入ると「みさきみち」の道標二本が立っていました。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

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岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」。2001年初夏刊「長崎“街道周辺の史跡”」に収録。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行41〜43頁ですでに紹介済み。写真は、上戸町二本松山中の「みさき道」道塚と、ダイヤランド入口手前の「源右衛門茶屋」などの碑。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏作成
「長崎“街道周辺の史跡”」に収録   143〜150頁

江戸時代、長崎から長崎半島野母崎町の脇岬にある観音寺まで、みさき観音参りと言って長崎の善男善女が七里の山道を歩き通してお参りした。元気なものは夜明け前に出発して、夜遅く帰着する一日がかりの行程で、無理な人は泊まりがけで往復した。新婚夫婦も手を携えてお参りしたという。この風習は、現代のような交通網の発達しない昭和前期ころまでつづけれられたとのことである。この道程を「みさき道」と言って、今魚町の信者が天明四年(1784)50本の道塚を寄進したが、今日、確認できるのは8本ほどしか残っていない。
時代の進歩とともに交通道路が逐次建設されて、みさき道は寸断され、また山道も荒れていて昔のみさき道をたどることはできない。今日、わずかに残る道塚や道中の史跡など、まず長崎近郊のみさき道を辿りながら往時をしのんでみることにしょう。

◎十人町のみさき道塚
新地の湊公園さき、十人町にのぼる坂の角は太閤寿司で、すぐ右に上る階段が続いている。若干のぼった右側の町内掲示板と電柱の間に、高さ70cmの朽ちた石塚が立っている。町中にあり、いわゆる一番目の道塚と見てよいだろう。なんの説明板もないが大切に保存してほしいものである。
だらだら坂のとちゅうには、フランスの文豪ピェ—ルロチと日本娘お菊さんが一ヶ月あまり新婚生活を送った寓居跡もあり碑が立っている。
十人町の町名は江戸時代、港の遠見番十人の役宅があったところからきている。坂段をのぼりつめると、右側赤レンガ塀角に大きな居留地境の碑が残っている。旧幕時代、外国人はこの区域外に居住することは禁止されていた。
道路左側塀には記念碑がはめられていて、文久二年(1862)日本最初の英国聖公会堂(新教)がたてられた跡、鎮西高校(現、諌早市)の前身、鎮西学院発祥の地ということなどが記るされている。昔、みさき道として、この地は低い峠であった。
右に活水女子大の赤屋根校舎、赤レンガ塀の続く石畳の道、三角溝の側溝と異国情緒ただよう道を左の方へ進んで行く。車もときどき通るくらいで静かである。やがて道向いに南山手のグラバー園、大浦諏訪神社、妙行寺、国宝大浦天主堂そして下方に孔子廟と、長崎独特の風景が目に入ってくる。

◎オランダ坂
急な石畳の坂である。途中、左側にお寺の誠孝院、右側は再建された東山手洋館群で古写真などの資料が展示してある。往時のみさき道は、この坂を下ると入り江の迫った石橋電停あたりから急な坂道の続く出雲町へと上がって行った。

◎出雲町から二本松神社へ
出雲町から二本松神社へのぼる道は一帯が急斜面で住宅が密集し、狭い車道も曲がりくねっている。出雲天満宮わきをとおり、あえぎながら上がっていくと、やがて峠で小さな二本松神社が有る。ここには昔、長崎に入るための関所が設けられた戸町峠である。
右側のみちは鍋冠山(169m)に通じていて公園も設けられ、港夜景の美しいところである。長崎の南から東にかけて山裾を縦断する県道(小ヶ倉—田上線)が建設中で、上戸町からこの二本松までおよそ千mは既に完成していて目下(平成11年)田上までの延長工事が進行中である。

◎戸町のみさき道
鍋冠山裾一帯の市営アパート群を見ながら二本松神社より、ゆるやかな広い車道を200mくだると左側に入り込む道がある。このみちは350m先にある九州セルラー電話(株)上戸無線局へ通じている。避雷針をつけた大きな四本柱塔がすぐ目につく。
無線局の手前より左側の林に下る幅2m程の山道がある。この道が当時のままの「みさき道」である。なだらかな山道を3分ほど進んで行くと三叉路となり、道塚が立っている。林内にあるため摩滅することなく「みさ起みち」「今魚町」とはっきり刻まれている。真っすぐ進むと上戸町の墓地群へ、下って行くと弁慶岩橋のところへ出る。

◎弁慶岩橋あたり
三叉路で下り坂の山道を100mおりて行くと、ちょうど弁慶岩橋(1984年架)の袂に出る。谷に渡された橋である。ここよりさらに100m先の林に、守る人も居ないような荒廃した祠と弁慶岩がある。朽ちた立岩不動明王の赤鳥居、岩窟の祠、そして、数々の像が祭られている。
目につくのは、色あせた彩色陶製?の女神像である。おさげ髪で袴をつけ、靴を履いた姫の姿である。由来は知るすべもないが、空想すると500年の昔、戸町を放浪した草住御前がモデルかもしれない。黒石の老女像は話によるとここの創始者の由なるも、名前は分からない。
さらに奥の峻険な岩の坂段を60mほどのぼると堂々たる断崖窟(広さ4㎡)内に熊野権現大明神が祭られている。頂きは樹木がしげっていて弁慶岩の全容がつかめない。弁慶岩橋ができる前、小さな牛若丸岩もあったとか、近くの人の話である。下側に広い車道が通じていても、いま尚この地域は秘境の趣を呈している。ここの探訪を終えて、先程の三叉路に戻り真っすぐ進んで行く。

◎戸町長崎氏の墓
三叉路から林内の「みさき道」をあるいて七分で視界がひらけ斜面墓地帯にでる。下り坂途中に戸町長崎氏の墓がある。天正時代(1580年代)長崎甚左衛門の三番目の弟、重方(惣兵衛)は妻の実家戸町氏に迎えられ、戸町惣兵衛と称し戸町の地頭として戸町を支配したが、のち長崎に戻った。この墓は後継一族の墓で正面両側の墓碑(長崎丈左衛門、同夫人)戒名の中に勇猛という字がはいっているのも、なにか曰くありそうである。

◎宝 輪 寺
墓地をくだり、すぐ戸町バイパスの横断歩道をわたると、左角はガソリンスタンドでこの前の道を五分ほど歩いて行くと右うえに宝輪寺が見える。宝輪寺は小高い丘のうえにあり、この地は大昔、深堀氏の祖、三浦氏の居城、城の尾砦のあったところで今でも片方は険しい谷で、大昔の面影をのこしている。境内隅には霊をなぐさめるべく城の尾砦武士の墓碑がある。
宝輪寺は寛永18年(1641)修験僧、増慶が八幡町に大黒天を祭ったのが始まりで、その後、油屋町(清水寺下、いまの西田病院あたり)にうつり、昭和前期まで同地で、現在この地に再建されている。幕府直轄の寺としてこの寺は格式があったようで、元禄年間長崎奉行所の法螺貝安置所として不測の時とか、奉行巡検のさい用いられた。この法螺貝は本堂内の右側に安置されている。
本堂前面には後奈良天皇(在位1526−57)勅願所と書かれたおおきな木札もその格式をしめしている。境内に各人が幸を祈願するための「なで大黒」が据えられている。また長崎四国38番霊場でもある。

◎境界石標
宝輪寺を拝観後、さらに進んでいくと戸町中学校のところに出る。中学校を左に見て六分程まっすぐ進むと三叉路に出る。左側のゆるやかな下り坂は戸町バイパスに通じている。これまで歩いてきた道は旧道で、「みさき道」でもある。さらに少し歩いて行く途中の左側、原田邸(新小が倉1丁目1番)のかどに「従是南佐嘉領」の石標がたっている。長崎は江戸時代、天領であったが、この一帯から南は鍋島藩の所領であった。もう少しで戸町峠バイパスの峠である。

◎二力士墓
戸町バイパスはゆるやかな坂となり、峠わきに二力士の墓が移設されている。団地のダイヤランドは峠のさき左にはいったところである。二力士の説明碑がすえてあるのでそのまま掲載しょう。

◎みさき道塚と谷桜力士墓
二力士墓碑の道向かいは高比良造園で、園内上の土手隅に「みさき道塚」が残っている。文政六年(1823)今魚町と刻まれている。また上段土手の竹林内に円筒形の谷桜力士(俗名川向実松)の墓がある。明治25年10月15日建之と刻してある。みさき道沿いにあり、行き来する人も香華を手向けたことであろう。
長崎近郊のみさき道探訪もとりあえずここまでとして、さきの二力士説明碑にある源右衛門茶屋にも関係のある古い話を紹介して終わることにしよう。

◎虫追いの行事
昔8,9月頃、村中の子供青壮老年総出で虫追いと言う行事を行った。青赤の色紙で登旗をつくり、太鼓、鐘などを打ち鳴らして小ヶ倉海岸より源右衛門茶屋まで行列して、再び引き返した。そして海岸で為盛、糖盛二人の武士のワラ人形を立てて、射落とした。
伝説によると為盛、糖盛と言う二人の武士が敗戦して百姓家にかくれたが、百姓がその筋に密告し連行された。このとき武士は大いに怒って、吾らが死んだら虫になって村民に仇を打つであろう、と言い残した。このため後年、村民たちは二人の人形を作り、射落として虫追いの行事をするようになった。 「大正7年小ヶ倉村郷土誌、小ヶ倉尋常小学校」より

(注) 筆者は長崎市南公民館の歴史講座などを長年にわたり担当されているだけに、長崎市近郊の街道など9コースについて、実際に歩いたガイドブックとなっている。ただ、上戸町長崎氏の墓や宝輪寺下の道を「みさき道」のコースとするのには、疑問があろう。

前掲わたりどり氏HPなどと言い、多くの方の「みさき道」研究が、市中からなんとか小ヶ倉や土井首、深堀あたりまではたどりつくが、その先がホニャラ…で終る。
長崎街道や時津街道などに比べ、深堀道・為石からの長崎往還・御崎道・野母道・川原道など、肝心の地元街道の正しい検証が、これまでほとんど行われなかったと言える。本会の研究レポートやこのブログを参考とし、地元をはじめ多くの方が研究を進めてほしい。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

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わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時のわたりどり氏
HP 「みさき道」 掲載年不明。HPは削除か。現在では見当たらない。 
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行37〜39頁ですでに紹介済み。南長崎ダイヤランド内の「みさき道」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/362
写真は、ダイヤランド内の籠立て場だったと思われる付近からの小ヶ倉と港外の島の遠望。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明

みさき道、いよいよスタートです!
第1日目 長崎の町ん中を出て  4月16日晴れ

スタートの十人町までやってきた。ここから、脇岬・観音寺までの長い徒歩の旅が始まる。スタートの道塚を見つけた。もっとしっかりしたものと思いきや、意外にもろそう。よくこれが道塚だとわかったものだ。十人町の道塚 町の掲示板の横にひっそりと。住宅地の小さな石畳の通りを歩いてゆく。
ほどなく、ピエル・ロチ寓居の地 と書かれた石碑の横を通る。長崎に滞在したフランス海軍士官がピエル・ロチ(ピエール・ロティ)が、この町で日本人女性と共に1ヶ月間過ごした記録を著した『お菊さん』は今でも出版されている。しかし、長崎にはこのような話はよくあるが、1ヶ月だけの恋って辛くはないだろうか。そんな彼らの思い出の前を通り過ぎる。
またほどなくして、遠見番跡 と書かれた案内板の前に着く。案内板には「鎖国時代、外国船の入港・出港に際しての監視及び長崎奉行所までの伝達機関として野母・小瀬戸・梅ヶ崎・勧善寺(後に永昌寺)に遠見番が設置されていた。この付近に遠見番10人の官舎が設けられていたことから、十人町 と名付けられた。」と書いてある。そうだったのか…だから十人町。歴史を感じるなぁ。しかしここから野母まで通うの大変だったろうな…(毎日じゃないだろうけど)

振り返ると長崎の市街地が少し見える。石畳の細い道。住宅の間の普通の通りという感じ。この細道を登りきると、大きな通りに出た。通りを右に行く。いわゆる、オランダ坂 という有名な道だ。上の画像の洋風の建物は活水女子大学。少し進んで下を見下ろすと…おお、これまた洋風建築。なかなか異国情緒漂う雰囲気。表から見ると…あ、屋根の間から孔子廟の屋根が! ↓の下です。(孔子廟はこんな感じ) せっかく高台の気持ちのいい道だったのに、下り坂となり早くもオランダ坂終点。下から見たオランダ坂終点。けっこう急登!?
一度、石橋電停付近へ出て、バス道路を横切り、お肉屋さんと果物屋さんの間の通りを行く。道なりに行くとグラバー園にショートカットできるスカイロードの入り口につきあたるのでそこを左に。ここから完全な、住宅地の通路となる。車の通れない細道。
ほどなく、共同の水場?のような場所を目にする。昔はここで、井戸端会議などやっていたのかな… 蛇口の下が濡れている。まだ使われているのかな。チビももを抱いてずんずん歩く。まわりを見渡せば… 左側 丘にへばりつくように立ち並ぶ家々。右側 どこまでも続く横道。車の入れないこともあり、石段には猫がくつろぎ、子供が遊ぶ。迷路のような歩き道。ああ、長崎の典型的な家並だ。とても懐かしく思えた。ほどなく出雲二丁目。車道に合流したところで今日の行程はおしまい。

第2日目 わたしのふるさと  5月4日晴れ

1日目の終点、出雲からのスタート。車道と合流し、もくもくと二本松へ向けて登る。石垣のムラサキカタバミを愛でる私。昔からの道だからか、あちこちで神様が見守っておられる。道のところどころで神様を祀ってある。容姿は様々。この道は昔、戸町道と呼ばれていたらしい。戸町⇔市街地の重要な道。現在では昭和40年以降に造られた県道が戸町へのメインルートとなっているが、実はこの出雲→上戸町の道が圧倒的に近い。徒歩では特に。
カンカン照りの中を歩きに歩いてやっと頂上…二本松地区へ到着。正面は二本松神社。この社殿は昭和4年に作られたらしい(石碑より)。この神社をとりまく戸町道は、昭和8年に改修されたらしい(石碑より)。現在の道の状況から言えば、移築した方がスムーズに通行できそうな感じにこの神社は立ちはだかっている。でもあくまで神社はこの場所、という住民の声が聞こえそうだ。この位置にあるからこそ、昔の風景を思い浮かべることができる。旧道 という雰囲気を醸し出している。二本松地区から見た景色 海が見える。
大きな道路を渡って、左の細道へ入る。民家が立ち並ぶ。ここからも景色がよく、稲佐山と鍋冠山が同時に見える。やがて、道路をはずれて山道へ…さぁ、ここからが昔のままのみさき道。石垣の跡 きちんとした道だったらしい。石段もきれいに残っている。道幅も広い。そして、ほどなく道塚発見!!間違いなくここはみさき道。しかもきれい!!!ほぼ完璧な形で残っている! ↓アップはこちら。江戸時代の道しるべとは思えない…風雨や人々の開発の手から逃れた貴重な一本。

山を抜けるとこの景色 もう上戸町に到着。県道へ出て、ガソリンスタンドの横の道へ入る。右手は広い敷地・立派な庭木・おおきな鯉のぼりが並ぶ…そう、武家屋敷のよう(実際、長崎港を開いた長崎最後の殿様・長崎甚左衛門の三番目の弟の筋の子孫が住んでおられるらしい。しかもその方は私の同級生)。戸町中学校の脇を通り、新戸町を歩く。公民館前の蓑川永太郎翁の記念碑の前を通過。通いなれた中学の通学路がみさき道だったなんて… 昔よりひらけて、空が広くなった気がする。
これより南は佐賀領 と書かれた石標。なんと新小ヶ倉から南側は佐賀の領地だったのだ。しらなかった。坂を上り、県道にぶつかる。モスバーガーで一服して再び歩き出す。峠のガソリンスタンドの隣の造園屋さんの中に道塚は立っていた。これは探しに探した。草の中に埋もれている。ここからは宅地造成により昔の道はどうだったか定かではない。
道塚付近に建つ力士塚。天保10年頃に東京相撲で活躍した二子島力士と慶応4年ごろに宮相撲で強豪であった熊ヶ谷力士のもの。またこの界隈はみさき道の主要路で、観音寺参りの商人や、深堀武士たちの往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる(碑文より)。

下る。くぐる。登る(206段)。わざわざダイヤランドにここまで回り道してアプローチしたことはなかったなぁ。そしてダイヤランド(新興住宅地)に入り、籠立て場(昔の休憩ポイント)に到着。って、かなり殺風景な籠立て場(跡)だな。たぶん昔の籠立て場からこんな景色が見えていたはず。
ここからまた山道に入る。この道がまた細い。昔は殿様の通る「殿様道」といわれていたらしいが、まったくその面影はない。かごが通れる幅じゃない。ほとんど斜面。景色だけは素晴らしい。しばらく藪を歩くと鹿尾川の上に出る。川へ下りてみると、昔のみさき道であったという飛び石のなごり?のような風景に出会う。川には他に大きな石は見当たらない。当時は飛び石を渡って↓の神社を経由していたという。
川沿いに国道へ出て、横断歩道を渡る。土井の首郵便局の道を通る。ここは私が幼稚園の時、毛井首から土井の首へ一人で毎日通った通園路だった(さらに土井の首からバスに乗って浪の平まで通っていた)。誘拐の危険性も少ない、古きよき時代の話である。海へ出た。土井の首村の役場の跡を通る。そういえば小学生の頃は、洋風な白っぽい木造の建物がまだあった! あれは役場だったのかなぁ… しかし、土井の首村が長崎市に編入されたのは昭和13年。もしあれが役場だったとしたらあの建物はかなり古いものだったということになる。今は取り壊され、こんな感じに。土井の首は、私が5歳から12歳までを過ごしたふるさと。ふと、同郷の福田清人先生の「春の目玉」を思い出す。

春の目玉
ぐっと大きく 目を見開いて  すべてのものを よく見よう  君の目玉に映るものを
よく見分けて どんどん伸びていこう  君の美しい心は 君のよく澄んだ目玉に
春の光のようにあらわれる
土井の首小学校の学び舎で、大きな声でのびのびと歌っていた。あの頃が懐かしい。福田先生がどういったお方かというお話はここでは割愛させていただくが、みさき道に関する句を詠まれ、諏訪神社に句碑があるという。
岬道 おくんち詣での思い出も
なつかしい思い出を胸に土井の首を去る。江川の橋を渡る。昔、母から叱られると決まって「お前は、江川の橋の下でひろった」と言われていた。いくらなんでもこんなドブに捨てる人はいないだろう、と子供ながらに思っていた…(苦笑) 末石の工業地帯を歩く。末石は私が物心つくまでの間暮らしていたところ。私が詳しいのはこのあたりまで。やがて、新道の高架をくぐって深堀へ入る。雰囲気がこれまでとがらりとかわる。町のところどころに、波止恵比寿。旧道にもかかわらず人の往来がはげしい。ほどなく武家屋敷跡に到着。歴史ある深堀の町については、次回、出発時に。(写真略)

(注) 第1集では、資料掲載を省略したHP。九州東海大学W.Ⅴ(ワンダーホーゲル)部OGで長崎在住の方か。歩いた年がHPでは不明。現在ではこのHPは見当たらない。今となっては貴重な記録。当時の著名な方などの資料コースをもとに、「みさき道」を踏査されたと思われる。

上戸町墓地を通り、ダイヤランド入口ではいったん小ヶ倉側へ下り、ダイヤランドへアプローチ。そんな回り道は考えられない。きついはずで籠立て場の場所も違う。土井首から毛井首経由は、明治になって開けた道。江川橋や平瀬の海岸道もなかった。
資料コースはその後、修正されているようだ。三和町郷土誌の概念図も了承をお願いしたい。