月別アーカイブ: 2012年2月

「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

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「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

財団法人鍋島報效会「徴古館」(ちょうこかん 佐賀市松原2−5−22)は、旧佐賀藩主・侯爵鍋島家伝来の歴史資料・美術工芸品を展示する博物館。
同館所蔵品紹介HPに、「慶長肥前国絵図」の天保模写本と、それをもとにした明治前期再写本がある。解説は次のとおり。

掲載図は、国絵図がはっきりした明治前期再写本の長崎半島部分拡大図。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされている。
小さな街道は表れていないが、「みさき道」(「御崎道」ないし「野母道」)は、当時から高浜へ下り殿隠山・遠見山尾根は通っていないことがわかるだろう。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/3077

慶長肥前国絵図      江戸時代 竪234cm 横249cm
けいちょうひぜんくにえず

慶長10年(1605)諸大名は幕府の命により国絵図と郷帳を作成・提出した。天保8年(1837)の模写本と、それをもとにした明治前期の再写本の2本が現存する。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされ、地名は長方形の枠内に記入され、その横に石高が付されている。また郡別に大きな長方形の枠をつくり、その総石高・田畑面積・寺社領石高・物成・小物成が記されている。

筑後との境から長崎までのいわゆる長崎街道の経路は、田代・瓜生野宿・轟木宿村・寒津・竜蔵(造)寺城・八戸・加世(嘉瀬)・牛津町・山口で分かれ、一方は六角・須古郷・高町・常広城(鹿島)の先で分かれ、一方は塩田・大草野・嬉野へ、常広城の先でもう一方は浜町・長田村(高木郡)へ、山口で分かれたもう一方は小田・大町・焼米・志久・北方・高橋町・花島・志田・塩田へつながる。江戸時代初期の街道の状況がうかがわれる。

村岡 豊氏HP 「長崎県の坂」  (現在は「長崎坂づくし」)

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村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」(現在はHPタイトル「長崎坂づくし」)から、「女の坂」と「しりくい坂」(尻喰坂)。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35〜37頁ですでに紹介済み。写真は、村岡氏撮影の当時の「女の坂」と、現在の「女の坂」首なし地蔵、「尻喰坂」以下宿側入口の状況。この谷間を左上へ越した。

村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

女の坂(おなごのさか・おんなのさか) 長崎市深堀町5丁目〜長崎市大籠町善長谷

長崎市深堀町5丁目から長崎市大籠町(おおごもりまち)善長谷(ぜんちょうだに)の間に通じる坂道を、いつのころからか「女の坂」と呼んでおり、道ばたには古い石の地蔵があります。
旧藩時代、領主の命を受けて注進の文箱を携えてこの道を往来するとき、もし途中で妨げる者があれば斬り捨てご免を許されていた。ある夜、急ぎの使者がこの坂道にさしかかったとき、たまたま一人の身重の婦人が路傍で休んでいました。
婦人は注進と知るや「決してあやしい者ではございません…」との言葉も終わらぬうちに、一刀のもとに斬り捨てられてしまった。
その後、夜ここを通りかかると、恨めしそうな姿をした女があらわれ通行人に声をかけるようになった。「女の亡霊!女の坂」と、いつとはなしに「女の坂」と呼ぶようになったそうです。
領主のお声がかりで、同志相寄りここに地蔵尊を迎え、女の霊を慰めることになったという。
「長崎県大百科事典」(辻本義典担当) 長崎新聞社 昭和59年
(参考文献 「西海の伝説」山口麻太郎著 第一法規出版 昭和49年)
書籍では「おんなのさか」となっていますが、地元の人は皆「おなごのさか」と言っておられました。

1997/12/31 女の坂・深堀〜善長谷(隠れキリシタンの村・善長谷教会があります)まで、実際に歩いてみました。
深堀小学校の南側にある、川内公民館前の道を墓地の方へ登ります。山腹の途中にある「キリシタン墓地」の前から、右に行きます。杉林の先の谷間にお地蔵様がありました。お地蔵様の前から右にまいて登っていくと、途中に「大きな石」が左手にあります。さらに右の方向へ登っていきますが、この先からが途中でけもの道になりイバラが道をおおっていたりで、山歩きにかなり慣れている人以外は、女の坂を善長谷まで登るのは今では無理です。善長谷のお婆ちゃんに話を伺いましたが、海岸の新道が出来るまでは、女の坂を通って深堀小学校に通学されたそうです。
お地蔵様を一人では見つけることが出来ず、お地蔵様まで深堀町5丁目の高比良せいの様に案内して頂きました。高比良さんはかつて郵便局にお勤めで、女の坂を登って善長谷まで速達の郵便を届けておられたそうです。地元の人は、この道を「とのさん道(殿様道)」と呼んでおられたので、この道も「御崎道」の一部なのでしょう。

御崎道について

長崎から(館内〜戸町〜子ヶ倉〜深堀〜蚊焼)、野母崎・脇岬までの七里(約28Km)の道。江戸時代から、長崎の人たちによる「観音信仰」が大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)でにぎわいました。また、野母の権現山に遠見番所が寛永十五年(1638年)に設置され、外国船を発見すると直ちに長崎奉行に注進され、軍用道路的な性格も有していました。
地元の人々は、とのさん道(殿様道)と呼んでいます。御崎道の詳細については「三和町郷土誌・昭和61年発行・観音信仰と御崎道/原田博二」をご覧下さい。

しりくい坂(しっきぃ坂)   西彼杵郡野母崎町黒浜〜野母崎町以下宿

昔、長崎に出入りする要路が六つあり、その一つが「御崎道(みさきみち)」です。御崎道の、野母崎町(のもざきちょう)黒浜〜野母崎町以下宿(いかやど)の間の山越えの急峻な坂です。
前に行く人の、尻を食いつきそうな急な坂。
〈親和文庫第18号 長崎ぶらり散歩 原田博二著 親和銀行 平成7年4月発行〉
東彼杵郡波佐見町には、尻喰坂という地名があります。「波佐見の地すべり地名には…崩の迫(くえのさこ)、ぬず場、ユルギ、ユルサ、小樽、尻喰坂、八の久保などがある。…」として紹介されています(佐世保の歴史・地理/吉富一)。土石流が襲ってきて、逃げまどう人々をのみ込んでしまったのでしょうか?
地元の人は「しっきぃ坂」と言っておられました。

1997/12/31 しりくい坂を以下宿から、実際に歩いてみました。
海岸沿いの国道499号線の以下宿のバス停から山の方(東側)へ入り、「野母崎町消防団第12分団以下宿倉庫」前から山への道(北へ)です。竹薮の間を通って、谷間の急な坂を登っていきますが、今では道がはっきり分かりませんでした。
以下宿のお婆ちゃんに話を伺いましたが、黒浜に高浜小学校の分校があり、しりくい坂を通って分校に通学されたそうです。〈野母崎町以下宿の山口登さんに、坂の場所を教えて頂きました〉

(注) 平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」。「長崎県の坂」またはそれぞれの坂名により検索していた。作成の着眼に感心した資料である。
現在は、HPタイトル「長崎坂づくし」となって、内容は一新している。「女の坂」のみ、東山手と南山手・小島周辺の坂の中に含まれ掲載されている。

「女の坂 深堀〜善長谷 市内からは離れていますが、思い出に残る坂道でしたので収録しました。隠れキリシタンの里・善長谷と深堀をつなぐ道でした。今は途中まで通れますが、善長谷までは草木が生い茂って行けません」とあるが、道はすでに平成17年頃、私たちが切り開き大籠町まで完全復元。長崎学さるく行事「江戸期のみさき道歩き」などで歩いている。

後段の「御崎道について」や「しりくい坂」は、現在のHPでは省略されたが、黒浜〜以下宿間の「しりくい坂」(尻喰坂)は、「岳路みさき道」の区間である。
私たちが同じく平成17年頃、踏査して切り開きルートは確認。一部行事で利用している。

「女の坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/412
「尻喰坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/134

ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

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ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。みろくやHP ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号「みさき道は、抜け荷の道?」2003年3月。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35頁ですでに紹介済み。

みろくや HP 「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年3月
ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム  第130号

長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28Kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。
鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、おおむね1泊2日の行程で行き来していました。中には朝早いうちに出発して参詣を済ませ、夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。

みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町〜二本松〜戸町中学校〜ダイヤランド〜土井首郵便局〜深堀町〜大籠町〜三和町(西彼杵郡)〜蚊焼峠〜黒岳〜野母崎町殿隠山〜堂山峠〜観音寺というルートです。(分カル人ハカナリノ長崎通)
現在のみさき道は、車道になっているところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。

みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。(通勤ガ大変ダネ)
この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。みさき道はそういったところに勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。

またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、それでも魅力は大きかったらしく、あとを絶ちませんでした。
抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。(遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス)

◎参考とした本と資料
「わが町の歴史散歩(1)」(熊弘人著) 「長崎ぶらり散歩」(原田博二著) 「白帆注進」(旗先好紀・江越弘人著) 「第65回みろくや長崎食文化講座〜みさき道って何?〜」(講師 中島 勇)

(注) みろくやHP「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」は、気のきいた長崎歴史コラム。ただ、この「みさき道は、抜け荷の道?」は、参考とした本と資料に一部、疑問が多い。
「みさき道」のルートや密貿易との関連は、コラム筆者自身で正しく研究してほしかった。

草住尾根から兜岳・八郎岳へ  2012年2月

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草住尾根から兜岳・八郎岳へ  2012年2月

2012年2月5日(日)曇りのち雨。草住尾根から兜岳(標高462m)・八郎岳へ。参加12人。みさき道歩会の例会。雨のため八郎岳は中止。
江川総合運動公園9:30−草住町—草住尾根—江川からの登山道合流点10:57—兜岳
(12:15 昼食 12:45)—(八郎岳—落矢尾根—落矢ダムは変更)ー前記合流点に戻る—江川町14:00(徒歩距離 約8km)

朝から雲行きが悪いが、きょうのコースは、草住尾根の「陸軍要塞標」探しと登山道整備が目的。行けるところまで行く。江川総合運動公園から推定「みさき道」を逆にたどり、草住市営住宅集会所まで行く。
長崎ペット霊園との間に登り口があり、明治地図の小径が残る。深堀城山と鹿尾林道に陸軍省「長崎要塞第二地帯標」が現存し、線で結ぶと草住尾根の道にも現存する可能性がある。

草住尾根の道は、たいして荒れていなく、登山道整備の必要もなく、江川から登る道との合流点に着いた。途中は唯念寺植林園や九電江川線鉄塔を通った。この間の道脇に「陸軍要塞標」は見あたらなかった。地元の山主・伊東氏の話でも記憶ない。
後は通常の登山道を兜岳を目指して登った。平成8年の「土井首中学校同窓会植林地」を過ぎると山頂までわずか。兜岳12:15着。昼食。
小雨が降りだし八郎岳へは行かず、そのまま同じ道を江川からの登山道合流点に戻り、江川町へ下った。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29235239.html

八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

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八郎岳登山口の駐車場などの整備について  長崎市政への提案と回答

長崎市市政への提案制度があり、提案書式によりメールでもできる。長崎市平山町の八郎岳登山口に、登山者用駐車場など整備するよう、昨年8月から再三要望しているが、全く必要性を認識していなく進展がない。
市長と良く協議し12月に最終回答を求めたが、回答は次のとおり。またしても要領を得ない。

警察に路上駐車を取り締まれと、対応を願ったのではない。提案の主旨とは逆である。地元自治会に用地提供などまず相談すべきではないか。費用対効果等はこの件では持ち出す問題ではない。必要性は認めるが、予算がないなら「ない」と回答すべきではないか。
実際は「公衆トイレ」も市民農園と兼用し設置してほしい。国道側には「八郎岳登山口」の案内表示も必要だろう。駐車場がある登山口から登れと指導しながら、今回は「元宮公園」も駄目と言う。登山口の駐車場がなおさら必要ではないか。

提案制度には匿名が認められているのに、氏名など記入せよとおかしなことを言う。私だけではなく市民全体や市外からの登山愛好者に、納得できる回答をお願いしたい。要点のみ簡潔にまとめてもらいたい。長崎市HPによる回答掲載が、何よりも遅い。提案制度が形だけとなっている。
長崎市長がまずしっかりして、実現へ向け努力してもらいたい。長崎市として恥ずかしい対応である。

八郎岳は長崎県立公園である。こちらこそ公園は気持ちよく利用したい。市民農園や元宮公園駐車場も開放すれば済むことである。長崎県から長崎市に対する指導が必要なのではないか。県とも協議してほしいと前から要望していた。
市のいつまでもつまらない回答に、私はこれ以上付き合いたくない。長崎市の最終回答を公表し、皆さんの判断をお願いしたい。平成23年8月分以降の回答は、長崎市提案HP参照。

(提案内容  2011/12/16(金) 11:15 送信)

八郎岳登山口の駐車場などの整備について

八郎岳登山口の登山者専用駐車場、登山案内図などの整備について、8月から再三提案しています。回答がまったく要領を得ません。これまで質問した事項に、要点のみ簡潔に回答してください。
1 八郎岳は野母半島県立公園です。登山口に登山者専用駐車場、登山案内図などが必要と認識されていますか。
2 市民農園駐車場が登山者禁止としているのは、あまりに閉鎖的です。スペースを広げるなどして早急に対応してください。
3 路上駐車などで、近隣に迷惑をかけています。現地調査をして地元自治会などと相談し、次善の解決策を考えてください。
4 登山口付近に市有地や遊休土地はいくらでもあります。予算をかけずに、土地を活用する方法を考えてください。
5 登山口の駐車場整備が当面どうしても駄目なら、元宮公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示してください。
6 八郎岳は遭難難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図」を、登山口にもぜひ設置してください。
7 九州百名山で市外から訪れる登山者が最近多くなっています。長崎市としてはずかしくない対応をお願いします。
8 市長とよく協議し、責任ある最終回答をお願いします。各事項について個別にもれなく回答してください。

(回答内容等  2012/2/4(土)? 長崎市HP回答掲載) 

ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について次のとおり回答します。
まず、「3路上駐車」の件につきましては、所轄の大浦警察署に情報提供し、対応をお願いしたところです。
次に「5登山者の元宮公園駐車場の利用」につきましては、当駐車場は、多目的広場や遊戯広場、少年交流センターや庭球場などご利用の方々のために整備しています。
ご提案の八郎岳登山者へ公園駐車場を利用するよう案内板と公園地図を掲示することにつきましては、公園利用者の駐車場利用に支障をきたす恐れがあることから、対応は困難ですので、何卒ご了承いただきますようお願いいたします。
今後とも、長崎市の公園におきましては、誰もが気持ちよく利用できるよう維持管理に努めてまいります。

また、提案の「6八郎岳」は遭難事故が発生しています。山頂の緑の基金と同じ「八郎岳周辺案内図を登山口にもぜひ設置してください。」という提案につきましてお答えします。
前回投稿いただきました折にご回答させていただきましたとおり、八郎岳周辺における道標等の整備につきましては、平成21年度より山岳会や長崎県等のご協力をいただき、設置箇所の増設や改修を行っており、登山者等の利便、安全な登山を行っていただくための対策を講じております。
ご提案の案内図につきましても、来年度事業で設置箇所の土地所有者のご理解、ご協力をいただき設置したいと考えております。なお、設置箇所につきましては、現在、登山口の一つであるサイクリング道路の側にある墓地のコンクリート擁壁の側面を考えていますが、他にご提案箇所がございましたらお知らせください。
その他の項目につきましては、すでに10月と12月に回答したとおりです。

本市としましては、「八郎岳登山口の駐車場の設置」の件につきましては、所管課が費用対効果等、総合的に判断して回答しておりますが、これまでのメールでのやりとりでは納得していただけないと思いますので、ぜひ、ご連絡先を教えていただき、直接説明したいと思います。今後、同一案件での再提案につきましては、回答はできかねますのでご了承ください。
また、市政への提案に際し、メールアドレスの記入がありませんので、別件の提案をされる場合は必ず、氏名、住所、電話番号、メールアドレスを必ずご記入ください。
H24.1.5回答

(関係所属)
みどりの課 095-829-1171  農林整備課 095-820-6569  広報広聴課 095-829-1114

みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

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みさき/​michitoの占いカルテ  2012年2月3日(金)

”Yahoo!占い” トップ画面で「自分の占いカルテを見よう」に、きょう偶然に載っていたカルテ。
さてどうだろうか。年齢がどうしょうもない。

みさき/​michito
・名前: みさき 道人   星座: やぎ座  性別: 男性   血液型: –

12星座でみるやぎ座の基本性格
やぎ座は、責任感の強い人。若いうちから精神的に大人で、本人は早く成功をものにしたいと思っています。でも、若いうちはどうしても忍耐を強いられることが多く、実際に自分の思い通りになるのは40代から、ということが多いようです。上質のワインのように、年齢とともによくなっていく人が多い星座です。

血液型でみる基本性格
・血液型が非公開か未登録のため表示できません。
・みさき/michitoの恋愛行動パターン
星座 血液型 性別  星座×血液型×性別がわかると、恋愛行動パターンが表示されます。

今日のみさき/michitoの運勢(12星座占い)
・総合運
ストレスがたまっていたらウォーキングを
いろいろと考えすぎて、よけいな心配を抱えないように注意したい日です。自分の頭と心が一致しないように感じるかもしれませんが、どこかでそのふたつが重なる点があるはず。少し時間をとってそれを探ることで、今抱えている課題を乗り越えることができますよ。モヤモヤした気持ちがたまったら、気持ちを切り替えるためにウォーキングを。良い情報が得られそうなので、いつも楽しく話ができるような友人に連絡をとってみましょう。
開運おまじない
シャツを着るときは一度ボタンを全部はずし、左腕からそでを通しましょう。
・恋愛運
せっかくいい話があっても、あなたがそれに乗らなければみすみす機会を逃してしまうことだってあります。慎重さも大事なことですが、石橋をたたいてばかりでは後から悔しい思いをすることもあるでしょう。ときには楽天的になって吉です。
・金運
・仕事運

ジーニーさんからの今週のメッセージ
・2012年1月30日〜2012年2月5日
外国語を学ぶのに言語体系を完全に理解する必要はないし、辞書に載っている言葉をすべて覚える必要もない。まずは毎日の暮らしの中で実用的なことや、好きなことに関連した言葉を覚えることから始めるだけでも大いに効果的である。最近のあなたは大きなことを成し遂げようという気持ちから、物事を少し難しく考えすぎていた傾向があるので、今週を境に「考えるだけでなく、感じることで学ぶ」ように意識を切り替えてみよう。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

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脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年  5〜10頁

〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺  709年行基菩薩によって建立される。
仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』  肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬

1 観音寺の文化財
ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など

2 観音寺外で見る文化財、史跡
ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」

〔8〕交通機関
明治16年(1883年) 長崎—野母航路開始される(三山汽船)
年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬—長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母—脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
この頃、長崎に行くには野母—長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
(当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
昭和18年(1943年) 県道、野母—長崎間開通する。
昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止—野母間の運行を開始して野母—脇岬線と連絡する。
昭和37年(1962年) 茂里町—脇岬間に延長される。

(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
野母商船の長崎—野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)

長崎の西空の夕日  12− 1

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長崎の西空の夕日  12− 1

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは今年も続く。

写真  1      2012年 1月21日の17時41分頃
写真  2〜 4  2012年 1月25日の17時27分頃
写真  5〜 9  2012年 1月27日の17時18分頃
写真 10      2012年 1月31日の17時39分頃
写真 11〜14  2012年 2月 2日の11時46分頃

きょう2月2日の長崎は寒い。庭の石橋に積雪、めだか鉢は凍りだした。海は荒れている。

野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

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野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版 昭和61年から、(2)御崎観音寺禅寺、(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)と、遠見番所や関寛斎の野母権現山記録関係。野母崎町などは旧町名。

この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行121〜122頁ですでに紹介済み。写真は、祇園山から見た高浜海水浴場・殿隠山・遠見山と、野母権現山から見た野母全景の昔(昭和34年撮影 軍艦島資料館展示)と今、長崎方面。

野母崎町 「野母崎町郷土誌」 改定版 昭和61年

(2)御崎観音寺禅寺                133頁
(略)弘安4(1281)年、蒙古来襲のときに、この円通山から霊火が飛んで、南北に10里あまり連なり、陸へ上がることができずにいるうちに暴風雨が吹いて船は沈没した。これらの船は折重なって瀬になり、今でも残っているという話がある。(略)
野母崎に残る話は、九州西方の海域が江南部の進攻、退去の経路となっているので荒唐無稽と片付けるわけにはいかないので言い伝えのとおり収録した。(略)
また同寺の年表359頁の中に「1611 慶長16年 長崎のキリシタン本堂を襲う。」とある。

(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)     140〜141頁
(略)以上のように高浜は江戸時代、かなりはっきりいたにもかかわらず、深堀、高浜氏の名を使わず、三浦姓だけにとどめようとしている。深堀能仲と系図にはあるのに三浦能仲でとおしている。そして、源氏ゆかりの三浦氏でなく、平家落人としての三浦氏を表に出したいようにも受け取れる。殿隠山という名にこだわったのだろうか。これは「トノガクラ山」の訛ったものであると考える。狩倉というのは「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」(柏書房〈日本史用語大辞典〉)をいう。深堀町の東、鹿尾川の京太郎町付近にあった京太郎狩倉と同じで殿(領主)の狩倉の意味であろう。殿隠山の落人伝説が架空なものとなれば、あと古里から高浜へ発展は深堀時綱が正安3(1302)年に惣領家から「あぐり高浜」を譲与され、その子政綱の時、高浜本村を与えられた高浜氏の発展が背景にある。
高浜では、はっきりしていることを隠して、古老伝説としてぼかしている。大正7年、郷土誌を編集する時、編者も同じ疑問を抱いていた。何故ぼかす必要があったのか。一つは天領と佐賀藩とはっきり区分する必要があったのか。(略)

1 野母崎町史年表(近世編)       249頁・264頁
1638 寛永15 松平信綱は島原からの帰途長崎に入り、外国船の入港に対する警報機関として、長崎の斧山(のちの烽火山)山頂に狼煙台、野母日野山(現:権現山)に遠見番所を設置させた。
(この注記中)(略)また、佐賀藩では脇御崎の鷹鳥山(銅山=堂山)山頂に遠見番所が設けられ、その外に高島や伊王島にも設けてあった。脇御崎遠見番所は高島に伝え、高島は深堀に送り、深堀は大黒町の佐賀屋敷に伝えて、そこから、長崎奉行所の立山役所に送る仕組みであった。そこで、天領側と佐賀藩側とどちらが早く伝わるか、競争となるために、野母の遠見番所では、佐賀藩に信号が解らないよう、時々合図の方法を変えたという。(略)

(注) 遠見番所は元禄元年(1688)頃から、白帆船注進に変わり旗で合図するようになっている。佐賀藩蔵屋敷跡は五島町寄りの長崎駅前交差点あたり。
殿隠山の狩倉というのが「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」とすると、一般人の入域を制限したとも考えられる。遠見番所のあった遠見山といい、この辺りのルートは古地図や字図調査でも不明で、なお検証の必要がある。

「野母崎町郷土誌」は「みさき道」の記述はない。同年表264頁に次があるのみである。前掲の脇岬江上氏の資料も参照のこと。

1861 文久1 4月3日 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町峠—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠−蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。
4月4日 棚瀬をみて野母権現山の遠見番所へ行く。帰途は高浜を通り長崎へ向う。この日記の特徴は歩くコースがよくわかること。(長崎談叢19輯)

(注) 関寛斎一行が4日、棚瀬をみて「野母権現山の遠見番所へ行く」とあるが、これは同年表編者の誤りであろう。日記の関係文の前後は、「北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由つて只一望のみにて漁家にて喫茶す」とあり、この後に「南西に高山あり」と野母権現山の説明が続き、野母を「五ツ半(今の午前9時頃)時発足し」た。「只一望のみ」とあり北風が強い日で朝の時間的に無理であろう。