月別アーカイブ: 2010年2月

長崎外の古写真考 目録番号: 513 瀬戸内海(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 513 瀬戸内海(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 513 瀬戸内海(1)
〔画像解説〕
本コレクション中に同一写真があり、それには「View of Matsushima」とある。したがって本写真も松島風景と見て間違いない。舟は典型的な小型帆掛け舟であり、司馬江漢描く「品川富士遠望図」の舟とほぼ同一である。

目録番号:1054 瀬戸内海の帆かけ舟
〔画像解説〕
写真中にINLAND SEAとある。整理番号11-43と同じ写真である。整理番号11-43を見よ。

目録番号:2964 松島(11)
〔画像解説〕
松島湾内で霊場として知られる雄島(おしま)からの松島湾を見た大眺望であり、遠くには湾内の島々をはじめ塩釜市や浦戸諸島が写り、遙か彼方には太平洋の水平線が見える。手前は真帆のチャブネと呼ばれる船である。現在このような船を見ることはできない。

■ 確認結果

目録番号: 513「瀬戸内海(1)」及び目録番号:1054「瀬戸内海の帆かけ舟」は、瀬戸内海のタイトルとしている。しかし、写真のカットされた下部には、目録番号:2964「松島(11)」のとおり、キャブショットが 「View of Matsushima」 とあるはずである。
同一な写真であり、したがって目録番号:2964「松島(11)」の画像解説のとおり、これは日本三景の一つ、宮城県「松島湾内で霊場として知られる雄島(おしま)からの松島湾を見た」眺望と思われる。

現在の写真は、松尾芭蕉・おくのほそ道文学館の資料展示室 空から見た日本三景「松島」HPの宮城県松島町所蔵写真から。沖の島の姿は少し違うが掲げてみる。
これから判断すると、雄島の先端、「おくのほそ道」に「雲居禅師の別室の跡」と書かれた座禅堂(把不住軒とも呼ばれる)がある小丘の頂あたりから、古写真は撮影したものと思われる。

長崎外の古写真考 目録番号: 514 瀬戸内海(2) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 514 瀬戸内海(2) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 514 瀬戸内海(2)     同作品 目録番号:4089 瀬戸内海(4)
〔画像解説〕
整理番号11-43と同じ「INLAND SEA」のキャプションが付いているが、これも松島の一風景と思われる。着彩は全体に紫色を帯び、夕暮れの静かな内海の趣をよく伝えている。

目録番号:4088 瀬戸内海(3)

■ 確認結果

この前の番号となる整理番号11-43(目録番号: 513「瀬戸内海(1)」玉村騎兵衛アルバム)はまだ調査中。文に「それには「View of Matsushima」とある」を受けて、この目録番号: 514「瀬戸内海(2)」の画像解説になっていると思われる。
キャブションは、撮影者や後で整理した人の記入誤りがある。「Matsushima」はどこを指すのか。普通は宮城県の日本三景「松島」を考えるが、瀬戸内海でも倉敷市の市街地町名や鷲羽山側の海に小島がある。

目録番号:514の作品は、タイトルが「瀬戸内海(2)」、「撮影場所:未詳」。画像解説では「松島の一風景と思われる」とある。単葉で見たからこのような解説になったと思われる。目録番号:4089「瀬戸内海(4)」は同じ作品(掲載略)。
実は、次の目録番号:4088「瀬戸内海(3)」の作品が、目録番号: 514「瀬戸内海(2)」の景色の左側に来るようである。連結した写真を見てもらおう。

瀬戸内海で同じような景色を探すと、広島湾の宇品沖に名山「安芸小富士」(標高287m)がある「似島」という島がある。宇品港か元宇品の岬の海岸から、「似島」を撮影したものに似る。
尾道市因島大浜から東北の「百島」十文字山を望む景色もあるが、少し違うようでまだ確認できない。地元の方の検証をお願いしたい。
広島と似島を結ぶフェリーを運航する似島汽船HPに、古写真と合うような現在の写真が航空写真とともにあった。同HPによる「似島の紹介」は次のとおり。

似島は、広島湾の南約3km沖にある広島市最大の島。明治28年に旧陸軍検疫所が設置されて以降、第二次世界大戦終結まで、軍の島として歩んだ歴史があります。原子爆弾投下直後には、検疫所が臨時の病院になり、多くの負傷者が島に運ばれました。
現在は、恵まれた自然環境の中、魚釣り、登山、ハイキングなどを楽しめるリゾートアイランドとして、多くの人に親しまれています。

長崎外の古写真考 目録番号:3081 灯台のある風景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:3081 灯台のある風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号:3081 灯台のある風景

目録番号:4594 住吉
〔画像解説〕
住吉高灯籠。創建は鎌倉時代末期といわれるが不詳。航海の安全を守る灯台として、また住吉名物として親しまれた。16メートルの高さがあり、楼上からは遠く淡路島が見えたという。昭和
49年(1974)に200メートル西に再建された。明治中〜末期。

■ 確認結果

目録番号:3081「灯台のある風景」は何も解説がないが、目録番号:4594「住吉」の灯籠は同じもので、大阪市住之江区にある「住吉高灯籠」だろう。キーワードが入力されていればすぐわかると思われるし、新しく古写真を所蔵する時は、前の作品に遡って十分な調査をお願いしたい。
現在地の写真は、大阪市HPのイベント・観光/歴史の項から。

「住吉高灯籠」は、昔から大阪の有名な名所。錦絵「浪花百景」 国員画、 「浪花百景之内」貞信(初代)画、「大阪名所」貞信(二代)画により3枚描かれている。
大阪府立中之島図書館が所蔵し、データベースにより画像を公開している。解説は次のとおり。同館の「錦絵にみる大阪の風景」を検索。 http://fukeiga.library.pref.osaka.jp

■名所名:住吉高灯籠     ■現在の市区町村:住之江区
出見の浜にあって、夜間航行する船の目印になった灯台。方角を見失った時に住吉大神に祈るとこの灯籠の灯が煌々と輝いたという。現在は台風により倒壊した灯籠を再建したもので、元の位置から200メートル東に離れた、住吉公園西側の国道26号線沿いにある。

長崎外の古写真考 目録番号:1174 滝(1) ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:1174 滝(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号:1174 滝(1)
〔画像解説〕
場所は特定できないが、それほど大きな滝ではない。写真前面右側は、乾ききった土がむき出しになっており、わずかな水しか流れていない。

目録番号:1373 中禅寺湖付近の滝
〔画像解説〕
中禅寺道は馬返よりつづら折の坂を経て中禅寺に至る。その中途で般若滝と方等の滝を見る事ができる。写真は方等の滝である。

目録番号:4606 滝(7)

■ 確認結果

目録番号:1174「滝(1)」は、画像解説で「場所は特定できない」とある。目録番号:1373「中禅寺湖付近の滝」と比べると、水量の違いがあるが、同じ場所から撮影された同じ滝と思われる。したがって、中禅寺湖付近の「方等の滝」と判断してよいのではないか。

「方等の滝」は、古写真から見ると、2〜3段の滝となっている。一番下の滝つぼ左に大きな岩があり、流れを右、左へ変えている。目録番号:4606「滝(7)」の人物はその岩に立っているようであり、同じ滝とも考えられないことはない。
現在の滝の写真は、国土交通省関東地方整備局日光砂防事務所の広報HPにある。中禅寺湖道のつづら折坂の途中から「方等の滝」は見える。昔から有名な訪ねやすい滝と思われる。

なお、滝の関連作品に出てくる 目録番号:2895「滝(5)」は、撮影地域:長崎とあるが、この滝は熊本県御船町の「七滝」と現地確認をしている。冨重利平の作品である。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1948

長崎外の古写真考 目録番号: 292 江ノ島の兜岩

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 292 江ノ島の兜岩

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 292 江ノ島の兜岩
〔画像解説〕
相模湾の小島である江ノ島は古くから霊場として信仰を集めたが、江戸時代以降、庶民の間でも参詣が流行した。幕末期の日本の写真を多く残したベアトは、この島を「絵の島」として紹介し、「ここまで足を伸ばす価値は充分にある」と書き残している。

■ 確認結果

目録番号: 292「江ノ島の兜岩」の画像解説は、ベアトが「兜岩」の小島を「絵の島」として紹介し、書き残したと説明している。
古写真の「兜岩」は、実際は江ノ島の西方、茅ヶ崎の「サザンピーチちがさき」正面沖、1.2kmにある小島姥島を成す「えぼし岩」である。サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」に、”えぼし〜岩が遠くに見える♪”と歌われる岩。
茅ヶ崎市HPの観光情報から、「えぼし岩」の画像及び歴史の説明を載せる。

えぼし岩の歴史

湘南を歌ったお馴染みの歌の中に再三登場する、茅ヶ崎のシンボル「えぼし岩」の誕生は、300万年前から600万年前といわれています。
えぼし岩周辺の地層は茅ヶ崎最古のもので、砂岩層と火山層が縞をなしていて、海底に堆積した地層が隆起したものといわれています。

また、えぼし岩のある姥島周辺は岩礁となっているので昔から絶好の漁場で、江戸時代には伊豆の漁師と地元小和田の漁師との間で漁場争いが起こり、その際に小和田の名主は京都の公卿近衛某が東下りの途中に詠んだという「相模なる小和田が浦の姥島は たれをまつやら ひとりねをする」という歌があったことを思い出し、その短冊を証拠に姥島が小和田の領地であることを主張し、紛争に勝ったという言い伝えがあります。
小和田の熊野神社にはこの歌碑があります。

昔のえぼし岩は現在のものより先端部分がより烏帽子らしく西へ長く尾を引いていましたが、戦後、米軍の射撃訓練の標的にされ、その先端部分は消失し、わが町のシンボルを守るための市民運動が起き、訓練は中止されました。
海水浴場サザンビーチにあるモニュメント「茅ヶ崎サザンC」の円の中心にも、えぼし岩は顔をだして、記念写真に一緒に収まります。

最後の”ギョ〜ェ〜!サメが釣れたぁ〜!?”は、ギャメロンさんの2010年3月22日画像。

長崎外の古写真考 目録番号: 1526 港の弁財船 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 1526 港の弁財船 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 1526 港の弁財船
〔画像解説〕
突堤のこちら側に中型の弁財船が停泊し、突堤向こうに三本マストの船がかすかに見える。手前の水面を土砂を積んだ平底船が横切っている。場所は特定できないが、のどかな港の風景である。

目録番号: 3226 港から桜島を望む
〔画像解説〕
内田九一撮影。明治5年天皇の西国巡行の折撮影された薩摩の台場と桜島の遠景。滑川河口付近より船形台場(新波戸砲台)を望む。手前は天皇に拝謁するための琉球の豊見城親方、池城親方、安室親方の乗船か。

■ 確認結果

目録番号:1526「港の弁財船」は、背景の山は富士山ではなく、鹿児島県の「桜島」だろう。場所はすぐ特定できそうに思われる。
この写真は、有名な内田九一の「西国・九州巡幸写真」の1枚と同じ写真である。データベースにある目録番号:3226「港から桜島を望む」がその写真。こちらの方が背景の桜島が良く写っていない。

長崎外の古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:5281 門司市街全景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品を取り上げる。

目録番号: 5275 門司倶樂部
目録番号: 5276 門司連絡桟橋
目録番号: 5277 門司甲宗八幡宮の風景
目録番号: 5278 和布刈神社
目録番号: 5279 和布刈神社海岸
目録番号: 5280 門司馬場遊廓
目録番号: 5281 門司市街全景
目録番号: 5283 門司港内石炭積込光景(1)

■ 確認結果

長崎大学古写真コレクションのデータベース上の検索における「撮影対象」と「キーワード」の不都合について、前記事で一部の作品の例を取り上げふれてみた。
次は「撮影地域」と「保管棚名」の不都合である。上記の8作品は「門司十二景」と題した絵葉書セットの一部。このうち、目録番号:5281「門司市街全景」を例に見てみよう。 「撮影地域」を「門司」で検索すると出てくるのは良い。しかし、「保管棚名」では「長崎」の検索の中に入って出てくる。「アルバム名:絵葉書(長崎地域)」「撮影地域:門司」となっているためである。

「撮影地域」の地域区分も不完全である。中国地方では「広島」の中に、「安芸の宮島(1)から
(20)」と「宮島の海岸」の21作品を入れているのに、別に「宮島」の地域項目があり、これには目録番号:1469「厳島神社」の1作品しか出てこない。
近畿地方では「兵庫」の中に「淡路島(1)から(6)」の6作品を入れているのに、別に「淡路」の地域項目があり、これには目録番号:3546「上野実雄と友人たち」の1作品しか出てこない。
また「兵庫」の中には、目録番号:5841「姫路城(3)」の1作品をなぜか入れている。「姫路」の地域項目は別にあり、これでは(3)を除いた「姫路城(1)から(6)」の5作品が出てくる。

以上は、まだ全部を見たわけではないのに、これだけ不都合があった。どのような項目や地域の整理をしているのだろう。「関連作品」の出方の基準もわからない。「撮影地域:未詳」の作品も、撮影地域の中に項目を設け、すぐ出てくるようにしてほしい。

長崎の古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 708 小島の風景 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 708 小島の風景
〔画像解説〕
場所は不明。石垣上に腰掛けた髷を結った男が向こうに見える小島を指差している。いかにも演出されたポーズである。また画面上方をふさぐように伸びる樹木の構成は、日本画的構図の発想であろう。

目録番号:4084 高鉾島(28)
〔画像解説〕
横浜の玉村康三郎作と思われる、黒漆象牙象嵌蒔絵大型アルバムの中の1枚でキャプションはない。目録番号2922(整理番号59-13)と同じアングルを少し左にずれて撮影したもの。人物背後の台地にまだ人家が建っていないので、この方が古い。アルバムに収載されている他の写真から判断して、撮影時期は明治20年代前半頃。場所は長崎港の稲佐側突端にあたる神ノ島(現神ノ島町2丁目)である。目録番号2922の写真では人物左下の石垣上は畑になっているが、この写真では土がむき出しになっている。外国船は高鉾島の外側から長崎港に入港したので、神ノ島は、承応3年(1653)、文化5-9年(1808-12)に港内に築かれた、外国船打ち払いのための台場の候補にはならなかったが、警備上重要な岬であり船着場は良く整備されていたようである。下の屋根の建物は目録番号2922でも見える。江戸時代、この一帯は隠れキリシタンが住み着き、神ノ島の地名もそれに由来する。現在、岬の突端にマリア観音が築造されている。

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)
目録番号: 993 稲佐のイサバ船と弁財船(2)

■ 確認結果

まず、目録番号: 708「小島の風景」の画像解説は、「場所は不明」としている。7000点近くある長崎大学古写真データベースの全作品を私がいちいち確認することはできない。
この作品は「撮影地域:未詳」なので、撮影地域が「長崎」で検索しても出てこない。キーワードが「眺望/海」なので、撮影対象をいずれかで検索すると、「撮影地域:未詳」の作品も出てくる。大学側の未整理が今、わかった。場所が特定できない「撮影地域:未詳」の作品こそ、大学側も調べる必要があり、データベースの検索項目に追加するよう改善してほしい。

この作品は、神の島教会の高台から、長崎港口の「高鉾島」を望んだ写真である。データベースに同じ構図の写真は多くあるのに、なぜ気付かないのだろうか。目録番号:4084「高鉾島(38)」玉村康三郎アルバム(1)とまったく同一写真である。
タイトルを「小島の風景」としながら、キーワードが「眺望」では漠然とし、多数の作品が出てくる。「島/海」にすべきだろう。目録番号:4084 の解説にある「神の島」の由来も、神功皇后が立ち寄った島という意味ではないか。
この項の関連作品記事は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1688

次に、目録番号: 696「稲佐のイサバ船と弁財船(1)」と、目録番号: 993「稲佐のイサバ船と弁財船(2)」は、キーワードがなぜ「和船/川」となるのだろう。ほかの稲佐崎海岸の和船を写した作品と合わせ、「和船/海/港(ないし運搬)」にすべきだろう。
画像解説では「長崎稲佐海岸」と説明しながら、キーワードが「川」とはならない。タイトルを変えた時点でも、キーワードには気を付けてもらいたい。
この項の関連作品記事は次を参照。 http://blogs.yahoo.co.jp/misakimichi/48304537.htm

長崎の古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1196 飽の浦からの長崎港(3)

目録番号:5314 長崎製鉄所(1)    画像解説は、岩場に関係ないので省略。

■ 確認結果

朝日新聞の2010年(平成22年)1月21日付長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に載った”長崎港のパノラマ 優美さ まるで浮世絵”、及び2010年(平成22年)1月28日付”長崎港のパノラマ 特定難しい撮影時期”。
三菱重工(株)長崎造船所史料館に展示している4枚組全景の写真を参考のため掲げた。
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2192

この長崎港パノラマ写真は、飽の浦恵美須神社の神殿裏が斜め左に写っている。海岸を向いた神殿の右上に大松が生えた小高い岩場の広場があり、2人の人物が港を眺めている。目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」が岩場の写真となる。
朝日新聞は1月23日付記事により、「撮影した場所はいずれも、現在の三菱重工業長崎造船所史料館近くの高台(飽の浦町の西日本菱重興産本社付近)です」と解説した。撮影場所は、私も1年前に調査し「菱重興産ビル 第ニ別館」あたりのかつての岩場と記事にしている。 
この項は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1589

その時はデータベースにまだ公開されていなかったと思われ、私は参考としなかったが、最近のデータベースを見ると、この岩場を飽の浦側から展望している古写真があるのがわかった。
それが、目録番号:5314「長崎製鉄所(1)」である。現在の塩浜町の少し高台から撮影しているようだ。当時の長崎製鉄所はもちろん、飽の浦恵美須神社近くの岩場の位置と様子を写した貴重な写真となる。

岩場付近を見やすくするため拡大した。生えた松の大木の格好から判断すると、拡大写真の中央が岩場、右斜め下が飽の浦恵美須神社となることがわかるであろう。
この写真は、内田九一の「西国・九州巡幸写真」になく、上野彦馬の後年の撮影(年代未詳)と思われる。

ところで、目録番号:1196「飽の浦からの長崎港(3)」の右にくる写真。長崎大学データベースでは見当たらないが、次の写真集に詳しくあった。
石黒敬章氏著「続幕末・明治のおもしろ写真」平凡社1998年初版第1刷37頁に掲載されている。同解説は次のとおり。

屋形船の不思議
〔写真15〕飽の浦より写した長崎港。横浜写真アルバムでよく見られる。4枚続きの右2枚。右が長崎造船所。4枚並べると、左に恵比(美が正)須神社が写っている。これまでの本では上野彦馬撮影とされている。しかし彦馬の写真は横浜写真では見かけないこと、霞会館所蔵の明治天皇御巡行(幸が正)の時撮影された一連の写真にあることなどから、内田九一の撮影と思われる。 

長崎の古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5271 雲仙稚児の滝

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5271 雲仙稚児の滝

■ 確認結果

目録番号:5271「雲仙稚児の滝」は絵葉書(長崎地域)。「明治後期から大正初期(1900年前後)の雲仙公園の風景。手彩色の絵葉書である。雲仙公園内の滝を撮影したもの。詳細な場所は未定」と画像解説しながら、タイトルは「稚児の滝」となっている。
雲仙の「稚児の滝」とは、別所ダム下流の「稚児落しの滝」のことと思われるが、この滝は行きにくい。滝の姿が違うし、写真撮影が簡単にできない滝のようだ。

雲仙で昔から有名な滝は、「一切経の滝」である。小地獄の国民宿舎「青雲荘」先の石門から下の谷へ下って行く。高さ7mほどの美しい滝。奈良時代の名僧「行基」がここで仏道修行をし、一切経(お経を一同に集めたもの)の経文を筆写したと伝えられている。
古写真と比べると、滝つぼからの落し口岩など変わっているが、洪水などで崩落し、形が違ってきたと考えられる。

その昔、修行の場であった「一切経の滝」周辺は、大正から昭和にかけて、欧米人の水浴場となった。「雲仙お山の情報館」に古写真が展示されている。石を組んで下流をせき止め、プールを作っていた。古写真に見られる石組みは、現在では全く残ってない。
古写真は次のHPを参照。 http://www.pref.nagasaki.jp/sizen/6unzen/41/41.htm
斎藤茂吉は、大正7年7月、胸部疾患の療養のため雲仙へ登り、「温泉嶽療養」の中には「幾重なる山のはざまに瀧のあり切支丹宗の歴史を持ちて」「露西亜よりのがり來れる童子らもはざまの瀧に水あみにけり」と歌い、後年まで「温泉岳はいい山だ」と記している。