長崎の風景・史跡 (市東南)」カテゴリーアーカイブ

深堀の散策 (4)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (4)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  2  (28)俵石山城石碑(菩提寺石門の中右側)
第二十一代主鍋島志摩守茂春の命に依り、六世賢外普門大和尚の撰文に依り、建長7年3月此の地をもらって来る時の扈従の人名等を記している。

写真  3〜  9  (29)菩 提 寺(5丁目417)
金谷山菩提寺は三浦大介義明八代の後胤三浦五郎左衛門尉平能仲公の創設で、寛喜元年(1229年)であると伝えられている。始め真言宗であったが天台宗に改宗再び真言宗に復し、天正年中に禅宗となる。其の頃兵乱蜂起し寺も無住荒廃し、遂に兵火に遇い伽藍悉く焼失、寛永年間(1624−1643年)寺の宝蔵焼け、三浦先祖以来の系図、及家中の記録悉く焼却すとの記録が残っている。従って前300年の本寺の状況は不明に近い。
開山の朝山芳暾禅師は享禄4年(1531年)当寺を開山し、現在住職は第33世で、寺格は高く皓台寺に次ぎ、九州でも有名な寺である。本尊は茲覚大師作と伝えられる薬師如来像で、木額に隠元木庵禅師即非の書等がある。寺内に十人義士、藩主、峰如松、樋口千万太、深浦安一郎等の墓がある。

写真 10〜 12  (30)十人義士の墓(5丁目417)
此の墓は21基あり之を十人義士と言う。昭和17年10月松藤隆乗大和尚時代に創設開眼された。
事の発端は元禄13年12月19日(1700年)、喜多佐左衛門の結婚式の買物に出掛けた深堀三右衛門、柴原武右衛門の両名と、当時唐、紅毛と会通し莫大な利益を得、長崎奉行にとり入り遂に幕府に追従して長崎奉行の町年寄の筆頭にまでのし上った高木彦右衛門との争いである。
近因は天満坂で、諏訪明神に誕生日の神詣に行った彦右衛門主従一行と前記2名の武士のはね土が彦右衛門仲間惣内の合羽にかかった事が発端であるが、遠因は外国貿易により巨大な利を蔵し幕府の御用も承わり長崎の町年寄の凡長と言ふ権勢と、深堀が貿易船の通行税的取立等による対立があったものと思料せられる。
斯うした遠因、近因により事は意外に発展、深堀勢2名は高木、鉄橋上で切腹、10名は翌14年3月21日幕命に依り五島町深堀屋敷に於いて切腹、9名は五島への遠島の処分を受けた。一方高木方は高木彦右衛門は打果され、剣客井上猶之進、関弥五兵衛、加藤半三郎、西太兵衛、仲間多数も打ち果された。伜彦八は逃亡打果し洩らしたが、高木彦右衛門闕所、彦八大小召上げ長崎七里四方追放、江戸大阪立入禁止、同人召使8人生害を仰せつけられて其の決着を見た事件である。
此の事件は赤穂義士の事件の丁度1年前で、大石良雄は家来を遣わし討入の様子を探らせ、大石の討入りの手本になったと伝えられている。尚五島へ遠島になった9人の中7人は五島公から現地妻を娶され、子をもうけ、宝永6年(1708年)許されるまで実に9年の歳月であった。
詳しくは次の「長崎喧嘩騒動」を参照。 https://misakimichi.com/archives/391

写真 13〜 16  (31)藩 主 の 墓
柳川の陣の七左衛門茂賢、長崎騒動の官左衛門茂久の墓等歴代藩主の墓が移り行く時の流れに尚昔の光りを留めている。
尚、此の附近には鎌倉時代以降の古い五輪の塔が随所に見られる。

写真 17〜 18  (32)三 官 の 墓(5丁目465)
林五官の兄林権三郎の墓で戒名は慧林芳賀。天和五年己未孟冬となっている。林五官が建てた。三官、五官は支那の官職名ではなく日本で言う三郎、五郎の類と思われる。
(菩提寺墓地の左方、赤屋根の今田宅裏手まで路地を行くと、左草むらの中にある小さな墓)

深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (3)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  4   深堀武家屋敷跡

写真  5〜  8  (24)御 屋 敷(5丁目272,292)
正式には深堀陣屋、通称は御屋敷。深堀藩主の居城である。今幼稚園の処が囲馬場の有った処。現在書院の一部が残っているが大部が修築されているが其の俤を偲ぶに足るものがある。書院より一段高い所に御座(おざ)があった。これは明治40年頃迄建っていたが自然損耗して当時の礎石のみが残っている。御座は二階建てで庭には川原の黒石が敷きつめられていた。

写真  9〜 11   長崎市指定天然記念物 深堀陣屋跡のアコウ

写真 12〜 13  (25)御 蔵 内
旧藩時代の船つき場で、此処では主として上納米の収支其の他御蔵に関係ある船が、此の築港に入ったもので、浜船は御船手につながれていた。

写真 14〜 16  (26)馬場崎、経塚(5丁目139)
昔は此の附近を馬場崎と呼び、言い伝えによれば此の附近に船を繫いでいたとの事で、小学校の校庭を掘るときれいな砂が出て来る処から、此の言い伝えも強ち根拠のないものではない。
お屋敷からお東附近までは洲であったらしく、現在の様になったのは、お西が明治の中期、中屋敷は昭和25,6年頃改修された。
此の経塚は当地方に5ヶ所に建てられている。経塚とは径2,3糎位の平たい赤色の石に、一石に一字を漆で写経したものを葬ってある処である。亀王塚にも経塚があるが、大正の中期時に埋立工事の際、前記の石が相当出たので、各戸はこの石をもち帰って神棚に祀ったところが、当時コレラが流行し数人が犠牲となる事件があったので、これは石の祟りであるとの風評が立ち、又元へ納めた様な事もあった。

写真 17〜 19  (27)五 官 の 墓(5丁目401)
呉公五官は南支の節川県の出身で商人である。今から約350年位前(1600年)、当時三代一翁芳純大和尚は高徳の師で、崎陽渡来の商人の帰依するものが多く、林呉公五官も其の一人であった。当時此の附近は唐人町と言っていた処を見ても、相当数の唐人が帰依していたものと想像される。五官は熹宗皇帝自ら織ったと言ふ十六羅漢縫出した九条の袈裟を寄進し、菩提寺の寺宝となっている。
「菩提寺の危急の際は吾が墓を発け」との言い伝えがある。近く県の文化財の指定に申請する様な意向もある。尚五官の兄三官の墓も現存している。

深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (2)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  6 (11)深堀神社、大庄屋、学校跡
深堀神社は現在の様な規模にまとまったのは明治8年以降である。元は現在の深堀小学校の校庭にあったのを小学校の建設に伴い現在地に移転したものである。
祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうづめのみこと)の二神を奉祀し、三浦神社は当地開祖三浦五郎左衛門尉平能仲公を、舘林大明神、日正大明神と共に奉祀し、天満宮及稲荷大明神、招魂廟も同一境内に祀ってある。
深堀神社は能仲公が当地に赴任して来た時はニ社の神をすでに奉祀してあり、其の肇めを知らない旨此の鳥居に記載しある処より、相当古くから祀られていたと思料せられる。
此の鳥居は二代目で、初代は寛文3年(1663年)二十一代志摩守茂春が始めて石神門を創ったと記録に見え、文政11年(1828年)秋台風のため倒れ、天保8年(1837年)大いに稔って2、3の家臣と計り、二代目を建てたのが現在の鳥居である。
此の鳥居に刻んである主旨は深堀の創設の由来を敍べているが、斯様に其の由来等を刻んである鳥居は他に見ることが出来ない珍しいもので、殊に左側石柱の四言絶句は文意壮大で、祖先の気宇をうかがうに足るものと思う。(深堀神社(幸天社)石鳥居銘記参照)。
大庄屋は今の裁判所と警察署を兼ねた役所だったそうで、平屋建ての凸凹の多い陰気な建物であったのを、学校に襲用したもので、明治7年(1874年)から明治19年(1886年)頃まで、今の小学校に移るまで小学校として使用していた所である。

写真 なし     (12)江藤新平の父の出生地(5丁目182)  略
写真 なし     (13)旧藩時代の役所跡(5丁目194)  略

写真  7〜  8 (14)東 屋 敷 跡(5丁目191,192)
通称お東と呼び第三家老樋口氏の屋敷跡で、門及塀は殆ど其の当時の面影を残しており、現在もその子孫が居住している。(現在、邸宅は改築されている)

写真 なし     (15)荒木権内、同文八郎の屋敷跡(5丁目196)  略
写真 なし     (16)喜多佐左衛門屋敷跡(5丁目204)  略
写真 なし     (17)中 屋 敷 跡(5丁目198−209)  略

写真  9〜 13 (18)本 町 古 墳 群(5丁目西浜附近)
此の附近一帯を本町と呼ぶが、此の附近には縄文曙期より弥生式、祝部式に至る各期の人骨、土器、石器が包蔵されている貴重な遺跡で、学術的な調査も逐次行なわれるであろう。深堀小、中学校に出土品が蔵してある。
(現在、主な出土品は長崎市深堀支所隣りの「深堀貝塚遺跡資料館」に展示されている)

写真 なし     (19)西 屋 敷 跡(5丁目210)  略
写真 なし     (20)峰 邸 屋 敷(5丁目248)  略
写真 なし     (21)旧藩時代の厩舎跡(5丁目253渡辺水産)  略
写真 なし     (22)矢火矢施設跡(5丁目253渡辺水産)  略

写真 16〜 17 (23)旧藩時代の石の金庫(5丁目241)
此処は城島薫氏の邸で同氏の母堂は三十代藩主の娘である。尚元禄13年の長崎騒動の際9人遠島になった城島治部右衛門の子孫である。
此処に当時使用した石の金庫が現存しており、蓋も同氏の幼少の頃は有ったそうであるが、散逸して今は分らない。此の石の金庫には当時の責任者の名前等が刻まれている。

深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

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深堀の散策 (1)  長崎市深堀町1〜6丁目

長崎市の南部。市内でも唯一の城下町(城はなかったが、佐賀藩深堀領として深堀陣屋や武家屋敷があった)だった深堀。遥か縄文時代からの多彩な歴史・文化の歩みを示す貴重な遺跡や史跡が数多く残っている。
中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の第五部深堀史跡篇195〜212頁による説明は次のとおり。

写真  1〜  2 (1)江藤新平未亡人居住の屋敷跡(前バス終点1丁目462,464)
江藤新平は明治7年、佐賀の乱に失敗後薩摩の西郷隆盛を頼り薩摩に赴き、後土佐の板垣退助のもとに走ったが、捕えられ斬罪梟首の刑を受けた。未亡人千代子は此の屋敷に居住していた。其の家は約40坪位で8部屋あり、中2階の1室もあった。玄関前左手に殿様竹、右に藤棚、周囲には梅柿蜜柑の古木があり、海岸には老松があった。

写真  3〜  5 (2)御 船 手(1丁目460)
佐賀藩海軍の施設があった処である。元来、長崎は日本の唯一の開港場であつた関係上、外国船の入港も多く従って之が警備のため、佐賀藩、黒田藩が1年交替で長崎御番の任につき、佐賀藩の当番年には本藩家老(深堀の領主)が之に当り、記録によれば寛永年中(1631年)以降である。又沖波に対して、埋立前は殿様石垣が約100m位防波堤としてあった。その左側の石垣(永江)は当時のまゝである。日本博愛社は日本赤十字社の前身で、西南の役に多数の官賊の負傷者を見て、其の必要を痛感し博愛社を創った佐野常民が、此処で日本最初の蒸気船を作った処でもあるが、その結果は芳しくなかった。

写真  なし    (3)薬園、茶園跡(1丁目321,320附近)  略
写真  なし    (4)煉瓦がま跡(1丁目543附近一帯)  略
写真  なし    (5)江口宗喜屋敷跡  略

写真  6〜 11 (6)円 成 寺(3丁目66)
浄土真宗の寺で、創建は記録にないので判然としないが、吊鐘の記録に依れば6世代に鋳造し、寛保3年(1746年)とある処より、今より350年位前の創建と推定される。塀の石垣に珍しいものがある。鐘の鋳工は長崎住大隈少禄安山彌五左衛門藤原国久で、現在の鍛冶屋町で鋳造されている。

写真 12〜 13 (7)万 霊 塔(同上円成寺の東側)
円成寺東側に建立されある自然石の塔であるが、裏面に下の様に記されている。
自寛永十九年(1642年)壬午歳二百年間長崎御番手舸子(かこ 水夫)為死亡者被建之吊者也
天保十二(1841年)辛丑冬十月
これをもってしても、200年以上に亘って、長崎御番を仰付けられていた事が判然とするが、何人位の死亡者があったかは判明しないが、同寺の過古帳を調査したら或は判明するやも計られない。

写真 14〜 15 (8)波止恵比須
元来恵比須は全国的に漁業商業の神として祀られているが、浜恵比須は佐賀領内丈けに祀られていると言われている。このように漁業と関係あることは言をまたないが、如何にもユーモラスに彩色せられていて、深堀丈けでも4ヶ所祀られている。

写真  なし    (9)亀 王 塚(2丁目169)  略
写真  なし   (10)御制札跡(3丁目162)  略

東長崎の散策 (17) 牧島の風景・史跡  長崎市牧島町

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東長崎の散策 (17) 牧島の風景・史跡  長崎市牧島町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(17)は、牧島の風景・史跡。橘湾沿岸の戦争遺跡の項「特攻基地牧島 ルイズ・ルピカールさんの記憶」を参照。 https://misakimichi.com/archives/126
くしくもきよう6月23日は、沖縄戦終結から64年の日だった。

現在の牧戸橋と前吊橋牧島橋の遺構、陸続きとなっている釈迦島、矢上小学校牧島分校の跡地、穴弁天の出入口と洞内の子安明神、牧島漁港、東方の湾口池下・大門方面を望む、外洋側の津島、魚見岳台場跡、牧島宅のヤブツバキ大木、池の神神社、国指定史跡曲崎古墳群、修学旅行生のペーロン体験施設艇庫、終戦間際につくられた牧島震洋特攻基地跡、もう1ヵ所の基地跡付近、基地へ入る切宮岬の湾口 

長崎学さるく江越弘人先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    牧島と牧島橋・牧戸橋
江戸時代、佐賀藩諫早領の牧場があったので、この名が付いたといわれている。江戸時代には、馬番として10戸あまりの人家があるだけであったが、明治になって戸石村から50戸が入植し開発が進められた。
対岸の戸石地区とは100m余りの狭い瀬戸で隔てられていたが、昭和35年に吊橋「牧島橋」が架けられた。昭和44年には車も通れる「牧戸橋」に架け替えられ便利になった。現在、牧戸橋の横に、牧島橋の記念碑や遺構が残されている。

写真  3     釈迦島と釈迦坐像
今では陸続きになっているが、かつては松樹が生える小島であった。頂上に釈迦牟尼の坐像がある。…

写真  5〜    穴弁天
昭和48年に発行された「長崎県郷土誌」という書物に、牧島の「穴弁天」が名勝として紹介されている。それによると「穴弁天は牧島の西端海岸にある海蝕洞である。洞窟入口の苔むした鳥居を潜って洞内に進めば一歩ごとに暗く、三四十メートルも進めば前後も弁ずることができなくなる。延長実に百メートル余に及んでいる。洞窟の尽きるところに子安明神が祀られている。弁財天と言われいわゆる生殖器である…」とある。
今では、洞窟前の海岸は、埋め立てられ工業用地となっている。少し前までは、洞窟の入口が削り取られ、付近はゴミ捨て場同然となっていた。現在は、環境も整備され洞窟にも入れるようになっている。

写真 11     牧島台場跡
…文化4年(1807)の「エトロフ事件」…に衝撃を受けた幕府は、「ロシア船打払い令」を出し、日本各地に台場を増設した。佐賀藩の諫早領でも牧島、田結、江の浦、有喜などに台場を設けた。牧島には黒瀬と魚見岳の2ヶ所に置かれたが、石火矢の大きさなど詳細は不明である。
なお、安政3年(1856)にアメリカ船イブリエント号が橘湾に入り込み日見村の網場沖に停泊した時には、黒瀬と魚見岳台場には、それぞれ武士(石火矢打ちの侍)4名と下役(足軽)4名が配置された。

写真 14     池の神
「いけんかみさん」と呼ばれており、小さな岬の海の側に、小さな池がある。池の側には竜宮が祀ってあり、どんな日照りでも池が干上がったことが無く、また塩辛くないと言い伝えられている。しかし、土地の人に尋ねてみると或る人は「(ま)水」と言い、或る人は「塩水」と言っている。舐めてみると結論は早いが、それにはかなりの勇気がいる。

写真 15〜    曲崎積石塚古墳群
曲の礫丘の上に築かれた積石塚古墳群である。積石塚とは、古墳の墳丘を土ではなく礫石で築いたもので、北九州地方の安曇海人族の墓制であるといわれている。昭和51年に調査が行われ、99の積石塚と500に及ぶ性格不明の遺構が発見された。
発掘調査が行われたのは2号墳と3号墳で土師器や管玉、ガラス玉などが採集された。4号墳は未調査であるが、周囲から須恵器や土師器の壺や杯などの破片が見つかっている。

東長崎の散策 (16) 上戸石と川内の風景・史跡  長崎市上戸石町・川内町

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東長崎の散策 (16) 上戸石と川内の風景・史跡  長崎市上戸石町・川内町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(16)は、上戸石と川内の風景・史跡。戸石町は前項に。

戸石と矢上境の石仏(矢上団地裏手)、パークタウンたちばな入口、第2矢上団地から見た戸石の渡瀬と戸石橋付近、戸石のお茶屋跡(諫早藩家老寺田外記寓居の地)、水害で何度も架け替えられた瀬戸橋、瀬戸の延命地蔵大菩薩と祠、川内神社の大杉と狛犬、長崎原子爆弾観測用ラジオゾンデ落下地点(黄線内の標柱)、戸石と田結境の尾根

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    戸石と矢上境の石仏  天保5年(1834)5月吉日
写真  3〜    戸石の渡瀬と戸石橋
写真  4〜    戸石のお茶屋跡
写真  9〜    川内神社
・祭神 天照大御神 大己貴神 寛文4年(1664)疫病流行の時、危難退除の為建立
・大杉 幹周り5.17m、高さ30.0m。イロハカエデ 幹周り2.4m、高さ17.0m
写真 13〜    ラジオゾンデ落下地点(落下傘つき爆圧計測器)
・この計器は3個投下された。これによって、グァム島の米軍基地ではいち早く受信し、長崎市街上空における原爆の炸裂の成功を確認したといわれる。落下地点は、この地川内町と田結地区の補伽と江の浦地区の嵩である。     

東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

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東長崎の散策 (15) 戸石の風景・史跡  長崎市戸石町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(15)は、戸石の風景・史跡。上戸石町は次項へ。

島原街道の戸石馬頭観音、同一里塚(墳)跡、長崎市東公園内の東工場、コミュニティプール、コミュニティ体育館、吊橋牧島橋ができる前の毛屋の浦の渡し場、牧戸橋と戸石グランド、あやめ東幼稚園、同正門と園庭のアコウ、戸石漁港、漁港の戸石神社鳥居、戸石神社、長崎市戸石地区事務所・地区公民館、戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)、金毘羅神社鳥居の所の六地蔵塔、戸石の金山坑口跡、といし保育園、長崎市立戸石小学校

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  1〜    戸石馬頭観音 施主 江の浦 田結 戸石 矢上文久2年(1862)3月吉日
写真  2     一里塚(墳)跡
写真 15〜    戸石の六地蔵塔(長崎市有形民俗文化財)
・六地蔵石幢(せきとう)〜石で造った旗・標識・幟のことで、石灯籠の火袋の所に六地蔵を刻んだものと思えばよい。
石の柱を立て、その上部に仏刻む〜単制。石の柱を支えとして、別に刻んだ石仏を載せる〜重制。その他に、六組型〜赤迫の六地蔵
・戸石の六地蔵は、重制の佐賀型六地蔵。上竿石に円・角・月形の彫り抜きがある。
・慶長9年(1604)の銘。九譽天心禅定門霊位 干時 慶長九天甲辰閏八月吉日
島原の乱(1637〜1638)後、この地に宝瑞庵が建てられたという。 

東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

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東長崎の散策 (14) かき道の風景・史跡  長崎市かき道1〜6丁目

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(14)は、かき道の風景・史跡。長崎県住宅供給公社が開発した大型団地「矢上団地」ができている。

有料道路の矢上大橋と料金徴収所、八郎川の河口と突堤、蛎道公民館横の海岸埋築紀念碑、八大龍王神社の鳥居と祠、元八大龍王神社のムクノキ、昔の海岸恵美須、楠公神社の大楠、矢上団地近隣公園、同稲荷大明神の社叢林、スタジイの大木、矢上普賢岳の中腹から見た矢上団地と長崎市立橘小学校

東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

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東長崎の散策 (13) 東町の風景・史跡(矢上普賢岳)  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(13)は、東町の風景・史跡(矢上普賢岳)。標高439m。
山頂まで1809段続く石段登りは有名。石段の奉献は昭和初期が多い。侍石の登山口から山頂まで1時間30分は要する。眼下に矢上、牧島、遠く天草、雲仙の眺望が良い。

矢上大橋入口から普賢岳を望む、侍石の普賢岳登山口、本来の参道鳥居、山道入口の「普賢道」標石、中腹から見た矢上団地、白龍神との分岐、白龍神の堂、同地の観音菩薩と龍神、普賢菩薩の由来碑、高く続く石段、石段の奉献石、普賢神社、本殿の内部、神社へは岩穴をくぐる、諫早八十八ヶ所第七十番札所、大岩壁の不動明王像、同白衣の観音像、観音岩場から望む牧島と矢上方面、普賢岳山頂、彩が丘団地の北西尾根登山口 

東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

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東長崎の散策 (12) 東町の風景・史跡  長崎市東町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(12)は、東町の風景・史跡。八郎川の東岸の町。長崎街道が通った。矢上普賢岳は次項へ。

長崎市矢上浄水場の取水口、藤尾の江戸道、矢上平野にあった明治県道の標石(移設)、役の行者、楠川渡瀬(楠渡瀬)、境界石標と台座石、現川焼関係瀬古の石祠石仏と同窯壁跡、彩が丘団地、多良見経ヶ岳、侍石7.23水害記念碑、侍石の由来石、侍石神社

長崎学さるく織田先生作成資料による説明は次のとおり。

写真  2〜    藤尾の江戸道     清水山と藤尾〜清藤地区
写真  5〜    役の行者        役の行者石像の伝説
写真  6〜    楠川渡瀬(楠渡瀬)
写真  8〜    境界石標と台座石  従是南佐嘉領台座石〜地伏石2個の上に石標が立つ
写真 18〜    侍石と侍石の地名  由来①平家の落人説〜大石に旅の疲れを休め〜侍石 ②島原の乱後大石の上で自決した〜その石が侍石
写真 19〜    山の神と侍石神社  延享元年(1744)正月28日 野口園右衛門